心と体

2017年9月24日 (日)

2017年9月24日(日)聖霊降臨後第16主日礼拝説教「ヒューマン・ビーイング」

2017924日(日)聖霊降臨後第16主日礼拝 説教「ヒューマン・ビーイング」 大柴讓治

マタイによる福音書 20:1−16

主人はその一人に答えた。「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」(13-14節)

 

この世の常識的な視点から見ると

 本日はマタイ福音書にしか出てこないイエスの有名な「ぶどう園と労働者(農夫)のたとえ」が与えられています。それは一度聴いたら忘れられないほどの強いインパクトを持ったたとえです。先週の「七を七十倍するまで赦せ」という言葉もインパクトがありましたが、イエスの語るたとえは、「神のこと」を考えず「人間のこと」ばかりを考えてしまう私たちに、「神のこと」即ち「神が何を一番大切にしておられるかということ」を示しているのです。

 それにしても本日のぶどう園のたとえは、私たち人間が大切に培ってきた資本主義社会の原則をも崩すような際どいたとえです。このたとえは「この世の常識」を、即ち「賃金」を「費やした労働時間」や「達成した業績」から測ろうとする「資本主義経済構造」そのものを危機に陥れようとする「危険な話」です。ぶどう園の主人は、「夜明け」(朝6時頃でしょうか)から12時間も懸命に働いた者にも夕方5時から1時間しか働かなかった者にも等しく「一日分の給与(1デナリオン)」を払おうとするのですから。私たちは「これはアンフェアな取り扱いではないか」と言う一日中汗水垂らして働いた労働者たちの不満がよく分かります。「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは!」12節)。誰もが彼らの言葉をもっともだと思う。私たちもどこかでそのように思っています。それが「この世の常識」だからです。

 

神の憐れみの視点から見ると

 しかし、イエスさまの譬えはいつも私たちに「あなたはどの立場からものごとを見ているのか」と鋭く問うてきます。「健康な者」「12時間働き詰めに働くほどの強い体力を持った壮健な者」の立場から見ると彼らの不平不満はよく分かるのですが、もし「声無き者たち」「夕方5時に雇われた労働者」の立場に自分を置いてみた場合に私たちはどう感じるでしょうか。彼らもおそらく、朝から仕事を求めてずっとあちらこちらの広場を渡り歩いていたに違いありません。しかし仕事を見出すことはできなかった。なぜでしょうか。もしかすると彼らは、体格が貧弱でいかにも力がなさそうに見えたのかもしれません。動作が遅かったり、機転が利かなかったり、高齢だったり、身体的なハンディもあったのかもしれない。通常労働者は強健な者から選ばれて雇われてゆくのです。タイミングの問題もあったかもしれません。仕事をしたい気持ちはあっても、何らかの理由で彼らは誰にも雇われなかった。それゆえに彼らは、どうやって家に帰ろうかと思いながら、夕方5時まで空しく広場に立ち尽くしているしかなかったのです。もうこのまま空しく一日が終わろうとしています。

 6-7節に描かれた情景から彼らの思いがよく伝わってきます。(主人が)五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った」。「だれも雇ってくれない」とは空しく一日立ち尽くした彼らの深い諦めの言葉です。主人から「ぶどう園に行きなさい」という言葉をもらった時、彼らはどれほど有り難かったことでしょうか。本当に助かったと思ったに違いない。彼らにも養うべき家族があったはずです。家には子どもたちが空腹で父親の帰りを待っているかもしれないし、老いた両親を妻が看病していたのかもしれない。その背後にはやはり様々な人生があるのです。先日7月17日にこの教会で行われた3ルーテル教会宗教改革500年記念合同礼拝の際に、90人に90の物語」というキャッチコピーをルーテル神学校の石居基夫校長が語っておられましたが、労働者たちには彼ら自身の大切な物語があるはずです。立ち尽くした彼らに対するぶどう園の主人のまなざしはどこまでも温かく、深い憐れみに満ちていたに違いありません。そのぶどう園の主人が行ったある意味「非常識な雇用」は、深い憐れみに裏打ちされた「神の恵みの御業」だったのです。

 そのように読んでくると、朝から夕方まで一日空しく立ち尽くした人たちの気持ちを私たちもまた容易に想像することができるように思うのです。朝6時から仕事を得ることが出来た者にも、9時から働いた者にも、12時からの者にも、3時からの者にも、5時からの者にも、主人は区別なく、等しく温かいまなざしを注いでいるのです。ぶどう園の主人とは神のことです。そのぶどう園とはこの地上の生活を意味しましょう。私たち人間は、一人ひとり個性や能力が異なっているとしても、神の前に同じいのちの価値を持っているからです。本日の旧約の日課にはヨナ書の最後の部分が与えられていましたが、そこにはこういう神の言葉がありました。神が日陰を作るためにヨブのために備えた「とうごまの木」が枯れたことを惜しんで「生きているより、死ぬ方がましです」と神に不平不満をつぶやくヨナに対して告げられた言葉です。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから」(ヨナ4:10-11)。神はそのように私たち一人ひとりの「いのち/存在(Being)」を惜しんで下さる憐れみ深いお方なのです。

 

“Human Doing”ではなく“Human Being”としての人間

 英語で人間のことを human being と言います。これは直訳すると「人間的な存在」という意味の語です。私はいつも思います。人間とは human being” であって human doing” ではないのだと。現代は「何かを行う(doing)」ということに異常なほど重きを置く社会であり世界です。その人がどのような特殊技能や能力を持っているか、どのような業績を上げてきたか、どのような地位や財産、社会的な信用を得てきたか。行為や業績(Doing)にばかり目が行って、人間の存在(Being)ということは疎かになってしまっている社会です。しかしそのようなこの世の価値観の中で、本日のイエスのたとえは私たちに神の視点からの見方を教えています。それは私たちの存在Beingそのものに焦点を当てる神の視点です。その神のまなざしの中では私たち一人ひとりがかけがえのない大切な価値を持っているのです。イザヤ書が「あなたはわたしの目には価高く、貴く、わたしはあなたを愛している」と預言している通りです(43:4)。

 今日は忍ヶ丘礼拝において一人の96歳の女性の洗礼式が行われます。本日のイエスのたとえは私たちがこの世の人生においてキリストに出会うことの幸福について示しているとも読むことができましょう。スイスの精神科医のカール・グスタフ・ユングの「人生の午後の時間のために」という言葉を想起します。ユングによれば人生には午前と午後があって、午前中に私たちは懸命に遊び、勉強し、就職して仕事をし、結婚して家庭を築き、子育てをするというように、一生懸命「行為(Doing)の次元」で頑張ります。しかし人生の午後の時間になると、それらが一段落して、今度は「存在そのもの(Being)の次元」を大切にしなければならなくなると言うのです。「人生の午後は人が自分の魂を豊かにしてゆく時間なのだ」とユングは言います。人生の午後の時間には、自分の人生をまとめて統合してゆくためにも私たちは、「自分の魂(スピリット/ソウル)」を大事にしてゆかなければならないのです。

 本日のイエスのぶどう園のたとえは私たちに、神の深い憐れみは、私たちの行為には関係なく、私たちの存在(Being)そのものの上に惜しみなく豊かに注がれているという重要なことを教えているのです。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」(14節)と宣言されるぶどう園の主人が、私たちすべての者と常に共にいてくださいます。私たちはこの神の恵みの事実に目が開かれてゆく必要があります。そして神が憐れみ深いように、私たちも同時にそのような自他に対する深い憐れみの中に生きるのです。そのことが神によって命を与えられた私たち「ヒューマン・ビーイング」の使命なのです。私たちは神から常に「あなたはヒューマン・ビーイングでありなさい」と呼びかけられています。そのことを心に深く刻みつけ、神に応答しながら、新しい一週間を踏み出してまいりましょう。

 お一人おひとりの上に主なる神の豊かな恵みが注がれますようお祈りいたします。 アーメン。

2017年9月20日 (水)

2017年9月17日(日)聖霊降臨後第15主日礼拝説教「7を70倍〜無限の赦し」

2017917日(日) 聖霊降臨後第15主日礼拝 説教「770倍〜無限の赦し」 大柴 譲治

創世記50:1-21 「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」20節)

マタイによる福音書 18:21-35 「そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。『主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。』イエスは言われた。『あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。』」21-22節)

 

兄弟を赦せないペトロの思い

 本日も先週と先々週に続き、12弟子の代表として、そして私たち自身の代表としてペトロが大切な役割を果たします。彼は「ペトロ(岩)」というあだ名の通り不器用なほど実直でまっすぐで、とても分かり易いのです。そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。『主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。』イエスは言われた。『あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい』」(21-22節)。先週の日課は兄弟が自分に対して罪を犯すならそこに深く関わってゆきなさいという「罪の赦し」についての勧めでした。今日もまた罪の問題に関係しています。ペトロは自分の中に「どうしてもあいつだけは赦せない」というどうすることもできない思いをもっていたのでしょう。その問いは彼にとって切実でした。彼はそれを何とかしたかったのです。ここで「兄弟」という語は単数形ですから、複数の兄弟が自分に対して罪を犯したというよりも、「一人の兄弟が自分に対して罪を犯した場合、その人を何回まで赦し続ければよいか」という意味になります。「こちらの我慢にも限度がある。一体いつまで彼を赦し続ければよいのか」というペトロの鼻息が伝わってくるような言葉です。兄弟アンデレのことでしょうか。あるいは「雷の子ら」と呼ばれた気性の激しい漁師仲間のことでしょうか。私たちもまた自身の内面を見つめるとき、心の底から人を赦すということが何と難しいかを知らされるのです。

 

無限の赦し〜ヨセフ物語から(創世記37-50章)

 本日の旧約の日課には創世記のヨセフ物語の最後の部分が出てきます。ヨセフ物語とは、創世記37章から50章までに記されている父祖ヤコブの11番目の息子であるヨセフの物語で、読む者に非常に強いインパクトを与えるものです。770倍するまで赦した人間」の一つの具体例として私たちが想起することができるほどの物語と思われます。

 まずその粗筋を話します。ヨセフはヤコブの妻ラケルの長男として生まれました(弟はベニヤミン)。父ヤコブには既に妻レア(ラケルの姉)などを通して10人の息子たち(ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ゼブルンなど)がいましたから、ヨセフは11番目の息子ということになります。年老いた父ヤコブはヨセフをことのほか愛しましたので、他の異母兄弟たちはヨセフを嫉みます。さらにはヨセフには神から夢を解くという特別な賜物が与えられていて、それがなおさら兄たちの怒りを買うことになる。例えば「自分の農作物の束に兄たちの収穫した農作物の束がひれ伏した」という夢や「太陽と月と11の星が自分にひれ伏している」という夢を見たりします。それはやがて両親と11人の兄弟たちがすべてヨセフに従うという正夢だったのです。頭に来た兄たちは遂にヨセフを殺そうとして身ぐるみ剥いでに放り込みます。長男のルベンだけが何とかヨセフを助けようとしたのですが、結局ヨセフは通りかかった商人たちに捕まって奴隷としてエジプトに売られてゆくのです。ルベンはヨセフが穴からいなくなったことを知って驚きますがどうすることもできません。結局雄山羊の血をヨセフの服に塗って、彼が猛獣に襲われて死んでしまったと父ヤコブに嘘をつきます。ヤコブは嘆き悲しみます。そのようにヨセフはヤコブ家からは姿を消しました。

 不思議なことにエジプトに奴隷として売られたヨセフは、神から与えられた「夢を解く力と知恵」によって、幾多の苦境(ポティファルの妻の誘惑や濡れ衣による投獄、王を毒殺しようとした料理長の罪と疑いをかけられた給仕長の無実を証明する等)をも乗り越え、やがてファラオの夢を解いてエジプトの宰相にまで昇り詰めてゆきます。アメリカンドリームを実現したようなものですね。ヨセフが宰相になった頃、カナン地方でひどい飢饉が起こりました。父ヤコブから派遣された息子たちが食料を買うためにエジプトに来ます。彼らに会ったヨセフはすぐにそれが自分を殺そうとした兄たちであることに気づきますが、兄たちはヨセフには気づきません。通訳を介して話をしていたためでもあります。ヨセフは別の部屋に退いて過去を思い起こし、最愛の父ヤコブのことを思ってを流します(①42:24)。この涙は「兄たちに対する憤りの涙」であったかもしれません。次に愛する弟ベニヤミンと再会ができた時に再度ヨセフはを流します(②43:30)。今度は「再会を喜ぶ涙」だったでしょう。ヨセフは人払いをした後に、黙っていられなくなって遂に自分がヨセフであることを兄弟たちに告白し、声を上げて三度目のを流します(③45:2)。この涙はヨセフが自分の苦しみを通して神の大きな御計画が実現したということを腹の底から知ることができた「覚醒の涙/悔い改めの涙」だったことでしょう。それゆえヨセフは兄たちに向かってこう言うのです。「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。・・・わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです」4-8節)。兄たちは驚きのあまり声を出すことができませんでした。ヨセフは弟のベニヤミンと抱き合って泣き、そして兄弟たちとも抱き合って涙を流します(④45:14-15)。そしてその次にヨセフがを流すのは、エジプトにヤコブが寄留して17年後、その子たちと孫たちを祝福して亡くなった時でした(⑤50:1)。

 本日の第一日課には「赦しの再確認」という小見出しが付いています。兄たちには人間の怒りや恨みがそんなに簡単に解けるとは思えなかったのでしょう。それほど私たちの中の「赦せない心」は根深く、「7を70倍するまで赦すこと」などほとんど不可能なのです。「ヨセフの兄弟たちは、父が死んでしまったので、ヨセフがことによると自分たちをまだ恨み、昔ヨセフにしたすべての悪に仕返しをするのではないかと思った。そこで、人を介してヨセフに言った。『お父さんは亡くなる前に、こう言っていました。「お前たちはヨセフにこう言いなさい。確かに、兄たちはお前に悪いことをしたが、どうか兄たちの咎と罪を赦してやってほしい。」お願いです。どうか、あなたの父の神に仕える僕たちの咎を赦してください。』これを聞いて、ヨセフは涙を流した。やがて、兄たち自身もやって来て、ヨセフの前にひれ伏して、『このとおり、私どもはあなたの僕です』と言うと、ヨセフは兄たちに言った。『恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。どうか恐れないでください。このわたしが、あなたたちとあなたたちの子供を養いましょう。』ヨセフはこのように、兄たちを慰め、優しく語りかけた。」(15-21節)

 

神の無限の愛と赦し〜1万タラントンと100デナリオンの借金の差額は60万倍!

 「人にはできなくても、神にはできる」と聖書にはあります(マルコ10:27、ルカ18:27)。王によって1万タラントンの借金を赦されたのに仲間の100デナリオンの借金を赦すことができなかった一人の家来についてイエスは譬えを語っています。1万タラントンとは100デナリオンの60万倍という天文学的な数字です。1デナリオンは当時の労働者の一日分の賃金ですから、計算がしやすいように1デナリオンを今のお金で一万円に換算すれば六千億円という額になりましょうか。ヨセフは神のご計画と深い愛とを知った時、兄弟たちが自分に対して犯した罪を心の底から赦すことができました。「7を70倍まで」と数える必要がないくらい完全に赦したのです。私たちは神の救いの御業、神の御心、神のご計画を大きな視野から見上げてゆく必要がありましょう。私は「信仰者は一千年を視野に入れて今を生きなければならない」というカトリックの相馬信夫司教の言葉を思い起こします。小さな心、狭い視野しか持てないでいる私たちが神の大きな救いの御業をどこまで知ることができるのか。課題はあるかもしれませんが、その救いの計画の中で自分には大切な役割が与えられているということを知る時、その気づきは私たちを根底から変えてゆきます。その視点をヨセフ物語は私たちに教えています。独り子を賜るほどにこの世を愛された神。御子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得ることが出来るように惜しみない愛をもって私たちの罪を赦してくださる神。私たちはこの新しい一週間を、ヨセフ物語を深く味わいつつ、「7を70倍する」以上の無限の神の愛と赦しに生かされてゆく者でありたいと願うものです。

 お一人おひとりの上に神の恵みが豊かにありますように。シャローム。

2017年9月16日 (土)

2017年9月10日(日)聖霊降臨後第14主日礼拝説教「二人または三人が」

2017910日(日)聖霊降臨後第14主日礼拝説教「二人または三人が」   大柴 譲治

マタイによる福音書 18:15−20

「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(18-20)

 

「罪」を告白し合うキリスト者の交わり

 本日のマタイ福音書でイエスはこう言われています。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」(15節)。これはマタイ福音書にしか記録されていない言葉ですが、この言葉は私たちキリスト者がどのような関係の中に置かれているかを明確に示しています。別の言い方をすれば、私たち信仰者の交わりが何を中心としているかがそこでははっきりと示されているのです。キリスト者の交わりとは「罪」と「罪の認識」、そして「罪の告白」がそこで問題とされる、そのような交わりであることが示されているのです。「罪」が問題とされる?そう言われると私たちはドキッとするかもしれません。ドキッとするのは、おそらく私たちの中の多くの者が、自分の心の奥底に誰にも語る事ができないような罪の痛みや悔い、恥ずかしさといったものを抱えているからであろうと思います。そして「罪」が認識され、「罪の悔い改め」と「罪の告白」と「罪の赦しの宣言」とが起こる時に、そこでは真の友を得ることになると言うのです。弱さも破れも罪もそのままで、ありのままでまったく取り繕う必要のない本当の出会いがそこでは起こるというのです。先日熊本で開かれたルーテル社会福祉協会での集まりで『ルターから今を考える:宗教改革500年の記憶と想起』という本を昨年出版された小田部進一という玉川大学の先生が、関西学院大学での恩師が繰り返し関西弁で「そのままでかめへん、かめへん」と言っていたという言葉を紹介しておられましたのが印象に残りました。私たちはありのままでよいのです。

 さらにイエスは続けます。「聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい」(16-17節)。イエスはここで罪とその認識に徹底的にこだわり、罪の赦しを宣言する教会の使命を強調しているのです。

 

大切な四つの言葉

 私は牧師として、特にターミナルケアやグリーフケアに関わる中で教えられてきたことがあります。私たちは自分の人生が終わりに近づいたことを知る時、多くの人が自分が歩んできた人生を振り返ります。そして様々な場面を思い起こして、「あの時ああしなければよかった。ああすればよかった」とか、「なぜあんな言葉を言ってしまったのか」とか深いところで心のうずきや痛みを感じるのです。だからこそ私たちは心の奥底にある自らの罪を告白し、赦しが欲しいと思うのでありましょう。換言すれば、私たちは心の奥底で「真の和解を求めている」ということになりましょう。犯してきた罪に対して赦しが欲しいのです。魂の重荷からの解放を求めています。

 以前にもご紹介したことがありますが、ハワイの言い伝えに私たちにとって大切な言葉が四つあると言われています。それらはとても短く分かり易い簡単な言葉で表されます。①「I’m sorry(ごめんね/謝罪の言葉)」、②「I forgive you(もういいよ/赦しの言葉)」、③「Thank you(ありがとう/感謝の言葉)」、④「I love you(あなたを大切に思っている/愛の言葉)」、という四つの言葉です。この四つは私たちが生きる上で「和解」のためにどうしても必要な大切な言葉です。なかなか改めて声に出すのは気恥ずかしく、声にしにくい言葉でもあるかもしれません。しかし今、まだたっぷりと時間のあるうちに、この四つの言葉を一つひとつ噛みしめながら人生を振り返って見ることは、自分の人生を統合してまとめてゆくという意味でも、心の平安を得るという意味でもとても智恵のある大切なことであると思います。

 

教会の使命〜「罪をつなぐこと」と「罪を解くこと」

 18節にはこうあります。はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」。二週間前の日課であったマタイ16章には、「あなたはメシア、生ける神の

 

子キリストです」と信仰告白をしたペトロに対して「天国の鍵」を与えると約束された際にもこれと同じ言葉が語られていました(厳密に言えば、そこでは「あなたがた」ではなく「あなた」と二人称単数形で呼びかけられていましたが)。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」16:19)。「天国の鍵」という言葉も聖書の中ではマタイにしか出てこない言葉です。

 「天国の鍵」には「罪をつなぐ鍵」と「罪を解く鍵」の二つがあることをイエスはそこで告げています。「罪をつなぐ」とは「罪を罪として明確にし、それを悔い改めない者に対しては罪を解かずにそのままにしておくこと」であり、逆に「罪を解く」というのは「罪を認識してそれを悔い改めた者に対しては罪の赦しを告げる」ということでありましょう。「罪の認識」「悔い改め」、「罪の告白」「罪の赦しの宣言」に教会は関わることが教会の地上での使命であると言われているのです。そこに信仰の中心がある。そして地上でキリスト者または教会が行うことが、そのまま天上までつながっているとイエスは告げているのです。私たち教会の責任は重大です。毎週の主日礼拝が「罪の告白」から始まっているということにも深い意味があるということになりましょう。

 

「二人または三人が集まるところに」

 このように教会は「罪の自覚」「罪の赦し」に関わる使命を持っています。このような次元、このような深みにおいて信仰者の交わりは形成されてゆくのです。19-20節のイエスの「はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」という言葉は、コンテクストから捉えるならば(コンテクストを外しても大切な意味があると思いますが)、やはり「罪の赦し」に関わる言葉として理解できます。それはイエスご自身が私たちの罪のゆえに十字架を背負い、その十字架の苦難と死を通して私たちの罪の贖いとなってくださった。その贖いによって私たちの罪は赦され、清められ、私たちは新しい生き方へと招き入れられているのです。

 ディートリッヒ・ボンヘッファー(1906-1945)というドイツ人の牧師がいました。第二次大戦中にヒトラー暗殺計画に加担した罪で投獄され、終戦の直前に39歳の若さで処刑されたルーテル教会の牧師でした。そのボンヘッファーの著作の中に『共に生きる生活』という名著があります。実際に牧師補研修所の所長としてボンヘッファーが若い牧師補たちと生活をする中で書かれた白鳥の歌でもあります。その中に「罪の告白」と題される箇所があって、彼は次のような内容のことを語るのです。「キリスト者の交わりというものは自明な事柄ではなく、一人のキリスト者が他のキリスト者と共にあるということは神の恵みである。一人のキリスト者は罪の告白をもって他のキリスト者に近づく。そこで罪の告白をする者は、キリストご自身に罪を告白するのである。告白を聴く者はキリストの代わりに、キリストの代理としてそこで兄弟の罪の告白を聴き、共に悔い改めのために祈り、罪の赦しを宣言する。自分の心の中のキリストは、兄弟の言葉におけるキリストよりも弱いからである」。私たちはキリストの罪の赦しの宣言を具体的な一人の兄弟姉妹の口を通して聴くのです。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」というイエスの言葉は、そのような十字架と復活を通して私たちの罪を贖い、赦して下さったキリストのご臨在を証ししています。キリスト者の交わりのただ中には、見えなくとも、確かに生けるキリストが共にいてくださるのです。

 公には牧師が礼拝において罪の赦しを宣言しますが、個別的(個人的)には信仰者の一人ひとりが罪を罪と名付けることと、罪の悔い改めた者に対しては罪の赦しの宣言を伝える使命を持っています。宗教改革者のマルティン・ルターはそれを「全信徒が罪を赦す祭司としての役割を持っている」という意味で「全信徒祭司(万人祭司)」と呼びました。「祭司」には隣人と神との間に立って行う「二つの役割(使命)」があります。一つは「隣人のために神に祈る」という、ベクトルの矢印で言えば隣人から神に向かって示される役割、もう一つは「神の言葉(特に罪の赦しの宣言がその中心にあります)を隣人に取りつぐ」という神から隣人に向かうベクトルによって示される役割です。I’m sorry(ごめんね)」という謝罪の言葉とI forgive you(もういいよ)」という赦しの言葉を告げ合うことができる信仰者の交わりには、どれほど大きな重荷や束縛から私たちを解放する力と慰めがあることでしょう。そのような主にある交わりの中に私たちが招かれていることを覚えつつ、感謝してご一緒に主の聖餐に与ってまいりましょう。お一人おひとりの上に主の祝福をお祈りいたします。アーメン。

2017年9月 5日 (火)

2017年9月3日(日)聖霊降臨後第13主日礼拝説教「神のこと、人のこと」

201793日(日)聖霊降臨後第13主日礼拝 説教「神のこと、人のこと」 大柴 譲治

マタイによる福音書 16:21−28

すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」(22-23節)


「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」

 本日の福音書でもペトロが中心的な役割を果たします。先週の日課でペトロは「あなたこそメシア、生ける神の子です」という信仰告白をしました。その信仰告白という岩の上にイエスは教会を立てて「天国の鍵」を授けたことを私たちはみ言葉から聞いたのです。しかし本日は、ペトロはその舌の根も乾かないうちにイエスに叱責されたのです。このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められたすると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。『主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません』」(21-22節)。

 とんでもないと思ったのはペトロだけではなかったことでしょう。12弟子に限らず周囲にいたすべての人がそう思ったはずです。イエスこそキリスト(救世主)であり、何百年もの長い間に渡って自分たちを解放してくれるメシアを待ち続けたイスラエルの民として、弟子たちはイエスに対し大きな期待を持ったのです。彼らはイエスに「力あるメシア像」を期待しました。虐げられ無力なままユダヤ教の指導者たちから苦しみを受けて殺される「苦難のメシア像」など誰の思いにも浮かばなかった。ペトロはイエスをメシアとして正しく認識して信仰告白をしましたが、それはまだ人間的な思いでしかなかった。しかし誰がそれを責められるでしょう。「わきにお連れして」とありますから彼は他の弟子たちをはばかったのかもしれませんが、「そんなことがあろうはずがない。決してそんなことがあってはならない!」と直情型のペトロのことですから声を大にしてイエスをいさめたのしょう。神がどのような救いをイエスによって成し遂げようとしているかペトロには全く理解できなかったのです。神の思いは常に人の思いを遙かに越えて高く、広く、深いと申し上げることができましょう。イエスの言葉はいつも私たちをハッとさせます。

 イエスは振り向いてペトロに言われました。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」(24節)。先週「その信仰の上に天国の鍵を託そう」と言われたペトロがここでは「サタン」と呼ばれている。「悪魔」「誘惑する者」です。イエスはペトロの中に働くサタンを見ている。サタンは私たちを神から遠ざけようとします。神のことを思わず人のことを思う時、そこには悪魔が働いているのかもしれません。恐ろしいことです。私たちが「自分の願い」の実現だけを祈り求める中には大きな危険があるのです。それほど私たちは自己中心的な存在です。私たちの中にある人間的な思いが神の思いを妨げるとするならば、その思いは木っ端微塵に打ち砕かれる必要があります。そうでなければ神の思いに心を向けることができないからです。しかしどうすれば私たちは人の思いと神の思いを識別すればよいのか。果たしてそれは私たちに可能なのでしょうか。

 

ラインホルト・ニーバーの祈り

 Prayer of Serenity(静謐さを求める祈り)」と呼ばれるライホルト・ニーバーの祈りを思い起こします。それは短い三つの祈りから成っています。「神よ」という呼びかけに続き、①「私が変えてゆくことができることは変えてゆく勇気をお与えください」、②「変えてゆくことができないことは、それを受け入れるための心の静けさをお与えください」、③「その両者を識別するためのあなたの知恵を私にお与えください」というものです。とてもシンプルですが私たちの思いをハッとさせ、深いところで転換させてくれる祈りであると思います。私たちは現実のただ中で自分の力の限界を感じて打ち砕かれることが少なくありません。そのような時に神に祈ることができる人は自分の外に自分を支えるものを持っていて、逆境にしぶとく対処してゆく力をそこから与えられてゆくのです。「祈り」とは実は「神に向かって語る」ことではなく、沈黙の中にあって向こう側から聞こえてくる神の声に耳を澄ますことなのだと思います。自分の中で「自分の声」がしゃべり続けている時には、向こう側からの神の声は聞こえません。自分の声が大きすぎるためにそれを聴き取ることは出来ないのです。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」とイエスをいさめたペトロの心の中にはそのような自分の思いだけが強く響いていた。その耳にイエスの声は届いていないのです。だから彼にはどうしてもイエスの苦言が必要だった。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」。人生においてこのような鋭く苦い声に、しかし真剣で揺るぎなく温かい声と出会うことができる者は幸いです。普段私たちは、このような自己の限界(自己中心性)に気づかずに生きているのですが、そのような声は自らの限界に気づかせてくれるからです。

 

「人は裁くが自分は裁かれようとしない。そのようなあなたは一体何者なのか。」

 先日日野原重明先生が105歳で天に召されましたが、私は神学生の時に築地の聖路加国際病院で三週間の臨床牧会訓練(CPE)を受けました。シスターや牧師を含めた8人の受講生(神学生)が二つのグループに別れ、二人のスーパーヴァイザー(以下はSV)の下でグループワークの訓練を受けるのです。午前中は病床訪問、午後からは自分が訪問した患者さんとの逐語会話記録をグループ内で細かく検討しながら、自分の人間関係(コミュニケーション)における癖や傾向を知るというなかなかハードな訓練でした。私は既にいのちの電話のボランティア訓練を受けていましたので「共感的な受容と傾聴」の重要性については頭では分かっていたつもりでしたが、そこでSVであった聖公会の井原泰男司祭からこう言われてグウの音も出ませんでした。「人は裁くが自分は裁かれようとしない。そのようなあなたは一体何者なのか」。私の傲慢さを的確に突いた声でした。私はその時に自らを守ろうと他者に対して批判的になり、思い上がっていたのです。確かに私はその時他者のことを思わず自分のことだけを思っていたからです。ハッとし、深い気づきが与えられました。以来この声は、私の魂の奥底で原音のように響き続けています。私にとってはそれは必要な声だったのです。しかしこの声こそが、それ以降の私を自らの専門性を培う道へと導いてくれたのでした。

 「サタン、引き下がれ。神のことを思わず、人間のことを思っている」。この魂を打ち砕くようなイエスの声もペトロの中で繰り返し反復され続けたに違いありません。私たちの魂にはこれまでの人生で自分に告げられたこのような真剣で忘れ得ぬ声がいくつも刻まれているに違いありません。昔テレビで「うるさい親ほどあったかい」というコピーがありましたがその通りであると思います。私たちの心に刻まれている言葉は時に厳しく時に苦く、しかし熱く私たちの魂を再生させるために語られた「悔い改め」を促す言葉なのです。「回心」「悔い改め」のことを新約聖書のギリシャ語では「メタノイア」と言いますが、「メタノイア」と書いてそれを日本語で反対から読むと不思議なことに「アイノタメ」となる。「メタノイアはアイノタメ」なのです。神の愛のゆえに私たちの回心は起こる。そして回心した者は他者の愛へと派遣されてゆく。メタノイアにおいては、私たちがどこまでも自分中心であったところから、自己の固い壁が打ち砕かれ神を中心にして生きるような「主体のコペルニクス的な転換」が起こってゆくのです。

 

イエスの受難予告と神のいのちへの祝福

 イエスは弟子たちに言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」(24-26節)。有名な言葉です。自分(人)のことばかり思って神のことを思わずにいる私たち人間が、自分を捨て、神が与えたもう自分の十字架を背負ってキリストに従うことがきる。そのような道がイエスによって備えられている。そのような道を歩む時、私たちにはそれまでは見えなかった次元が見えてくるのです。主を見上げ、主を信頼し、主にすべてを委ねて主に従う時にこそ与えられる祝福がある。それこそこの世が与える幸いとは異なる幸い、真の慰め、真の希望です。イエスは、そのようなキリストへの服従によって、全世界を失ったように見えたとしても、実はそこでは一番大事な本当のいのちを得ることができるのだと約束してくださっている。イエスが十字架への道(それは復活のいのちに至る道でしたが)を歩まれたように、私たちもまた自分の十字架を背負いつつ、イエスに従うよう招かれています。自分が変えることができるものを変えてゆく大胆な「勇気」を祈りつつ、変えることができないものは受け止めてゆく心の深い「静穏」を求めながら、そして両者を識別する神の確かな「知恵」を求めながら、私たちは「キリストの声」に服従してゆくのです。聖書が告げるように、ここにこそ人の思いを越えた「神の祝福」がある。新しい一週間もこの道を皆さんとご一緒に踏み出してゆきたいと思います。祝福をお祈りします。

2017年9月 1日 (金)

2017年8月27日(日)聖霊降臨後第12主日聖餐礼拝説教「天国の鍵」

2017827日(日)聖霊降臨後第12主日聖餐礼拝 説教「天国の鍵」 大柴 譲治

マタイによる福音書 16:13-20

「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(19節)

 

「天国の鍵」

 本日は「天国の鍵」について告げられています。新約聖書のみならず、旧約聖書を含めた聖書全体の中で「天国の鍵」について出てくるのは、本日の日課のマタイ1619節だけなのです。そこにはイエスの言葉がこう記されています。「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」。これは「あなたはメシア、生ける神の子です」と重要な信仰告白をしたペトロに対して言われたイエスの言葉です。

 実はこの箇所に対する大きな解釈の違いから、二つの異なった流れが生まれました。カトリック教会とプロテスタント教会です。今年は「宗教改革500年」ということで、世界においても日本においても、ルーテル教会はカトリック教会との対話と連帯を協調する大きなうねりの中に置かれていますが、しかしカトリック教会とプロテスタント教会のこの箇所に対する理解の仕方は根本的に異なっています。ローマ教会はこの「天国の鍵」「ペトロとその後継者たち(=歴代のローマ教皇)」に対して与えられたものと解釈していますが、私たちプロテスタント教会は、ルター以降の500年間、この「天国の鍵」は、ペトロやローマ教皇という個人にではなく、「イエス・キリストを告白する教会」に対して与えられたと受け止めてきました。「信仰告白」こそ私たちが拠って立つべき「岩」なのです。

 

信仰告白者に託された「天国の鍵」

 では「天国の鍵」とはいったい何を意味するのか。私にはそれについて忘れることのできないエピソードがあります。前の教会での出来事です。1998年の6月4日に一人の女性教会員が47歳の若さでガンのために天に召されました。亡くなる数日前、彼女が入院していたホスピスを訪問したところ、「最近イタリアを旅した友人から天国の鍵をもらいました」と小さな銀の鍵を見せてくださいました。イタリアの教会のお土産としてキーホルダーに付けてあったのをいただいたそうです。「これは私が天国に入るための鍵なのですよ」と嬉しそうにおっしゃったその笑顔を印象的に思い起こします。その方はその時同時に、病床聖餐式を行った私に「先生、人生は神さまと出会うためにあるのではないでしょうか」と語ってくださった方でした。病気と闘病する中でキリストを信じ、受洗されたのでした。

 「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」というイエスの言葉では、この「鍵」という語は複数形になっています。そこでは「つなぐ鍵」「解く鍵」の二つが考えられているのです。実際バチカンには、ペトロの後継者としてのローマ教皇が天国の二つの鍵を継承しているという理解を持ち、二つの鍵を描いた像や絵もあるようです。

 しかしよく考えてみると、私たちは「オヤ?」と思います。鍵というものは一つでいいはずではないか。私たちは同じ一つの鍵を用いてロックしたりロックをはずしたりしているのです。なぜ「解く鍵」「つなぐ鍵」の二つもいるのかという疑問が浮かびます。特に解かずにおく鍵(つなぐ鍵)の役割は大切であるように思われます。実は「天国の鍵」とは、ただ二つだけということではなく、そこではむしろ様々な部屋を空けたり閉めたりする鍵の束が意味されているのかもしれないとも思われます。天国にはマンションのように多くの部屋があって、その管理人として私たちが鍵束を管理している、そのようなイメージです。ヨハネ福音書はイエスの言葉を伝えています。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」(14:1-3)。この鍵は「天国」つまり「神の国(ご支配/統治)」に入るために必要な鍵束のようなものかもしれません。

 「あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」という19節の言葉はマタイ福音書にはもう一回、1818節に出てきます。二度も同じ言葉が繰り返されているところにその重要性が明かとされています。この言葉は、ヨハネ福音書2023節の言葉と重なります。そこでは復活の主が弟子たちにご自身を現しながらこう告げられています。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」。そう言ってから、主は彼らに息を吹きかけてこう言われました。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(20:22-23)。

 「天国の鍵」「罪の赦し」に関係しています。それも私たちが一般に理解しているような罪を赦すことだけではなく、罪を赦さないでおくことの両方に関係する事柄です。聖書で言う「罪」とは、「悪い行い」という意味であるよりも、本来は神との関係が破れている状態を表す「関係概念」です。その反対語は「義」で、その人が神との正しい関係の中にあることを指します。「罪の赦し」とは「神との正しい関係に回復されること」「罪を赦さないでおく」とは「未だ破れたままの神関係であることを告げ知らせる」ということを意味します。いずれにしてもそれは、「私たちは神の前に立たされている」ということを告げるということであり、すべての人間は神の前から逃げることはできないということを伝えることになります。私たち皆がイエスに問われている。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。自身の言葉で「イエスこそ生ける神の子キリスト」と告白することが求められています。

 

「天国の鍵」を行使される神ご自身の働き

 私たちは天国の鍵を任されていると聞くと、何と恐れ多いことかと尻込みしてしまうのではないかと思われます。自分が他の人々の罪を赦したり赦さずにおいたりすることができるなんて信じられない。イエスには申し訳ないけれどもそんなことできないと思う。自分の不信仰や迷いや行き詰まりといったものを私たちはよく知っているからです。イエスも私たち以上にそのことはご存じでした。ペトロを筆頭として弟子たちは皆十字架の前から逃げ出したのです。

 実は「天国の鍵」とは、そんな弱く惨めな私たちを用いて、福音という喜びの音信を伝えてくださるイエスご自身の働きを指していると言わねばなりません。主の「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という問いに対してペトロは答えます。「あなたはメシア、生ける神の子です」と。しかしペトロは自分の力で告白したのではありませんでした。イエスは続けてこう語られます。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と。人間ではなく天の父なる神が私たちをしてイエスこそキリストであると告白させてくださる。「信仰とは、私たちにおいて働く神さまのみ業である」とルターは言いましたが、その通りです。信仰とは人間の業ではなく、どこまでも私たちの中で働く神のみ業なのです。

 そう見てまいりますと、天国の鍵で開けたり閉めたりするのもまた神ご自身であることが分かります。信仰告白の上にイエスはご自身で教会を建てるとおっしゃっておられます。これはペトロとその後継者たちの上に教会を建てると言ったというよりも、「あなたこそ生ける神の子、キリストです」(口語訳)と告白された信仰告白の上にキリストの教会を建てるというように理解したいと思います。そして「陰府の力もこれに対抗できない」とあるように「死の力もこれに打ち勝つことはできない」と主は宣言されています。「天国の鍵」とは、私たちが死によっても揺らぐことのない神の究極的ないのち、永遠のいのちを生きることができるという大きな喜びと慰めと希望を意味する言葉なのです。先ほどご紹介した一人の姉妹は、ガンのためにあと半年の命と宣告されてから一年間求道し、クリスマスに洗礼を受け、その半年後に天国に召されてゆかれました。その方の「人生は神さまと出会うためにある」という言葉は、私たち自身に天国の鍵を与えてくれるような希望に満ちた言葉であり証しです。パウロは「わたしは弱いときにこそ強い」(2コリント12:10)と語りましたが、キリストの十字架と復活の愛こそ私たちにとっての「天国の鍵」であり、そこでは「天国への入り口」が私たちに向かって開いているのです。キリスト・イエスこそ、私たちの揺るがぬ希望です。

 「洗礼と聖餐」という「サクラメント(聖礼典)」に示されている主の愛、それこそが私たちの罪を赦し、十字架を通して私たちをもう一度神との正しい関係に置いてくださる「天国の鍵」なのです。そして、私たちが隣人の悲しみや苦しみを自分の悲しみや苦しみとして受け止めて共有する時に、喜ぶ者と共に喜び泣く者と共に泣く時に、一人の姉妹がイタリアのお土産としてガンと闘病する親友に祈りと共に天国の鍵を渡された時に起こったような不思議なことが私たち自身の人生においても起こるのです。それは愛の奇蹟です。そこでは私たち自身が不思議なかたちで天におけるイエスへの道を開く「天国の鍵」として用いられてゆくのでありましょう。 そのことを覚えつつ、ご一緒に新しい一週間を踏み出してまいりましょう。お一人おひとりの上に平安をお祈りします。 アーメン。

2017年8月26日 (土)

2017年8月20日(日)聖霊降臨後第11主日聖餐礼拝説教「パンくずの恵み」

2017820日(日)聖霊降臨後第11主日聖餐礼拝説教「パンくずの恵み」 大柴譲治

マタイによる福音書 15:21-28

女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。(27-28節)

 

イエスとカナンの女性のやりとりを巡って〜「三度の拒絶」をものともしない「たおやかな信仰」に倣う

 本日の福音書の日課には一人のカナンの女性の信仰がイエスによって賞賛され祝福されたという印象的な出来事が記されています。場所は地中海沿岸の「ティルスとシドンの地方」、異邦人の町。「この地に生まれたカナンの女」もユダヤ人でなく異教徒でした。この女性には一人の病気の娘がいます。彼女は娘の状態を「悪霊にひどく苦しめられているもの」として理解しています。おそらくそれは、痛み苦しみのために七転八倒し続けるほどすさまじい状況であったと思われます。彼女は必死でイエスの憐れみにすがろうとするのです。言語的なコミュニケーション能力があったのでしょう、異邦人であった彼女はイエスたちの言語(アラム語)で必死に叫ぶのです。そのことからも彼女が知性の高い女性であったことが分かります。

 しかしイエスは全く取り合わずにただ沈黙しています。「『主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています』と叫んだ。しかし、イエスは何もお答えにならなかった」22-23節)。このイエスの「沈黙」「第一の拒絶」です。「何もお答えにならなかった」という表現には、恐らく、イエスは彼女の方を振り向きもしなかったという意味が込められていましょう。イエスと女は全く無関係な接点のない関係だった。冷酷にも思えるイエスの対応です。

 私たちはここで、我が子のために必死になっているこの母親の真剣さ、ひたむきさに圧倒されます。親にとって子供が病気になるほど辛いものはありません。できることなら子供と代わってやりたいと強く願いつつ、何もできないでいる親としての自らの無力さを感じながら、彼女は娘を助けるために必死です。しかし母は強し。たおやかです。娘には自分しか頼る者がいない。それを知っていた彼女はイエスの沈黙などものともせずに叫び続けます。「主よ、憐れんでください」。彼女にはイエスに頼るしか他に方法はなかった。その女性は、苦しむ娘が母を信頼し母だけに希望を保ち続けているように、イエスを信頼しそこに希望を置き続けたのです。

 続いて記されている弟子たちの姿も極めて冷酷です。「そこで、弟子たちが近寄って来て願った。『この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので』」とイエスに申し出た(23節)。当時のユダヤ人社会では異教徒との交わりは律法で禁じられていましたし、異性に近づくことなど言語道断であったようです。ユダヤ人と異邦人との間にあった「隔ての中垣」は私たちが思う以上に高く分厚かったと理解すべきかも知れません。

 沈黙を守っていたイエスがその女性の執拗な叫びに対してようやく口を開きます。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになったのです(24節)。やんわりとはしていますが、「わたしはあなたがた異邦人(異教徒)のもとには遣わされていない」という「第二の拒絶」でした。しかし彼女は諦めません。娘のためにもどうしても諦めるわけにはゆかないのです。「しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、『主よ、どうかお助けください』と言った」(25節)。イエスが異邦人である自分に直接声をかけてくださったことに彼女はひとすじの光明を見出したと思われます。「愛の反対は憎しみではなく、無関心である」というマザーテレサの言葉を想起しますが、イエスはここで初めてきちんと足を止め、その異邦人の母親に身体を向けて彼女と向かい合ったのでしょう。否、深い「沈黙」の中でもイエスの心は彼女に向けられていたのかもしれません。12年間も長血を患っていた女性が後ろからそっとその衣に触れても、イエスはそれを感じ取られたほどのお方ですから(マタイ9:18-26)。そのカナンの女性はイエスの真正面に走り寄ってひれ伏します。イエスの対応に確かな手応えを感じつつ地面に頭をこすりつけながら、「主よ、憐れんでください。どうか私たちをお助けください」と必死に願い続けるのです。

 続いてイエスは再度拒絶の言葉を口にします。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」(26節)。これはイエスによる「第三の拒絶」でした。しかしその女性はイエスのあたたかく優しい眼差しと声の響きを見逃さなかったことでしょう。言葉自体は厳しいですが、彼女は自分の置かれた苦しい状況を受け止め、それを理解し、それに対して応答しようとしておられるイエスの姿の中に深い憐れみと愛とを感じ取っています。彼女は最初からイエスは自分たちの救い主であり、イエスが必ず自分たちを憐れみ、自分たちを苦しみから救ってくださるということを疑うことはありませんでした。もし疑っていたとしたら途中で諦めていたことでしょう。イエスの憐れみに頼ることは彼女たちにとって最初から「最後の手段」でした。イエスを信じる以外にはなかった。もしかすると最初からイエスの姿勢や声の響きは、言葉とは全く異なるメッセージを彼女に与えていたのかも知れません。ある研究によると、人間のコミュニーションにおいて「言語」が意味するところはたったの7%しかないとも言われています。その他として、私たちのコミュニケーションは、38%が聴覚的な情報を通して、残りの55%が視覚的な情報を通して行われるというのです。彼女はイエスの声やその言葉の抑揚、姿勢や息遣いなどを通して最初から自分はイエスに受容されていることを知っていたのかもしれません。「信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」(ヘブライ11:1)とありますが、神が必ず自分たちに憐れみをもって働きかけてくださることを彼女は確信していたのかも知れません。

 驚くべきことに、彼女の受け答えは、必死でありつつもしなやかであり、かつ徹底的に謙遜であり、どこまでもイエスの言葉に信頼し、イエスを主とし自らを従としたものでした。そこには余裕さえ感じられます。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」(27節)。ここでは子犬(異邦人)も神の家族の一員であり、神の家の中にいることが前提とされています。そのことはイエスご自身が、「子どもたちのパンを取って子犬にやってはいけない」という言葉で示唆されたことでもありました。どこまでもイエスの言葉を是としながらも、彼女はイエスの示した線に沿いながら、パンくずを通して自分たち異邦人にも与えられているはずの神の豊かな恵みを信じ抜いたのでした。ユダヤ人を主とし異邦人を従とする枠組みの中にあって、その枠組みを崩すことなく、イエスの言葉に沿って彼女は自分と娘とを位置付けています。

 その女性の答えはとてもウィットに富み、賢く、しなやかなものでした。そこからもまた、イエスに向かって外国語であるアラム語で直接語ることができた彼女が、実はただものではなかったということが分かります。彼女は自分の持てるすべてを用いてイエスにその憐れみを請うたのです。「そこで、イエスはお答えになった。『婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。』そのとき、娘の病気はいやされた」(28節)。イエスご自身もこのようなたおやかで、まことの信仰を持つ女性と出会うことを通して、大きな感銘と喜びに満たされたに違いありません。そこでは真に神の恵みの豊かさが共有されています。

 私たちもまた人生の様々な場面において、ただパンくずの恵みを徹底して信じ抜いたこの一人の女性の信仰にあやかりつつ、主イエスの憐れみの前に立ち続けたいと思います。旧約聖書が繰り返し歌っているように「主は恵み深く、その慈しみはとこしえに絶えることがない」(詩編100:5、エレミヤ33:11)のです。また、本日の旧約聖書の日課が次のようにも告げていた通りです。「主はシオンを慰め、そのすべての廃虚を慰め、荒れ野をエデンの園とし、荒れ地を主の園とされる。そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く」イザヤ書 51: 3)。イエスご自身によってもシオンの都には東からも西からも多くの民族が招かれると約束されていました。「言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く」(マタイ8:11。病気の部下のために「御足労までには及びません。ただ一言、お言葉をください」とイエスに願い出たローマの百人隊長の信仰を賞賛したイエスの言葉です)。すばらしい約束の言葉ではありませんか。

 新しい一週間にもお一人おひとりの上に主のパンくずの恵みが豊かにありますようお祈りいたします。アーメン。

2017年8月13日 (日)

2017年8月13日(日)聖霊降臨後第10主日聖餐礼拝説教「湖の上を歩く」

2017813日(日)聖霊降臨後第10主日聖餐礼拝 説教「湖の上を歩く」大柴譲治

マタイによる福音書 14:22-33

夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」(26-28節)

 

湖の上を歩くイエス

 本日の福音書の日課には湖の上を歩くイエスと弟子のペトロの姿が記されています。場所はガリラヤ湖。ガリラヤ湖では突然突風が吹くということがよく起こったようです。12弟子の中にはガリラヤ湖の漁師たちもおりましたので、幼い頃から湖の変わりやすい状況はよく知っていたに違いありません。

 イエスはパン五つと魚二匹を用いて五千人の人々を満腹させ、残ったパンくずは12の籠一杯になったほどでした(14:13-21)。その出来事の直後のことです。「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた」22節)。「強いて」とありますが、もしかしたら弟子たちの中には湖の状況を見て体験的に、既に夕方になっていたでしょうから、今この時点でガリラヤ湖に舟を出すのは危険だと感じていた者もいたのかもしれません。イエスは彼らの杞憂と不安とを知った上で、彼らを「強いて」舟で出発させたのでした。それは彼らに「信とは何か」という信仰の神髄を教えるためでもありました。

 イエス自身はどうされたかというと、「群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた」とあります(23節)。イエスにとって「祈り」は天の父なる神との豊かな交流の場でした。イエスはしばしば祈るために一人になっています。祈りを通して父の御旨を知り、力をいただき、父と子の一体性というものを確認しておられたのでありましょう。祈りこそ力の源だったのです。

 一方舟の方はどうか。「ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた」とあります(24節)。1スタディオンは185mですから、舟は既に岸から1キロほど離れていたのでしょう。予想していた通り、突風のために弟子たちの舟は漕ぎ悩んでいました。プロの漁師たちの手にも余るほどでした。時は既に夜。闇の中で木の葉のように揺れ動く舟。湖の怖さを知っていた弟子たちは、生きた心地がしなかったはずです。必死でイエスの助けを祈ったに違いありません。

 その祈りに答えるようなかたちで、イエスは湖の上を歩いて舟のところに行かれます。「夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた」(25節)。信じられないことが起こった。アメンボではないので、通常人間は水の上を歩くことはできません。しかしイエスはそれをなさったというのです。人にはできないことでも神にはできる。私たちは神にできないことはないと受け止めるしかないのでありましょう。恐らくこの「湖の上を歩く」という出来事の背後には「信とは何か」という深い意味が隠されているのです。

 弟子たちの反応はいかにも率直でした。「弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた」(26節)。私たちも同じです。暗い闇の中、突風で荒れ狂う湖の上を、泳いでならまだ分かりますが、何と湖の上を歩いてイエスが舟に近づいて来られたのですから。

 イエスはすぐ彼らに話しかけられました。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」(27節)。イエスのこの声にどれほど弟子たちはホッとしたことでしょう。人生山あり谷ありですが、私たちもまた要所要所でイエスの「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」という確かな声を聴く者でありたいと願うのです。

ペトロの大胆さと失態と

 私たちはペトロの申し出に驚かされます。ペトロは極めて大胆なのです。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」(29節)。イエスはそれを認めて「来なさい」と言われます。すると、「ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ」のです(30節)。そこで起こった出来事は私たちの思いを遙かに越えた出来事でした。ペトロもイエス同様に湖の上を歩くことが出来たのですから。「求めよ、さらば与えられん」です。信じれば山をも動かすことが出来るのでありましょう。信仰のまなざしの中では到底不可能なことが可能となってゆくのです。

 続いて起こったことはいかにもペトロらしいことでした。「しかし、(ペトロは)強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、『主よ、助けてください』と叫んだ」のです(31節)。ペトロは漁師です。幼い頃からガリラヤ湖のほとりで育ちました。だから泳ぐことは得意だったでしょうし、いざというときにどう対処すれば良いかはよく知っていたはずです。そんなペトロが溺れかかるという失態を見せる。恥ずかしい姿、破れた姿を見せるのです。私はこのようなペトロの人間性に強く惹かれます。このような破れた不信仰な人間を、イエスは捉えて離さないのです。「イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』と言われます(31節)。そして、二人が舟に乗り込むと、「風は静まり」ます(32節)。33節には「舟の中にいた人たちは、『本当に、あなたは神の子です』と言ってイエスを拝んだ」とあります。この一連の出来事を通して弟子たちは再度、イエスこそ神の権威を持った神の子であることを再認識し、その信仰を強められてゆくのです。

 

信仰とはイエスへの信頼

 このペトロの水の上を歩くという出来事、溺れかけるという出来事が何を意味しているかが本日の主題です。この出来事は信仰というものの本質をよく私たちに伝えています。湖の上を歩くということはそもそも人間には不可能なことです。しかしペトロはイエスの言葉を信じ、イエスに向かって水の上に大胆に足を踏み出しました。イエスを信頼した実に勇気のある行為です。「ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ」のです(30節)。イエスをまっすぐ見つめてペトロは水の上に足を踏み出しました。すると水の上を歩くことが出来た。少なくとも数歩は歩けたのです。イエスに対する絶大な信頼がそれを可能としたと申せましょう。しかしペトロは、「強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、『主よ、助けてください』と叫んだ」のでした。イエスから目を離し、周囲の風が逆巻く状況に目を向け、思いを向けた瞬間に、ペトロは動転し、沈みかけ溺れかけてゆくのです。私たちもまたこのエピソードから学ぶべきことは、信仰とは「イエス・キリストへの集中」ということです。どのような状況の中にあってもただキリストのみに目を向け、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言ってくださるお方のみ言葉に信頼し、そのお方に向かって足を踏み出してゆく時、私たちの思いを越えた恵みの出来事が起こるのだと聖書は告げているのです。

 今日も私たちは聖餐式に招かれています。「これはあなたのために与えるわたしの身体。これはあなたの罪の赦しのために流すわたしの血における新しい契約」。そう言って弟子たちにパンとブドウ酒を分かたれたイエス・キリスト。この食卓に今日も私たちは招かれています。私たちはこのイエスの招きの言葉の中に「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」という声を聴き取りたいのです。そこからイエスのみを見つめながら、私たちに向かって「恐れずに、来なさい」と告げてくださるイエスに信頼して、大胆に逆風の湖の上にその一歩を踏み出してゆきたいのです。お一人おひとりの上に主の豊かな祝福がありますように。アーメン。

2017年8月 9日 (水)

2017年8月6日(日)平和主日聖餐礼拝説教 「愛の自覚」

201786日  平和主日聖餐礼拝 説教 「愛の自覚」  大柴譲治

ミカ書 4:1-5 / エフェソの信徒への手紙 2:13-18 / ヨハネによる福音書 15:9-12

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」(ヨハネ15:12

 

「過ちは繰り返しませぬから」〜歴史の記憶と想起

 8月は私たちが過去を振り返り、様々な出来事を深い悲しみと共に思い起こし、心に刻む月です。8月6日、8月9日、8月15日、先の太平洋戦争は私たちの心の中に癒えることのない傷跡を残しました。そのような出来事を想起して心に刻み続けるということの大切さを覚えます。今年は戦後72年に当たりますが、国会などで憲法第9条などについて議論が行われてゆく中、今ここで、キリストの平和について思いを馳せてゆくこと、そのために祈りと力とを合わせてゆくことはキリスト者である私たちに求められていることでもありましょう。

 それは、ヒロシマ平和公園に刻まれた「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」という碑文の言葉の通り、二度と再び戦争という「過ち」を繰り返すことのないためであります。戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。これは1946年に採択された「ユネスコ憲章前文」の言葉です。今年11月に私たちは宗教改革500年をカトリック教会と共に長崎で記念することになっていますが、過ちを再び繰り返さないためにも、「人の心の中に平和のとりでを打ち立てるべきこと」を再確認させられ、決意を新たにさせられます。

 ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世は、19812 25日にヒロシマを訪れ『ヒロシマ平和アピール』を公にされました。「戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です。この広島の町、この平和記念堂ほど強烈に、この真理を世界に訴えている場所はほかにありません。」という言葉で始まる平和アピールです。その中で教皇は繰り返し「過去をふり返ることは、将来に対する責任を担うことです」と語られました。そうです、私たちは新しい未来を築いてゆくために歴史を思い起こし、過去の過ちを忘れぬように、自分自身の心に刻み続けるのです。「過去に目を閉ざす者は、未来に対しても目を閉ざすことになる」(リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー『荒野の40年』より)。私たちは「過ちを繰り返さない」ためにも「歴史を心に刻み続けること」、そして「それを想起し続けること」の両方が求められています。

 「想起すること」「思い起こすこと」、つまり「忘れないでいるということ」は、私たちの日常生活においても、信仰生活においてもとても大切な事柄です。記憶と想起という事柄が、私たちのアイデンティティーを保つために大きな働きをなしている。昨日の自分と今日の自分と、そして明日の自分とをつなぐものが「記憶」であるということを私たちは知っています。記憶の一貫性が失われるとき、私たちは自分のアイデンティティーを失ってしまう。その意味で、「過去」を心に刻むということが「現在」の自分を維持するためにも、自分の「未来」を形成してゆくためにも大切であるということを私たちは覚えたいと思います。

 

ロバート・カニンハム宣教師の生涯

 本日も聖餐式が行われますが、主イエス・キリストは苦しみを受ける前日、最後の晩餐において、弟子たちにパンとブドウ酒を分かち合いながら言われました。「これはあなたのために与えるわたしの身体」「これはあなたの罪の赦しのために流すわたしの血における新しい契約」。そして続けて言われました。「わたしの記念のためこれを行いなさい」。「わたしの記念のため」とは「わたしを思い起こすため、わたしを想起するために聖餐式を行い続けなさい」という意味です。ここで「想起する」「記念する」という語はギリシャ語で「アナムネーシス」。 教会は二千年に渡って、この聖壇部分の中心にキリストの聖卓が置かれているように、自らの原点・アイデンティティの中心として、この「キリストの聖餐(和解)の出来事」を忘れずに想起し続けて来たのです。主はこのような私を愛し、このような私のためにあの十字架に架かってくださり、ご自身の平和・平安を私に与え、平和の器としてこの私を具体的に用いてくださるのです。

 このキリストの和解、主の平和に与った者たちが、無数に、現実の困難さの中にあっても、諦めること無く、二千年に渡ってその力を証し続けて来ました。私は特に一人の宣教師のことを想起します。20097月9日、米国オハイオ州で、西教区と関わりの深かったロバート・カニングハム宣教師が膵臓ガンのため、ご家族の見守る中、静かにこの地上での82年間のご生涯を終えて天に召されました。私はカニンハム先生の松山教会や広島教会でのお働きを思い起こします。益田教会でも働かれています。カニングハム先生は戦後すぐに駐留軍としてヒロシマに入り、そこで目にした悲惨な現実を知って、原爆を投下した米国人として深いざんげの思いをもって、帰国後に神学校に学び、宣教師となられました。18歳の頃です。そして生涯のすべてを日本のため、キリストのために捧げられたのです。カニンハム先生は、1985年、当時福山教会の牧師であった松木傑先生と共に、被爆者を米国に派遣し、全米で証言をするという旅を実施されました。2005年の暑い夏でしたが、当時私の牧していた東京の教会でもキリストの平和について説教を語ってくださいました。

 暴力と憎悪が圧倒的な力をもって支配しているように見えるこの世界の中で平和を実現するということは、簡単なことではありません。戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」。これはユネスコ憲章(1946年)の言葉です。「戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です」。これは1981225日にヒロシマでなされた、やはりポーランド人の教皇、ヨハネ・パウロ2世のヒロシマ平和アピールの最初の言葉です。ヨハネ・パウロ2世は「空飛ぶ教皇」と呼ばれ、世界中に足を運んで平和のために尽力した人でもありました。また、インドのコルカタで貧しい人の中でも最も貧しい人たちのために尽くしたマザーテレサが1979年にノーベル平和賞を受賞したことはよく知られています。マザーは言いました。「愛の反対は憎しみではなく、無関心なのです」と。愛の喜びを知る人は、同時に愛の乏しいこの世の現実の哀しみを知る人でもあります。愛の乏しい現実の世界の中でキリストは愛を実現してゆこうとされました。十字架とはそのような真実の愛のシンボルです。そして今、私たちがキリスト者として立てられているということは、神の愛を実現してゆくために立てられているのです。それは私たち人間の力でできることではありません。キリストの愛の力が私たちを捉え、私たちを変え、私たちを押し出してゆくときに実現してゆくのです。しかしそれはまた、人間の力なしにできることではありません。キリストがその愛を実現するための手足として私たちを用いてくださいます。ミカ書が預言するように、この地上の人間の現実の世界の中で具体的に「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」ために私たちは用いられてゆくのです。

キリストの愛の自覚

 互いに愛し合うことの中にこそ、生きることの本当の喜びがある。愛の喜びこそが真に価値あることです。そして、聖書は私たちに真実の愛がどこにあるかということを明確に示してくれています。それは他のどこよりも明確に、あのキリストの十字架において示されているのです。神はその独り子を賜るほどにこの世を愛してくださった。それは御子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである(ヨハネ3:16)。このキリストの十字架の愛が私たちを捉えて放さないのです。十字架を見上げる時、向こう側から私たちには "I love you." という神さまの声が聞こえてくる。そのような声を聴くことができる者は幸いであります。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」。この神の愛の自覚こそが私たちを造り変えてゆくのです。

 今朝も私たちは聖餐式に招かれています。「これはあなたのために与えるわたしの身体。これはあなたの罪の赦しのために流すわたしの血における新しい契約」。十字架に架かられる前日に弟子たちにパンとブドウ酒を分かたれたイエス・キリスト。このお方に今日も私たちは招かれています。「わたしの愛にとどまりなさい。」「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい今もこの地上において、イエスは私たちを用いてご自身の愛の御業を実現されようとしています。そのことを覚えてご一緒に聖餐式に与ってまいりましょう。キリストこそ私たちの平和です。お一人おひとりの上に主の祝福が豊かにありますように。 アーメン。


(付記)平和を求める祈り(アッシジのフランシスコ) 

神よ、わたしをあなたの平和の道具として用いてください。

憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように

いさかいあるところに、赦しを

分裂のあるところに、一致を

迷いのあるところに、信仰を

誤りのあるところに、真理を

絶望のあるところに、希望を

悲しみあるところに、よろこびを

闇のあるところに、光をもたらすことができますように、

助け、導いてください。

神よ、わたしに

 慰められることよりも、慰めることを

 理解されることよりも、理解することを

 愛されることよりも、愛することを 望ませてください。

自分を捨てて、初めて自分を見出し

ゆるしてこそ、ゆるされ

死ぬことによってのみ、永遠の生命によみがえることを

深く悟らせてください。  アーメン。

 

2017年7月30日(日)聖霊降臨後第8主日礼拝説教「彼岸と此岸」

2017730日(日)聖霊降臨後第8主日礼拝説教「彼岸と此岸」大柴譲治

マタイによる福音書 13:31〜33,44〜52

「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」(14:44

 

天国の譬え

 本日は五つの「天の国の譬え」が告げられています。①「からし種の譬え」、②「パン種の譬え」、③「畑に隠された宝の譬え」、④「高価な真珠の譬え」、⑤「大量の魚の譬え」の五つです。先週の「毒麦の譬え」も天国の譬えの一つでしたし、13章の最初に出てくる「種を蒔く人の譬え」もやはりその一つですから、イエスが様々な場所で語られた天国についての譬えをマタイはこの13章に並べて配置したと考えられましょう。

 ちなみに「天の国」とはマタイがとりわけ好んで用いる表現で、マタイ福音書には33回も用いられていますが、他の福音書には一度も出てきません。「神の国」という語は、マタイに5回、マルコに14回、ルカ24回、ヨハネに2回出てきます。「天の国」とは「神の国」と同じ意味です。「国」と訳されている語は「バシレイア」というギリシャ語で、それは空間的な「領土」というよりもむしろ「支配」とか「統治」という「関係」を意味する語で、「天(神)の国」とは「天(神)のご支配」「天(神)の統治」という意味になります。

 「天国」と聞くとどこかでそれは私たちが将来「死後に入ってゆく国」という意味で受け止めているかもしれませんが、実はそうではありません。日本では「彼岸と此岸」という表現がありますが、「天国」とは三途の川の「向こう岸」にある「彼岸」ではない。今ここでの「神の統治」を言っているのです。その証拠にイエスの語る天国の譬えはこの地上での出来事が天上での出来事とつながっていて、それらが重なっていることが分かります。①「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる」という「からし種の譬え」も、②「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる」という「パン種の譬え」も、この地上において天国とつながって生きる時に、その人の人生は豊かな祝福と喜びに満ちた生になるということなのです。いつかどこか、遠い所においてそうなるというのではない。「今ここ」で、私たちが神のご支配の下に生きる時、私たちはそこから大きな祝福に与ることができるというのです。パウロはフィリピ3:20でそれを別な言い方で伝えています。「わたしたちの本国は天にある」(国籍は天にあり)」と。そう告げることで彼は私たちが「いつどこにおいても」、つまり「今ここで」、インマヌエルの神との揺るがぬ「我と汝」という応答関係の中に生きていると語っているのです。

 そうです。三つ目の譬え(③)にあるように「畑」「宝」は隠されています。ここで「畑」とは「この世界」「私たちの日常生活のこと」で、そこに貴い「神の宝」が隠されている。「見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」ほどの宝です。四つ目の④「高価な真珠の譬え」も同様です。「商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う」。それらは、それまでの自分の持ち物すべてを売り払っても余りあるほど価値あるものなのです。その真珠を発見した者は、そのすばらしさのゆえにそれまでとは全く異なる新しい生き方に変えられてゆくのです。ここで私は、生活費のすべてであるレプタ銅貨二つを神殿に捧げたあの一人の貧しいやもめのことを思い起こします(マルコ12:42、ルカ21:2)。イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。『はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである』」(マルコ12:41-44)。彼女の行為は、自暴自棄の自殺的な行為ではありませんでした。むしろ逆です。畑に隠された宝を見つけた者や高価な真珠を見つけた商人同様に、喜びと感謝に満たされた行為、神の恵みに対する信仰による応答の行為であったはずだからです。江口再起先生の表現を借りれば、「神の恩寵義認」に対する「感謝の応答の行為」ということになりましょう。

 

私たちにとっての「宝」とは何か

 ある先輩牧師がこう言いました。「私たちの時間とお金は自分の心のあるところにしか向かわない」と。確かにその通りです。自分の心があるところにしか時間とお金は向かわないのです。先週の女性会である方が「いのちとは生きられる時間である」という日野原重明先生の言葉をシェアしてくださいましたが、これまた真実な言葉です。私たちが「一番大切にしているものが何か」は、私たちが一番お金と時間とエネルギーをかけているところに実は明らかです。美味しいものを食べることを大切にしていれば食費にお金がかかりますし、子供の教育を大切にしていれば教育費にお金がかかるでしょう。旅行が好きであれば旅費に、友だちと楽しむためには交際費に、趣味を大切にしていれば趣味の費用にお金がかかりますし、同時に時間とエネルギーをそこに使うことになります。大阪ハインリッヒ・シュッツ室内合唱団がこの教会で毎週練習し、毎月マンスリーコンサートを行っています。最近すばらしい讃美歌CDを出されました。彼らにとってはその活動の中に自分たちの宝を持っているのだと思います。皆さん自分の仕事をしながらの音楽活動ですので、彼らの合唱に対するその熱意と献身性には身近にいて本当に頭が下がります。中には名古屋で医師をしながらも毎週大阪まで通ってこられる方もおられるくらいです。そのように私たちの宝は一人ひとり異なりますが、それは各自にとって「生きがい」という大切な役割を果たしています。自分が時間とお金を何に使っているかを振り返ってみれば、自分の心が何に向かっているか、自分が何を宝物にしているかが分かります。私などは本が好きで書物と勉強に時間とお金とをかなり使ってきたと思います。自分では牧師として説教準備のために必要と思っていますが、もしかすると自己満足なのかも知れません。やがて神が明らかにしてくださることでしょう。

 

大いなる救いの喜びの中で、「彼岸」と「此岸」とを同時に生きる

 本日与えられた福音書のみ言葉が「天の国の譬え」であったという点に再度戻りたいと思います。①「からし種」②「パン種」の譬えは、天とつながることが私たちの予想を遥に超えた巨大な喜びに膨らんでゆくことを示していました。③「畑に隠された宝」「高価な真珠」の譬えは、それが得難く何ものにも代えがたい高価な宝であるということ、それを手に入れずにはおれないほどのものであるということが示されていました。⑤「大漁の譬え」は、先週の「毒麦の譬え」同様、よい魚と悪い魚をより分ける時が来るので「最後の審判」のために備えるよう私たちに促しています。「また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」(47-50節)。私たちにはドキッとするほど鋭い言葉です。

 私たちの目の前に「喜びに満ちたいのち」「苦しみに満ちたいのち」が置かれているとすれば、もちろん私たちは前者を選びたいと思います。そのためにも、どこか遠い未来のことではなく、今ここでの、神としっかりとつながった、生き生きとした信仰の生活が求められるゆえんです。「天の国に生きる」とは「今ここ」での「神のご支配/統治の下に生きること」を意味するからです。「彼岸」(向こう側)「此岸」(こちら側)とを分けるのではなく、「今ここ」というこの「此岸」において「彼岸」(天の国)と一つに繋がった生き方をするよう求められています。彼岸と此岸とを、天上と地上とを同時に生きるのです。イエスはこの地上においても天の父に対して「アッバ(お父ちゃん)」と親しく呼びかけつつ、父の御心に徹底して服従する生き方を貫き、十字架の死に至るまで従順に歩まれました。「国籍は天にあり」です。私たちは今ここで、信仰者として、神とつながりながら、天上と地上との二重国籍を生きる。そこには、レプトン銅貨二つを惜しみなく捧げた一人の女性がその悲しみ多い人生の中で深い慰めと喜びとを深く味わうことができたのと同様、私たちの思いを遙かに超えた大きな慰めと喜びと祝福とがイエスによって約束されているのです。お一人おひとりの上に神さまの豊かな守りと導きと祝福とをお祈りいたします。 アーメン。

2017年7月29日 (土)

2017年7月23日(日)聖霊降臨後第7主日礼拝説教「毒麦はどこから?」

2017723日(日)聖霊降臨後第7主日礼拝 説教「毒麦はどこから?」   大柴 譲治

マタイによる福音書 13:24〜30,36〜43

「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい』と、刈り取る者に言いつけよう。」(30節)

 

毒麦のたとえ〜最後の審判

 本日の「毒麦のたとえ」はイエス自身が弟子たちに請われて説明していますので(37節〜43節)、分かり易い話であると思います。しかしそこには「刈り入れ時の麦と毒麦の選別」即ち「世の終わりの裁き/最後の審判」についての厳しい言葉が含まれていて、弟子たちもどのように理解すればよいか戸惑ったのでしょう。「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。人の子(キリストご自身)は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」

 このような言葉を聞くと私たちは身も心もすくんでしまうような恐ろしい気持ちになります。なぜかというと私たちの中には、「自分は毒麦なのではないか。終わりの日には泣きわめいて歯ぎしりする以外にはない救いようのない者なのではないか」という気持ちがどこか心の奥底に潜んでいるからでありましょう。この毒麦のたとえは私たち自身のアイデンティティー(自己同一性・自分が自分であることの本質)を問うたとえなのだと思います。

 

「ホモ・パティエンス(苦しむ人間)」(ヴィクトル・フランクル)

 私はティーンエイジの頃、中学、高校、大学時代ですが、自分自身の罪の問題と格闘して苦しみ続けた時期がありました。牧師の子供として生まれ、教会の中で育った私にはその苦しみを語り合う友がいませんでした。第二反抗期とも重なり、信頼すべき大人とも出会うこともなく、自分自身に対しても厳しく糾弾するような気持ちでいたのだと思います。自己の多重人格性と偽善性に苦しみ、「(自己の)存在自体が悪にしか過ぎない」とつぶやいていたように思います。生の意味がどこにも確認できずに、どうすれば自分自身を統合できるかを求めて苦しんだ時期でもありました。何と孤独で暗い青春時代だったかと思います。出口のないトンネルに入ったような気持ちでした。もちろん、青少年の時代は自分が何者であるかというアイデンティティを問う時期でもありますから、誰しもがそのような苦しい模索の時代を多かれ少なかれ体験していたのでしょう。大学に入って、様々な出会いを通してやっと自身の道を見出してゆくことができたのだと思っています。あの時期に再度戻りたいとは思いませんが、しかし、そのような苦しかった「アイデンティティの危機(クライシス)」時代があったからこそ、今の自分があるのだとも思っています。苦しむことを通してこそ見出すことができた次元があったのです。人間のことを「ホモ・サピエンス(「賢い人間」の意)」と呼びますが、それをもじってユダヤ人精神科医であったヴィクトル・フランクル(1905-1997。自らのアウシュビッツ体験を『夜と霧』で報告する)は人間を「ホモ・パティエンス(苦しむ人間)」と呼びました。歳を重ねる中で私たちの課題となってゆくことは、人生をどうまとめてゆくかということであり、「統合」ということです。

 

日野原重明先生の召天に思う

 718日(火)に聖路加国際病院理事長であり、私が関わっている上智大学グリーフケア研究所名誉所長でもあった日野原重明先生(1911-2017)が、105歳の地上でのご生涯を終えて天へと帰られました。先生の御尊父は日本基督教団の牧師でした。京都帝国大学の医学部を卒業して医師となり、1941年から聖路加で働き始められます。1970年にはよど号ハイジャック事件に遭遇して死を覚悟(58歳)。この事件が転機となります。帰国した先生は、「これからの自分の人生は与えられたものだから、人のためにこのいのちを提供しよう」と夫婦で約束するのです。「自分の寿命のことも忘れて生活するようになると、不思議に今のように長生きすることになりました」(『メメントモリ(死を想え)〜死を見つめ、今を生きる』(海竜社、2009p89)。

 日野原先生の働きは多岐に亘っています。予防医学としての人間ドックを定着させ、「成人病」を「生活習慣病」という呼び方に変えるよう国に働きかけ、生活習慣を改めることの重要性を繰り返し語ってこられました。また、自らもホスピスを造って終末期医療やホスピスケア、スピリチュアルケアの重要性を説いてきたのです。高齢者たちが生き生きと生きることができるように「百歳は次のスタートライン」などと言いながら「新老人運動」を展開してこられました。いくつになっても旺盛な好奇心に満ち、何と88歳で乗馬を始められたということも驚きでした。病院の管理者としても優れた手腕をお持ちでした。聖路加国際病院を大規模災害や事故に対処できるよう建て直し、幅広く取ったロビーや廊下では最初の応急処置や治療・手術ができるように酸素吸入器や医療機材を壁に配置してあったのです。実際に1995年の地下鉄サリン事件の際には多くの方が聖路加に運び込まれ、自ら陣頭指揮を取った病院長としての日野原先生の姿がテレビに映し出されていました。また、という書物には、日野原先生は生涯で3200もの医学論文を書いてきたとあって本当に驚かされました(80年で平均すると毎年40本!)。超人的な働きです。著作もインターネット書店のAmazonで検索すると864件がヒットしました。これまた驚くべき冊数です。私は日野原先生の姿を思う時、サムエル・ウルマンの「青春という名の詩」を思い起こします。「人は信念と共に若く、疑惑と共に老ゆる。人は自信と共に若く、恐怖と共に老ゆる。希望ある限り若く、失望と共に老い朽ちる」

 それだけではありません。日野原先生のすごさは、105歳の最後まで現役の内科医として働かれたという点にもありますが、朝日新聞の夕刊に定期的に連載されていたように、聖書やキリスト教の用語を用いずに、「神を愛し、自らを愛し、隣人を愛する」ことの大切さを誰にでも分かるように語ってこられたところにあると私は思っています。たとえば、グリーフケアに関して日野原先生は「か・え・な・い・心」の大切さを語られました。「①かざらず(正直・率直に)、②えらぶらず(上から目線ではなく)、③なぐさめず(深い沈黙の中で相手の悲しみを受け止め)、④いっしょにいる」姿勢をもって向かい合う相手に寄り添ってゆく。これまた実に味わい深い教えです。長く患者に寄り添ってこられた医師出あればこそ語る事ができる長老の智恵であると思います。

 

毒麦はどこから?

 イエスの毒麦のたとえに戻りましょう。現実の私たち人間の心の中には麦と共に毒麦も存在している。麦と毒麦がまぜこぜになっている。私たちは光と闇の両面を抱えていて、それを統合することができずに苦しみます。イエスは言います、「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」。その両方をそのままにしておくのです。その中でイエスに従うことを求めておられるのです。影の部分、毒麦のような部分を持ちながらも、それがどこから来たのか分からないでいたとしても、私たちはそれらを抱えたまま精一杯、自分に与えられたいのちを輝かしてゆくことができる。そのことを105歳まで貫かれた一人のキリスト者医師・日野原重明先生の生と死は証ししているように思います。たとえ現実には私たちの内外に数多くの毒麦があったとしても、私たちは神とつながり続けることを通して、正しい生き方を神の恩寵の中で味わい楽しみながら歩むことができるのです。

 これも日野原先生の言葉です。「臨終にあたり、『生きてきてよかった。今まで本当に感謝します。』と、家族や友人に別れの言葉を述べて亡くなった患者さんを、私は何人も看取ってきました。苦しい中でも、不安の中にあっても、『与えられたいのちに感謝する』と最後に言える人こそ、最高の死に方をされた人だと思います」(『メメントモリ』、p13)。私たちが内に弱さや罪や毒麦を抱えていたとしても、あの十字架の上に私たちを贖い、神と自己と隣人との三つの次元において私たちに和解をもたらしてくださった主イエス・キリスト。死してよみがえることを通して私たちのために永遠のいのちに至る門を開いてくださったキリスト。このお方が刈り入れの時にも責任をもって必ず私たちに関わって下さるのです。「罪人の頭のような私がもし天国に入れないとすれば、それはキリストの沽券(こけん/面目)にかかわります」(日基教団の総会議長をされた鈴木正久牧師の説教より)。

 このお方に信頼し、すべてを委ね、与えられたいのちに感謝しつつ、この新しい一週間もご一緒に踏み出してまいりましょう。お一人おひとりの上に神さまの豊かな守りと導きと祝福とがあるようにお祈りいたします。アーメン。

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