心と体

2018年6月23日 (土)

2018年6月17日 聖霊降臨後第4主日礼拝説教「世界を動かす力は希望」

2018617日  聖霊降臨後第4主日礼拝説教「世界を動かす力は希望」 大柴 譲治

マルコによる福音書 4:26〜34

また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」(26-29節)

 

「世界を動かす力は希望である」(ルター)

 本日は福音書の日課では二つの「神の国のたとえ」が与えられています。その主題は「希望」であると捉え、「世界を動かす力は希望」という説教題をつけさせていただきました。これは宗教改革者・マルティン・ルターの言葉です。ルターは言っています。「この世界を動かす力は希望である。やがて成長して果実が得られるという希望がなければ、農夫は畑に種をまかない。利益が得られるという希望がなければ、商人は商売に取りかからない」。確かに、「収穫」という希望があればこそ、そのために私たちは努力してゆくことができるし、その努力はやがて豊かな実りというかたちで報われてゆくものであるとのでしょう。そのように考えますと、どれほど今ここでの現実が厳しいものであっても、私たちは未来に向かって夢と希望を抱き続けます。それを抱き続けなければ、この苦難を耐えることができないと思うからです。「明日」という言葉は「明るい日」と書きますが、人間とは明るい明日、希望に向かって生きるように最初から定められているのかもしれません。女性会聖研では先月から「希望」という主題についてみ言葉に聴いています。

例えば、今日はローマ書4章からパウロの言葉が与えられています。パウロは言うのです。彼(アブラハム)は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、『あなたの子孫はこのようになる』と言われていたとおりに、多くの民の父となりました」(ローマ4:18)。「信仰の父」と呼ばれる父祖アブラハムが、神の言葉を信じて義とされたこと、100歳の時に約束の子であるイサク(「彼は笑う」という意味の名前)を与えられて、大きな喜びに満たされて、すべての民のための「祝福の源/基」となっていったことは、聖書に告げられている通りでした。パウロの言う通り、アブラハムは「希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じた」のでした。何が彼を支えたか。神が彼を通して豊かな祝福を与えるという「神の約束の言葉」でした。神の言葉の中にアブラハムは希望を見出したのです。そのことはパウロもそうであり、マルティン・ルターもそうでした。「世界を動かす力は希望である。やがて成長して果実が得られるという希望がなければ、農夫は畑に種をまかない」。神のみ言という未来を支える希望があればこそ、私たちは現在の苦難を乗り越えてゆくことができるのです。

これまでもご紹介してきましたが、ユダヤ人強制収容所の現実を描いた『夜と霧』という世界的なベストセラーがあります。著者のユダヤ人精神科医ビクトール・フランクルはその中で次のように語っています。「収容所で最初に倒れていったのは身体の弱い、体力のない人たちではなかった。希望を見失った者、絶望した者から先に倒れていった」と。普段私たちはそれほど意識していませんが、ギリギリの限界状況に置かれたときにそれまで見えなかったものが見えてきます。私たち人間をその根底から支えているのが「希望」だということが見えてくるのです。人生には様々なことが起こります。喜びの時もあれば、悲しみや苦しみの時もある。例えば、病気や事故で入院しなければならなくなったとき、私たちは思います。「いつか必ず治って、自分の家に帰る日が来る」と。そのような希望があればこそ、免疫力も高まり、治療効果も上がってゆくのです。七転び八起き。諦めたら終わりなのです。

 

神の国のたとえ①〜「種まきのたとえ」

さて、イエスの語った神の国のたとえを見てみましょう。最初のたとえはこうです。また、イエスは言われた。『神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである』」26-29節)。確かに田んぼや畑、家庭菜園や草花などグリーンを育てておられる方々はよくお分かりになることでしょう。植物の成長は本当に不思議なものです。種の中には最初から、予め成長してゆく力が宿っているかのように見受けられます。また土の中には予め実を結ばせてゆく(肥料としての)力が宿っているようなのです。

昨日天王寺教会で関西一日神学校が開かれ、ルーテル学院大学教授のジェイムズ・サック先生が「素晴らしいコミュニケーション〜人間関係をより良く築くために私たちにできること」という主題で講演を行ってくださいました。その中に次のような印象的な言葉がありました。「一つのリンゴの実の中に種がいくつあるかは私に分かるけれども、一つの種からいくつのリンゴの実が実ってゆくかは私には分からない」。種の中には無限の成長の可能性が宿っているという意味ですが、サック先生は、私たち一人ひとりの中にはそのような無限の可能性が神から与えられているということを伝えたかったのだと思います。そして、私たちが向かい合う相手の中にある豊かな可能性を信頼して、できるだけ肯定的に相手を捉えてゆくことが大切であると、コミュニケーションの秘訣を示して下さったのです。「良いコミュニケーションは健康的な態度に基づいている」。言い換えれば、「相手の中には豊かな実りをもたらすはずの種があって、その種の未来の成長の可能性を信じる」ということではないかと私は受け止めました。

大切なことは、「人間」という字は「人の間」と書くように、私たちは自分が一人だけで生きているのではないということなのでしょう。私たちは人と人の間に、他者との生き生きとした関係の中に置かれているということだと思います。モノローグ(独白)ではなく、ダイアローグ(対話)なのです。私たちが大きな壁にぶつかって悩むとき、落ち込むときに、自分は孤立無援の独りぼっちであるように感じます。どこにも希望を見出すことができず、絶望的な気持ちになることがあります。私たちは自分を支えてくれる誰かが必要です。家族や友人や、恩師や教会の交わりなど、他者が必要なのです。その意味で「救い」は常に「外」から、私たちを超えた「天」から来るのです。

 

神の国のたとえ②〜「からし種のたとえ」

 イエスが語られた神の国のたとえの二つ目は「からし種のたとえ」です。「からし種」とは英語では「マスタードシード」。マスタードのビンの中によく見ると小さなツブツブの種が見えることがありますが、あの1ミリの半分にも満たないような小さな「からし種」についてのたとえです。更に、イエスは言われた。『神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る』(30-32節)。ここでも小さなからし種一粒の中には、鳥が巣を作ることができるほどに大きく成長してゆく神の力が宿っていることが告げられています。「からし種」に関しては次のようにイエスは言われたことを思い出します。「イエスエスは言われた。『信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、「ここから、あそこに移れ」と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない』」(マタイ17:20)。ルカにはこういう言葉も記録されています。「主は言われた。『もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、「抜け出して海に根を下ろせ」と言っても、言うことを聞くであろう』(ルカ17:6)。私たちには神が与えて下さる「からし種一粒の信仰」があればそれで十分なのです。「世界を動かす力」「神の言葉」という「希望」なのです。

 これから私たちは聖餐式に与ります。「これはあなたのために与えるわたしのからだ。これはあなたの罪の赦しのために流すわたしの血における新しい契約」と言われたイエス・キリスト。この主の約束の言葉を私たちの「ライフ(人生・生活・いのち)」の中心に置きたいと思います。この天の祝宴こそが、どのような悲しみや苦しみに出会おうとも、私たちを永遠の喜びと慰めと希望へと招いてくれるからです。そのことを共に感謝いたしましょう。アーメン。

2018年6月10日 (日)

2018年6月10日 聖霊降臨後第3主日礼拝説教「聖霊を冒涜する罪とは」

2018610日 聖霊降臨後第3主日礼拝 説教「聖霊を冒涜する罪とは」   大柴 譲治

マルコによる福音書 3:20〜35

「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。29しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」(28-29節)

 

剣で刺し貫かれるような心の痛みを覚えた母マリア

 本日の福音書は「一軒の家の中」での出来事です。「家」「家庭」をも表していて、恐らくそれは「カファルナウムにあったペトロとアンデレの家」を意味していたことでしょう。イエスと弟子たちは、ガリラヤでは、漁師であったペトロとアンデレ兄弟の家をその活動の拠点としていたからです(1:29参照)。イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった(マルコ3:20)。イエスの周囲には救いを求めた苦しむ人々が大勢いたのです。そしてこう続きます。身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである」21節)。ここで「身内」とはイエスの「母マリアと兄弟姉妹たち」であったことが32節を読むと分かります。家族が心配してイエスを「取り押さえに来た」というのですから、これはよほどのゆゆしき事態です。「イエスは汚れた霊に取りつかれている」と言う者もいましたし(30節)、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」とか「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」とまで言う「エルサレムから下ってきた律法学者たち」もいたと記されています。イエスの家族はそのような伝聞を聞いて、恐らく家族会議を開き、「これは一大事だ。もう放ってはおけない」と考えてペトロとアンデレの家にやって来たのでしょう。父ヨセフの名が出てこないのはイエスが若い頃に亡くなっていたからでしょう。当時の社会では家族の絆は強いものでした。

31節以降にはこうあります。「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。大勢の人が、イエスの周りに座っていた」という状況です。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」とイエスが知らされると、イエスは「周りに座っている人々を見回しながら」、ある意味で家族に対して大変に厳しい言葉を告げるのです。「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と。「わたしは彼らを知らない」と言っているかのようです。そこには「母や兄弟たちはもうわたしの家族ではない」という家族との訣別/絶縁を宣言したような強い響きがあります。「父母を敬え」というモーセの十戒で命じられている以上のことがここで神の権威をもって宣言されているのです。既にイエスによって新しい時代が始まっているのです。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」。母マリアは人間として、これらの言葉に心の中で鋭い刃で突き刺されたような痛みを覚えたのではなかったかと想像します。

 ルカ福音書2章には幼子イエスと出会ったシメオンが大いなる喜びのうちに「シメオンの讃歌(ヌンク・ディミティス)」を歌う場面が記されていますが、その後シメオンはマリアにこう伝えています。「シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。『御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。— — あなた自身も剣で心を刺し貫かれます(下線は大柴)— — 多くの人の心にある思いがあらわにされるためです』」(ルカ2:34-35)。「マリア(ミリアム)」という名前はヘブル語の「マラ(にがい)」という語から来ています(ルツ1:20-21)。深読みかも知れませんが、母マリアが「心を刺し貫かれるような痛み」を最初に覚えたのもこのようなイエスの態度と言葉からだったように思います。

そのような痛みはイエスが十字架に架けられて殺され、死んで十字架から降ろされた場面で、頂点を迎えたことでしょう。自分がお腹を痛めて産んだ子が目の前で殺されなければならなかったマリア。それを目の前で目撃しなければならなかったマリアの心の痛みを覚えます。「スタバート・マーテル・ドロローサ(悲しみの聖母は立ちぬ)」と呼ばれる中世の讃美歌や、「ピエタ(あわれみ/慈悲)」と呼ばれる十字架から降ろされた息子を抱きかかえるマリアの姿がいくつもの絵や彫刻を想起します。最も有名なものはルネサンス時代を生きた天才彫刻家にして画家、建築家にして詩人であったミケランジェロ(1475-1564。彼は1483-154663年間の激動の生涯を生きた宗教改革者マルティン・ルターと同時代人です)が20歳の時に作った大理石のピエタ像でありましょう。それはヴァチカンのサンピエトロ大寺院に納められていて、ミケランジェロが唯一自ら署名をした作品としても知られています。

マリアは天使ガブリエルから受胎告知を受けた時点で、既に最初から神がイエスを通して人々のために救いの御業を示されるということを知っていて次のように告白したのでした。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ1:31)。マリアは自分の理解を超えた出来事を、理解できないままで神の御心として精一杯受け止めようとしています。ここでも母マリアはイエスの言葉を、心の痛みを覚えながらも、「お言葉どおり、この身に成りますように」という祈りをもって「御心が成るように」と受け止めたに違いありません。

 イエスの言葉に戻りましょう。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」イエスは「地縁」でも「血縁」でもない「神の御心を行う人たちの新しい絆」、神の聖霊によって集められた「聖霊縁」とも呼ぶべき「新しい絆」、「神の家族としての絆」を創造しているのです。誰であっても「神の愛の御心を行う者」「イエスの家族」です。イエスの母マリアは真の意味で、血縁の次元を超えた、神の御心を自分の身体と人生とで受け止めていった「まことの信仰の母」とも呼ぶべき存在でありました。

 

「聖霊を冒涜する罪」とは何か?

 そのように考えてきますと、本日の「決して赦されることのない聖霊冒涜の罪」とは何かということについても光が当てられてゆくように思います。イエスは言います。「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」28-29節)。「はっきり言っておく」という語は、ギリシャ語で「アーメン、わたしはあなたがたに言う」という言葉です。「アーメン」とは「然り」「真実」「まことにその通り」という意味のヘブル語で、その表現は事柄を強調する際に使われるイエスの口癖でもあります。「聖霊を冒涜する罪以外はどのような罪であってもすべて赦されるが、唯一聖霊冒涜の罪だけは決して赦されない」と言われている。「そして永遠に罪の責めを負う」とある。この言葉を聞く者は心底身震いがして、自分は燃えたぎる地獄の業火で燒かれる定めにあるようなショックを受ける表現です。それにしても「聖霊を冒涜する罪」とは何なのでしょうか。

 「ベルゼブル」という語が出て来ますが、これはカナン地方の神の名でもあり、同時にペルシャの偶像神「ベルゼブブ」(蝿の王/蝿の主。列王紀下1:2では「バアル・ゼブブ」)を指しているとも考えられます。「エルサレムから下ってきた律法学者たち」はイエスの働きは神の聖霊の働きではなく、「悪魔的で悪霊的、魔術的な働きなのだ」と非難しているのです。彼らにとってイエスの行為は神への冒涜以外の何ものでもなかったのでしょう。彼らは律法学者ですから旧約の律法には精通しているにもかかわらず、目の前のイエスにおいて神の聖霊が働いていることが全く見えなかった。何かに遮られてそれが全く分からなかった。彼らの頑なな心、頑固で閉ざされた心が、ますます閉ざされて固くなってゆくのです。イエスは言います。「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」と。それは彼らの「かたくなな心」(マルコ3:5、先週の福音の日課)を打ち砕くための鉄槌でした。しかし彼らは安息日論争以降、イエスを殺そうと画策するようになります。イエスの言葉を受け入れなかったどころか、「神の御心」を見失い(頑ななゆえに自分のしていることが神の御心に適っていると思い込んでいたのかも知れません)、罪に罪を重ねることになってゆくのです。それは剣で心を刺し貫かれるような痛みを味わい続けた母マリアの姿と対照的です。そのように痛みには覚醒作用があるのでしょう。「良薬口に苦し」と言われますが、「人生における痛み・にがさ」とは私たちの「頑なな心」「打ち砕かれた心」に変えてゆくために備えられた神の恵みなのかもしれません。

 

罪と悲しみ、痛みからの解放〜イエス・キリストの現臨

 これから私たちは聖餐式に与ります。「これはあなたのために与えるわたしのからだ。これはあなたの罪の赦しのために流すわたしの血における新しい契約」と言って、主が私たちの罪を赦し、私たちを真の自由と感謝と希望のうちに生かすため、パンとブドウ酒としてご自身を捧げてくださったのです。そのことを私たちの「ライフ(人生・生活・いのち)」の中心に置きたいと思います。キリストが注いで下さった愛こそが私たちの頑なな心を打ち砕き、神に向かって開いて下さいます。キリストが準備して下さったこの天の祝宴こそが、私たちがこの世でどのような悲しみや苦しみに出会おうとも、私たちを永遠の喜びと慰めと希望へと招いてくれるのです。その救いの食卓を感謝いたします。そこから力をいただいて、新しい一週間をご一緒に踏み出してまいりましょう。アーメン。

2018年6月 5日 (火)

2018年6月3日(日)聖霊降臨後第2主日礼拝説教「本末転倒を避ける」

201863日(日) 聖霊降臨後第2主日礼拝説教「本末転倒を避ける」  大柴 譲治

申命記 5:12〜15 / マルコによる福音書 2:23〜3: 6

「安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。」(申命記513-14a

 

安息日論争

 本日私たちに与えられているのは「安息日論争」のエピソードです。「安息日」とはヘブル語では「シャバット/サバス」と呼びますが、これは「第七」という意味の語から来ています。創世記を読みますと神が六日間で天と地を創造し七日目に休まれたとあるところから、七日目を「安息日(安らかな息の日)」と呼ぶようになったのです。日没から一日が始まりますから、厳密に言えば「安息日」とは「金曜日の日没から土曜日の日没まで」を意味します。本日の旧約の日課に与えられているように、モーセの十戒に安息日の規定がありますので、ユダヤ人は「安息日」をとても大切にしていました。安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない(申命記5:12-14節)。その日にはいかなる仕事もしてはならないのです。それは、人間が神に倣って労働を休み、休息を取るのみならず、安息日は神を礼拝するために神ご自身が聖別した特別な日でもあったのです。本日の箇所では、その弟子たちはこの安息日の定めを守らないということでファリサイ派の人々は弟子たちの師であるイエスに難癖を付けています。事の発端は弟子たちが麦の穂を摘み始めたというところにあります。ユダヤ人たちは、これは神の律法が禁じた労働に当たるというのです。ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、『御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか』と言った」23-24節)。平衡箇所を見ると、ルカ福音書はそれに「弟子たちは麦の穗を積み、手でもんで食べた」と記しています。いかにも脱穀という労働をしているような一語を付加しているのです(ルカ6:1)。弟子たちのしたことは明らかに安息日の規定に違反するということなのでしょう。もしかしたらこの出来事の背景には、ユダヤ教からキリスト教が分離してゆくという複雑な事情があったのかもしれません。「なぜキリスト者たちはモーセの十戒を守らないのか」というユダヤ教の側からの鋭い問いかけがあったことが考えられます。

 

イエスが教えた三つのこと

 イエスはファリサイ派に対して三つのことを示します。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか」25-26節)。イエスはここでサムエル記上21:1-7に記された出来事を想起しています。舞台はノブという所の聖所。ダビデはサウル王の憎しみを買って逃亡中です。ノブの祭司アヒメレクがパンを請うたダビデに対して「聖別されたパン」を与えたことが記されています。これが安息日の出来事であったかどうかは記されていませんが(恐らく違うでしょう)、「聖所で祭司だけが食べることができる聖別されたパン」も、人を生かすために例外的に用いられることがあるということです。ちなみに、マルコはここで祭司の名を「大祭司アビアタル」と言っていますが、これはマルコの記憶間違いで、正しくは「祭司アヒメレク」です。マタイとルカはそれのためか、マルコの記した名前をカットしています。

 イエスはま続けてこう言っています。②「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある」27-28節)。「人の子」とはイエスがご自身を語る時によく使う称号です。神から遣わされた権威をもってイエスはファリサイ派の人々の本末転倒を正されるのです。

第三は、マルコ3章に記されているもう一つのエピソード「安息日に片手の萎えた人を癒すイエス」です。③「イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。イエスは手の萎えた人に、『真ん中に立ちなさい』と言われた。そして人々にこう言われた。『安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。』彼らは黙っていた。そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、『手を伸ばしなさい』と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた」3:1-6)。結局この「安息日論争」がユダヤ人たちの怒りと憎しみを買うことになって、イエスが十字架で殺されることの発端になったとマルコは記しています。

 

本末転倒とそれを避ける道

 私たちはイエスの言葉を聴くとしばしばハッとします。様々なことにこだわって大切なことを見失いがちな私たちに、何が大事なことであるか、何が神が大切に求めていることであるかをはっきりと教えてくれるのです。「あなたがたは本末転倒している。安息日に関しての神の意図は別のところにあるのだ」と。祭司アヒメレクに頼んでダビデは聖別されたパンを食べるほど自由でした。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」という言葉がイエスの言いたいことを最も明らかにしているでしょう。「本末転倒してはならない。安息日を定めた神の意図は、人間を真の意味で生かすためであり殺すためではない」とイエスは神の権威をもって告げています。

また、イエスは手の萎えた人に「真ん中に立ちなさい」と言って人々の真ん中に立たせます。神の恵みが注がれる舞台のど真ん中に彼は呼び出される。彼が神の恵みのドラマの主人公なのです。そして人々にこう言われます。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」。彼らは誰もイエスに答えられずに黙っています。するとイエスは、怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に「手を伸ばしなさい」と言われたのです。伸ばすと、彼の萎えた手は元どおりになりました。安息日に限らず、神は私たちを祝福し私たちを聖別してくださろうとしているということをイエスは明らかにしています。私たちは恵みの神を信じ、神によって様々な束縛から解放され、神との信頼関係の中で自由にされていく必要があるのです。

 本末転倒を避けるために私たちはイエスの言葉を深く味わう必要があります。「安息日に律法で許されているのは、悪を行うことではなく善を行うことであり、殺すことではなく命を救うことなのです」。イエスは私たち人間の持つ「かたくなな心」「悲しみ」、「怒りをもって」それと対決しながら「癒やしの御業」を行われました。それを見て私たちの心が打ち砕かれ、悔い改めて神へと戻ってゆくためであったのです。しかしそれは起こりませんでした。ファリサイ派の人々は頑な心をさらに頑なにしてイエスを殺そうとまで考え始めるのです。人間とは何と救いようがない存在であるかと思います。自分を守ろうとする時、私たちは本能的に自分を脅かすものを排斥し、排除しようとします。イエスは私たちの心の頑なさを打ち砕こうとされます。私たち人間の「頑固な心」、それは「律法主義的な心」「自己神格化」と言い換えることができるかも知れませんが、それがイエスを十字架へと追いやり、イエスを十字架に架けたのです。そこに私たち人間のどうしようもない「罪の現実」があります。出口のない暗黒の闇がある。しかし、本当の救い、本当の命、本当の自由は、私たちの罪がイエスによって打ち砕かれ、私たちが自らの罪を悔い改め、十字架の救いを信じるところに与えられます。闇の底にイエスの救いの光が届いて輝いています。何が大切かを知らずに本末転倒を繰り返す私たちに、イエスは一番大切なこと、神がその独り子を賜るほどこの世を愛してくださったことを教えてくださった。イエスを通して私たちには本当の救い、本当の安息が神から与えられるのです。

 これから聖餐式に与ります。「これはあなたのために与えるわたしのからだ」「これはあなたの罪の赦しのために流すわたしの血における新しい契約」と言って、主が私たちを生かすためのパンとブドウ酒としてご自身を捧げてくださった。そのことを私たちの「ライフ(人生・生活・いのち)」の中心に置きたいと思います。キリストへの服従こそが、私たちが本末転倒することなく、真の神を神として生きてゆくことができる道なのです。本日、神の安息に与るこの主日礼拝において、そのことを知る者は幸いであると言わなければなりません。

2018年5月28日 (月)

2018年5月27日 三位一体主日礼拝説教「三位一体の神を信ず」

2018527日 三位一体主日礼拝 説教「三位一体の神を信ず」       大柴 譲治

ローマの信徒への手紙 8:12〜17

神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。(14-16節)

ヨハネによる福音書 3: 11

イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」。(5節)

 

「三位一体主日」

 先週私たちはペンテコステの出来事を覚えて、「使徒行伝は聖霊行伝」(間垣洋助)という言葉を通して、聖霊降臨について学びました。聖霊降臨後日の次の日曜日は、教会暦では「三位一体の神を覚える主日(三位一体主日。英語ではHoly Trinity Sunday」)」として定められています。それは、一年に52回ある日曜日の中で、唯一キリスト教の教理について焦点を当てた主日となります。すなわち今日は「三位一体の神」について学ぶ主日で、説教題も「三位一体の神を信ず」とさせていただきました。

 「三位一体の神」と言われても、それがどの何を意味しているか理解するのは難しいと思います。「三つで一つ、一つで三つ」というのは私たち人間の思考の枠組みを超えた神の神秘でもあるからです。「三位」という語は神が「三つのペルソナ(位格)」を持つことを意味します。「ペルソナ」というのはもともとラテン語で「仮面/マスク」を指す言葉で、ひとりの神は「父と子と聖霊」という三つの仮面を持っていて、それを時に応じてかぶり分けているということになりましょうか。「ペルソナ」とはそこから「パーソナリティ」という言葉が出て来た元の言葉でもあり、人間で言えば「人格」と訳されますが、神は人ではないのでわざわざ日本語では「位格」という特別な語を訳として与えています。簡単に言えば「神」は「父」「子」「聖霊」という三つの人格を持つということになります。

 

「二重人格」?「三重神格」!

 「二重人格」という言葉がありますが、三つのペルソナを持つとされる神は、分かり易く言えば「三重人格」ということになりましょうか(正確に言えば「三重神格」ですが)。私たちが「あの人は二重人格だ」と言うとあまりよい意味を持っていませんね。ジキルとハイドではないですが「極端に相反するような人格を併せ持っている人物」という意味で「二重人格」という語は使われます。しかし「神が三位一体である、神は三重神格である」とは、確かに私たち人間の理解を超えた「神の神秘」を指していますが、決して悪い意味ではありません。後にももう一度触れますが、アガペーの愛である神、独り子を賜るほどにこの世を愛してくださっている父なる神が、その愛をなんとか私たち人間に伝えようとして「父」と「子」と「聖霊」という「三つのペルソナ(仮面)」をかぶり分けてくださっているということなのです。

 そもそも「教理(ドクトリン/ドグマ)」とは何か。毎週私たちは使徒信条またはニケア信条(第一日曜日)によって礼拝でも信仰の告白をしますが、「教理」とは教会が「私たちはこのように信じます」と告白してきた「信仰の枠組み(骨格)」であり「信仰告白を支える土台」を意味しています。注意深く言わなければなりませんが、これを否定すると正統なキリスト教信仰から離れていってしまいます。すなわち「異端」的なものになってしまうのです。例えば、もし私が「自分は再臨のキリストである」と言い始めたとすると「三位一体」を否定することになり、「異端(キリスト教とは別の宗教)」となってしまいます。「真理は限りなく異端に近い」という言い方もありますが、教会が告白してきた正統的な信仰から離れてしまうことになる。

普段は意識しませんが、私たちは二つの教理を持っています。「三位一体の教理」「キリスト両性論(キリストは「まことの神にして、まことの人」という完全な神性と完全な人性を併せ持つという)の教理」です。この二つの教理は両方とも神の神秘であり、人間が理性を用いて完全に理解することも説明することもできないような次元の事柄です。繰り返しますが、異端との血を流すような厳しい戦いを通して、教会は「公会議」でそのように「信じます」と信仰の告白をしてきたのです。私たちもそのような信仰に連なっています。

「三位一体の神」とは

 皆さんも洗礼準備の際、ルーテル教会の場合にはルターの『小教理問答』を学びますが、その学びの中で「三位一体論」「キリスト両性論」について牧師から説明をお聞きになったことと思います(濃淡はあったかも知れませんが)。「三位一体の神」とは何を意味するのか。私は通常こう説明します。「父なる神、御子なる神、聖霊なる神がおられるけれども、神が三人のいるわけではない。ひとりの神が三つのペルソナを持ってご自身を現されている。三位は一体なのである。教会はそのように三位一体の神を信じてきた」と。「キリスト両性論」についても同じです。私たちは「まことの神にしてまことの人である主イエス・キリストを信じる。イエス・キリストは完全な神性と完全な人性を併せ持っておられる」と。

「三つを一つにおいて、一つを三つにおいて信じる」「三つで一つ、一つで三つ」というのは確かに論理を超えています。あるカトリック神父の話。受洗準備のための公教要理のクラスの中で「三位一体について説明しなさい」という問いを出したそうです。それに対して「分かりません」と答えたら「○」、言葉でもって色々と説明しようとしたらX(バツ)」を与えたということでした。私の先輩の渡邉純幸牧師は「三位一体と聞いて、うな丼と説く。なぜなら、そこではうなぎと山椒とタレの三つが一体であるから」と言っておられました。それでは最初から取り組みを避けていることになるのではないかと私は思いますが・・・。

私は、私たち人間には理性というものが与えられているのですから、いくつかのかたちで説明を試みてみたいと思うのです。私たちの信仰はどこまでも「知解を求める信仰(理解するということを大切にする信仰)」(アンセルムス)でもあるからです。

    「私」という存在を考えてみます。「私」は、子供の前では父親であり、親の前では子であり、妻の前では夫です。私という一人の人間の中に「父」「子」「夫」という三つの役割が同居していることになります。同様に、ただおひとりの神の中に「父と子と聖霊」という「三つのペルソナ」が同居していると説明できましょう。

    H2Oという分子構造を考えてみます。これは二つの水素原子と一つの酸素原子が結びついた物質(=「水」)を表す分子構造です。H2Oは状況に応じてその形を変化させてゆきます。「1気圧」という条件においてですが、「零度以下」では「氷=個体」、「零度から百度まで」では「水=液体」、「百度以上」になると「水蒸気=気体」になる。H2Oという本質は同じ物質が固体・液体・気体というように三つに姿を変えるのです。「三位一体の神」も同様であると説明できます。もっとも「零度以下」「百度以上」が何を意味するのか説明しきれない部分が残りますが、かつて理系であった私にはこれが一番しっくりくる説明です。

    三つ目は、私自身がある方から教えられたことです。治験会社の社長までされて、60歳を超えてからようやく教会に来る時間が与えられて洗礼を受けられた方です。「私は三位一体というものがよく分かります。光のことを考えてみるとよく分かるのです。光には二つの相反する性質があります。光は粒子という性質と波動(波)という性質を併せ持っているのです。神もそれと同じく、三つの位格を持っていると捉えています。」

 四つ目はこうです。先述しましたが、アガペーである神はその愛を何とかして私たちに伝えようとされました。「父なる神」「その独り子なる神イエス・キリスト(=み子なる神)」をこの地上に派遣することを通して、そして「聖霊なる神(=神の息吹)」をこの地上に吹き込むことを通して、その愛を私たちに伝えようとしているのです、と。

 

「むつかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく」(井上ひさし)

 いかがだったでしょうか。少し理屈っぽく感じられたかも知れません。「神学」とは「信仰の内省の学」です。『ひょっこりひょうたん島』を作ったカトリック劇作家・井上ひさしさんはこう言っていました。「むつかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいこともおもしろく、おもしろいことをゆかいに、ゆかいなことをさらにゆかいに、語りたい」と。味わい深い言葉です。三位一体についてもそのように語りたいと思いながら本日は準備いたしました。神が聖霊の息吹を通して私たちを新たに生まれ変わらせ、神の国に生きる者としてくださいますように。

2018年5月22日 (火)

2018年5月20日(日) 聖霊降臨日 礼拝説教「真理の霊による弁護」

20185月20日(日) 聖霊降臨祭 礼拝 説教「真理の霊による弁護」 大柴 譲治

 使徒言行録 2: 1〜21

1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 3そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。4すると、一同は聖霊に満たされ、が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。(1-4節)

 ヨハネによる福音書 15:26〜27,16:4b〜15

わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者(ルター訳聖書では「慰め主」)、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。(26節)

 

ペンテコステの出来事〜「使徒行伝は聖霊行伝」(間垣洋助)

 本日は聖霊降臨日。復活から数えてちょうど50日目に聖霊降臨(「ペンテコステ」とはギリシャ語で50の意)の出来事が起こります。使徒言行録2章にこう記されています。五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした(2:1-4)。

 私は1986年に東京三鷹の日本ルーテル神学校を卒業して牧師となりました。最近、神学校時代の事をいろいろ思い起こします。その頃には分からなかったことが少しずつ分かってきたように感じるのです。当時新約学の教授であられた間垣洋助先生が授業の中で使徒行伝について次のように語って下さいました(まだ1987年に新共同訳聖書が出る前でしたので「使徒行伝」でした)。「新約聖書の『使徒行伝』は、その前半はペトロ、後半はパウロが主人公であるように見えます。しかしその本当の主人公は、ペトロでもパウロでもなく、彼らを捉えて使徒として立て、派遣した神の聖霊なのです。だからそれは『使徒行伝』と呼ばれるよりもむしろ『聖霊行伝』と呼ばれるべきものなのです。そしてその書物は28章で終わっているように見えるかも知れない。しかしそれはそこで閉ざされて終わっているのではなく、開かれたまま終わっているのであって、29章以降は神の聖霊が後に続く私たちキリスト者を通して書き加えられてゆくのです」。間垣先生の言われた通りであると思います。神の聖霊がキリスト教の二千年の歴史を通してこの地上に注がれ、キリスト者を動かしてその働きを継承してきたのです。私たちが今日、この聖霊降臨日の礼拝を守ることもまたこの『聖霊行伝』に一ページを加えるかたちになっていると信じます。

使徒言行録の最後は次のように記されています。パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた28:30-31)。間垣先生の言われた通り、いかにも「次に続くto be continuedという開かれた終わり方です。この「続き」は、神の聖霊が二千年に渡って人々の上に注がれ、人々を捉えて「使徒(働き人/信仰者/復活の証人)」として立て、福音宣教と神の国の実現のために世界へと派遣ゆくことを通して書き加えられていったのです。マタイ福音書の最後に復活の主は次のように弟子たちに命じています(それは「大宣教命令」とも呼ばれます)。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる28:18-20)。

 通常「風」自体は私たちの目に見えません。不可視です。しかし「風」が吹くときには何かが動かされます。落ち葉が舞ったり、旗や洗濯物がはためいたり、空を雲がたゆたっていったり、遠い山々の木々が揺れ動いたり、心地よい風を肌に感じたりします。何かが動かされる時、私たちはそこに風が吹いていることを知るのです。聖霊降臨の出来事の中では「突然、激しい風が吹いてくるような大きな音が天からして、・・・炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人ひとりの上にとどまった」とあり、目に見えるかたち、耳で聞こえるかたちにおいても「聖霊」が降ったことが証言されています。他にも、例えばイエスの受洗時などに「天が裂けて、聖霊がハトのように御自分に降ってくるのを御覧になった」(マルコ1:10)とあります。しかし通常は「聖霊」自体は「見えない風」のようなものでありましょう。それが働く時にはそこでは何かが動かされてゆく。何かが動く時、そこに私たち自身の生き方が目に見える形で変えられていったり、エマオ途上の二人の旅人のように私たちの心が静かに燃えていたことが後から分かったりする。聖霊が注がれる時、私たちの中で何かが変えられてゆくのです。それは、本日の第一日課のエゼキエル書37章に預言されているように、「枯れた骨」をもよみがえらせてゆくような神のいのちの力を持った「神の息吹き」であります。創世記27節には「主なる神は土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」とある通りです。

 

ペンテコステの出来事〜「バベルの塔の出来事」(創世記11章)の対極にある出来事

 聖霊の注ぎを受けた人々においては何が変えられたのでしょうか。すると、一同は聖霊に満たされ、が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだしたとあります(2:2)。不思議なことにそれまで習ったことのない様々な言語で突然語り始めたというのです。何をか。イエス・キリストの出来事、神の救いの出来事を語り始めたのです。

 このペンテコステの出来事は、創世記11章に出てくるバベルの塔の出来事に対応し、その対極にある出来事と位置付けられると私は考えています。そこでは人々は「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」と考えました。人間がその分際を超えて「神」のようになろうとしたのです。しかしその結果は、相互に言葉が混乱して通じなくなり、人間には心が通い合うコミュニケーションができなくなっていったのです。「神のようになろうとした人間」は、相互に分断され孤立化し、心のつながりを断ち切られて、バラバラになってしまったのでした。ペンテコステに起こった出来事はその逆の出来事でした。相互にコミュニケーションができなかった者たちが、聖霊降臨を通して、様々な言語にもかかわらず、イエス・キリストにおいて一つに結びつけられたのです。

 

「弁護者」=「慰め主」(ルター)

 ヨハネ福音書では、イエスがその告別説教の中で「聖霊/真理の霊」のことを「弁護者(パラクレートス)」と呼んで、神から弁護者が派遣されるであろうことを弟子たちに約束しています。その原意は「パラ(傍らに、そばに)」「クレートス(呼ばれたもの)」という意味です。そこでは私の傍ら(隣り)にあって、真実を語ることで私を支え守る存在としての聖霊が考えられています。新共同訳聖書では、そこから「弁護者」という訳語が取られたのでしょう。口語訳聖書では「助け主」と訳されていました(新改訳聖書も「助け主」)。新約聖書をドイツ語に訳したマルティン・ルターはこのそれを「慰め主」と訳しました。ルターは困難な状況の中で、どのような時にも神が私たちの霊的なニーズを満たしてくださるために、「真の慰め」のため「助け手」を派遣して下さると信じたのでした。終わりの日の出来事を預言している黙示的なマルコ13章の、キリスト教への厳しい迫害が預言されている中で語られたイエスの言葉を想起します。引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ11節)。

 遠藤周作と三浦朱門というカトリックの作家が、井上洋治神父と三人で、キリシタンたちが迫害され殉教した九州の雲仙地獄を旅した時のエピソードが伝えられています。遠藤周作が三浦朱門に、グツグツと煮立っている坊主地獄を見ながら、「自分だったら、こんなところに投げ込まれるとすれば、すぐに転んで踏み絵を踏んでしまうだろう。あんたはどうだ」と三浦朱門に問うたら、彼も「自分も全く同じだ」と答える。今度は井上洋治神父に同じことを遠藤が尋ねると、井上神父は突縁プリプリと怒り出して、「そんなことはその場になってみなければ分からん。聖霊がどう働くかだ」と答えたそうです。確かにその通りでありましょう。人間の力ではなく神の聖霊、真理の霊が「助け手/弁護者/慰め主」として働く時に、人間の思いを遙かに超えたことが起こるのです。神の聖霊が私たちに自分が生きるべき道を教えてくれる、そのような時が人生には必ずあるのです。

 

本日の洗礼・堅信式と転入式にあたって

 今日はこの後にST兄の洗礼・堅信式と、TN兄の転入式が行われます。これらの出来事は、私たちがイエス・キリストに、またこの教会に導かれたのと同様に、神の聖霊の働きです。見えない聖霊が見えるかたちで私たちの中に注がれて、今ここでこのような礼拝が行われているのです。この101年を迎えた大阪教会の今日の主日聖餐礼拝もまた、「聖霊行伝/聖霊言行録」の一ページであると申し上げることができましょう。そのような神の聖霊が私たちの上に注がれています。そのことを神に感謝し、深く味わい、この喜びを分かち合ってゆきたいと思います。

2018年5月16日 (水)

2018年5月13日 主の昇天主日聖餐礼拝 説教「祝福の光の中に」

2018513主の昇天主日聖餐礼拝 説教「祝福の光の中に」   大柴譲治

ルカによる福音書 24:44〜53

イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。(50-51節)

 

主の昇天の出来事

 本日私たちは「主の昇天主日」を覚えています。復活後40日に渡ってその姿を弟子たちに示された主イエスが、弟子たちの見ている前から天に挙げられたことを記念する日が「昇天日」、その次の主日を「主の昇天主日」として守っているのです。「昇天日」から10日が経って「聖霊降臨(ペンテコステ)の出来事」が起こります。

 私たちがこの地上の生涯を終えるときには「天に召される」と書いて「召天」と呼びますが、イエスの場合には特別に「天に昇る」と書いて「昇天」と呼んでいます(昔の教籍簿には信徒の場合にも「昇天」と書かれていましたが)。私たちが毎週『使徒信条』の中で「主は、・・三日目に死人のうちから復活し、天に上られました。そして全能の父である神の右に座し」と信仰告白する通りです。

 毎年ペンテコステの前に「主の昇天主日」が巡ってくるのですが、私は必ずその時に問いかける質問があります。「天に昇られた主イエスは、天で何をしておられるのでしょうか」という問いです。昇天の出来事はルカ福音書の24章の最後の部分と、やはり医者ルカが記した使徒言行録の1章の最初の部分に記されています。

 ルカ24:50-53イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」

 使徒1:9-11こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。『ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。』」

ルカ福音書では、イエスが手を上げて祝福の姿で弟子たちを離れて天に上げられていったとあります。天上でも主は手を上げて地上に残された私たちたちを祝福してくださっておられると信じます。使徒言行録では弟子たちは天を見上げているうちに主の姿が雲に覆われて見えなくなったとある。いずにせよ、それ以降は弟子たちも復活の主の姿を直接見ることはできなくなったのです。しかし天に上げられた主は、今でも天から手を上げてこの地上に生きる私たちを祝福して下さっていると弟子たちは感じ続けたのでした。

 

柏木哲夫先生の言葉〜「天からの力に生かされる」

 私は日曜日の朝5時からNHKEテレで放送される『こころの時代』を毎週録画して日曜日の夜あたりにチェックしています。その中に、淀川キリスト教病院の理事長で、かつてはホスピス長もなさったクリスチャン精神科医の柏木哲夫先生のものがありました。柏木先生は軽妙で洞察に富むお話しでも有名な方ですが、私はそれを観ていて深く考えさせられました。柏木先生が体調を崩して病院に入院される体験をしたことがあるそうで、その時に毎日ベッドに横になって天上ばかりを見上げているときに、ふと気づいたのだそうです。自分は今天を見上げて寝ているが、普段は気づかなかったが、こうして天を向いて寝ていると、私たちは実は天から不思議な力(祝福の力)をいただいて生かされているのではないかということに思い至ったと言うのです。私はそれを聞いてハッとしました。私自身も小学校二年生の時や高校二年生の時に入院して、各40日ほど絶対安静でベッドに寝ていた時期がありました。「健康は人を外に向かわせるが、病気は人を内へ向かわせる」という表現があります。天を見上げて寝ている時、私たちは自分自身を超えた神の前に立たされるのではないでしょうか。さらに言えば、「健康は人を外に向かわせるが、病気は人を天に向かわせる」と言えるように思うのです。

 考えてみれば、横向きに寝る人もいれば、うつ伏せに寝る人もいる事でしょうが、私たちはおそらく人生のうち三分の一ほどは寝ています。それは、三分の一、天に向かっているとも言える。それは昇天の主の祝福を天からいただいて私たちは生きているとも言えるのではないかと思います。なぜなら、主は両手を上げて、祝福の姿勢のまま天へと上ってゆかれたからです。その祝福の光の中に私たちの人生は置かれているのです。

 

祝福の光の中に〜信仰の詩人・八木重吉(1898-1927

 それにしても私たちの現実には、自分の力ではどうすることもできないような苦しみや悲しみ、不条理が満ちています。イエスではないですが、「わが神、わが神、なにゆえわたしをお見捨てになったのですか!」と叫びたくなるような孤独や悲嘆も現実には起こります。どこにも天からの祝福などないではないかと思ってしまうような過酷で厳しい人間の現実がある。しかしそれにも関わらず、私たちは天を見上げるのです。私たちのためにあの十字架に架かってくださった主を見上げるのです。どのような時にも主が私たちと共にいてくださる。復活の勝利の光の中で、私たちに向かって手を広げて私たちを招き、受け止めようとしてくださるお方がいる。あの十字架は放蕩息子を抱きとめようとする愛に満ちた父なる神の姿を表しているようにも思えてきます。

 早世の信仰の詩人・八木重吉をご存知の方も少なくないことでしょう。八木重吉は1898(明治3129日、東京府南多摩郡堺村(現在の町田市)に生まれ、東京高等師範学校に進みます。在学中、受洗。卒業後、兵庫県御影師範の英語教師となる。24歳で、17歳の島田とみと結婚。この頃から、詩作に集中し、自らの信仰を確かめるのです。妻のとみ、子の桃子、陽二に囲まれて彼は詩を書き続けます。1925(大正14)年、第一詩集『秋の瞳』刊行。以降、詩誌に作品を寄せるようになるが、1926年、結核を得て病臥。病の床で第二詩集『貧しき信徒』を編むけれども、翌1927(昭和2)年1026日、刊行を見ぬままに他界。『貧しき信徒』は翌年、出版されました。最初の詩集『秋の瞳』の中には次のような言葉が最初にあります。「私は、友が無くては、耐えられぬのです。しかし、私にはありません。この貧しい詩を、これを読んでくださる方の胸へ捧げます。そして、私を、あなたの友にしてください」-八木重吉読む者の心に深く響く文章です。二つの詩をご紹介します。

 

 「かなしみ」

このかなしみを
ひとつに 
(す)ぶる 力(ちから)はないか

 

 「貫(つら)ぬく 光」
はじめに ひかりがありました
ひかりは 哀
(かな)しかつたのです

ひかりは
ありと あらゆるものを
つらぬいて ながれました
あらゆるものに 
(いき)を あたへました
にんげんのこころも
ひかりのなかに うまれました
いつまでも いつまでも
かなしかれと 
祝福(いわわ)れながら

 

これらの詩は、志半ばにして病いのために倒れなければならなかった一人の信仰者の信仰告白でもあります。人間の悲しみの現実を貫く光とはイエス・キリストのことを指しています。「光あれ、すると光があった」(創世記1:2)。この悲しみを統ぶることができるとすれば、私たちの悲しみの底に降り立ち、それを担ってくださったお方による以外にはありません。今は天におられるキリスト。このお方からの光が万物を貫いて差しています。この光の中に私たちは主と共に生きるのです。お一人おひとりの上に主の祝福をお祈りいたします。

2018年5月10日 (木)

2018年5月6日 復活節第六主日聖餐礼拝 説教「わたしを選ばれたキリスト」

201856日 復活節第六主日聖餐礼拝 説教「わたしを選ばれたキリスト」   大柴 譲治

ヨハネによる福音書 15: 9〜17

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」(16-17節)

 

イエスの告別説教の言葉から:「わたしがあなたがたを選んだ。」

 本日私たちはイエスの告別説教の一部を聴いています。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」(ヨハネ15:16-17)。

 「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。というイエスの言葉を聴く時に私たちには二つの思いが同時に心の中によぎるように思います。「そのように言ってくださるとは本当に有り難い」という感謝の念と共に、「このようなわたしは、その選びには相応しくない」という思いです。可能であればそれを辞退したいというようなアンビバレント(相反する二つの思いの間を揺れ動く両面価値的)な思いです。ちょうど今週から木曜日の聖研は旧約聖書からヨナ書を学び始めますが、私たちはヨナの気持ちがある意味でよく分かるのです。ヨナは「ニネベに行って罪を悔い改めるよう民に呼ばわりなさい」という神の召しを受けますが、それに従わず船に乗って異国に逃げようとします(ヨナ書1章)。やがて海が大荒れに荒れて、それがヨナが神から逃げようとしているせいであるということが分かり、海に投げ込まれます。ヨナは大きな魚にのみ込まれ、その腹の中で三日三晩を過ごした後に陸へと吐き出され、結局ニネベに神の預言の言葉を伝えにゆくことになるのです。「ヨナ、ニネベにいらっしゃい。イヤイヤよ」というこどもの讃美歌にある通りです。

 

イニシアティブは常に神の側、キリストの側にある

聖書では「イニシアティブ(主導権/主権)」はいつも神の側、キリストの側にあります。神の側からの呼びかけからすべてが始まるのです。旧約聖書では父祖や預言者たちを選んだのは主なる神でしたし、12弟子を「わたしに従って来なさい。あなたがたを人間をとる漁師にしよう」と呼び招いたのもイエスでした。キリスト教の迫害者であったパウロをダマスコ途上で名前を呼んで「異邦人の使徒」として召し出したのもイエスご自身でした(使徒言行録9章)。常にイニシアティブは神の側にある。神がまず呼びかけ(あるいは、出来事を示して呼びかけ)、人間がそれに対して応答するのであって、逆ではありません。例えば「ヨブ」。ヨブ記を読むと、義人ヨブは祝福されていたものすべてを失っても罪を犯さなかったとあります(「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」ヨブ1:21)。その後に3章以降で、ヨブは神に向かって「なぜですか」と率直にその嘆きを投げかけてゆくのです。四人の友人が神を弁護しようとヨブに対峙しますが、ヨブも負けてはいません。最後に神がつむじ風の中からヨブに語りかけてその物語は終わるのですが、ヨブ記は読む者の心に深い余韻を残します。私の中でそのヨブの姿は、ヤボクの渡し(ペヌエル)で朝まで神と格闘したヤコブのエピソードと重なっています(創世記32章)。信仰とはある面では「神との格闘」だからです。「疑いのトマス」の場合も同様です(ヨハネ20章)。復活の主が弟子たちにご自身の姿を表されたとき、トマスはそこにいませんでした。「自分の目で見て、自分の指をイエスの手の釘跡に差し入れてみなければイエスの復活を決して信じない」とトマスは主張し続けます。パウロの場合も然りです。パウロは「肉体のとげ」「とげ」と言われているのですから、それは激痛を伴う病気であったことでしょう)で苦しんだ時に「それを取り除いてください」と主に「三度」祈ります(2コリント12章。「三度」というのは「繰り返し、徹底的に」の意)。パウロの祈りはパウロの祈ったようには聞かれませんでした。しかし別のかたちで祈りは聴かれたのです。パウロはそこで主の声を聴きます。「わが恵み、汝に足れり」という声を。その声を通してパウロは自分のその苦痛を担う力を与えられてゆくのです。人生は神との格闘でもあり、神の主権への服従でもあります。

 

「わたしはあなたを母の胎内にいる時から選び、恵みによって召し出した。」

 キリスト教の迫害者であった若きファリサイ派のエリート律法学者であったパウロは、ダマスコ途上で復活のキリストと出会った後に迫害者から伝道者へと劇的な回心を遂げます。パウロは自分の人生を振り返って次のように語ります。しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたのであると(ガラテヤ1:15-16)。このような「母の胎内にある時から」という言い方、「この地上に生まれる前から、神の恵みによって選び分かたれ、祝福され、聖別され、立てられている」という言い方は、旧約聖書に何度も出て来ます。例えばイザヤ44:2にはあなたを造り、母の胎内に形づくり、あなたを助ける主は、こう言われる。恐れるな、わたしの僕ヤコブよとありますし、同44:24にもこうある。あなたの贖い主、あなたを母の胎内に形づくられた方、主はこう言われる。わたしは主、万物の造り主。自ら天を延べ、独り地を踏み広げた」。あの詩編139編の中にも次のような言葉があります。あなたは、わたしの内臓を造り、母の胎内にわたしを組み立ててくださった13節)。しかし何と言っても「母の胎内」ということで一番有名なのは、預言者エレミヤの召命の場面の言葉でしょう。「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた」(エレミヤ1:5)。パウロもこの言葉を想起して語っているのです。

これらの言葉は神の側に恵みの選びのイニシアティブがあることを私たちに繰り返し告げています。神が責任を取ってくださるのです。誰も自分で自分を選んでこの地上に生まれてきた者はいません。自分が自分であるということは考えれば実に不思議なことです。両親はもちろんのこと、時代も、場所も、状況も、私がこの私であるということの何もかもが、神の選びの中に起こったことだと聖書は語っているのです。しかもそれは「神の恵みの出来事である」と言うのです。「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた」というエレミヤ:5の言葉はなんと深い慰めに満ちた言葉なのでしょうか。私がこの私として存在していることの背後には神の恵みの選びがあるということです。すべての人、皆さんのお一人おひとりがそうなのです。パウロも迫害者だった時には見えなかった神の恵みの事実を、復活のキリストに呼びかけられることの中で悟ることができたのでした。しかもパウロはそのことを自分がキリストの召命を受けたコンテクストの中で語っています(ガラテヤ1章)。イエス・キリストと出会う時に、私たちには生まれる前から神によって恵みの中に置かれていた自分の人生の意味が分かるのです。

 

わたしがあなたがたを選んだ。」〜JELC総会議長に選ばれて思うこと

イエスは言っています。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」のだと。その「選びの目的」についてもイエスは続けて語っています。「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」。愛の実を結ぶこと、これに尽きるというのです。互いに愛し合うこと。これをキリストと神とは私たちに求めておられます。

先週JELCの総会が東京教会で行われました。6年間の任期を全うした立山忠浩総会議長と白川道生事務局長(総会書記)がその働きを終え、新たな総会議長、副議長、事務局長が選出されました。その結果は週報に記されている通りです。私は、最初はヨナと同じように畏れ多い思いで満たされました。正直逃げ出したかったのです。しかし観念しました。大阪教会には迷惑をかけることになるかも知れませんが、お許しをいただきたいと思います。ちょうど50年前の1968年、当時大阪教会の牧師であった内海季秋先生(在任1960-1976)が総会議長に選出されるという先例もあります。副議長には天王寺教会の永吉秀人先生が、事務局長には滝田浩之先生が選出されました。大阪遷都のようなかたちになりました。今後ともお祈りとお支えをよろしくお願いします。母の胎内にいる時から私を選んでくださった主に従ってまいりたいと思います。御心が成りますように。アーメン

2018年4月26日 (木)

042218 復活節第四主日聖餐礼拝説教「何一つ欠けたところのない恵み」

042218 復活節第四主日聖餐礼拝 説教「何一つ欠けたところのない恵み」  大柴 譲治

ヨハネの手紙 一 316〜24

イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。(16節)

ヨハネによる福音書 10:11〜18

わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。(11節)

 

詩編23編「主はわたしの羊飼い」

 本日私たちはイエスのわたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てるという言葉を聴いています。本日の主題詩編には詩編23編、あの有名な「主はわが牧者、わたしには乏しいことがない」と歌う信頼の詩編が与えられています。これを愛唱聖句としておられる方も少なくないことでしょう。次週もまた、「リラ・プレカリア(祈りのたて琴)」主宰者でもある米国のキャロル・サック宣教師が同じ詩編23編からのメッセージを語って下さることになっていますので、私たちは二週間続けて詩編23編を味わうことになります。

【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。 2主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い3魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。4死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。5わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ、わたしの杯を溢れさせてくださる。6命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう。(新共同訳聖書)

 

2005425日に起こった福知山線の列車脱線事故について

 今週もまた425日が巡ってまいります。これは今から13年前の2005425日に、JR福知山線の尼崎での列車脱線事故のため107名の方々の尊い命が失われ、562人もの方々が負傷するという大事故でした。私たちはその事故の悲惨さに呆然としながら、祈るような気持ちでテレビの報道をずっと見つめ続けていたように思います。特にこの列車は同志社前行きの快速列車でしたので、若い大学生が大勢事故に巻き込まれました。どうしてこのような悲劇が起こるのか、13年経った今思い起こしても私たちは胸がえぐられるような思いになります。亡くなられた方々とご遺族のために、また加害者の立場になった人々を含め、そのグリーフと喪失感、罪悪感が少しでも和らげられるように祈りたいと思います。

 

不思議な二つのドラマ

 実は私はその後、間接的にではありますが、二つの点でこの列車事故に関わることになりました。JR西日本は事故後に費用を出して二つの研究所を設置しました。一つは京都大学工学部の中に「安全工学研究所」を、もう一つは尼崎にあったカトリックの聖トマス大学(2007年までは「英知大学」)の中に「グリーフケア研究所」を設置(2010年に上智大学に合同)することになるのです。20144月より、要請されて私は東京の四谷にある上智大学のグリーフケア研究所の人材養成コースにスーパーヴァイザー(SV)の一人として関わることになりました。それはその人材養成の中で私が専門としてきた米国でのチャプレン(施設のチャペル付きの牧師)の養成訓練である「臨床牧会教育(CPE)」の方法が取り上げられていたためでもありました。2016年に大阪に転任することで四谷での働きは終わったのですが、引き続き大阪の中津にあるカトリックのサクラファミリア教会にある上智大学の大阪サテライトでの人材養成に関わるよう要請を受け、お手伝いができる範囲内でグループワークのSVとしてお手伝いをさせていただいています。このグリーフケア研究所が福知山線の列車脱線事故の後に設置されたものであることに不思議な導きを感じています。神さまはこのようなかたちで私に嘆き悲しむ人々に接する道を開かれたのだと思っています。

 もう一つの接点は、翌年の20154月に多田哲(さとし)という一人の神学生(神学校二年生)が私の牧していたむさしの教会に、教会実習のために毎日曜日に神学校から派遣されてきたことです。彼は、今年の3月に神学校を卒業し、教職按手を受けて牧師になり、東教区の日吉教会に牧師として着任しました。多田神学生は西教区の豊中教会出身の神学生でした。2005年に彼はまだ同志社大学の学生で、福知山線の列車脱線事故を起こした列車(同志社前行き)の先頭車両、それも一番前に乗っていたのです。事故の時には大きな衝撃のためしばらく気を失っていたようですが、その後しばらくして気がついて周りの人々の身体を押し分けるようにして明るい方(出口)に向かって進んだのだそうです。全身血まみれでしたが、それは自分のではなく犠牲となった他の人々のものだったそうです。その出来事はその後、何度も繰り返し事故について話さなければならなかったことを含めて、事故のサバイバーである彼にとっても大きなトラウマ(PTSD)となったということですが、彼はやがて同志社大学の哲学科を卒業後に、京都大学の大学院に進み、言語学で15-6世紀のドイツ語を専攻して博士課程を終えて、2014年春に三鷹のルーテル神学校に入学したのでした。死線を越えるような体験をする中で、彼は牧師としてのコール(召命)を受けて牧師となったのです。やがて多田神学生のお母さまも豊中教会で洗礼を受けられました。人間の力ではどうすることもできないような状況の中に置かれた時、私たちは神さまを見上げるしかないのだろうと思います。「なぜこのような苦しみがあるのか。神はどこにいて、なぜ沈黙しているのか。なぜかくも多くの人の命が失われなければならなかったのか」。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なにゆえわたしをお見捨てになったのですか!)」。私たちはそのような答えのない問いの前に立たされています。しかしその中で、私たちは詩編23編の言葉を聴くのです。主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがないという確かな呼び声を。この声が私たちを「緑の牧場、憩いの水際」に必ず伴ってくださいます。

 

「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」

再度、口語訳聖書から引用します。口語訳聖書で暗唱している方もおられることでしょう。

主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。

主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。

主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。

たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。

あなたがわたしと共におられるからです。

あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。

あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。

わたしの杯はあふれます。

わたしの生きているかぎりは、必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。

わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。

 私たちに対して、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いはわたしの羊であるあなたのために命を捨てる」と言ってくださるイエス・キリスト。どのような困難や悲しみの中にあっても、主の恵みは私たちに対して何一つ欠けることがないというのです。なぜか。たとえ死の陰の谷を歩む時にも、主が共に歩んでくださるからです。そして十字架に命を賭けて私たち一人ひとりをトコトン愛してくださるのです。このお方は苦しみや悲しみを共に背負ってくださるお方です。この羊飼いの、「何一つ欠けることがない恵み」「何ら乏しいことのない完全な恵み」が私たちを守り支え導いてゆきます。ご一緒に主の食卓(聖餐)に与ることを通して、今朝もそのことをご一緒に深く味わいたいと思います。羊飼いである主が皆さまと共にいて、守り導いてくださいますように。アーメン。

2018年4月15日(日)復活節第三主日聖餐礼拝説教「復活と焼き魚のリアリティ」

2018415日(日)復活節第三主日聖餐礼拝説教「復活と焼き魚のリアリティ」 大柴譲治

ルカによる福音書 24:36-48

彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。(41-43)

 

Fact(事実)」と「Truth(真実)」

 キリスト教会は二千年に渡ってイースターをキリストの復活日として祝わってきました。主の復活の光の中にすべてを見てきたとも言えましょう。四福音書の中で一番最初に書かれたマルコ福音書は当初は168節までで終わっていました。9節以降の二つの結びは後の時代の加筆であると考えられています。ですから新共同訳聖書では括弧に入っています。マルコ福音書には復活の証言はなく、それは「空の墓」の記事で終わっていました。「復活」は言葉で表現することのできない神秘であったからかもしれませんし、マルコが書かれた当時(紀元70年頃と推定されます)にはまだ復活の証人たちが生存していて、敢えてそれを言葉にする必要はなかったからなのかもしれません。実は、歴史学が証明できることは「キリストの墓が空っぽであった」ということまでです。キリストの復活は「歴史的な事実Factとしては証明できないのです。証明できるのは、イエスが葬られた墓が何者かによって暴かれてイエスのご遺体がなくなっていたという事実であり、そこまでなのです。「イエスが復活した」ということは私たち人間の理性や経験や知恵を遙かに超えた出来事であり、信仰によって捉えるべき事柄ですから、アカデミックな立場からは実証できない次元の事柄です。カトリック作家の遠藤周作は復活とは歴史的な「事実Factではないとしても「真実Truthであったと語っていました。復活のキリストと出会った十字架の前から逃げ出した弱虫の弟子たちが、復活のキリストと出会った後には全く別人のように変えられて、殉教の死をも恐れずにキリストの福音を全世界に宣べ伝える者となってゆきました。彼らの心の中に真実、キリストはよみがえられたのだと言うのです。これはなかなか説得力のある説明ではないかと思います。しかし本当にそうなのかという思いも私の中には残ります。

 

焼き魚を食べた復活の主のリアリティ

 本日の日課であるルカによる福音書24章には次のような復活の主と弟子たちのやりとりがあります(36-43節)。「こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。『なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。』こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、『ここに何か食べ物があるか』と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた」36-43節)。

 空の墓の場面で終わっていたマルコ福音書とは異なり(ルカにもマタイにもヨハネにも「空の墓の出来事」は記されています)、ルカ福音書には復活のリアリティが伝わってくるような証言が記録されています。復活のキリストは「わたしの手や足をよく見、触ってみなさい」と弟子たちに勧めているばかりか、「亡霊」ではないことを証明するために焼き魚を一切れ食べておられるほどなのです。焼き魚を食べる復活の主。ルカはキリストの復活は歴史の「真実Truthであると共に「事実Factでもあったと私たちに告げているのです。

 

響き合うルカ福音書とヨハネ福音書

 このことはヨハネ福音書が伝えている「復活のリアリティ」と重なります。先週の日課はヨハネ20章の「疑いのトマスのエピソード」でした(24-29節)。それによると復活の主が最初に弟子たちに現れた時にはトマスはそこにいませんでした。他の11人が復活の主と出会ったと喜んでいる中で、トマスだけは「私はこの目で見、この指をその手の釘跡に触れるまでは、そしてこの腕をそのわき腹のやり痕に差し入れてみるまでは、決して信じない」とある意味では頑なに、実証主義的な私たち現代人にも通じるようなリアクションをして復活を一週間疑い続けるのです。そして一週間後のやはり日曜日に主は再びご自身を弟子たちに現されます。今度はトマスもそこにいました。ヨハネ20:20-26「さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。それから、トマスに言われた。『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。』トマスは答えて、『わたしの主、わたしの神よ』と言った。イエスはトマスに言われた。『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。』」

 復活の主はいつも私たちに対して向こう側から自ら近づいてくださり、ご自身を示してくださいます。こちらから人間の側から主に近づいてゆくのではありません。「戸」「鍵」がかかっていても関係ありません。目で見て手で触れることができるほどリアルな復活の主の姿がそこには証言されています。そして、疑いのトマスが信仰告白者へと劇的に変えられたように、復活のキリストのリアリティは私たちを「復活を信じることができない者、疑う者」から「復活を信じて主と告白することができる者」へと変えて下さるのです。「わが主、わが神」!

 ヨハネ福音書には、ルカ福音書にも「焼き魚」が出ていましたが、復活の主が炭火を起こして魚を燒く場面が出て来ます(21:1-14)。夜通し徹夜で漁に出たペトロたちが何も獲れなかった場面です。513節を引用します。5イエスが、『子たちよ、何か食べる物があるか』と言われると、彼らは、『ありません』と答えた。6イエスは言われた。『舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。』そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。7イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、『主だ』と言った。シモン・ペトロは『主だ』と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。8ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。9さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。10イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。11シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。12イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。13イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。

 この場面はルカよりもさらに具体的です。炭火のパチパチとはじける音と匂いと、そして焼き魚の匂いが伝わってくるような情景です。私たちの五感を刺激するかたちで「復活のキリストのリアリティ」がここを読む者の胸に迫ってくる。特に五感の中でも「嗅覚」「味覚」「触覚」という三つの感覚は、直接私たちの脳幹に刺激を与える感覚です。それに対して「視覚」「聴覚」は、遠くから危険が迫ってきても判断に時間をかけることができるような感覚で、その情報は判断するために前頭葉の方に伝えられます。しかし、嗅覚と味覚と触覚は危険が迫ったときにすぐさま反応しなければなりません。嫌な臭いがしたら顔を背けなければなりませんし、苦い物を食べたら吐き出さなければなりません。熱いものに触れたら火傷をする前に即座に手を引っ込めなければならないのです。私たちの五感を通して受け止めた情報はとても具体的なリアリティを持つものなのです。ヨハネ福音書とルカ福音書は「キリストの復活」をそのような「焼き魚のリアリティ」をもって報告しているのです。

 

サクラメント(聖礼典/洗礼と聖餐)においてご自身を示される復活の主

 私たちは復活の主のリアリティをどこで受け取ることができるのでしょうか。今日も私たちは聖餐式に与ります。洗礼も聖餐も具体的な物質を用います。洗礼は水を用いますし、聖餐はパンとブドウ酒を用います。牧師は水とパンとブドウ酒を用いますから私は冗談のように「牧師の仕事は水商売です」と言うこともあります。もちろん「水商売」と言っても意味は違いますが。水とパンとブドウ酒という物質を用いて私たちは、五感を通して復活のキリストのリアリティを分かち合うのです。復活の主ご自身からパンとブドウ酒をこの手にいただき、その匂いを嗅ぎ、歯でかみしめて舌で味わい、飲み込む。五感を通して味わうのです。このリアリティの中に今日も復活のキリストがご自身を示していて下さる。それを覚えつつご一緒に聖餐式に与ってまいりましょう。

2018年4月8日(日)聖霊降臨節第二主日説教(ブラウンシュヴァイク州福音ルーテル教会・マインス監督)

ドイツブラウンシュバイク州福音ルーテル教会 監督Dr. Christoph Meyns(通訳:秋山仁牧師)

 

日本福音ルーテル教会のための復活祭の説教

 

親愛なる兄弟・姉妹の皆さん

 私は、日本で皆さんのそばで幾日かを過ごしたこと、そして、今日皆さんとともに礼拝を守れることを、喜んでいます。私にとってこれは良い機会です。それは私たちのパートナー教会としての皆さんと知り合い、そして、ともにパートナーシップが結ばれて50年たったことをお祝いできるという機会です。手厚いおもてなしに心から感謝します。

 

2~3週間前にザルツギッター市のディアコニー会館で開催された難民による個人の写真展でのことです。「これは私の祖父母の家です。」そういいながら一人の若い女性が私にダマスカスの破壊された建物の写真を見せました。彼女は目に涙を浮かべていました。一人の男性は、「三日間も私たちは水なしで過ごさねばなりませんでした。」と語り始めました。そしてサハラ砂漠の真ん中でトラックに乗った人々の写真を指差しました。ある夫婦は、彼らのいとこが地中海の上でボートの中で撮ったスナップ写真を前にして報告しました。「私たちが続けて先へ進む前に、私たちは七回も逮捕されました。」他の写真では、様々な都市を見ました。爆弾攻撃によって、もうもうとした煙が上がったところや、バルカン半島のどこかを徒歩で歩いている人々の姿を見ました。そこでははじめたくさんの悲しみを目にしました。やがて合唱団が進み出ました。様々な異なった国々から集まった男性や女性たちが一緒に黒人霊歌「自由はやって来る」を歌いました。観客は、声を合わせて歌い、一緒に手拍子をしました。突然、雰囲気が変わりました。顔が輝き、人々は笑い、悲しみが和らいで喜びに代わっていきました。その日、私は受難の金曜日から復活祭への道をまじかに体験しました。

 

私は、人間の魂に深く根差しており、いつも繰り返す憎しみや破壊、自己破壊といった突発的な衝動が何かということに直面させられました。まさしくそれはイエスの受難と死の物語が題材にしていることです。そしてまた、復活日の朝についての伝承が物語っているように、弟子たちや女性たちが復活に遭遇した時、苦難と悲しみは、最後の言葉ではないということです。

ブラウンシュヴァイクのドーム(聖堂)には、この受難から復活への道が空間を通して示されています。聖卓の前には(ブラウンシュヴァイクの基礎を築いた)ハインリッヒ公爵と彼の妃マチルダの棺があります。その棺と向かい合って正面に七つの枝を持つ燭台を見ることができます。この燭台は、天国における生命の樹のシンボルです。この燭台を通して、皆さんはまた、傍らにある復活者としてのイエス・キリストを現す十字架像に目を向けることができます。それとともに聖堂は、ある意味死を表しています。それは、ハインリッヒ公爵の挫折した人生に見て取れます。ハインリッヒ公爵は、遠大な人生の目標を持っていました。彼は、非常に野心的であり、一時期にではありましたが、全北ドイツを支配しました。その後、神聖ローマ帝国皇帝との闘争に至ると、有罪を宣告され、彼の権力を失いました。彼は、彼の舅であるイングランド王のところへの亡命を余儀なくされました。最後に彼は、挫折した男として亡くなりました。

しかしながら同時に、聖堂は、永遠の生命への希望について物語っていますし、また私たちが挫折するとき、神の愛によって私たちは支えられているということを物語っています。希望と新生の聖霊は、復活祭から導き出されています。神の愛は、死よりも強いのです。そのことを私たちは、この復活祭の週に祝うのです。

希望は助けます。困難な人生の状況の中で勇気を失わないように。また人間の判断に従っては道がないように思えたとしても、そこで道を見出すことを。希望は、同時に力を与えてくれます。外面的には展望のない状況の内にあっても、人間があきらめることなく、むしろ彼らに多くの力によって耐え抜くというその力を与えてくれます。ですから、私たちは助けるのです。ドイツの教会として、社会的な弱者や難民、病気の人々、飢えに苦しむ人々、援助を必要とする人々、障がい者、刑に服してる人々、難病の人たち、そして死にゆく人々を。私たちは、社会的な問題があきらめの根拠にはならないということを、理解します。社会的な問題は、人が克服することができるその挑戦以上に姿を現しますし、また私たちが積極的に責任を担うために、姿を現します。その際、私たちはまた逆境と反動からは落胆させられません。一つの例をあげましょう。1528年にブラウンシュヴァイクの宗教改革者ヨハネス・ブーゲンハーゲンは、すべての少年たちと少女たちを学校に行かせ、読み書きを習わせるべきだということを要望しました。しかしながら、この要求が全ドイツで実現するまでには、その後約400年かかったわけです。

私には、どのような問題に、日本における教会として皆さんが現在、取り組んおられるのかについては、わかりません。が、私たちのブラウンシュヴァイク領邦教会の領域においては目下のところ二つのテーマが存在します。一つ目は、ドイツの住民の約20%は、過去60年の間にドイツに移住したか、または両親が移住した人々です。かてて加えて、現在約1600万人の、主にシリアやアフガニスタン、アフリカの諸国からの 難民が生活しています。 私たちがどのように、かように異なった出身や文化的な特色、また宗教を持った人々と、お互いに尊重しあい、平和のうちに私たちの国でともに協調しあい生きていくことを成し遂げることができるのでしょうか。どのように私たちが、様々な不安を掻き立てたり、偏見をさらに助長したりすることを 回避できるでしょうか。たくさんの良いことがここではすでに生じています。そして更に幼稚園と学校、会社や諸団体、諸教会で起こっています。あるいは個々人の参加を通して、起こっているのです。このテーマは、まだ長く続くでしょう。

二番目のテーマは、ヴォルフェンビュッテル市のそばで、そして、ザルツギッター市のコンラートという鉱山の坑道の中にある低放射性核廃棄物の貯蔵がどうなっていくかということです。坑道には隙間があり、ごみは 堀り返されなければならないし、そして 新たに貯蔵庫を用いなければならないわけです。それは、何十年にもわたって続き、たくさんの人々に不安をあたえます。その際、また以下の問題が起こってきます。私たちはどのように未来のエネルギーを得ることを望んでいるのかということです。石炭と石油の終わりは予測可能です。しかし、それに関しては解決するには時間がありません。同時に気候変動は、私たちを新しい生活スタイルへと促しています。

教会として私たちは、まず最初に、個人のためまた家族のために存在しています。私たちは子供に洗礼を授けます。私たちは夫婦を祝福して結婚させます。故人を葬ります。私たちは、困難な人生の状況にある教会員に寄り添います。私たちは子供たちや若者たちに教えます。しかし、公開された討論に参加することもまた私たちにとっては重要なのです。もしもそれが重要な倫理上のテーマを問題として取り扱うものだとしたら、そして私たちの小さな力でともに助け合うために、正しい方向にそれらの事柄が進むためにはです。

 

皆さんと皆さんの教会に復活祭の祝福がありますように。そしてまた、皆さんの教会でいつも繰り返し福音の力を感じることができますように。喜びと希望を贈り、そして私たちに助けを必要とする人々の傍らに立つという力(モティベーション)が与えられますように。 アーメン。

 

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