心と体

2017年11月11日 (土)

2017年11月5日(日)全聖徒主日礼拝説教「わたしがあなたがたを選んだ」

2017115日(日)全聖徒主日礼拝説教 「わたしがあなたがたを選んだ」大柴 譲治

ヨハネの黙示録 7: 9−17

「彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである。」16-17節)

 

「全聖徒(召天者記念)主日」に

 本日は「全聖徒主日」。毎年111日は「全聖徒の日」と呼ばれ、キリストによって「聖徒」とされた者を覚えて神に祈りを捧げてきました。そこから教会は11月の最初の日曜日を「全聖徒主日」として守るようになっていったのです。この日は別名「召天者記念主日」とも呼ばれます。天に召された信仰の諸先輩を覚えて祈る礼拝です。本日は特別に召天者たちの写真がこの前に並べられていますし、この礼拝に集ってくださったその家族の方々が少なからずおられます。今朝は152名の召天者のお名前が記された召天者のリストを週報と共にお渡しいたしました。そのうちの38名の方は(裏面参照)、この教会の納骨堂に収められている方々です。また聖卓の前には100人ほどのお写真が並んでいます。懐かしいお顔がたくさんあることでしょう。懐かしいあの声この声もその笑顔の中から聞こえてくるようでもあります。これらの方々は皆キリストの証人です。今年のイースターで私たち大阪教会は「宣教百年」を迎えましたが、このような先達たちの信仰の証しの上に、今日の大阪教会が置かれているということを心に刻みたいと思います。闇の中に輝く神の救いの光を信仰の先輩方は証しし、後の世代の私たちに指し示し続けているのです。

 

聖卓の向こう側とこちら側〜「天国に一番近い場所」

 ある意味で教会は「天国に一番近い場所」です。中心に置かれたキリストの食卓、ここでは毎週聖餐式が行われます。この聖餐式は終わりの日の祝宴の先取りであり、前祝いでもあります。今日は目に見えるかたちで召天者のお写真が並んでいますが、聖卓のこちら側には私たち生ける者が集います。同時に聖卓の見えない向こう側には、天に召された聖徒の群れが聖卓を中心に集っているのです。なぜならば、私たちが救い主として信じているキリストは、生ける者と死せる者の双方の救い主だからです。生きるとしても死ぬとしても、私たちキリスト者は主イエス・キリストのものなのです。私たちは生きるとすれば主のために生き、死ぬとしても主のために死ぬのです。生きるとしても死ぬるとしても私たちは主のものだからです。地上の教会と天上の教会がこのキリストの聖卓を中心として繋がっています。主は言われました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハネ11:25-26)。

 

NY姉のご生涯

 本日はそのように特別な日ですが、特に二日前の113日(金)に天に召されたNY姉が本日私たちと一緒に棺に安らうかたちでこの主日礼拝に参列されていることは特筆に値するでありましょう。西行法師は歌いました。「願わくは、花の下にて春死なん。その如月(きさらぎ=二月)の望月(もちづき=満月)のころ」と。自分が死ぬ時期を選べるとするならば、サクラの季節の満月の頃に自分は死を迎えたいものだと歌ったのです。私はそれを少しもじって次のように歌いたいと常々思っています。今は11月、霜月ですからそれに合わせるとこうなるでしょうか。「願わくは、主日聖餐礼拝の前にて秋死なん。その霜月の望月のころ」。

 前の教会にいた頃に、受難主日まで聖歌隊で歌い、その一週間後のイースターの礼拝には、サクラが満開の時でしたが、天に召されて棺に安らいながら聖餐礼拝に参加された女性信徒の方がおられました。もうほぼ20年が経ちますが、その方の生と死は私の中に忘れられない余韻を残しています。NY姉もその方同様の深い余韻を私の中には残しています。お嬢さんからお電話をいただいて前日から肺炎のために入院をされているということを知ったのは1031日(火)の夜19時過ぎでした。妻と二人で病院に伺ったのは面会時間が終わる20時の10分ほど前でしたが、主の祈りをしっかりした声で唱え、一緒にはっきりとした声でNYさんと讃美歌「いつくしみ深き」の一節を歌いました。NYさんは讃美歌が大好きで、お嬢さんはいつもお母さんのために讃美歌のCDをかけていたのです。「アーメン」とはっきりと力強い声で言われた時に、信仰の持っている力というものも私は生き生きと感じました。

 私たちは確かに死ぬまで生きるのです。しかしキリスト者は復活であり命であると宣言して下さる主が告げられている通り、私たちはたとえ死んでも生きるのです。キリストにある命は死によっても絶ちきられることがない。終わることがないからです。この全聖徒の日はそのことを私たちに力強く語っています。

 またイエスは次のように告げられました。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである(ルカ20:34-38)。私たちは「神の中に生き、動き、存在する」のです(使徒言行録17:28)。

 わたしたちは生きるとしても死ぬとしても主のものです。そのことは天地万物がひっくり返っても、揺らぐことのない真実です。私たちは「わたしは復活であり命である」と宣言して下さったイエス・キリストにすべてを委ねてゆけばよい。12弟子の中にいたヤコブとヨハネは兄弟でした。気性が激しくて「雷の子ら」と呼ばれたほどです。二人は対照的な生涯を送りました。ヤコブは殉教の死を遂げ、ヨハネは長寿の中で福音書や黙示録を書いたとされています。ヤコブ的な死であっても、ヨハネ的な死であっても、私たちは与えられた命を主と共に最後まで生きるのです。ヨハネ福音書は「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選んだ」15:16)というイエスの言葉を記録しています。イニシアティブは常に神の側にあるのです。

 

「あなたは死んでもいいですね。でも、生きているともっといいですね。」(あるカトリック神父の言葉)

 最後に印象的なエピソードを一つご紹介して終わりましょう。もう25年以上も前のことですが私は、かつて北里大学に勤務していたクリスチャン医師の坂上正道先生が心筋梗塞で自らCCUに緊急入院した時の体験を伺ったことがあります。坂上正道氏の所属する日本キリスト教団の教会の牧師がすぐ病院に駆けつけて祈りに来てくださったそうです。牧師は「坂上氏が家族にとっても、教会にとっても、病院にとっても、日本社会全体にとっても大切な存在であるということ」に触れつつ、病気からの回復について熱く祈ってくださったのだそうです。その時に坂上先生が、「そうか、自分はぜひとも頑張って治らなければいけないのだ」と思った途端に心電図が乱れ、モニターを見ていた医師が慌てて飛んできてその祈りを中断させたのだそうです。何日かして今度は、坂道先生の妻の所属するカトリック教会から外国人の神父が見舞いに来てくれました。その神父は祈るわけでもなく、ニコニコと笑いながら手を握り、「あなたは死んでもいいですね。でも、生きているともっといいですね」と言ってくれたそうです。その言葉を聞いた時、「ああ、そうか。自分は主において死んでもいいんだ」と思うと心底ホッとした気持ちになりましたと坂上氏は語って下さいました。それは私にとっても忘れることのできない言葉でした。私たちの人生は、主にあって死ぬことも許されている人生なのです。頑張らない人生、しかしそれは明るい光の中に置かれた諦めない人生でもあるのです。なぜか。キリストが私たちを選び、キリストが私たちを掴んでいてくださるからです。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」。

 

 聖徒たちの人生が神の豊かな選びの祝福の中に置かれていたように、ここにお集まりの皆さんお一人おひとりの上にも神が臨み、その祝福が豊かに注がれますようお祈りいたします。アーメン。

2017年10月31日 (火)

2017年10月22日(日)聖霊降臨後第20主日礼拝説教「神のものは神に」

20171022日(日) 聖霊降臨後第20主日礼拝 説教「神のものは神に」 大柴 譲治

マタイによる福音書 22:15−22

イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」18-21節)

 

ローマ帝国の属国としてのイスラエル〜ガリラヤ地方とユダヤ地方

 本日の福音書の「税金問答は、イエスのエルサレムでの最後の一週間に起こった出来事の一つです。マルコとルカに平行箇所があります。エルサレムでの宮清め以降、イエスはユダヤ教の指導者たちと公に鋭く対決します。「権威についての問答」「二人の息子のたとえ」「ぶどう園と農夫のたとえ「婚宴のたとえ」も、イエスは祭司長(=サドカイ派)や律法学者(=ファリサイ派)等、当時のユダヤ教の指導者階級を鋭く批判し、彼らの怒りと憎しみを買ってゆきました。最後には結局彼らが民衆を操作して「イエスを十字架にかけよ」と叫ばせ、イエスを十字架に架けて殺してゆくのです。人間の眼には結局、彼らがイエスに対して勝利したかたちになりました。しかし実はそこで神の救いが成し遂げられていたということがイエスの復活を通して明らかになっていったのです。

 今日の箇所には「ファリサイ派」「ヘロデ派」という二つのグループが登場します。この二つのグループは実は犬猿の仲でした。そのことを理解するためには当時のイスラエルが置かれていた政治状況を思い起こす必要があります。イスラエルはローマ帝国の属国としてその支配下に置かれていたのです。広く地中海沿岸を支配するローマ帝国はある意味大変賢い統治の仕方をしました。二つのことだけを守れば、あとはそれぞれの民族の自治権や宗教や価値観を認めていったのです。二つのこととは、①「ローマ皇帝(カエサル)に対する忠誠義務」②「ローマ帝国に対する納税義務」でした。をチェックするためにローマはガリラヤ地方とユダヤ地方に対しても異なる二つの方法を取っています。ガリラヤ地方には親ローマ派であるユダヤ人ヘロデ・アンティパスが領主として任命されていましたし、ローマの「直轄地」であったユダヤ地方にはローマから総督のポンティオ・ピラトが派遣されていました。ピラトがイエスをローマ帝国に対する反逆者として有罪とし、十字架に架けて殺した直接の責任者です。十字架刑はローマ帝国の反逆者に対して与えられた極刑でした。ユダヤ人たちは宗教的な自治権を持っていましたから、イエスが神を冒涜するという罪を犯したのであれば自分たちで裁判をして石打の刑に処することもできたはずだったのです。ピラトはイエスを吟味した際に何の罪をも認めることはできなかった。むしろその時暴動と殺人で捕らえられていたバラバの方がピラトに遙かに危険人物に思えました。だからイエスを無罪にして、バラバを処刑したかった。しかし結局彼は律法学者に煽動されて「イエスを十字架に架けよと叫ぶ民衆の声に従わざるを得なかったのです。そこで暴動が起これば、ピラトの責任問題になって失脚するかもしれないからです。

 「ファリサイ派」「ヘロデ派」についても触れておきます。前者は旧約の律法を大切に守ろうとする「ユダヤ分離主義」の立場に立つグループ、後者は親ローマ帝国の立場を取るガリラヤの領主ヘロデ・アンティパス一家に親近感を抱くグループです。聖書は黙して語りませんが、実はガリラヤ湖の西岸にはヘロデによって「ティベリアス」というローマ皇帝(在位AD14-37年)の名を付けられたローマ風の大都市が建築されていました。イエスとその一行はその地に足を踏み入れないばかりか、近寄りさえしていません。ローマ帝国への税金を支払うことを快くは思っていないファリサイ派とローマに協力し税金制度を支えるヘロデ派。立場を全く異にする二つのグループがイエスを陥れようとする一点で結託してここには登場しているのです。彼らの目的は明確でした。ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した15節にはありますが、イエスを言葉の罠にかけて失脚させるためでした。彼らはイエスを「超危険人物」として恐れ、憎み、排斥しようとしていました。そのためずる賢くもよく考えられた税金についての質問を、実に巧妙にイエスに対して問うたのです。

 彼らはまず歯が浮くような美辞麗句をイエスに対して並べ立てます。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです16節)。ここに語られている言葉はすべて正しくイエスに当てはまる言葉ですが、彼らは実は心の中では全く微塵もそのようには考えてはいません。この世の生活ではよくあることなのかもしれませんが、人間は本心とは全く違う次元でへつらいの言葉を空しく語る事ができる。真実の言葉を語ると逆に人間関係では浮いてしまうということが起こるのかもしれません。イエスは真実の人」で、「真理」に基づいて「神の道」を人々にストレートに教え、誰をもはばかる(へつらう)ことがなかったためにユダヤ教の指導者階級などの人々の憎しみを買い、彼らからは自分たちの存在を脅かす「危険な敵」とみなされて殺されたとも言えるのです。人間は「光」よりも「闇」の方を好むのです。

 

ファリサイ派とヘロデ派の「巧妙な罠」とイエスの答え:「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」

 日課に戻りましょう。そのように嘘とへつらい、おべっかを語った後にファリサイ派とヘロデ派はイエスに問いかけます。ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか17節)。これは巧妙な罠です。もし「適っている」と、つまり「皇帝に税金を納めるのはユダヤの律法に対して合法である」と答えるとイエスは反ローマ的心情を抱く多くのユダヤ民衆の失望と怒りを買うことになりますし、「それは律法に適っていない。合法ではない」と答えるとイエスは納税に異を唱えたことになってローマ帝国に対する政治的な反逆者となります。どう答えてもイエスの立場は危うくなる。当然ながらイエスはそれが罠であることにすぐに気づきます。「イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。『偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか』」。そしてこう言われました。「税金に納めるお金を見せなさい」と(18-19節)。当時のローマの貨幣であったデナリオン銀貨(1デナリオンは労働者一日分の賃金)にはローマ皇帝の肖像が刻まれ、「アウグストゥスの子、神なる皇帝ティベリウス・カエサル」という銘が刻まれていました。その次に起こったことをマタイは淡々と記しています。「彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、『これは、だれの肖像と銘か』と言われた。彼らは、『皇帝のものです』と言った。すると、イエスは言われた。『では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい』19-21節)。「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」よく知られたイエスの言葉です。結局ファリサイ派とヘロデ派は「これを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った」とあります(22節)。彼らはイエスの毅然とした言葉の前に一言も言い返すことができません。この出来事が私たちにとって何を意味しているのかが本日の主題です。

 一つの興味深い解釈があります。ここでイエスは二つの税金に触れて語っているというのです。その説によると「皇帝のもの」とはデナリオン銀貨で収められる「ローマの人頭税」(男性は14歳から65歳までの男性、女性は12歳以上65歳に対してかけられる年額1デナリオン)を意味し、「神のもの」とは神殿に捧げられる「十分の一税(神殿税)」のことと説明されます。そう理解するとイエスのこの「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という答えは、「ローマの税金」「ユダヤの神殿税」の両方を神の前に相対化した言葉ということになりましょう。確かにここでイエスは税金のことに関しては全く無関心です。それはイエスが十字架を前にして「神の国は近づいた」という終末論的な強い自覚を自ら持っていたからでもありましょう。イエスは十字架を見据えながら常に「人のこと」ではなく「神のこと」を考えているのです(ペトロがイエスにサタンと叱責されたエピソードをも参照。マタイ16:23

 皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさいというイエスの言葉は、人間世界の税金の次元を遙かに超えて、私たちに神の御心、神の次元に思いを向けるよう命じています。それは私たちに心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、すべてを尽くして主なる神を愛することを命じた言葉であるように思うのです。パウロ的に言えば、私たち自身、「キリスト者」、すなわち「イエスの焼き印」(ガラテヤ6:17)をこの身に帯びる者として、生きるとしても死ぬとしても「主のもの」だからです(ローマ14:8)。「もはや生くるは我にあらず。キリスト我がうちにありて生くるなり」(ガラテヤ2:20)。私たちの魂にはキリストの像と銘とが刻まれているのです。だから、何を食べようか何を着ようか思い煩わず、ただ神の国と神の義を求めること。イエスの十字架を通して神の国と神の義は鮮やかに示されています。ここにこそ私たちを生かす真実の言葉があって、豊かな神の祝福が約束されています。

2017年10月19日 (木)

2017年10月15日(日)聖霊降臨後第19主日礼拝説教“Can you celebrate?”

20171015日(日)聖霊降臨後第19主日礼拝 説教 Can you celebrate?” 大柴 譲治

イザヤ書 25: 1− 9

6 万軍の主はこの山で祝宴を開き、すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。・・・9 その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう。 6節、9節)

マタイによる福音書 22: 1−14

2「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。3 王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。4 そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』(2-4節)

 

Can you celebrate?”

 19977月のことでした。私が家族と共に二年間の米国フィラデルフィアでの留学を終えて日本に帰国した時に、とても流行していた曲に安室奈美恵のCan you celebrate?という曲がありました。曲自身の内容としては恋愛の歌でしたが、私はそのタイトルに強く惹かれました。より正確に言えば、 Can you celebrate your life (yourself)?”ということになるでしょうか。「あなたは自分自身のライフ(生活/いのち/人生)を喜び祝っていますか?」という意味です。このタイトルに触発されて、私は私がその時に着任した教会の翌年の年間宣教主題をCelebration(いのちの祝宴を喜び祝う)」という言葉に定めたことを思い起こします。「セレブレイション」とはとてもよい響きを持った言葉ですね。自分自身を含めて、私たちは神から与えられた自分自身という日々のいのちを大切にしているか、喜び祝うことができているかどうかが問われているのだと思います。

 宮澤賢治は私たちの人生を「祝祭」にたとえましたが、聖書も同様です。この世界を創造された時に神は、それを見て「良し」と七度も繰り返して祝福しておられます(創世記1章)。その神の祝福にも関わらず、神に背き、自らを神のようになれると思い上がって罪を犯してゆく人間の姿が、創世記の3章以降には描かれることになります。しかしそれにも関わらず、聖書の基調音は神の祝福の言葉なのです。聖書は繰り返して、神が私たちのために天の祝宴を準備し、私たちをそこに招いてくださっていることを告げています。

 

「婚宴のたとえ」

 今週の土曜日には教会員の結婚式、華燭の祭典が行われることになっていて私たちは大きな喜びの中に置かれていますが、本日の福音書の日課にはピッタリと時宜を得たように「婚宴のたとえ」が記されています。実はこれは天国のたとえの一つです。この婚宴のたとえは天国、すなわち神の国は実はこのようなものなのだということを説明したたとえなのです。並行箇所としては記されているようにルカ福音書19章にも出て来ます。

 またヨハネ黙示録19章には小羊の婚宴が預言されていて、その言葉にもつながってゆくたとえでもあります。4 そこで、二十四人の長老と四つの生き物とはひれ伏して、玉座に座っておられる神を礼拝して言った。『アーメン、ハレルヤ。』5 また、玉座から声がして、こう言った。『すべて神の僕たちよ、神を畏れる者たちよ、小さな者も大きな者も、わたしたちの神をたたえよ。』6 わたしはまた、大群衆の声のようなもの、多くの水のとどろきや、激しい雷のようなものが、こう言うのを聞いた。『ハレルヤ、全能者であり、わたしたちの神である主が王となられた。7 わたしたちは喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、花嫁は用意を整えた。8 花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、聖なる者たちの正しい行いである。』9 それから天使はわたしに、『書き記せ。小羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ』と言い、また、『これは、神の真実の言葉である』とも言った。」(黙示録19:4-9

 先に申し上げたように、実は神の国が救いを喜び祝う「祝宴(セレブレイション)」としてたとえられているのは聖書のあちこちに出てきます。本日の第一日課イザヤ書25章にもこうありました。万軍の主はこの山で祝宴を開き、すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。主はこの山で、すべての民の顔を包んでいた布と、すべての国を覆っていた布を滅ぼし、死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい、御自分の民の恥を、地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう」6-9節)。 まさに天の国の祝宴を彷彿とさせる描写です。

 また、ルカ福音書15章にはイエスの「失われた一匹の羊のたとえ」「失われた銀貨のたとえ」そして「放蕩息子のたとえ」の三つが語られていますが、そこでも失われたものが見出された時には天では大きな祝宴が開かれるということが宣言されていました。神は私たちのために天のセレブレイションを開いてくださるのです。今小教理問答で洗礼の準備をしておられる方々が5人おられます。いつどこでどのようなかたちで洗礼を受けることになるかは神さまの決められる出来事となると思いますが、私はそれらの人たちとの関わらせていただく中で、天のセレブレイションに与る幸いということを強く思いながら商況問答のクラスを進めています。イエスを救い主として信じて洗礼を受けるということは、天の祝宴に連なると言うことなのです。あなたたちはそのことを喜び祝うことができているか。 Can you celebrate?” とイエスご自身が、本日の婚宴のたとえを通して私たち一人ひとりに問いかけておられるのではないかと思わずにはいられません。イエスがこの地上に降り立ち、私たちの罪と恥を背負って十字架にかかり、死してよみがえることを通して私たちを永遠のいのちへと招き入れてくださったこと。これ以上のセレブレイションはありません。

 今日も私たちは聖餐式に招かれていますが、これは「終りの日の祝宴の先取り」であり「前祝い」でもあります。そのことが一番よく分かるのは、11月の第一日曜日、召天者の写真をこの前に並べて礼拝を守る「全聖徒の主日」でありましょう。このキリストの聖卓の、目に見えるこちら側には私たち生ける者が並びますが、聖卓の向こう側には天に召された聖徒の群れが集っているのだと信じます。なぜならキリストは生者と死者の双方の救い主となってくださったからです。

 

私たちの罪の現実の中に降り立ってくださった「生ける神のいのちの言」としてのイエス・キリスト

 私たち人間の現実は、イエスの語られたたとえにあるように、神が準備してくださった「婚宴/祝宴(セレブレイション)」に招かれてもその大きな価値に気づかず、その招待を拒絶してしまうところにありましょう。招待されていることに気づかない場合もあるかもしれませんし、自分は相応しくないと自らそれを辞退してしまうこともあるかもしれません。「私たちの罪」が私たちの眼を遮るのです。神がその独り子を賜るほどこの世を愛してくださったのは、御子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命の祝福を得るためでした。月が太陽の光を遮る時に「日蝕」が起こるように、私たちの罪が神の祝福の光を遮る時に「神の蝕」が起きるのだと洞察した20世紀のユダヤ人の思想家マルティン・ブーバーのような人もいます。祭司長や律法学者、ファリサイ人たちユダヤ教の指導者たちは天の祝宴への招待を自分の都合で断ってゆくのです。何ともったいないことかと思います。同時に私たちが招かれていることを、何と有り難いことかとも思うのです。イエス・キリストがその十字架の苦難と死と復活とを通して「神の蝕」を造り変えて下さったのです。イエス・キリストの中にこそ私たちの「祝福の基、祝福の源」があります。この命の光は闇の中で輝いています。そして「闇はこれに勝たなかった」のです(ヨハネ1:5)。聖書は私たちに神の声を響かせています。私たちが神の祝福を喜び祝うことができているかどうか。 Can you celebrate?” Can you celebrate God’s blessings?”と問いかけているのです。私たちははっきりとご一緒にこう答えたいと思います。 Yes, we can! We praise you from our heart. We are celebrating your blessings upon us.” (「はい、私たちはあなたの祝福に心から感謝して、その救いを祝って喜び躍ろう!」)と。 

 お一人おひとりの上に神の祝福と愛とが豊かに注がれますように。アーメン。

2017年10月14日 (土)

2017年10月8日(日)聖霊降臨後第18主日礼拝説教「託された公共性」

2017108日(日)聖霊降臨後第18主日礼拝 説教「託された公共性」   大柴 讓治

マタイによる福音書 21:33−46

イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』」(42節)

 

ブリューゲルの『バベルの塔』

 昨日中之島の国立国際美術館で開催されているブリューゲルの『バベルの塔』展を観てきました。創世記11章に記されているバベルの塔の物語を題材にして、16世紀の画家ペーテル・ブリューゲル(ネーデルランド。現在のオランダ)が大変に精緻な作品を描いていて、御覧になられた方もおられることでしょう(1015日までの展示)。

 このブリューゲルの作品『バベルの塔』は、それほど大きな作品ではありませんが(ほぼ60cmx75cm)、細部まで大変に精密に描かれていて心に残りました。何とそこには1400人もの人物像が描かれているということでした。レンガや石灰を塔の上部に持ち上げるなど建築工事に携わる人や礼拝堂に向かって進む人々と並び、洗濯物を干す人なども描かれているのでした。一人ひとりの大きさは3ミリほどでしょうか。驚きました。展覧会の最後には、ブリューゲルが「ミクロの視点」「マクロの視点」、つまり細部に至るまで忠実に描写することと同時に全体を見据えた大きな視点から描いていること、その両方の視点を大切にしてこの作品を完成させたことが説明されていて、確かにその通りであると思いました。人間の持つ可能性のすばらしさ、科学技術というものの大きな可能性をそこに深く感じ取ることができました。同時に私たちはそれがどのような結果をもたらしたかということをも知っています。

 「バベルの塔」は大変ダイナミックな物語です(創世記11:1-9)。まだ全地が一つの言葉だった時に人間が「天」にまで届く塔を建てようということで、レンガを焼いて、力を合わせ、協力し合って塔の建築を進めてゆきます。その目的は「天まで届く塔のある町を建てて有名になること」「それによって全地に散らされることを避けること」という二つがあったと創世記には記されています。しかし、「天(神)に等しい者になろう」とする人間の傲慢を怒った神が塔を崩し、人々の言葉を「混乱させ(バラル)」、彼らを全地に散らせたということでその町には「バベル」という名が付けられたのです。アダムとエヴァがヘビの誘惑に負けて禁断の木の実を取って食べた時(創世記3:5)同様に、そこでは自ら「神のようになろう」とする人間の「罪」が問題となっています。神の被造物である人間が、その分際を弁えずに自ら神のようになろうとする。その「傲慢さ」について警鐘が鳴らされているのです。モーセの十戒の第一戒で神は人間にはっきりと「あなたはわたしのほかに、なにものをも、神としてはならない」(出エジプト20:3)と告げています。「まことの神以外のものを神としない。まことの神を神とする」ということが私たち人間には求められているのです。それを忘れてしまう時にどのような結果がもたらされるかを「バベルの塔の物語」は私たちに教訓として教えています。「まことの神を神とする」という神との信頼関係、人格的な応答関係の中でこそ、私たちは「ミクロの視点」「マクロの視点」の両方を大切にして生きるよう求められているのでありましょう。

 

「ぶどう園と農夫のたとえ」

 本日の福音書にはイエスの語られた「ぶどう園と農夫のたとえ」が記されています。主人からの絶大な信頼の中にぶどう園の管理を託された農夫たちがそれを私物化してしまい、収穫時に主人から派遣された僕たちを次々に殺して、最後には跡取り息子をも殺してしまうという無残なたとえです。このようなたとえを含め、私たちが聖書を読むときに与えられる視点は「ミクロの視点」と「マクロの視点」の二つがあると思います。私たちはある思いに囚われると自分の目の前のことだけしか見えなくなって、視野が狭まり、それだけのことしか考えられなくなりがちです。「ミクロの視点」しかなくなってしまうことが多い。しかしそのような私たちに聖書は「神の視点」という自分を越えた大きな「マクロの視点」があることを示してくれます。この視点を知り、この視点から事柄を見ることができるようになった時に、私たちは自分の目からウロコが落ちたように感じ、それまでの狭かった視野が開かれてゆくのです。

 この「ぶどう園と農夫のたとえ」を読むと私などは、ぶどう園の主人があまりにも善意の人であり、農夫たちを信じ続けるそのおめでたさ、愚かさにイライラしてしまうようなところがあります。農夫たちの善意を信じて疑うことを知らない主人の、あまりにも楽天的かつおバカさんな態度に閉口してしまうのです。ぶどう園の主人は私たち人間の現実を知らなすぎるのではないか、そう思ってしまいます。皆さんはいかがでしょうか。もし私たちがそのように感じてしまうとすれば、恐らく私たち自身もぶどう園を託された農夫と同じような心を持っているからでありましょう。神のぶどう園を私物化し、その私物化を守り抜くためには手段を選ばず何でもするというような狡猾さを私たちは確かに持っている。もしかするとそれは、「死すべき有限な存在」である自らを「神」と同じような「無限であり、永遠である存在」として位置付けてゆきたいと思っているのかもしれません。

 43節以降でイエスが説明しているようにこのたとえでは「ぶどう園の主人」「神」「ぶどう園」は「神の国」、「ぶどう園を託された農夫たち」「祭司長たちやファリサイ派の人々」というイスラエルの指導者階級、「主人から派遣された僕たち」「預言者たち」、「最後に派遣された跡取り息子」「イエス・キリスト」を指しています。「だから言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」と言われている通りです(43節)。祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである」45-46節)とあります。神のことを忘れ、自分たちのことしか考えようとしない「ミクロの視点」しか持たない彼らには、神の大きな救いの御業をイエスにおいて見てゆこうとする巨視的な「マクロの視点」は全く理解できませんでした。私たちは人のことばかりを思うのではなく、神のことを思うべきなのです。聖書は私たちに「神の視点」、神の救いのご計画から事柄を捉えてゆくという動的でダイナミックな「マクロの視点」を与えてくれます。

 

家を建てる者の捨てた「隅の親石」

 イエスは言われます。聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える42節。詩編118:22-23)。神のなさることは私たち人間の眼からは本当に「不思議なこと」に見えるのです。建築家の眼から見ると全く役に立たず不要に思われて捨てられた石が神によって隅の親石として据えられてゆくというのですから。この場合の「親石」「頭石」「要石」とも呼ばれますが、そこには二つの意味があります。一つには建物全体を支える重要な「土台」「礎石」としての働きです。日本建築の場合には家の中心に置かれる太い「大黒柱」と言うところでしょうか。もう一つは、アーチなどを造る際に一番最後に、最頂点の部分にそれを保つために埋め込まれる石を指す場合があります。エフェソ2章には「キリストこそわたしたちの平和であり、十字架によって敵意という隔ての中垣を取り除き、神との和解をもたらせてくださった」とありますが、神との和解のアーチを完成させるための最後のワンピースとしてイエスは派遣されたということなのでしょう。神はその独り子が捨てられ十字架の上で殺されるということを通して、私たちの眼には思いも寄らなかったような不思議な救いの御業を成し遂げてくださったのです。神は「その独り子を賜るほどこの世を愛された」。それは「御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠のいのちを得るため」でした(ヨハネ3:16)。

 いずれにせよ、神が最後に派遣した独り子イエス・キリストという親石によって、私たちの思いを遙かに超えるような不思議なかたちで神の国は完成し、その「親石」のもとに私たち一人ひとりは集められ立てられているのです。この神の愛とキリストの従順が私たちの罪を雪よりも白くしてくださる。「ミクロの視点」によって自分のことしか考えることができなかった私たちに、キリストを通して「マクロの視点」を与えてくださった神に感謝を捧げたいと思います。このような思いをもって、神の委託に正しく応えてゆきたいと思います。私たちに託された「神のぶどう園」を私物化するのではなく、多くの人々と共にその恵みを公に分かち合ってゆくためにも、「神に託された公共性」というものを大切にしつつ、「忠実な管理人」として私たち一人ひとりに委ねられている賜物を正しく管理し用いながら、ご一緒に新しい一週間を踏み出してまいりましょう。神の祝福が豊かにありますようにお祈りします。アーメン。

2017年10月 7日 (土)

2017年10月1日(日)聖霊降臨後第17主日礼拝説教「天からの権威によって」

2017101日(日)聖霊降臨後第17主日礼拝説教「天からの権威によって」   大柴讓治

第一日課:エゼキエル書 18: 1− 4、25−32

「わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。32節)

第二日課:フィリピの信徒への手紙 2: 1−13

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。6-8節)

福音の日課:マタイによる福音書 21:23−32

イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」24-25節)

 

エゼキエルの預言の言葉:「あなたがたは飜って、生きよ」(口語訳)

 本日の旧約の日課のエゼキエル書の18章には次のような言葉がありました。私たち、聴く者の心に深く、そして真剣に迫ってくる神の言葉です。「『それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ』と主なる神は言われる。30-32節)

 神は誰の死をも喜ばれないのです。「お前たちは、どうして死んでよいだろうか。あなたがたは生きなければならない。神に立ち帰れ。あなたがたは飜って、生きよ」。大変に熱い、まっすぐに私たちの魂に悔い改めを迫る言葉です。神は私たち一人ひとりに対してこれほどまでに真剣に関わって下さるのです。「わたしはあなたのことを放ってはおけない!あなたはわたしの目には価高く、貴く、わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4)。このような真摯な言葉と態度をもって自分と関わってくれる存在を持つ者はまことに幸いであると言わねばなりません。神は「ねたむ神」であり「熱情の神」(出エジプト20:5と言われている通りです。モーセの第一戒にあるように神は、神を神としない者、神以外のものを神とする者に対してその罪を悔い改めるように迫ります。マザーテレサは「愛の反対は憎しみではありません。無関心です」と言いました。無関心・無関係・無感覚・無感動。深い関わりを持とうとしない者が多い中で、神は私たちに常に真剣に向い合って下さるのです。「あなたはわたしにとって大切な存在。わたしはあなたを愛している。だから、あなたは滅びてはならない。飜って生きよ」と。「神の権威」はこの呼びかけの真実さの中に明らかです。この神からの呼びかけにどのように答えることができるかが私たちに問われています。

 

権威についての問答

 本日の福音書にはイエスと祭司長・民の長老たちとの間での権威についての問答が記されています。イエスがエルサレム神殿で(旧約)聖書について教えておられた時に、祭司長や民の長老たちが近寄ってきて問うたのです。何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか」と。「このようなこと」というのは、文脈から読むと、マタイ21章に記されている子ロバに乗って神の都エルサレムに入城されたということや、エルサレムの神殿から商人たちを追い出したという宮清めの出来事などをも含めていると思われます。

 「祭司長や民の長老たち」(並行箇所のマルコ福音書11:27ではそこに「律法学者」も加えられています)が「イエスの権威」を問います。彼らはユダヤ教の社会の中にあっては宗教的な「権威者」でした。イエスによってその彼らの権威は脅かされたのです。彼らは自分たちの権威を守ろうとしています。その問いの背後には「イエスよ、お前は本当に神の権威によって立てられたのか?お前は自分勝手に、人からの権威を天からのものであると思い込んで行動しているだけではないのか」というイエスを「冒涜者」として見る批判的で否定的な思いが込められていましょう。

 これまでイエスはしばしば「律法学者のようにではなく、権威ある者のように」振る舞い、そのように周囲から受け止められてきました(マルコ1:22、マタイ7:29)。会堂で一人の男に取りついた汚れた霊を「黙れ、この人から出て行け」と命じて追い出した時にも、人々は皆驚いてこう言っています。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く」と(マルコ1:27)。神の権威によってイエスは人々に真剣に向かい合い、深く関わってきました。イエスのキリストとしての権威は、祭司長や律法学者、長老たちにはどうしても認めることができなかった。イエスの生き方の中に、神が真剣に私たち人間の「悔い改め」を求めているという次元を彼らは見ることができませんでした。神からの「お前たちは死んではならない。飜って生きよ」という真摯な声に対して彼らは自分の耳を塞ぎ、それを聴き取ることはできなかったのです。イエスの生と死は、そのような神からの悔い改めを呼びかける熱い確かな声であったのに、彼らは全くそれに気づかないのです。

 イエスは権威の根拠を問う彼らに対して逆に質問をしています。洗礼者ヨハネの権威について彼らに問い返しているのです。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか」24-25節)。洗礼者ヨハネは荒野で「悔い改めよ。天の国は近づいた」と呼びかけ、ヨルダン川で悔い改めの洗礼を行ったイエスの先駆者です。マタイは彼らのリアクションを次のように記しています。「彼らは論じ合った。『「天からのものだ」と言えば、「では、なぜヨハネを信じなかったのか」と我々に言うだろう。「人からのものだ」と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。』そこで、彼らはイエスに、『分からない』と答えた。すると、イエスも言われた。『それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい』」25-27節)。このようなごまかしの線上に立つ限り、祭司長や律法学者、長老たちには、私たち一人ひとりに真剣に悔い改めを迫る神の真実の愛を理解することは永遠にできなかったことでしょう。私たちは今日ここで、私たちに悔い改めを迫ってくる神の真剣な声に耳を傾け、魂を開いてゆきたいと思います。

 

「キリスト讃歌」において「キリストのへりくだりと従順」を通して示された「天からの権威」

 本日与えられている第二日課(使徒書)はフィリピ書2章。初代教会の「キリスト讃歌」という讃美歌が記録されている箇所です(6-11節)。残念ながらメロディーは分かりませんが、それはこういう歌詞でした。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、(それも十字架の死に至るまで)従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」。括弧に入れたそれも十字架の死に至るまで」という一節だけはどうしてもここで十字架の死にまで貫かれたキリストの「へりくだりと従順」について触れたかったパウロの加筆です。

 私たちの悔い改めを真剣に求める神は、そのためにその独り子イエス・キリストを天からこの地上に派遣し、その十字架の苦難と犠牲の死という「贖い」を通して私たちの救いを備えて下さったのです。神はその独り子を賜るほどこの世を愛してくださった。それは御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠のいのちを得るためだったのです(ヨハネ3:16)。イエスの徹底した父なる神への従順・服従が父の権威と愛とを証ししています。イエスはそのような天からの愛の権威をもって私たちに迫ります。「わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちはわたしに立ち帰り、飜って生きよ」。この天からの確かな声に応えつつ、ご一緒に新しい一週間を踏み出してまいりましょう。

 お一人おひとりの歩みの上に神の愛が豊かに注がれますようにお祈りいたします。 アーメン。

2017年9月24日 (日)

2017年9月24日(日)聖霊降臨後第16主日礼拝説教「ヒューマン・ビーイング」

2017924日(日)聖霊降臨後第16主日礼拝 説教「ヒューマン・ビーイング」 大柴讓治

マタイによる福音書 20:1−16

主人はその一人に答えた。「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」(13-14節)

 

この世の常識的な視点から見ると

 本日はマタイ福音書にしか出てこないイエスの有名な「ぶどう園と労働者(農夫)のたとえ」が与えられています。それは一度聴いたら忘れられないほどの強いインパクトを持ったたとえです。先週の「七を七十倍するまで赦せ」という言葉もインパクトがありましたが、イエスの語るたとえは、「神のこと」を考えず「人間のこと」ばかりを考えてしまう私たちに、「神のこと」即ち「神が何を一番大切にしておられるかということ」を示しているのです。

 それにしても本日のぶどう園のたとえは、私たち人間が大切に培ってきた資本主義社会の原則をも崩すような際どいたとえです。このたとえは「この世の常識」を、即ち「賃金」を「費やした労働時間」や「達成した業績」から測ろうとする「資本主義経済構造」そのものを危機に陥れようとする「危険な話」です。ぶどう園の主人は、「夜明け」(朝6時頃でしょうか)から12時間も懸命に働いた者にも夕方5時から1時間しか働かなかった者にも等しく「一日分の給与(1デナリオン)」を払おうとするのですから。私たちは「これはアンフェアな取り扱いではないか」と言う一日中汗水垂らして働いた労働者たちの不満がよく分かります。「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは!」12節)。誰もが彼らの言葉をもっともだと思う。私たちもどこかでそのように思っています。それが「この世の常識」だからです。

 

神の憐れみの視点から見ると

 しかし、イエスさまの譬えはいつも私たちに「あなたはどの立場からものごとを見ているのか」と鋭く問うてきます。「健康な者」「12時間働き詰めに働くほどの強い体力を持った壮健な者」の立場から見ると彼らの不平不満はよく分かるのですが、もし「声無き者たち」「夕方5時に雇われた労働者」の立場に自分を置いてみた場合に私たちはどう感じるでしょうか。彼らもおそらく、朝から仕事を求めてずっとあちらこちらの広場を渡り歩いていたに違いありません。しかし仕事を見出すことはできなかった。なぜでしょうか。もしかすると彼らは、体格が貧弱でいかにも力がなさそうに見えたのかもしれません。動作が遅かったり、機転が利かなかったり、高齢だったり、身体的なハンディもあったのかもしれない。通常労働者は強健な者から選ばれて雇われてゆくのです。タイミングの問題もあったかもしれません。仕事をしたい気持ちはあっても、何らかの理由で彼らは誰にも雇われなかった。それゆえに彼らは、どうやって家に帰ろうかと思いながら、夕方5時まで空しく広場に立ち尽くしているしかなかったのです。もうこのまま空しく一日が終わろうとしています。

 6-7節に描かれた情景から彼らの思いがよく伝わってきます。(主人が)五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った」。「だれも雇ってくれない」とは空しく一日立ち尽くした彼らの深い諦めの言葉です。主人から「ぶどう園に行きなさい」という言葉をもらった時、彼らはどれほど有り難かったことでしょうか。本当に助かったと思ったに違いない。彼らにも養うべき家族があったはずです。家には子どもたちが空腹で父親の帰りを待っているかもしれないし、老いた両親を妻が看病していたのかもしれない。その背後にはやはり様々な人生があるのです。先日7月17日にこの教会で行われた3ルーテル教会宗教改革500年記念合同礼拝の際に、90人に90の物語」というキャッチコピーをルーテル神学校の石居基夫校長が語っておられましたが、労働者たちには彼ら自身の大切な物語があるはずです。立ち尽くした彼らに対するぶどう園の主人のまなざしはどこまでも温かく、深い憐れみに満ちていたに違いありません。そのぶどう園の主人が行ったある意味「非常識な雇用」は、深い憐れみに裏打ちされた「神の恵みの御業」だったのです。

 そのように読んでくると、朝から夕方まで一日空しく立ち尽くした人たちの気持ちを私たちもまた容易に想像することができるように思うのです。朝6時から仕事を得ることが出来た者にも、9時から働いた者にも、12時からの者にも、3時からの者にも、5時からの者にも、主人は区別なく、等しく温かいまなざしを注いでいるのです。ぶどう園の主人とは神のことです。そのぶどう園とはこの地上の生活を意味しましょう。私たち人間は、一人ひとり個性や能力が異なっているとしても、神の前に同じいのちの価値を持っているからです。本日の旧約の日課にはヨナ書の最後の部分が与えられていましたが、そこにはこういう神の言葉がありました。神が日陰を作るためにヨブのために備えた「とうごまの木」が枯れたことを惜しんで「生きているより、死ぬ方がましです」と神に不平不満をつぶやくヨナに対して告げられた言葉です。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから」(ヨナ4:10-11)。神はそのように私たち一人ひとりの「いのち/存在(Being)」を惜しんで下さる憐れみ深いお方なのです。

 

“Human Doing”ではなく“Human Being”としての人間

 英語で人間のことを human being と言います。これは直訳すると「人間的な存在」という意味の語です。私はいつも思います。人間とは human being” であって human doing” ではないのだと。現代は「何かを行う(doing)」ということに異常なほど重きを置く社会であり世界です。その人がどのような特殊技能や能力を持っているか、どのような業績を上げてきたか、どのような地位や財産、社会的な信用を得てきたか。行為や業績(Doing)にばかり目が行って、人間の存在(Being)ということは疎かになってしまっている社会です。しかしそのようなこの世の価値観の中で、本日のイエスのたとえは私たちに神の視点からの見方を教えています。それは私たちの存在Beingそのものに焦点を当てる神の視点です。その神のまなざしの中では私たち一人ひとりがかけがえのない大切な価値を持っているのです。イザヤ書が「あなたはわたしの目には価高く、貴く、わたしはあなたを愛している」と預言している通りです(43:4)。

 今日は忍ヶ丘礼拝において一人の96歳の女性の洗礼式が行われます。本日のイエスのたとえは私たちがこの世の人生においてキリストに出会うことの幸福について示しているとも読むことができましょう。スイスの精神科医のカール・グスタフ・ユングの「人生の午後の時間のために」という言葉を想起します。ユングによれば人生には午前と午後があって、午前中に私たちは懸命に遊び、勉強し、就職して仕事をし、結婚して家庭を築き、子育てをするというように、一生懸命「行為(Doing)の次元」で頑張ります。しかし人生の午後の時間になると、それらが一段落して、今度は「存在そのもの(Being)の次元」を大切にしなければならなくなると言うのです。「人生の午後は人が自分の魂を豊かにしてゆく時間なのだ」とユングは言います。人生の午後の時間には、自分の人生をまとめて統合してゆくためにも私たちは、「自分の魂(スピリット/ソウル)」を大事にしてゆかなければならないのです。

 本日のイエスのぶどう園のたとえは私たちに、神の深い憐れみは、私たちの行為には関係なく、私たちの存在(Being)そのものの上に惜しみなく豊かに注がれているという重要なことを教えているのです。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」(14節)と宣言されるぶどう園の主人が、私たちすべての者と常に共にいてくださいます。私たちはこの神の恵みの事実に目が開かれてゆく必要があります。そして神が憐れみ深いように、私たちも同時にそのような自他に対する深い憐れみの中に生きるのです。そのことが神によって命を与えられた私たち「ヒューマン・ビーイング」の使命なのです。私たちは神から常に「あなたはヒューマン・ビーイングでありなさい」と呼びかけられています。そのことを心に深く刻みつけ、神に応答しながら、新しい一週間を踏み出してまいりましょう。

 お一人おひとりの上に主なる神の豊かな恵みが注がれますようお祈りいたします。 アーメン。

2017年9月20日 (水)

2017年9月17日(日)聖霊降臨後第15主日礼拝説教「7を70倍〜無限の赦し」

2017917日(日) 聖霊降臨後第15主日礼拝 説教「770倍〜無限の赦し」 大柴 譲治

創世記50:1-21 「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」20節)

マタイによる福音書 18:21-35 「そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。『主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。』イエスは言われた。『あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。』」21-22節)

 

兄弟を赦せないペトロの思い

 本日も先週と先々週に続き、12弟子の代表として、そして私たち自身の代表としてペトロが大切な役割を果たします。彼は「ペトロ(岩)」というあだ名の通り不器用なほど実直でまっすぐで、とても分かり易いのです。そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。『主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。』イエスは言われた。『あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい』」(21-22節)。先週の日課は兄弟が自分に対して罪を犯すならそこに深く関わってゆきなさいという「罪の赦し」についての勧めでした。今日もまた罪の問題に関係しています。ペトロは自分の中に「どうしてもあいつだけは赦せない」というどうすることもできない思いをもっていたのでしょう。その問いは彼にとって切実でした。彼はそれを何とかしたかったのです。ここで「兄弟」という語は単数形ですから、複数の兄弟が自分に対して罪を犯したというよりも、「一人の兄弟が自分に対して罪を犯した場合、その人を何回まで赦し続ければよいか」という意味になります。「こちらの我慢にも限度がある。一体いつまで彼を赦し続ければよいのか」というペトロの鼻息が伝わってくるような言葉です。兄弟アンデレのことでしょうか。あるいは「雷の子ら」と呼ばれた気性の激しい漁師仲間のことでしょうか。私たちもまた自身の内面を見つめるとき、心の底から人を赦すということが何と難しいかを知らされるのです。

 

無限の赦し〜ヨセフ物語から(創世記37-50章)

 本日の旧約の日課には創世記のヨセフ物語の最後の部分が出てきます。ヨセフ物語とは、創世記37章から50章までに記されている父祖ヤコブの11番目の息子であるヨセフの物語で、読む者に非常に強いインパクトを与えるものです。770倍するまで赦した人間」の一つの具体例として私たちが想起することができるほどの物語と思われます。

 まずその粗筋を話します。ヨセフはヤコブの妻ラケルの長男として生まれました(弟はベニヤミン)。父ヤコブには既に妻レア(ラケルの姉)などを通して10人の息子たち(ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ゼブルンなど)がいましたから、ヨセフは11番目の息子ということになります。年老いた父ヤコブはヨセフをことのほか愛しましたので、他の異母兄弟たちはヨセフを嫉みます。さらにはヨセフには神から夢を解くという特別な賜物が与えられていて、それがなおさら兄たちの怒りを買うことになる。例えば「自分の農作物の束に兄たちの収穫した農作物の束がひれ伏した」という夢や「太陽と月と11の星が自分にひれ伏している」という夢を見たりします。それはやがて両親と11人の兄弟たちがすべてヨセフに従うという正夢だったのです。頭に来た兄たちは遂にヨセフを殺そうとして身ぐるみ剥いでに放り込みます。長男のルベンだけが何とかヨセフを助けようとしたのですが、結局ヨセフは通りかかった商人たちに捕まって奴隷としてエジプトに売られてゆくのです。ルベンはヨセフが穴からいなくなったことを知って驚きますがどうすることもできません。結局雄山羊の血をヨセフの服に塗って、彼が猛獣に襲われて死んでしまったと父ヤコブに嘘をつきます。ヤコブは嘆き悲しみます。そのようにヨセフはヤコブ家からは姿を消しました。

 不思議なことにエジプトに奴隷として売られたヨセフは、神から与えられた「夢を解く力と知恵」によって、幾多の苦境(ポティファルの妻の誘惑や濡れ衣による投獄、王を毒殺しようとした料理長の罪と疑いをかけられた給仕長の無実を証明する等)をも乗り越え、やがてファラオの夢を解いてエジプトの宰相にまで昇り詰めてゆきます。アメリカンドリームを実現したようなものですね。ヨセフが宰相になった頃、カナン地方でひどい飢饉が起こりました。父ヤコブから派遣された息子たちが食料を買うためにエジプトに来ます。彼らに会ったヨセフはすぐにそれが自分を殺そうとした兄たちであることに気づきますが、兄たちはヨセフには気づきません。通訳を介して話をしていたためでもあります。ヨセフは別の部屋に退いて過去を思い起こし、最愛の父ヤコブのことを思ってを流します(①42:24)。この涙は「兄たちに対する憤りの涙」であったかもしれません。次に愛する弟ベニヤミンと再会ができた時に再度ヨセフはを流します(②43:30)。今度は「再会を喜ぶ涙」だったでしょう。ヨセフは人払いをした後に、黙っていられなくなって遂に自分がヨセフであることを兄弟たちに告白し、声を上げて三度目のを流します(③45:2)。この涙はヨセフが自分の苦しみを通して神の大きな御計画が実現したということを腹の底から知ることができた「覚醒の涙/悔い改めの涙」だったことでしょう。それゆえヨセフは兄たちに向かってこう言うのです。「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。・・・わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです」4-8節)。兄たちは驚きのあまり声を出すことができませんでした。ヨセフは弟のベニヤミンと抱き合って泣き、そして兄弟たちとも抱き合って涙を流します(④45:14-15)。そしてその次にヨセフがを流すのは、エジプトにヤコブが寄留して17年後、その子たちと孫たちを祝福して亡くなった時でした(⑤50:1)。

 本日の第一日課には「赦しの再確認」という小見出しが付いています。兄たちには人間の怒りや恨みがそんなに簡単に解けるとは思えなかったのでしょう。それほど私たちの中の「赦せない心」は根深く、「7を70倍するまで赦すこと」などほとんど不可能なのです。「ヨセフの兄弟たちは、父が死んでしまったので、ヨセフがことによると自分たちをまだ恨み、昔ヨセフにしたすべての悪に仕返しをするのではないかと思った。そこで、人を介してヨセフに言った。『お父さんは亡くなる前に、こう言っていました。「お前たちはヨセフにこう言いなさい。確かに、兄たちはお前に悪いことをしたが、どうか兄たちの咎と罪を赦してやってほしい。」お願いです。どうか、あなたの父の神に仕える僕たちの咎を赦してください。』これを聞いて、ヨセフは涙を流した。やがて、兄たち自身もやって来て、ヨセフの前にひれ伏して、『このとおり、私どもはあなたの僕です』と言うと、ヨセフは兄たちに言った。『恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。どうか恐れないでください。このわたしが、あなたたちとあなたたちの子供を養いましょう。』ヨセフはこのように、兄たちを慰め、優しく語りかけた。」(15-21節)

 

神の無限の愛と赦し〜1万タラントンと100デナリオンの借金の差額は60万倍!

 「人にはできなくても、神にはできる」と聖書にはあります(マルコ10:27、ルカ18:27)。王によって1万タラントンの借金を赦されたのに仲間の100デナリオンの借金を赦すことができなかった一人の家来についてイエスは譬えを語っています。1万タラントンとは100デナリオンの60万倍という天文学的な数字です。1デナリオンは当時の労働者の一日分の賃金ですから、計算がしやすいように1デナリオンを今のお金で一万円に換算すれば六千億円という額になりましょうか。ヨセフは神のご計画と深い愛とを知った時、兄弟たちが自分に対して犯した罪を心の底から赦すことができました。「7を70倍まで」と数える必要がないくらい完全に赦したのです。私たちは神の救いの御業、神の御心、神のご計画を大きな視野から見上げてゆく必要がありましょう。私は「信仰者は一千年を視野に入れて今を生きなければならない」というカトリックの相馬信夫司教の言葉を思い起こします。小さな心、狭い視野しか持てないでいる私たちが神の大きな救いの御業をどこまで知ることができるのか。課題はあるかもしれませんが、その救いの計画の中で自分には大切な役割が与えられているということを知る時、その気づきは私たちを根底から変えてゆきます。その視点をヨセフ物語は私たちに教えています。独り子を賜るほどにこの世を愛された神。御子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得ることが出来るように惜しみない愛をもって私たちの罪を赦してくださる神。私たちはこの新しい一週間を、ヨセフ物語を深く味わいつつ、「7を70倍する」以上の無限の神の愛と赦しに生かされてゆく者でありたいと願うものです。

 お一人おひとりの上に神の恵みが豊かにありますように。シャローム。

2017年9月16日 (土)

2017年9月10日(日)聖霊降臨後第14主日礼拝説教「二人または三人が」

2017910日(日)聖霊降臨後第14主日礼拝説教「二人または三人が」   大柴 譲治

マタイによる福音書 18:15−20

「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(18-20)

 

「罪」を告白し合うキリスト者の交わり

 本日のマタイ福音書でイエスはこう言われています。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」(15節)。これはマタイ福音書にしか記録されていない言葉ですが、この言葉は私たちキリスト者がどのような関係の中に置かれているかを明確に示しています。別の言い方をすれば、私たち信仰者の交わりが何を中心としているかがそこでははっきりと示されているのです。キリスト者の交わりとは「罪」と「罪の認識」、そして「罪の告白」がそこで問題とされる、そのような交わりであることが示されているのです。「罪」が問題とされる?そう言われると私たちはドキッとするかもしれません。ドキッとするのは、おそらく私たちの中の多くの者が、自分の心の奥底に誰にも語る事ができないような罪の痛みや悔い、恥ずかしさといったものを抱えているからであろうと思います。そして「罪」が認識され、「罪の悔い改め」と「罪の告白」と「罪の赦しの宣言」とが起こる時に、そこでは真の友を得ることになると言うのです。弱さも破れも罪もそのままで、ありのままでまったく取り繕う必要のない本当の出会いがそこでは起こるというのです。先日熊本で開かれたルーテル社会福祉協会での集まりで『ルターから今を考える:宗教改革500年の記憶と想起』という本を昨年出版された小田部進一という玉川大学の先生が、関西学院大学での恩師が繰り返し関西弁で「そのままでかめへん、かめへん」と言っていたという言葉を紹介しておられましたのが印象に残りました。私たちはありのままでよいのです。

 さらにイエスは続けます。「聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい」(16-17節)。イエスはここで罪とその認識に徹底的にこだわり、罪の赦しを宣言する教会の使命を強調しているのです。

 

大切な四つの言葉

 私は牧師として、特にターミナルケアやグリーフケアに関わる中で教えられてきたことがあります。私たちは自分の人生が終わりに近づいたことを知る時、多くの人が自分が歩んできた人生を振り返ります。そして様々な場面を思い起こして、「あの時ああしなければよかった。ああすればよかった」とか、「なぜあんな言葉を言ってしまったのか」とか深いところで心のうずきや痛みを感じるのです。だからこそ私たちは心の奥底にある自らの罪を告白し、赦しが欲しいと思うのでありましょう。換言すれば、私たちは心の奥底で「真の和解を求めている」ということになりましょう。犯してきた罪に対して赦しが欲しいのです。魂の重荷からの解放を求めています。

 以前にもご紹介したことがありますが、ハワイの言い伝えに私たちにとって大切な言葉が四つあると言われています。それらはとても短く分かり易い簡単な言葉で表されます。①「I’m sorry(ごめんね/謝罪の言葉)」、②「I forgive you(もういいよ/赦しの言葉)」、③「Thank you(ありがとう/感謝の言葉)」、④「I love you(あなたを大切に思っている/愛の言葉)」、という四つの言葉です。この四つは私たちが生きる上で「和解」のためにどうしても必要な大切な言葉です。なかなか改めて声に出すのは気恥ずかしく、声にしにくい言葉でもあるかもしれません。しかし今、まだたっぷりと時間のあるうちに、この四つの言葉を一つひとつ噛みしめながら人生を振り返って見ることは、自分の人生を統合してまとめてゆくという意味でも、心の平安を得るという意味でもとても智恵のある大切なことであると思います。

 

教会の使命〜「罪をつなぐこと」と「罪を解くこと」

 18節にはこうあります。はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」。二週間前の日課であったマタイ16章には、「あなたはメシア、生ける神の

 

子キリストです」と信仰告白をしたペトロに対して「天国の鍵」を与えると約束された際にもこれと同じ言葉が語られていました(厳密に言えば、そこでは「あなたがた」ではなく「あなた」と二人称単数形で呼びかけられていましたが)。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」16:19)。「天国の鍵」という言葉も聖書の中ではマタイにしか出てこない言葉です。

 「天国の鍵」には「罪をつなぐ鍵」と「罪を解く鍵」の二つがあることをイエスはそこで告げています。「罪をつなぐ」とは「罪を罪として明確にし、それを悔い改めない者に対しては罪を解かずにそのままにしておくこと」であり、逆に「罪を解く」というのは「罪を認識してそれを悔い改めた者に対しては罪の赦しを告げる」ということでありましょう。「罪の認識」「悔い改め」、「罪の告白」「罪の赦しの宣言」に教会は関わることが教会の地上での使命であると言われているのです。そこに信仰の中心がある。そして地上でキリスト者または教会が行うことが、そのまま天上までつながっているとイエスは告げているのです。私たち教会の責任は重大です。毎週の主日礼拝が「罪の告白」から始まっているということにも深い意味があるということになりましょう。

 

「二人または三人が集まるところに」

 このように教会は「罪の自覚」「罪の赦し」に関わる使命を持っています。このような次元、このような深みにおいて信仰者の交わりは形成されてゆくのです。19-20節のイエスの「はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」という言葉は、コンテクストから捉えるならば(コンテクストを外しても大切な意味があると思いますが)、やはり「罪の赦し」に関わる言葉として理解できます。それはイエスご自身が私たちの罪のゆえに十字架を背負い、その十字架の苦難と死を通して私たちの罪の贖いとなってくださった。その贖いによって私たちの罪は赦され、清められ、私たちは新しい生き方へと招き入れられているのです。

 ディートリッヒ・ボンヘッファー(1906-1945)というドイツ人の牧師がいました。第二次大戦中にヒトラー暗殺計画に加担した罪で投獄され、終戦の直前に39歳の若さで処刑されたルーテル教会の牧師でした。そのボンヘッファーの著作の中に『共に生きる生活』という名著があります。実際に牧師補研修所の所長としてボンヘッファーが若い牧師補たちと生活をする中で書かれた白鳥の歌でもあります。その中に「罪の告白」と題される箇所があって、彼は次のような内容のことを語るのです。「キリスト者の交わりというものは自明な事柄ではなく、一人のキリスト者が他のキリスト者と共にあるということは神の恵みである。一人のキリスト者は罪の告白をもって他のキリスト者に近づく。そこで罪の告白をする者は、キリストご自身に罪を告白するのである。告白を聴く者はキリストの代わりに、キリストの代理としてそこで兄弟の罪の告白を聴き、共に悔い改めのために祈り、罪の赦しを宣言する。自分の心の中のキリストは、兄弟の言葉におけるキリストよりも弱いからである」。私たちはキリストの罪の赦しの宣言を具体的な一人の兄弟姉妹の口を通して聴くのです。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」というイエスの言葉は、そのような十字架と復活を通して私たちの罪を贖い、赦して下さったキリストのご臨在を証ししています。キリスト者の交わりのただ中には、見えなくとも、確かに生けるキリストが共にいてくださるのです。

 公には牧師が礼拝において罪の赦しを宣言しますが、個別的(個人的)には信仰者の一人ひとりが罪を罪と名付けることと、罪の悔い改めた者に対しては罪の赦しの宣言を伝える使命を持っています。宗教改革者のマルティン・ルターはそれを「全信徒が罪を赦す祭司としての役割を持っている」という意味で「全信徒祭司(万人祭司)」と呼びました。「祭司」には隣人と神との間に立って行う「二つの役割(使命)」があります。一つは「隣人のために神に祈る」という、ベクトルの矢印で言えば隣人から神に向かって示される役割、もう一つは「神の言葉(特に罪の赦しの宣言がその中心にあります)を隣人に取りつぐ」という神から隣人に向かうベクトルによって示される役割です。I’m sorry(ごめんね)」という謝罪の言葉とI forgive you(もういいよ)」という赦しの言葉を告げ合うことができる信仰者の交わりには、どれほど大きな重荷や束縛から私たちを解放する力と慰めがあることでしょう。そのような主にある交わりの中に私たちが招かれていることを覚えつつ、感謝してご一緒に主の聖餐に与ってまいりましょう。お一人おひとりの上に主の祝福をお祈りいたします。アーメン。

2017年9月 5日 (火)

2017年9月3日(日)聖霊降臨後第13主日礼拝説教「神のこと、人のこと」

201793日(日)聖霊降臨後第13主日礼拝 説教「神のこと、人のこと」 大柴 譲治

マタイによる福音書 16:21−28

すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」(22-23節)


「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」

 本日の福音書でもペトロが中心的な役割を果たします。先週の日課でペトロは「あなたこそメシア、生ける神の子です」という信仰告白をしました。その信仰告白という岩の上にイエスは教会を立てて「天国の鍵」を授けたことを私たちはみ言葉から聞いたのです。しかし本日は、ペトロはその舌の根も乾かないうちにイエスに叱責されたのです。このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められたすると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。『主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません』」(21-22節)。

 とんでもないと思ったのはペトロだけではなかったことでしょう。12弟子に限らず周囲にいたすべての人がそう思ったはずです。イエスこそキリスト(救世主)であり、何百年もの長い間に渡って自分たちを解放してくれるメシアを待ち続けたイスラエルの民として、弟子たちはイエスに対し大きな期待を持ったのです。彼らはイエスに「力あるメシア像」を期待しました。虐げられ無力なままユダヤ教の指導者たちから苦しみを受けて殺される「苦難のメシア像」など誰の思いにも浮かばなかった。ペトロはイエスをメシアとして正しく認識して信仰告白をしましたが、それはまだ人間的な思いでしかなかった。しかし誰がそれを責められるでしょう。「わきにお連れして」とありますから彼は他の弟子たちをはばかったのかもしれませんが、「そんなことがあろうはずがない。決してそんなことがあってはならない!」と直情型のペトロのことですから声を大にしてイエスをいさめたのしょう。神がどのような救いをイエスによって成し遂げようとしているかペトロには全く理解できなかったのです。神の思いは常に人の思いを遙かに越えて高く、広く、深いと申し上げることができましょう。イエスの言葉はいつも私たちをハッとさせます。

 イエスは振り向いてペトロに言われました。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」(24節)。先週「その信仰の上に天国の鍵を託そう」と言われたペトロがここでは「サタン」と呼ばれている。「悪魔」「誘惑する者」です。イエスはペトロの中に働くサタンを見ている。サタンは私たちを神から遠ざけようとします。神のことを思わず人のことを思う時、そこには悪魔が働いているのかもしれません。恐ろしいことです。私たちが「自分の願い」の実現だけを祈り求める中には大きな危険があるのです。それほど私たちは自己中心的な存在です。私たちの中にある人間的な思いが神の思いを妨げるとするならば、その思いは木っ端微塵に打ち砕かれる必要があります。そうでなければ神の思いに心を向けることができないからです。しかしどうすれば私たちは人の思いと神の思いを識別すればよいのか。果たしてそれは私たちに可能なのでしょうか。

 

ラインホルト・ニーバーの祈り

 Prayer of Serenity(静謐さを求める祈り)」と呼ばれるライホルト・ニーバーの祈りを思い起こします。それは短い三つの祈りから成っています。「神よ」という呼びかけに続き、①「私が変えてゆくことができることは変えてゆく勇気をお与えください」、②「変えてゆくことができないことは、それを受け入れるための心の静けさをお与えください」、③「その両者を識別するためのあなたの知恵を私にお与えください」というものです。とてもシンプルですが私たちの思いをハッとさせ、深いところで転換させてくれる祈りであると思います。私たちは現実のただ中で自分の力の限界を感じて打ち砕かれることが少なくありません。そのような時に神に祈ることができる人は自分の外に自分を支えるものを持っていて、逆境にしぶとく対処してゆく力をそこから与えられてゆくのです。「祈り」とは実は「神に向かって語る」ことではなく、沈黙の中にあって向こう側から聞こえてくる神の声に耳を澄ますことなのだと思います。自分の中で「自分の声」がしゃべり続けている時には、向こう側からの神の声は聞こえません。自分の声が大きすぎるためにそれを聴き取ることは出来ないのです。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」とイエスをいさめたペトロの心の中にはそのような自分の思いだけが強く響いていた。その耳にイエスの声は届いていないのです。だから彼にはどうしてもイエスの苦言が必要だった。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」。人生においてこのような鋭く苦い声に、しかし真剣で揺るぎなく温かい声と出会うことができる者は幸いです。普段私たちは、このような自己の限界(自己中心性)に気づかずに生きているのですが、そのような声は自らの限界に気づかせてくれるからです。

 

「人は裁くが自分は裁かれようとしない。そのようなあなたは一体何者なのか。」

 先日日野原重明先生が105歳で天に召されましたが、私は神学生の時に築地の聖路加国際病院で三週間の臨床牧会訓練(CPE)を受けました。シスターや牧師を含めた8人の受講生(神学生)が二つのグループに別れ、二人のスーパーヴァイザー(以下はSV)の下でグループワークの訓練を受けるのです。午前中は病床訪問、午後からは自分が訪問した患者さんとの逐語会話記録をグループ内で細かく検討しながら、自分の人間関係(コミュニケーション)における癖や傾向を知るというなかなかハードな訓練でした。私は既にいのちの電話のボランティア訓練を受けていましたので「共感的な受容と傾聴」の重要性については頭では分かっていたつもりでしたが、そこでSVであった聖公会の井原泰男司祭からこう言われてグウの音も出ませんでした。「人は裁くが自分は裁かれようとしない。そのようなあなたは一体何者なのか」。私の傲慢さを的確に突いた声でした。私はその時に自らを守ろうと他者に対して批判的になり、思い上がっていたのです。確かに私はその時他者のことを思わず自分のことだけを思っていたからです。ハッとし、深い気づきが与えられました。以来この声は、私の魂の奥底で原音のように響き続けています。私にとってはそれは必要な声だったのです。しかしこの声こそが、それ以降の私を自らの専門性を培う道へと導いてくれたのでした。

 「サタン、引き下がれ。神のことを思わず、人間のことを思っている」。この魂を打ち砕くようなイエスの声もペトロの中で繰り返し反復され続けたに違いありません。私たちの魂にはこれまでの人生で自分に告げられたこのような真剣で忘れ得ぬ声がいくつも刻まれているに違いありません。昔テレビで「うるさい親ほどあったかい」というコピーがありましたがその通りであると思います。私たちの心に刻まれている言葉は時に厳しく時に苦く、しかし熱く私たちの魂を再生させるために語られた「悔い改め」を促す言葉なのです。「回心」「悔い改め」のことを新約聖書のギリシャ語では「メタノイア」と言いますが、「メタノイア」と書いてそれを日本語で反対から読むと不思議なことに「アイノタメ」となる。「メタノイアはアイノタメ」なのです。神の愛のゆえに私たちの回心は起こる。そして回心した者は他者の愛へと派遣されてゆく。メタノイアにおいては、私たちがどこまでも自分中心であったところから、自己の固い壁が打ち砕かれ神を中心にして生きるような「主体のコペルニクス的な転換」が起こってゆくのです。

 

イエスの受難予告と神のいのちへの祝福

 イエスは弟子たちに言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」(24-26節)。有名な言葉です。自分(人)のことばかり思って神のことを思わずにいる私たち人間が、自分を捨て、神が与えたもう自分の十字架を背負ってキリストに従うことがきる。そのような道がイエスによって備えられている。そのような道を歩む時、私たちにはそれまでは見えなかった次元が見えてくるのです。主を見上げ、主を信頼し、主にすべてを委ねて主に従う時にこそ与えられる祝福がある。それこそこの世が与える幸いとは異なる幸い、真の慰め、真の希望です。イエスは、そのようなキリストへの服従によって、全世界を失ったように見えたとしても、実はそこでは一番大事な本当のいのちを得ることができるのだと約束してくださっている。イエスが十字架への道(それは復活のいのちに至る道でしたが)を歩まれたように、私たちもまた自分の十字架を背負いつつ、イエスに従うよう招かれています。自分が変えることができるものを変えてゆく大胆な「勇気」を祈りつつ、変えることができないものは受け止めてゆく心の深い「静穏」を求めながら、そして両者を識別する神の確かな「知恵」を求めながら、私たちは「キリストの声」に服従してゆくのです。聖書が告げるように、ここにこそ人の思いを越えた「神の祝福」がある。新しい一週間もこの道を皆さんとご一緒に踏み出してゆきたいと思います。祝福をお祈りします。

2017年9月 1日 (金)

2017年8月27日(日)聖霊降臨後第12主日聖餐礼拝説教「天国の鍵」

2017827日(日)聖霊降臨後第12主日聖餐礼拝 説教「天国の鍵」 大柴 譲治

マタイによる福音書 16:13-20

「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(19節)

 

「天国の鍵」

 本日は「天国の鍵」について告げられています。新約聖書のみならず、旧約聖書を含めた聖書全体の中で「天国の鍵」について出てくるのは、本日の日課のマタイ1619節だけなのです。そこにはイエスの言葉がこう記されています。「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」。これは「あなたはメシア、生ける神の子です」と重要な信仰告白をしたペトロに対して言われたイエスの言葉です。

 実はこの箇所に対する大きな解釈の違いから、二つの異なった流れが生まれました。カトリック教会とプロテスタント教会です。今年は「宗教改革500年」ということで、世界においても日本においても、ルーテル教会はカトリック教会との対話と連帯を協調する大きなうねりの中に置かれていますが、しかしカトリック教会とプロテスタント教会のこの箇所に対する理解の仕方は根本的に異なっています。ローマ教会はこの「天国の鍵」「ペトロとその後継者たち(=歴代のローマ教皇)」に対して与えられたものと解釈していますが、私たちプロテスタント教会は、ルター以降の500年間、この「天国の鍵」は、ペトロやローマ教皇という個人にではなく、「イエス・キリストを告白する教会」に対して与えられたと受け止めてきました。「信仰告白」こそ私たちが拠って立つべき「岩」なのです。

 

信仰告白者に託された「天国の鍵」

 では「天国の鍵」とはいったい何を意味するのか。私にはそれについて忘れることのできないエピソードがあります。前の教会での出来事です。1998年の6月4日に一人の女性教会員が47歳の若さでガンのために天に召されました。亡くなる数日前、彼女が入院していたホスピスを訪問したところ、「最近イタリアを旅した友人から天国の鍵をもらいました」と小さな銀の鍵を見せてくださいました。イタリアの教会のお土産としてキーホルダーに付けてあったのをいただいたそうです。「これは私が天国に入るための鍵なのですよ」と嬉しそうにおっしゃったその笑顔を印象的に思い起こします。その方はその時同時に、病床聖餐式を行った私に「先生、人生は神さまと出会うためにあるのではないでしょうか」と語ってくださった方でした。病気と闘病する中でキリストを信じ、受洗されたのでした。

 「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」というイエスの言葉では、この「鍵」という語は複数形になっています。そこでは「つなぐ鍵」「解く鍵」の二つが考えられているのです。実際バチカンには、ペトロの後継者としてのローマ教皇が天国の二つの鍵を継承しているという理解を持ち、二つの鍵を描いた像や絵もあるようです。

 しかしよく考えてみると、私たちは「オヤ?」と思います。鍵というものは一つでいいはずではないか。私たちは同じ一つの鍵を用いてロックしたりロックをはずしたりしているのです。なぜ「解く鍵」「つなぐ鍵」の二つもいるのかという疑問が浮かびます。特に解かずにおく鍵(つなぐ鍵)の役割は大切であるように思われます。実は「天国の鍵」とは、ただ二つだけということではなく、そこではむしろ様々な部屋を空けたり閉めたりする鍵の束が意味されているのかもしれないとも思われます。天国にはマンションのように多くの部屋があって、その管理人として私たちが鍵束を管理している、そのようなイメージです。ヨハネ福音書はイエスの言葉を伝えています。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」(14:1-3)。この鍵は「天国」つまり「神の国(ご支配/統治)」に入るために必要な鍵束のようなものかもしれません。

 「あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」という19節の言葉はマタイ福音書にはもう一回、1818節に出てきます。二度も同じ言葉が繰り返されているところにその重要性が明かとされています。この言葉は、ヨハネ福音書2023節の言葉と重なります。そこでは復活の主が弟子たちにご自身を現しながらこう告げられています。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」。そう言ってから、主は彼らに息を吹きかけてこう言われました。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(20:22-23)。

 「天国の鍵」「罪の赦し」に関係しています。それも私たちが一般に理解しているような罪を赦すことだけではなく、罪を赦さないでおくことの両方に関係する事柄です。聖書で言う「罪」とは、「悪い行い」という意味であるよりも、本来は神との関係が破れている状態を表す「関係概念」です。その反対語は「義」で、その人が神との正しい関係の中にあることを指します。「罪の赦し」とは「神との正しい関係に回復されること」「罪を赦さないでおく」とは「未だ破れたままの神関係であることを告げ知らせる」ということを意味します。いずれにしてもそれは、「私たちは神の前に立たされている」ということを告げるということであり、すべての人間は神の前から逃げることはできないということを伝えることになります。私たち皆がイエスに問われている。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。自身の言葉で「イエスこそ生ける神の子キリスト」と告白することが求められています。

 

「天国の鍵」を行使される神ご自身の働き

 私たちは天国の鍵を任されていると聞くと、何と恐れ多いことかと尻込みしてしまうのではないかと思われます。自分が他の人々の罪を赦したり赦さずにおいたりすることができるなんて信じられない。イエスには申し訳ないけれどもそんなことできないと思う。自分の不信仰や迷いや行き詰まりといったものを私たちはよく知っているからです。イエスも私たち以上にそのことはご存じでした。ペトロを筆頭として弟子たちは皆十字架の前から逃げ出したのです。

 実は「天国の鍵」とは、そんな弱く惨めな私たちを用いて、福音という喜びの音信を伝えてくださるイエスご自身の働きを指していると言わねばなりません。主の「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という問いに対してペトロは答えます。「あなたはメシア、生ける神の子です」と。しかしペトロは自分の力で告白したのではありませんでした。イエスは続けてこう語られます。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と。人間ではなく天の父なる神が私たちをしてイエスこそキリストであると告白させてくださる。「信仰とは、私たちにおいて働く神さまのみ業である」とルターは言いましたが、その通りです。信仰とは人間の業ではなく、どこまでも私たちの中で働く神のみ業なのです。

 そう見てまいりますと、天国の鍵で開けたり閉めたりするのもまた神ご自身であることが分かります。信仰告白の上にイエスはご自身で教会を建てるとおっしゃっておられます。これはペトロとその後継者たちの上に教会を建てると言ったというよりも、「あなたこそ生ける神の子、キリストです」(口語訳)と告白された信仰告白の上にキリストの教会を建てるというように理解したいと思います。そして「陰府の力もこれに対抗できない」とあるように「死の力もこれに打ち勝つことはできない」と主は宣言されています。「天国の鍵」とは、私たちが死によっても揺らぐことのない神の究極的ないのち、永遠のいのちを生きることができるという大きな喜びと慰めと希望を意味する言葉なのです。先ほどご紹介した一人の姉妹は、ガンのためにあと半年の命と宣告されてから一年間求道し、クリスマスに洗礼を受け、その半年後に天国に召されてゆかれました。その方の「人生は神さまと出会うためにある」という言葉は、私たち自身に天国の鍵を与えてくれるような希望に満ちた言葉であり証しです。パウロは「わたしは弱いときにこそ強い」(2コリント12:10)と語りましたが、キリストの十字架と復活の愛こそ私たちにとっての「天国の鍵」であり、そこでは「天国への入り口」が私たちに向かって開いているのです。キリスト・イエスこそ、私たちの揺るがぬ希望です。

 「洗礼と聖餐」という「サクラメント(聖礼典)」に示されている主の愛、それこそが私たちの罪を赦し、十字架を通して私たちをもう一度神との正しい関係に置いてくださる「天国の鍵」なのです。そして、私たちが隣人の悲しみや苦しみを自分の悲しみや苦しみとして受け止めて共有する時に、喜ぶ者と共に喜び泣く者と共に泣く時に、一人の姉妹がイタリアのお土産としてガンと闘病する親友に祈りと共に天国の鍵を渡された時に起こったような不思議なことが私たち自身の人生においても起こるのです。それは愛の奇蹟です。そこでは私たち自身が不思議なかたちで天におけるイエスへの道を開く「天国の鍵」として用いられてゆくのでありましょう。 そのことを覚えつつ、ご一緒に新しい一週間を踏み出してまいりましょう。お一人おひとりの上に平安をお祈りします。 アーメン。

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