心と体

2018年7月24日 (火)

2018年7月22日(日) 聖霊降臨後第9主日礼拝説教「五つのパンと二匹の魚(一)」

2018722日(日) 聖霊降臨後第9主日礼拝説教「五つのパンと二匹の魚(一)」  大柴 譲治

    エレミヤ書 23: 1〜 6 4節)

「彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない」と主は言われる。

    マルコによる福音書 6:30〜34、53〜56 34節)

イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。

 

羊飼いイエスの深い憐れみ

 本日の旧約聖書の日課のエレミヤ書6章は主なる神の言葉をこう伝えています。「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」1節)。そして続けます。「あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった。わたしはあなたたちの悪い行いを罰する2節)。神はここで、神の民を正しく導かなかいでいる偽の悪い羊飼いを、民の指導者たちを糾弾しているのです。さらにエレミヤは主なる神の言葉をこう伝えています。このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもないと(3-4節)。神ご自身が「真の牧者(羊飼い)を立てる」と預言しておられます。「その羊の群れはもはや恐れることも、怯えることもなく、迷い出ることもない」のです。

本日与えられているマルコ福音書6章の日課には、旧約聖書エレミヤ書23章の預言の成就として、真の羊飼いであるイエス・キリストの姿が描かれています。特に34節に注目いたしましょう。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。イエスの周囲に押し寄せている大勢の群衆。彼らは様々なニーズを持ってイエスのもとに集まってきています。それが「飼い主のいない迷える羊」のように描かれています。イエスはその有様を深く憐れみ、羊飼いとして「牧会(羊の世話/パストラルケア)」をされてゆくのです。「深い憐れみ」とは聖書の中に出てくる大切なキーワードの一つです。これまで何度も申し上げてきましたが、この「深い憐れみ」とは日本語の「同情」とか「憐憫」とは違う次元の言葉です。それは「はらわた、内蔵」を意味する語から来ていて、日本語では「はらわたがよじれるような思い」「断腸の思い」という表現がありますがそれに近い言葉です。イエスは群衆の苦しみや悲しみ嘆きをご自身のはらわた(存在の中心)で受け止められ、それを断腸の思いをもって共に担われたということを意味しています。イエスは困窮の中に置かれた人々を放ってはおけなかったのです。そこに真の羊飼い、牧者としてのイエスの一人ひとりに対する熱い思いがあります。イエスは神の深い憐れみを体現していました。

毎日報道される西日本豪雨による災害の大きさは私たちの心を痛めますが、しかしそれらの人々のところに「その状況を放っておくことはできない」としてボランティアが大勢集まっていることも報道されています。2011年の東日本大震災の時もそうでしたし、二年前の熊本地震の際にもそうでした。遡って1995年の阪神淡路大震災の時にもそうでした。1995年は「ボランティア元年」とも呼ばれています。1995年以降、世界と同じように、ボランティアが実に献身的で継続的な働きをしているのです。このようなボランティア精神が日本に根付いたというところには隣人愛を説くキリスト教の大きな貢献があったと私は思います。先日のサッカーのワールドカップでも、日本の応援団は試合が終わったあとにゴミ掃除をして世界中に大きな感銘を残しました。選手たちもまた自分たちが使ったロッカーをキレイに清掃して「スパシーボ(ロシア語でありがとう)」と記して帰ってきたことが話題になりました。本来日本人が持っている礼儀正しさ、節度や几帳面さ、きめの細かさやきれい好きな倫理性といった価値観が、ボランティア精神と相俟ってそのような自然なかたちで賞賛を集めているのでしょう。黙々と働き、自分のできることをして黙ってその場を去って行くボランティアの姿に私たちは励まされます。今回の豪雨でも西中国の先生方を中心にボランティアの募集がなされています。連帯献金と共に私たちにできることをなしてゆきたいと思います。

 もう一つの特性として日本人には向かい合う相手に対して失礼の無いように配慮する心が強く働きます。自分よりも相手を中心に据えてケアするという態度です。相手の苦しみや悲しみを自分のことのように感じて、それに対して自分ができることをしてゆこうとする心です。そのような心性がボランティア精神と結びついて黙々と奉仕に励む人が後を絶たないのでしょう。すべての人がそうであるということは言えないでしょうが、他者のために仕えてゆくことの深い喜びを多くの日本人は体験的に知っているのかもしれません。逆に言えば、人の気持ちを大切に受け止めることを知るがゆえにこそ、羊飼いキリストの、はらわたがよじれるほど深く強く羊たちを大切に思う姿は私たちの心にも深く響いてくるのです。

 

「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」(詩編23編)

実は毎週の主日礼拝には主題詩編が一つ選ばれています。本日はあの有名な詩編23編が主題詩編として選ばれています。この詩編を愛唱聖句としておられる方も少なくないことでしょう。実に味わい深い信頼と感謝の詩編です。

【賛歌。ダビデの詩。】 主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。 2主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い3魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。4死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。5わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ、わたしの杯を溢れさせてくださる。6命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう。

 主は私の羊飼いであって、私には何一つ不足したところがないというのです。何という信頼、何という慰めでありましょうか。主の慈しみと憐れみは天より高く、海よりもなおも深く、尽きることがないのです。マルコ6:53からはこう記されていました。こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いて舟をつないだ。一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って、その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた。村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされたと(53-56節)。イエスの憐れみに触れることができた者は皆、癒され、病気や痛みから解放されたのでした。イエスの深い憐れみが大きな奇蹟をもたらしたのです。

 

五つのパンと二匹の魚〜五千人の給食の奇蹟

 本日のマルコ福音書6章には、今日は省略されていますが、「五つのパンと二匹の魚」を用いてイエスが五千人に食べ物を与える場面が記されています。たった五つのパンと二匹の魚で五千人!? 次週滝田先生がその場面をヨハネ福音書から読み解いて下さることになっていますが、その五千人の給食の出来事は私たちの羊飼いイエス・キリストの憐れみがいかに深く、強く、広く、高いかが示された出来事だと思います。「そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった」43節)とありますが、「十二の籠」とは神の民である「イスラエルの12部族」のことを指しています。神の恵みのみ業を通して「神の民」「神の羊の群れ」が満ち溢れる恵みをいただいたことを表しています。人生においては、私たちの力ではどうすることもできないような突然の悲しみや苦しみ、行き詰まりがたくさんあります。しかしたとえそのような苦難の中にあったとしても、主の深い憐れみを私たちは覚えたい。主は羊飼い、わたしには何も欠けることがないのですから。そしてご一緒にその恵みに与りたいと思います。これから聖餐式に与ります。これは主によって備えられた恵みの食卓であり、救いの食卓です。五千人の給食の出来事です。主はご自身の持つすべて(「五つのパンと二匹の魚」)を私たちのために差し出して下さいました。それは私たちが主のいのちに生きるためです。その招きにご一緒に与りつつ、主の憐れみの御業を深く味わってまいりましょう。アーメン。

 

2018年7月16日 (月)

2018年7月15日 聖霊降臨後第8主日礼拝説教「殉教者ヨハネ」

2018715日  聖霊降臨後第8主日礼拝 説教「殉教者ヨハネ」      大柴 譲治

マルコによる福音書 6:14〜29

イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」(14節)

 

北海道特別教区の日本福音ルーテル帯広教会、池田教会、釧路教会を訪問して

 人生は出会いです。先週もこの言葉で説教を始めさせていただきました。先週私は久しぶりに北海道に足を運ぶ機会を得ました。それは教区長たちと共にJELC帯広教会、池田教会、釧路教会を訪問するためでした。今回この三つの教会を訪問させていただいたのは、そのうちの二つ、池田教会と釧路教会が来年のペンテコステまでに礼拝堂を閉じることになっていたからです。歴史の節目に当たり、そこを訪問して感謝の祈りを捧げることが大きな目的でした。実は私は2006年と2007年の2月にも北海道の諸教会を訪問しています。当時の東教区常議員会で北海道特別教区との今後の姉妹関係を探るために現地に足を運んだのです(立山忠浩先生が東教区長の時代でした)。厳しい北海道の冬を体験する必要があると考えて、真冬の訪問でした。北海道はまだ冷たい雪景色の中にありました。

 私自身が牧師となるために与えられた召命は、釧路教会の牧師であった合田俊二牧師との出会いと別れが大きく影響しています。出会いと言っても直接にはただ一度だけの出会いでした。19773月に按手式が静岡教会で行われた際に、学生時代藤枝に帰省していた私は母と一緒にそれに参加したのです。そこでは合田俊二牧師、村松由紀夫牧師、東和春牧師の三人の牧師が按手を受けて誕生しました。そして三人はそれぞれ任地を与えられ、合田牧師は釧路教会に旅立って行かれたのでした。それから3年が経ち、私は三鷹の日本ルーテル神学大学(現在はルーテル学院大学)で学び始めました。1980年の初夏、合田牧師は牧師となって3年が過ぎたところで、結婚して半年、30歳という若さで悪性のスキルスガンに倒れ、地上での生涯を終えることになります。釧路教会からルーテル神大の学生となっていた青年が合田先生は病床でこう叫ばれたということを伝えてくれました。「オレはまだ死にたくない。やることが残っているんだ!」と。その言葉を契機として、私自身は牧師としてのコールを受けることになります。私はそこに「お前がその後を引き継げ」という神の声を聴き取ることになりました。それ以来、私の中でその声は響き続けています。今回は牧師としての召命の原点とも言うべき釧路教会を、2007年に続いて二度目に訪問することになった次第です。このような人と人との出会いを通すかたちで神はその信仰のバトンタッチをしてゆかれるのでしょう。本日は福音書の日課に殉教者ヨハネのことが記されていますが、私にとって合田俊二牧師は殉教者ヨハネの姿と重なっています。もっともヨハネは「オレはまだ死にたくない。やることが残っている!」という気持ちではなく、「自分が果たすべきことは成し遂げた。悔いはない」という思いをもっていたかも知れませんが・・・。人生イロイロです。

 

殉教者ヨハネ

 洗礼者ヨハネは領主ヘロデ・アンティパスによって首を切られます。ヨハネはヘロデの結婚を非難した罪で捕らえられて、ヘロディアの娘(サロメという名前で一般に知られていますが、聖書にはその名は出て来ません)の踊りの褒美に首をはねられて処刑されたのでした。ヘロディアはヨハネを恨んで殺そうと思っていましたが、ヘロデ自身はある意味ヨハネを正しく評価していたようです。マルコ6:19-20にはこうあります。そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである」。ここを読むと私たちは人間の持つ救いようもない闇の深さを思わされます。私たちは自己中心という罪に満ちているのです。

洗礼者ヨハネがどのような人物であったかは福音書に記されています。ルカ福音書によると、ヨハネの母エリサベトとイエスの母マリアは親戚でした(ルカ1:36)。同福音書では、ヨハネは天使ガブリエルよってその誕生を予言されています。マタイ福音書3章によればヨハネは、「らくだの皮衣を着、腰に革の帯をしめ、いなごと野蜜を食べ物」とする人物でした。ヨルダン川河畔の「荒野」「神の国」が近づいたことを人びとに伝え、人びとに「悔い改め」を迫って、罪のゆるしに至る「洗礼」を授けていました。西暦28年頃と推測されますが、ナザレのイエスもヨルダン川でヨハネから洗礼を授けました。イエスはこの後に、ヨハネによって始められた「荒野での洗礼活動(荒野の誘惑)」に入っていると考える人もいます。その立場に立つならば、イエスはヨハネから洗礼を受けることで「ヨハネの弟子」となったのです。洗礼者ヨハネはイエスの先駆者として「荒れ野で叫ぶ声」として位置づけられています(イザヤ40:3、マラキ3:1)。なお、ヨハネ福音書1:35によれば、他の福音書でイエスの最初の弟子とされるシモン・ペトロの兄弟アンデレは、以前はヨハネの弟子であったとされています。そこではアンデレがイエスのもとに兄弟ペトロを連れて行ったことになっています。マタイ福音書に拠れば、実際にヨハネとイエスはその公的な活動を同じ言葉で始めています。「悔い改めよ、天の国は近づいた」(マタイ3:24:17)という言葉で開始しているのです。ただし二人が宣教を始めた場所は異なっています。洗礼者ヨハネは人里を離れた荒れ野でしたが、イエスはガリラヤ湖の畔にあったカファルナウムで開始したのです。天の国は人々の目に見えるかたちでも近づいて来たのです。

 

神の使命に生きる

 洗礼者ヨハネの、苦しみの多かったであろう孤高の生涯とその悲惨な最後とを思う時、私たちは心が震え、押しつぶされるような気持ちになります。神に服従するということは、ヨハネのような孤独な苦難に耐えなければならないという大変に厳しい側面を持つのだと思います。誰からも理解されず、たとえ無念さの中でこの地上の生涯を終えなければならなかったとしても、ヨハネはそれをすべて神から与えられた自分の十字架として担う以外にはなかった。その意味でヨハネは、神から与えられた使命に忠実に生きた一人の信仰者であり、神の預言者でした。ある場所でイエスはこう言ってヨハネを高く評価しています。はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」(マタイ11:11)と。

 合田俊二牧師が志半ばで地上での使命を終えなければならなかったことを通して、神は実に不思議な救いの御業を行われました。私が牧師としての召しを受けただけではなく、多くの青年達がそこから育ってゆくことになりました。先週帯広教会の信徒さんたちの前で、天王寺教会の永吉秀人牧師も自分にとって忘れ得ることができない出来事として合田先生との出会いと別れを語っておられました。天の神は人と人との出会いを通してその御業を現わされるのです。

 私たちは、私たちをもその御用のために用いてゆかれる父なる神の御心と救いのご計画に目を向けたいと思います。そしてそのための道具として、私たち人間の思いをお越えた次元において、神が私たち一人ひとりを用いて下さることに思いを馳せたいのです。その服従には神によって豊かな祝福と喜びとが約束されています。どんなに人間の闇が深くとも、私たち自身の力が弱くとも、光はその闇の中で輝き続けているのです(ヨハネ1:5)。そして「闇はこれに勝たなかった」のです(同、口語訳)。そのことを信じながら、私たちもまた、洗礼者ヨハネや合田俊二牧師とはかたちが違うかもしれませんが、私たち一人ひとりに与えられた神の使命に忠実に歩む者でありたいと願っています。

皆さまお一人おひとりの上に、神の祝福が豊かにありますようお祈りいたします。 アーメン。

2018年7月8日 聖霊降臨後第7主日礼拝説教「地縁でも血縁でもなく、聖霊縁」

201878日 聖霊降臨後第7主日礼拝説教「地縁でも血縁でもなく、聖霊縁」 大柴 譲治

コリントの信徒への手紙 二 12: 2〜10

すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。(9)

マルコによる福音書 6: 1〜13

そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。 そして、人々の不信仰に驚かれた。(5-6節)

 

もしもの時の地縁と血縁、人のつながりの大切さ

 大変な大雨が大きな被害を各地にもたらせています。土砂崩れや川の氾濫などで既に50名以上の方々の命が奪われ、70名以上の方々の安否がわからなくなっています。愛媛や高知、岐阜など現在「大雨特別警報」が出されている地域もあります。家や車、田畑、鉄道や道路などの被害を考えると大変なものになります。依然として雨は降り続いていますが、被災された方々のために祈りたいと思います。

 このような時に私たちは、人間の弱さやもろさというものを強く感じます。大自然の荒れ狂う力の前に人間は実に無力なのです。しかし同時にそのような私たちがその過酷な状況の中で支えられるのも、地縁や血縁を中心とする人のネットワークを通してであるということを強く教えられます。災害や事故など私たちの力を超えた想定外の出来事が起こるとき、私たちは困難の中で人と人との絆、つながりというものの有り難さを身に沁みて感じるのです。警察や消防、自衛隊など、現在救援活動に当たっている方々の上にも神の守りを祈りたいと思います。神は互いに隣人を守り、助け合うようにと私たちに命を与えられているのです。創世記は人間が「神のかたち」に造られたと記していますが(1:27)、それは神の愛を私たちが相互に分かち合うためだったと受け止めています。

 

地縁、血縁の背後にある神の聖霊縁

 本日私たちに与えられているみ言葉はマルコ6章で、そこにはイエスが自分の故郷ナザレでは全く敬われなかったという報告があります。イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。『この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。』このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、『預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである』と言われた。そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた」(6:1-6)。幼い頃からのイエスを知っているナザレの人々には、その人間的な親しさ近さのゆえに、神がイエスに賜った特別な権威と力とを認めることができず、つまずいたというのです。イエスも「人々の不信仰に驚きながら」もほとんど力を発揮することができず、「ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇蹟をも行うことがおできにならなかった」くらいでした。イエスの持つ力も、幼い頃からイエスを知り、その家族をよく知っている故郷ナザレの人々によって封印されてしまったかのようです。余りにも人間的なものが中心に置かれると、それが私たちの眼を曇らせ、視界を暗くし狭くするということが起こりうるということなのでしょう。私たちもまた、地縁も血縁も、実はそれらすべては神から与えられたものであるという大事な事実を見失わないように心したいと思います。

 

出会いの背後にある神の御心

聖書は私たちに、人生の出会いの背後には必ず神さまの御心があるということ告げています。例えば創世記2章。最初の人間アダムに対して「人は独りでいるのはよくない。彼に合う助ける者を造ろう」18節)と神が決意をして、アダムのところに最初は神が造った様々な動物が連れてこられます。ちなみに「助ける者/助け手」というのは、上下関係の中にある「アシスタント」という意味ではなく、あくまで対等な「パートナー」という意味でありましょう。「人」という漢字は二人の人が支え合って立っている姿を表すとも言われますし、「人間」とは「人の間」と書くように、神は人間には傍にいて相互に支え合うパートナーシップが必要であると考えられたのです。アダムはその動物たちに名前を与える(名付ける)のですが、自分に相応しいパートナーを見出すことはできませんでした。そこで神はアダムを深く眠らせ、そのあばら骨の一本を取って最初の女性を造ったと記されています。女性がアダムの肋骨から造られたということで男尊女卑であると眉をひそめる向きもあるかも知れませんが、私はそこには大切な意味が含まれていると思っています。これは私が先輩牧師の石橋幸男先生から学んだことでもありますが、肋骨が心臓の一番近くにあって心臓を守っているように、男と女、夫と妻とが、心と心、ハートとハート、人格と人格が結び合い互いに守り合うような親しい関係の中に神によって置かれているということを意味しているのです。そしてその女性、後にアダムによって「エバ(命)」という名が付けられますが、エバと出会った時にアダムは大きな喜びに満たされて言うのです。ついに、これこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉。これをこそ、女と呼ぼう、まさに、男から取られたものだから23節)。この言葉からは溢れるほどの出会いの喜びが伝わってきます。人生とは出会いです。このような出会いを味わうことができる者は幸いであります。

この物語で大切なことはアダムとエバの出会いに先立って、神ご自身が「人が独りでいるのはよくない。ふさわしい助け手を与えよう」と決意していることです。神の決意のもとで夫と妻とは出会わされてゆくのです。そしてこのことは夫婦に限らないことでありましょう。親子であっても兄弟であっても親族であっても、恩師や友人であっても、地域や学校での恩師や友人であっても、サークルの仲間や職場の同僚、上司や部下であっても、人間の出会いの背後には必ず出会いに先立って「彼に合う助ける者を造ろう」という神の決意があるということを意味しています。神の決意の中で私たちは出会ってゆく。それは私が私であるということの背後に神さまの深い愛の御心があるのと同じです。そのことをパウロはガラテヤ1:15で、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神」という預言者エレミヤを想起させる印象的な表現で語っています。「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた」(エレミヤ1:5)。私たち一人ひとりは生まれる前から神によって選び分けられ、神の恵みによって召し出されているのです。何と不思議なことでしょうか。そのことがパウロには、キリストと出会うことを通して、迫害者であった自分の古い生き方を遙かに超えて、母の胎内にあった時から、この世に生を受ける前から神によって備えられていた真実なのだということが突然目からウロコが落ちるようにパーンと開けて見えたのです。その意味では、私たちに地縁や血縁などの出会いが与えられているということ、大切な人間関係が与えられていることは、神の恵みであります。キリストが私たちの眼を開いてくださいます。しかし本日の福音の日課にあったように、神が与えてくださった地縁と血縁というつながりが同時に私たちの眼を曇らせることになってしまう場合があります。人間的な親しさや近しさを重視し、人間関係を第一とすることで、私たちには神の恵みの御業を見る(認める)ことができなくなってしまうということが起こるのです。モーセの十戒の第一戒で命じられているように、私たちには真の神以外の何ものをも神としないこと、ただ真の神を神とすることが求められています。神を神とすることの中で、第四戒の「あなたの父母を敬え」ということが正しく位置づけられてゆくのです。私たちは地縁や血縁などを通して私たちに与えられているすべての出会いと絆とを、キリストがそうであったように、神との関係の中に正しく位置付けて受け止めてゆきたいと思います。最後にアフリカに伝わる一つの諺を引用して終わりにいたします。「早く行きたいと思う者は一人で歩いてゆきなさい。しかし遠くまで行きたいと思う者は、誰かと一緒に歩きなさい」。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

2018年7月 6日 (金)

2018年7月1日 聖霊降臨後第6主日礼拝説教「あなたの中に働く神の信実(ピスティス)が」

201871日 聖霊降臨後第6主日礼拝説教「あなたの中に働く神の信実(ピスティス)が」 大柴譲治

哀歌 3:22〜33

主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。「あなたの真実はそれほど深い。」(22-23)

マルコによる福音書 5:21〜43

女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」33-34節)

 

二つの奇蹟物語とマルコ福音書におけるサンドイッチ構造

 本日の福音書の日課には二つ奇蹟物語が記録されています。一つは会堂長ヤイロの12歳になる娘の癒しで(ⓐ)、もう一つは12年間も出血が止まらなかった一人の女性の癒しです(ⓑ)。それらは単に「身体的な意味での病気の癒し」である以上に、「全人的な人間の救い」というものを明らかにしています。そしてそれは信じる/信仰(ギリシャ語ではピスティス)」とは何を意味するのかということを読む者に強烈に印象づける構造になっています。その出来事は本日の旧約の日課である哀歌3章のみ言葉に語られている通りです。主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。『あなたの真実はそれほど深い。主こそわたしの受ける分」とわたしの魂は言い、わたしは主を待ち望む』3:22-24)。主の慈しみと憐れみは決して絶えず、尽きることはないのです。

それらをⓐとⓑとすると、ちょうどサンドイッチのような構造になっています。即ち、ⓐ1++2という形になっている。会堂長ヤイロの娘の癒し(蘇生)のエピソードの中に、長血を患った女性がソッとイエスの後ろから近づいて衣に触れて癒されたというエピソードが間に入っているのです。その構造のために、ヤイロの「イエスには一刻も早く自分の娘のところに行って欲しい」というやきもきするような気持ちが読者に強く伝わってくるような構造になっています。それだけになおさら、イエスが「タリタクミ(少女よ、起きなさい)」と言って少女を死から呼び戻されたことが劇的に印象に残るのです。イエスが語ったアラム語がそのまま記録されているところにもそのことは顕かです。ここに福音書記者マルコの優れた構想(構成)力と文才があるのだと思います。マルコ福音書にはまことに無駄な言葉がありません。飾らず単刀直入にイエスの働きと言葉とを記録している。マルコ福音書は獅子(ライオン)のイメージで表されたりしますが、まことにその通りでありましょう。ちなみに、それはエゼキエル書1:10から来ていて、四つの顔を持ち翼をもった「ケルビム」という「天的な存在(動物)」のイメージがそこには描かれています。興味深いことに、教会の歴史の中で、その4つは4つの福音書と結びつけられてきました。マルコは「ライオン(獅子)」ですが、マタイは「天使(人間)」、ルカは「牛」、ヨハネは「鷲」のイメージで受け止められてきたのです。

ここでは12という数字が二回出て来ますが、ここにも深い意味が読み取れましょう。12は聖書の中では完全数を意味し、「イスラエルの12部族」「イエスの12使徒」を表します。このエピソードは、すべての民族に、イエスを信じるすべての人に関わりがあるのだということがそこでは意図されているのでしょう。最初の救いは

25節から34節をもう一度お読みしてみましょう。さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。『この方の服にでも触れればいやしていただける』と思ったからである。すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、『わたしの服に触れたのはだれか』と言われた。そこで、弟子たちは言った。『群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、「だれがわたしに触れたのか」とおっしゃるのですか。』しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。『娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。』」 この34節の、特に前半部分のイエスの言葉を私は本日の説教の主題として選ばせていただきました。娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさいという印象的な言葉です。イエスの言葉は単に「肉体的な癒し」の次元を超えた、「神による救い」の次元を明らかにしています。本日の日課にはもう一つ印象的な言葉があります。イエスがその女性に関わっている間にヤイロの娘が亡くなりました。イエスは間に合わなかったのです。その時にヤイロに対して言われたイエスの「恐れることはない。ただ信じなさい」という言葉です。それは、本日のもう一つの主題でもあります。我が子を亡くすという深い悲しみと死に対する憤りと絶望との中にある一人の父親を解放する言葉です。「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われたイエスは、彼女を生き返らせ、父の腕の中に返して行かれるのです。そのことを通して、イエスには人間を非人間化する病気や死をも支配する「神の権威」が与えられているということが明らかにされます。イエスは私たちに「信じること」の恵みを贈り与えてくださるのです。主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。『あなたの真実はそれほど深い。主こそわたしの受ける分」とわたしの魂は言い、わたしは主を待ち望む』と書かれている通りです(哀歌3:22-24)。

 

「あなたの信仰(ピスティス)があなたを救った。」=「あなたの中に働く神の信実(ピスティス)があなたを救った。」

 ヤイロの娘を死からよみがえらせるというエピソードの間に挟まれていた「長血を患う女性」に今少し焦点を当ててみたいのです。彼女は12年間その病に苦しみ続けて来ました。持っていた全財産をその病気を治すために使い果たしてしまったほどでした。「さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった」。彼女はイエスのうわさを聞きます。このお方なら私を癒してくださるかも知れない。そう信じた彼女は、藁にもすがる思いでイエスに後ろから近づき、多くの群衆に紛れ込みながらその御衣のふさにそっと触れます。「イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。『この方の服にでも触れればいやしていただける』と思ったからである」。そしてその通りになりました。「すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた」。彼女は12年間の苦しみからようやく解放されたのです。しかしイエスは振り返って自分に触れた者を探します。「イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、『わたしの服に触れたのはだれか』と言われた。そこで、弟子たちは言った。『群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、「だれがわたしに触れたのか」とおっしゃるのですか。』しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた」。イエスはその者の救いのためにはどうしてもその者を見出す必要を感じられたのです。イエスの温かいまなざしの中にその女性は勇気を振り絞って自ら名乗りを上げます。「女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した」。イエスは彼女に神の救いを宣言します。イエスは言われた。『娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい』」。実はこの宣言は彼女がユダヤ人の社会に復帰するためにはどうしても必要な宣言でした。出血が止まらずにいた彼女は当時の社会にあっては律法によって「汚れた者」と位置付けられていたからです。それが癒されたことは祭司によって公にされる必要がありました。イエスの娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさいという言葉は彼女が癒されたこと、社会復帰ができることを宣言した言葉です。それのみならず、12年間も彼女は「神から罰せられた者」「信仰のない者」と周囲から見なされて苦しんできた彼女の中に、「信仰(ピスティス)」があったことをイエスは宣言しているのです。「苦難の中にあっても神は常にあなたと共におられたのだ。これからも神はあなたと共におられる。だから安心して、神の平安(シャローム)の中に行きなさい」と。「信仰」とは人間の行為ではありません。それは「神の御業」であり、「神の信実/〈まこと〉による慈しみの御業」なのです。従ってイエスの言葉は次のように言い換えることができましょう。「あなたの中に働く神の信実があなたを救った」と。神は苦しみの中でも彼女と共にいてくださったのです。どのような悲しみや苦しみに出会おうとも、神の与える「信実(ピスティス/〈まこと〉)」が、私たちを守り、支え、永遠の喜びと慰めへと招いてくださいます。そのことをご一緒に感謝いたしましょう。お一人おひとりの上に神さまの祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。 アーメン。

2018年6月25日 (月)

2018年6月24日 聖霊降臨後第5主日礼拝 説教「黙れ、静まれ!」

2018624日  聖霊降臨後第5主日礼拝 説教「黙れ、静まれ!」     大柴 譲治

コリントの信徒への手紙 二 6: 1〜13

わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。(1-2)

マルコによる福音書 4:35〜41

イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」(39-40節)

 

大阪北部地震が起こって

 私たちは18日、先週の月曜日の朝、震度6弱という大きな地震を体験しました。昨夜も震度3の余震がありましたが、18日は一日中交通が分断されましたし、高槻や枚方などに住む方は大きな被害に遭われました。今でも水やガスなどが不通で、避難しておられる方もおられます。5人が亡くなり、負傷者は370人を超え、住宅の損傷は300棟以上という報告がされています。被災された方々のために心を合わせて祈りたいと思います。

教会ではすぐさま教会員の安否の確認のために、メイルの緊急連絡網を使ったり電話連絡を行ったりしましたが、電話が通じない地域もあってなかなか骨の折れる仕事でした。連絡が取れなかったで方々もいますが、大きな被害は今のところ私のところには届いていません。関西地区の他の教会も同様であったようです。JELCの議長と副議長の住むところに激震が走ったということで、JELC全体も心配を寄せ、祈りに覚えて下さった方々は少なくなかったことと思います。現代はインターネットを通じて世界中につながっていますので、いくつもの国から少なからぬ安否確認やお見舞いのメッセージが届き、大変にありがたく感じました。何かが起こるときに、私たちはネットワークの有り難さを感じます。ネットワークが私たちを支えているのです。教会にできることは多くはないかもしれませんが、いざという時のために、さらに祈りのネットワークを強めてゆく必要があると思われます。教会はグローバルなつながりを持っていますので、大阪教会などは救援活動の本拠地としても用いられることになりましょう。

今回のことで、1995117日の阪神淡路大震災を思い起こされた方もおられることでしょう。2011311日の東日本大震災や、二年前の4月(14日と16日)に相次いで起こった熊本地震のことも思い起こします。不必要な恐れや不安を駆り立てることがないよう注意深く語りたいと思いますが、これは「これに続く西日本大震災の始まりである」という専門家もいますし、やがて来る「南海トラフ地震」とのつながりも言われていたりします。熊本地震の時には、一日半後に起こった余震の方が大きな被害をもたらしたことも私たちは知っています。

そのような中で今日私たちは聖書のみ言葉を聴いています。天地万物が揺れ動くとも、決して揺れ動くことのない神のみ言に耳を傾けてゆきたいのです。

 

「黙れ、静まれ!」

 本日与えられている福音書の日課には、嵐の場面が描かれています。ガリラヤ湖では突然に突風が吹くということがしばしば起こったようです。特に夕方、急に気温が下がることで突風が生じたようです。12弟子の中にはペトロ、アンデレ、ヨハネ、ヤコブというガリラヤ湖のことを知り尽くしていた4人のプロの漁師たちがいたわけですから、彼らは突風の怖さを知っていたに違いありません。もしかしたらイエスが夕方になって「(舟で)向こう岸に渡ろう」と言った時に、4人には嫌な予感が走ったのかもしれません。案の定、激しい突風が起こり、舟は荒波にもまれる木の葉のように、波をかぶって水浸しになり、沈みそうになります。しかしそんな状況なのに、なぜかイエスは艫(船尾)の方で枕をして眠っておられます。とうてい寝てなどいられない状況です。イエスは天の父なる神への絶対的な信頼感からそのような状況でもスヤスヤと眠ることができたのでしょう。弟子たちはイエスを揺さぶり起こします、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言いながら。「溺れる者は藁をも掴む」です。プロの漁師を含む弟子たちの混乱と恐怖が私たちにも実感として伝わってきます。

私たちも地震が起こった瞬間は肝を冷やします。次の行動をどうすればよいか瞬間的に判断しなければなりません。オロオロと茫然自失するだけの方もおられたかもしれませんし、即座に行動してすぐガスを止めた方もおられましょう。電車やバスや車に乗っていて気づかなかった方もおられたようです。韓国やフィンランドなど、国によっては地震がほとんど起こらない固い岩盤の上に立つ国もありますので、今回日本で初めて地震を体験することになった方々はショックだったことだと思います。外国人旅行者たちも大変だったことでしょう。

本日の福音書には、しかしそのような荒波と突風に対して、神の権威をもって断固として向かい合うイエスの姿が描かれています。「イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった」39節)。私たちを守り抜かれる、力強くも頼もしいイエスの姿があります。それは弱く無力なまま十字架に架けられて殺されてゆく姿とは全く対極的なイエスの姿です。否、そうではないのでありましょう。私たちを苦しめる「罪」という突風と荒波から私たちを守るために、イエスはほ屠られる小羊のように黙って十字架に架かられたのでした。その姿は「黙れ、静まれ」と突風をお叱りなったイエスの姿と重なっているのかも知れません。イエスは私たちを苦しめる「罪」に対して、私たちが「罪に溺れ死んではならない」と、十字架を通して「黙れ、静まれ!」と言ってくださったのです。それは私たちが罪の中で滅びないよう私たちを守るためでした。十字架の死ですべてが終わったと思われた三日の後に、復活の勝利がもたらされました。私たちは復活の光の中に置かれています。この光はどのような闇をも貫く光であり、闇の中で輝き続けている私たちの希望の光でもあります。

 

なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。

この突風を鎮めるエピソードはまだ最後の部分が続いています。40-41節にはこうあります。イエスは言われた。『なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。』弟子たちは非常に恐れて、『いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか』と互いに言った」。このイエスの言葉を聴いて、弟子たちはさらに自分の中に恐怖を増し加えた様子が記されています。恐怖と言うよりも畏怖と言うべきかも知れません。イエスはしかし弟子たちに次のように語っておられるのではないか。「わたしがあなたのそばにいるのに、なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。もう怖がる必要はない。波や風を見るのではなく、わたしを見続けなさい。神はインマヌエルの神。どのような時にも、どのような場所でも、あなたと共にいてくださる神なのだ。わたしがあなたと共にあって、あなたを必ず守る。わたしがあなたにわたしの〈まこと〉(ピスティス)を与えよう」。先週私たちは「からし種一粒の信仰(ピスティス)があれば」というイエスのみ言葉を聴きましたが、私たちの信仰とは父なる神に対する信頼であり、イエスに対する信頼なのです。

 

聖餐への招き

イエスが私たちを捉えて下さるのです。それは「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、『恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた』と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日」とパウロが本日の第二日課で言っている通りです(2コリント6:1-2)。

 これから私たちは聖餐式に与ります。「これはあなたのために与えるわたしのからだ。これはあなたの罪の赦しのために流すわたしの血における新しい契約」と言って、主が私たちを生かすためのパンとして、ブドウ酒としてご自身を捧げてくださった主イエス・キリスト。キリストが準備して下さったこの天の祝宴こそが、私たちの中に「からし種一粒の福音信仰」を蒔いてくださいます。イエスが私たちの中に贈り与えてくださるこの「信仰(ピスティス)」こそが、信じることができずにいた者を信じる者へと変えてくださるのです。人生でどのような悲しみや苦しみに出会おうとも、たとえ嵐や大地震が私たちを襲おうとも、イエスご自身が私たちを守り、支え、永遠の喜びと慰めへと招いてくれます。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」なのですから。そのことを覚えて天の父なる神に感謝いたしましょう。  お一人おひとりの上に神の恵みが豊かに注がれますように。 アーメン。

2018年6月23日 (土)

2018年6月17日 聖霊降臨後第4主日礼拝説教「世界を動かす力は希望」

2018617日  聖霊降臨後第4主日礼拝説教「世界を動かす力は希望」 大柴 譲治

マルコによる福音書 4:26〜34

また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」(26-29節)

 

「世界を動かす力は希望である」(ルター)

 本日は福音書の日課では二つの「神の国のたとえ」が与えられています。その主題は「希望」であると捉え、「世界を動かす力は希望」という説教題をつけさせていただきました。これは宗教改革者・マルティン・ルターの言葉です。ルターは言っています。「この世界を動かす力は希望である。やがて成長して果実が得られるという希望がなければ、農夫は畑に種をまかない。利益が得られるという希望がなければ、商人は商売に取りかからない」。確かに、「収穫」という希望があればこそ、そのために私たちは努力してゆくことができるし、その努力はやがて豊かな実りというかたちで報われてゆくものであるとのでしょう。そのように考えますと、どれほど今ここでの現実が厳しいものであっても、私たちは未来に向かって夢と希望を抱き続けます。それを抱き続けなければ、この苦難を耐えることができないと思うからです。「明日」という言葉は「明るい日」と書きますが、人間とは明るい明日、希望に向かって生きるように最初から定められているのかもしれません。女性会聖研では先月から「希望」という主題についてみ言葉に聴いています。

例えば、今日はローマ書4章からパウロの言葉が与えられています。パウロは言うのです。彼(アブラハム)は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、『あなたの子孫はこのようになる』と言われていたとおりに、多くの民の父となりました」(ローマ4:18)。「信仰の父」と呼ばれる父祖アブラハムが、神の言葉を信じて義とされたこと、100歳の時に約束の子であるイサク(「彼は笑う」という意味の名前)を与えられて、大きな喜びに満たされて、すべての民のための「祝福の源/基」となっていったことは、聖書に告げられている通りでした。パウロの言う通り、アブラハムは「希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じた」のでした。何が彼を支えたか。神が彼を通して豊かな祝福を与えるという「神の約束の言葉」でした。神の言葉の中にアブラハムは希望を見出したのです。そのことはパウロもそうであり、マルティン・ルターもそうでした。「世界を動かす力は希望である。やがて成長して果実が得られるという希望がなければ、農夫は畑に種をまかない」。神のみ言という未来を支える希望があればこそ、私たちは現在の苦難を乗り越えてゆくことができるのです。

これまでもご紹介してきましたが、ユダヤ人強制収容所の現実を描いた『夜と霧』という世界的なベストセラーがあります。著者のユダヤ人精神科医ビクトール・フランクルはその中で次のように語っています。「収容所で最初に倒れていったのは身体の弱い、体力のない人たちではなかった。希望を見失った者、絶望した者から先に倒れていった」と。普段私たちはそれほど意識していませんが、ギリギリの限界状況に置かれたときにそれまで見えなかったものが見えてきます。私たち人間をその根底から支えているのが「希望」だということが見えてくるのです。人生には様々なことが起こります。喜びの時もあれば、悲しみや苦しみの時もある。例えば、病気や事故で入院しなければならなくなったとき、私たちは思います。「いつか必ず治って、自分の家に帰る日が来る」と。そのような希望があればこそ、免疫力も高まり、治療効果も上がってゆくのです。七転び八起き。諦めたら終わりなのです。

 

神の国のたとえ①〜「種まきのたとえ」

さて、イエスの語った神の国のたとえを見てみましょう。最初のたとえはこうです。また、イエスは言われた。『神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである』」26-29節)。確かに田んぼや畑、家庭菜園や草花などグリーンを育てておられる方々はよくお分かりになることでしょう。植物の成長は本当に不思議なものです。種の中には最初から、予め成長してゆく力が宿っているかのように見受けられます。また土の中には予め実を結ばせてゆく(肥料としての)力が宿っているようなのです。

昨日天王寺教会で関西一日神学校が開かれ、ルーテル学院大学教授のジェイムズ・サック先生が「素晴らしいコミュニケーション〜人間関係をより良く築くために私たちにできること」という主題で講演を行ってくださいました。その中に次のような印象的な言葉がありました。「一つのリンゴの実の中に種がいくつあるかは私に分かるけれども、一つの種からいくつのリンゴの実が実ってゆくかは私には分からない」。種の中には無限の成長の可能性が宿っているという意味ですが、サック先生は、私たち一人ひとりの中にはそのような無限の可能性が神から与えられているということを伝えたかったのだと思います。そして、私たちが向かい合う相手の中にある豊かな可能性を信頼して、できるだけ肯定的に相手を捉えてゆくことが大切であると、コミュニケーションの秘訣を示して下さったのです。「良いコミュニケーションは健康的な態度に基づいている」。言い換えれば、「相手の中には豊かな実りをもたらすはずの種があって、その種の未来の成長の可能性を信じる」ということではないかと私は受け止めました。

大切なことは、「人間」という字は「人の間」と書くように、私たちは自分が一人だけで生きているのではないということなのでしょう。私たちは人と人の間に、他者との生き生きとした関係の中に置かれているということだと思います。モノローグ(独白)ではなく、ダイアローグ(対話)なのです。私たちが大きな壁にぶつかって悩むとき、落ち込むときに、自分は孤立無援の独りぼっちであるように感じます。どこにも希望を見出すことができず、絶望的な気持ちになることがあります。私たちは自分を支えてくれる誰かが必要です。家族や友人や、恩師や教会の交わりなど、他者が必要なのです。その意味で「救い」は常に「外」から、私たちを超えた「天」から来るのです。

 

神の国のたとえ②〜「からし種のたとえ」

 イエスが語られた神の国のたとえの二つ目は「からし種のたとえ」です。「からし種」とは英語では「マスタードシード」。マスタードのビンの中によく見ると小さなツブツブの種が見えることがありますが、あの1ミリの半分にも満たないような小さな「からし種」についてのたとえです。更に、イエスは言われた。『神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る』(30-32節)。ここでも小さなからし種一粒の中には、鳥が巣を作ることができるほどに大きく成長してゆく神の力が宿っていることが告げられています。「からし種」に関しては次のようにイエスは言われたことを思い出します。「イエスエスは言われた。『信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、「ここから、あそこに移れ」と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない』」(マタイ17:20)。ルカにはこういう言葉も記録されています。「主は言われた。『もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、「抜け出して海に根を下ろせ」と言っても、言うことを聞くであろう』(ルカ17:6)。私たちには神が与えて下さる「からし種一粒の信仰」があればそれで十分なのです。「世界を動かす力」「神の言葉」という「希望」なのです。

 これから私たちは聖餐式に与ります。「これはあなたのために与えるわたしのからだ。これはあなたの罪の赦しのために流すわたしの血における新しい契約」と言われたイエス・キリスト。この主の約束の言葉を私たちの「ライフ(人生・生活・いのち)」の中心に置きたいと思います。この天の祝宴こそが、どのような悲しみや苦しみに出会おうとも、私たちを永遠の喜びと慰めと希望へと招いてくれるからです。そのことを共に感謝いたしましょう。アーメン。

2018年6月10日 (日)

2018年6月10日 聖霊降臨後第3主日礼拝説教「聖霊を冒涜する罪とは」

2018610日 聖霊降臨後第3主日礼拝 説教「聖霊を冒涜する罪とは」   大柴 譲治

マルコによる福音書 3:20〜35

「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。29しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」(28-29節)

 

剣で刺し貫かれるような心の痛みを覚えた母マリア

 本日の福音書は「一軒の家の中」での出来事です。「家」「家庭」をも表していて、恐らくそれは「カファルナウムにあったペトロとアンデレの家」を意味していたことでしょう。イエスと弟子たちは、ガリラヤでは、漁師であったペトロとアンデレ兄弟の家をその活動の拠点としていたからです(1:29参照)。イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった(マルコ3:20)。イエスの周囲には救いを求めた苦しむ人々が大勢いたのです。そしてこう続きます。身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである」21節)。ここで「身内」とはイエスの「母マリアと兄弟姉妹たち」であったことが32節を読むと分かります。家族が心配してイエスを「取り押さえに来た」というのですから、これはよほどのゆゆしき事態です。「イエスは汚れた霊に取りつかれている」と言う者もいましたし(30節)、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」とか「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」とまで言う「エルサレムから下ってきた律法学者たち」もいたと記されています。イエスの家族はそのような伝聞を聞いて、恐らく家族会議を開き、「これは一大事だ。もう放ってはおけない」と考えてペトロとアンデレの家にやって来たのでしょう。父ヨセフの名が出てこないのはイエスが若い頃に亡くなっていたからでしょう。当時の社会では家族の絆は強いものでした。

31節以降にはこうあります。「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。大勢の人が、イエスの周りに座っていた」という状況です。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」とイエスが知らされると、イエスは「周りに座っている人々を見回しながら」、ある意味で家族に対して大変に厳しい言葉を告げるのです。「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と。「わたしは彼らを知らない」と言っているかのようです。そこには「母や兄弟たちはもうわたしの家族ではない」という家族との訣別/絶縁を宣言したような強い響きがあります。「父母を敬え」というモーセの十戒で命じられている以上のことがここで神の権威をもって宣言されているのです。既にイエスによって新しい時代が始まっているのです。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」。母マリアは人間として、これらの言葉に心の中で鋭い刃で突き刺されたような痛みを覚えたのではなかったかと想像します。

 ルカ福音書2章には幼子イエスと出会ったシメオンが大いなる喜びのうちに「シメオンの讃歌(ヌンク・ディミティス)」を歌う場面が記されていますが、その後シメオンはマリアにこう伝えています。「シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。『御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。— — あなた自身も剣で心を刺し貫かれます(下線は大柴)— — 多くの人の心にある思いがあらわにされるためです』」(ルカ2:34-35)。「マリア(ミリアム)」という名前はヘブル語の「マラ(にがい)」という語から来ています(ルツ1:20-21)。深読みかも知れませんが、母マリアが「心を刺し貫かれるような痛み」を最初に覚えたのもこのようなイエスの態度と言葉からだったように思います。

そのような痛みはイエスが十字架に架けられて殺され、死んで十字架から降ろされた場面で、頂点を迎えたことでしょう。自分がお腹を痛めて産んだ子が目の前で殺されなければならなかったマリア。それを目の前で目撃しなければならなかったマリアの心の痛みを覚えます。「スタバート・マーテル・ドロローサ(悲しみの聖母は立ちぬ)」と呼ばれる中世の讃美歌や、「ピエタ(あわれみ/慈悲)」と呼ばれる十字架から降ろされた息子を抱きかかえるマリアの姿がいくつもの絵や彫刻を想起します。最も有名なものはルネサンス時代を生きた天才彫刻家にして画家、建築家にして詩人であったミケランジェロ(1475-1564。彼は1483-154663年間の激動の生涯を生きた宗教改革者マルティン・ルターと同時代人です)が20歳の時に作った大理石のピエタ像でありましょう。それはヴァチカンのサンピエトロ大寺院に納められていて、ミケランジェロが唯一自ら署名をした作品としても知られています。

マリアは天使ガブリエルから受胎告知を受けた時点で、既に最初から神がイエスを通して人々のために救いの御業を示されるということを知っていて次のように告白したのでした。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ1:31)。マリアは自分の理解を超えた出来事を、理解できないままで神の御心として精一杯受け止めようとしています。ここでも母マリアはイエスの言葉を、心の痛みを覚えながらも、「お言葉どおり、この身に成りますように」という祈りをもって「御心が成るように」と受け止めたに違いありません。

 イエスの言葉に戻りましょう。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」イエスは「地縁」でも「血縁」でもない「神の御心を行う人たちの新しい絆」、神の聖霊によって集められた「聖霊縁」とも呼ぶべき「新しい絆」、「神の家族としての絆」を創造しているのです。誰であっても「神の愛の御心を行う者」「イエスの家族」です。イエスの母マリアは真の意味で、血縁の次元を超えた、神の御心を自分の身体と人生とで受け止めていった「まことの信仰の母」とも呼ぶべき存在でありました。

 

「聖霊を冒涜する罪」とは何か?

 そのように考えてきますと、本日の「決して赦されることのない聖霊冒涜の罪」とは何かということについても光が当てられてゆくように思います。イエスは言います。「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」28-29節)。「はっきり言っておく」という語は、ギリシャ語で「アーメン、わたしはあなたがたに言う」という言葉です。「アーメン」とは「然り」「真実」「まことにその通り」という意味のヘブル語で、その表現は事柄を強調する際に使われるイエスの口癖でもあります。「聖霊を冒涜する罪以外はどのような罪であってもすべて赦されるが、唯一聖霊冒涜の罪だけは決して赦されない」と言われている。「そして永遠に罪の責めを負う」とある。この言葉を聞く者は心底身震いがして、自分は燃えたぎる地獄の業火で燒かれる定めにあるようなショックを受ける表現です。それにしても「聖霊を冒涜する罪」とは何なのでしょうか。

 「ベルゼブル」という語が出て来ますが、これはカナン地方の神の名でもあり、同時にペルシャの偶像神「ベルゼブブ」(蝿の王/蝿の主。列王紀下1:2では「バアル・ゼブブ」)を指しているとも考えられます。「エルサレムから下ってきた律法学者たち」はイエスの働きは神の聖霊の働きではなく、「悪魔的で悪霊的、魔術的な働きなのだ」と非難しているのです。彼らにとってイエスの行為は神への冒涜以外の何ものでもなかったのでしょう。彼らは律法学者ですから旧約の律法には精通しているにもかかわらず、目の前のイエスにおいて神の聖霊が働いていることが全く見えなかった。何かに遮られてそれが全く分からなかった。彼らの頑なな心、頑固で閉ざされた心が、ますます閉ざされて固くなってゆくのです。イエスは言います。「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」と。それは彼らの「かたくなな心」(マルコ3:5、先週の福音の日課)を打ち砕くための鉄槌でした。しかし彼らは安息日論争以降、イエスを殺そうと画策するようになります。イエスの言葉を受け入れなかったどころか、「神の御心」を見失い(頑ななゆえに自分のしていることが神の御心に適っていると思い込んでいたのかも知れません)、罪に罪を重ねることになってゆくのです。それは剣で心を刺し貫かれるような痛みを味わい続けた母マリアの姿と対照的です。そのように痛みには覚醒作用があるのでしょう。「良薬口に苦し」と言われますが、「人生における痛み・にがさ」とは私たちの「頑なな心」「打ち砕かれた心」に変えてゆくために備えられた神の恵みなのかもしれません。

 

罪と悲しみ、痛みからの解放〜イエス・キリストの現臨

 これから私たちは聖餐式に与ります。「これはあなたのために与えるわたしのからだ。これはあなたの罪の赦しのために流すわたしの血における新しい契約」と言って、主が私たちの罪を赦し、私たちを真の自由と感謝と希望のうちに生かすため、パンとブドウ酒としてご自身を捧げてくださったのです。そのことを私たちの「ライフ(人生・生活・いのち)」の中心に置きたいと思います。キリストが注いで下さった愛こそが私たちの頑なな心を打ち砕き、神に向かって開いて下さいます。キリストが準備して下さったこの天の祝宴こそが、私たちがこの世でどのような悲しみや苦しみに出会おうとも、私たちを永遠の喜びと慰めと希望へと招いてくれるのです。その救いの食卓を感謝いたします。そこから力をいただいて、新しい一週間をご一緒に踏み出してまいりましょう。アーメン。

2018年6月 5日 (火)

2018年6月3日(日)聖霊降臨後第2主日礼拝説教「本末転倒を避ける」

201863日(日) 聖霊降臨後第2主日礼拝説教「本末転倒を避ける」  大柴 譲治

申命記 5:12〜15 / マルコによる福音書 2:23〜3: 6

「安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。」(申命記513-14a

 

安息日論争

 本日私たちに与えられているのは「安息日論争」のエピソードです。「安息日」とはヘブル語では「シャバット/サバス」と呼びますが、これは「第七」という意味の語から来ています。創世記を読みますと神が六日間で天と地を創造し七日目に休まれたとあるところから、七日目を「安息日(安らかな息の日)」と呼ぶようになったのです。日没から一日が始まりますから、厳密に言えば「安息日」とは「金曜日の日没から土曜日の日没まで」を意味します。本日の旧約の日課に与えられているように、モーセの十戒に安息日の規定がありますので、ユダヤ人は「安息日」をとても大切にしていました。安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない(申命記5:12-14節)。その日にはいかなる仕事もしてはならないのです。それは、人間が神に倣って労働を休み、休息を取るのみならず、安息日は神を礼拝するために神ご自身が聖別した特別な日でもあったのです。本日の箇所では、その弟子たちはこの安息日の定めを守らないということでファリサイ派の人々は弟子たちの師であるイエスに難癖を付けています。事の発端は弟子たちが麦の穂を摘み始めたというところにあります。ユダヤ人たちは、これは神の律法が禁じた労働に当たるというのです。ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、『御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか』と言った」23-24節)。平衡箇所を見ると、ルカ福音書はそれに「弟子たちは麦の穗を積み、手でもんで食べた」と記しています。いかにも脱穀という労働をしているような一語を付加しているのです(ルカ6:1)。弟子たちのしたことは明らかに安息日の規定に違反するということなのでしょう。もしかしたらこの出来事の背景には、ユダヤ教からキリスト教が分離してゆくという複雑な事情があったのかもしれません。「なぜキリスト者たちはモーセの十戒を守らないのか」というユダヤ教の側からの鋭い問いかけがあったことが考えられます。

 

イエスが教えた三つのこと

 イエスはファリサイ派に対して三つのことを示します。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか」25-26節)。イエスはここでサムエル記上21:1-7に記された出来事を想起しています。舞台はノブという所の聖所。ダビデはサウル王の憎しみを買って逃亡中です。ノブの祭司アヒメレクがパンを請うたダビデに対して「聖別されたパン」を与えたことが記されています。これが安息日の出来事であったかどうかは記されていませんが(恐らく違うでしょう)、「聖所で祭司だけが食べることができる聖別されたパン」も、人を生かすために例外的に用いられることがあるということです。ちなみに、マルコはここで祭司の名を「大祭司アビアタル」と言っていますが、これはマルコの記憶間違いで、正しくは「祭司アヒメレク」です。マタイとルカはそれのためか、マルコの記した名前をカットしています。

 イエスはま続けてこう言っています。②「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある」27-28節)。「人の子」とはイエスがご自身を語る時によく使う称号です。神から遣わされた権威をもってイエスはファリサイ派の人々の本末転倒を正されるのです。

第三は、マルコ3章に記されているもう一つのエピソード「安息日に片手の萎えた人を癒すイエス」です。③「イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。イエスは手の萎えた人に、『真ん中に立ちなさい』と言われた。そして人々にこう言われた。『安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。』彼らは黙っていた。そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、『手を伸ばしなさい』と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた」3:1-6)。結局この「安息日論争」がユダヤ人たちの怒りと憎しみを買うことになって、イエスが十字架で殺されることの発端になったとマルコは記しています。

 

本末転倒とそれを避ける道

 私たちはイエスの言葉を聴くとしばしばハッとします。様々なことにこだわって大切なことを見失いがちな私たちに、何が大事なことであるか、何が神が大切に求めていることであるかをはっきりと教えてくれるのです。「あなたがたは本末転倒している。安息日に関しての神の意図は別のところにあるのだ」と。祭司アヒメレクに頼んでダビデは聖別されたパンを食べるほど自由でした。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」という言葉がイエスの言いたいことを最も明らかにしているでしょう。「本末転倒してはならない。安息日を定めた神の意図は、人間を真の意味で生かすためであり殺すためではない」とイエスは神の権威をもって告げています。

また、イエスは手の萎えた人に「真ん中に立ちなさい」と言って人々の真ん中に立たせます。神の恵みが注がれる舞台のど真ん中に彼は呼び出される。彼が神の恵みのドラマの主人公なのです。そして人々にこう言われます。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」。彼らは誰もイエスに答えられずに黙っています。するとイエスは、怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に「手を伸ばしなさい」と言われたのです。伸ばすと、彼の萎えた手は元どおりになりました。安息日に限らず、神は私たちを祝福し私たちを聖別してくださろうとしているということをイエスは明らかにしています。私たちは恵みの神を信じ、神によって様々な束縛から解放され、神との信頼関係の中で自由にされていく必要があるのです。

 本末転倒を避けるために私たちはイエスの言葉を深く味わう必要があります。「安息日に律法で許されているのは、悪を行うことではなく善を行うことであり、殺すことではなく命を救うことなのです」。イエスは私たち人間の持つ「かたくなな心」「悲しみ」、「怒りをもって」それと対決しながら「癒やしの御業」を行われました。それを見て私たちの心が打ち砕かれ、悔い改めて神へと戻ってゆくためであったのです。しかしそれは起こりませんでした。ファリサイ派の人々は頑な心をさらに頑なにしてイエスを殺そうとまで考え始めるのです。人間とは何と救いようがない存在であるかと思います。自分を守ろうとする時、私たちは本能的に自分を脅かすものを排斥し、排除しようとします。イエスは私たちの心の頑なさを打ち砕こうとされます。私たち人間の「頑固な心」、それは「律法主義的な心」「自己神格化」と言い換えることができるかも知れませんが、それがイエスを十字架へと追いやり、イエスを十字架に架けたのです。そこに私たち人間のどうしようもない「罪の現実」があります。出口のない暗黒の闇がある。しかし、本当の救い、本当の命、本当の自由は、私たちの罪がイエスによって打ち砕かれ、私たちが自らの罪を悔い改め、十字架の救いを信じるところに与えられます。闇の底にイエスの救いの光が届いて輝いています。何が大切かを知らずに本末転倒を繰り返す私たちに、イエスは一番大切なこと、神がその独り子を賜るほどこの世を愛してくださったことを教えてくださった。イエスを通して私たちには本当の救い、本当の安息が神から与えられるのです。

 これから聖餐式に与ります。「これはあなたのために与えるわたしのからだ」「これはあなたの罪の赦しのために流すわたしの血における新しい契約」と言って、主が私たちを生かすためのパンとブドウ酒としてご自身を捧げてくださった。そのことを私たちの「ライフ(人生・生活・いのち)」の中心に置きたいと思います。キリストへの服従こそが、私たちが本末転倒することなく、真の神を神として生きてゆくことができる道なのです。本日、神の安息に与るこの主日礼拝において、そのことを知る者は幸いであると言わなければなりません。

2018年5月28日 (月)

2018年5月27日 三位一体主日礼拝説教「三位一体の神を信ず」

2018527日 三位一体主日礼拝 説教「三位一体の神を信ず」       大柴 譲治

ローマの信徒への手紙 8:12〜17

神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。(14-16節)

ヨハネによる福音書 3: 11

イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」。(5節)

 

「三位一体主日」

 先週私たちはペンテコステの出来事を覚えて、「使徒行伝は聖霊行伝」(間垣洋助)という言葉を通して、聖霊降臨について学びました。聖霊降臨後日の次の日曜日は、教会暦では「三位一体の神を覚える主日(三位一体主日。英語ではHoly Trinity Sunday」)」として定められています。それは、一年に52回ある日曜日の中で、唯一キリスト教の教理について焦点を当てた主日となります。すなわち今日は「三位一体の神」について学ぶ主日で、説教題も「三位一体の神を信ず」とさせていただきました。

 「三位一体の神」と言われても、それがどの何を意味しているか理解するのは難しいと思います。「三つで一つ、一つで三つ」というのは私たち人間の思考の枠組みを超えた神の神秘でもあるからです。「三位」という語は神が「三つのペルソナ(位格)」を持つことを意味します。「ペルソナ」というのはもともとラテン語で「仮面/マスク」を指す言葉で、ひとりの神は「父と子と聖霊」という三つの仮面を持っていて、それを時に応じてかぶり分けているということになりましょうか。「ペルソナ」とはそこから「パーソナリティ」という言葉が出て来た元の言葉でもあり、人間で言えば「人格」と訳されますが、神は人ではないのでわざわざ日本語では「位格」という特別な語を訳として与えています。簡単に言えば「神」は「父」「子」「聖霊」という三つの人格を持つということになります。

 

「二重人格」?「三重神格」!

 「二重人格」という言葉がありますが、三つのペルソナを持つとされる神は、分かり易く言えば「三重人格」ということになりましょうか(正確に言えば「三重神格」ですが)。私たちが「あの人は二重人格だ」と言うとあまりよい意味を持っていませんね。ジキルとハイドではないですが「極端に相反するような人格を併せ持っている人物」という意味で「二重人格」という語は使われます。しかし「神が三位一体である、神は三重神格である」とは、確かに私たち人間の理解を超えた「神の神秘」を指していますが、決して悪い意味ではありません。後にももう一度触れますが、アガペーの愛である神、独り子を賜るほどにこの世を愛してくださっている父なる神が、その愛をなんとか私たち人間に伝えようとして「父」と「子」と「聖霊」という「三つのペルソナ(仮面)」をかぶり分けてくださっているということなのです。

 そもそも「教理(ドクトリン/ドグマ)」とは何か。毎週私たちは使徒信条またはニケア信条(第一日曜日)によって礼拝でも信仰の告白をしますが、「教理」とは教会が「私たちはこのように信じます」と告白してきた「信仰の枠組み(骨格)」であり「信仰告白を支える土台」を意味しています。注意深く言わなければなりませんが、これを否定すると正統なキリスト教信仰から離れていってしまいます。すなわち「異端」的なものになってしまうのです。例えば、もし私が「自分は再臨のキリストである」と言い始めたとすると「三位一体」を否定することになり、「異端(キリスト教とは別の宗教)」となってしまいます。「真理は限りなく異端に近い」という言い方もありますが、教会が告白してきた正統的な信仰から離れてしまうことになる。

普段は意識しませんが、私たちは二つの教理を持っています。「三位一体の教理」「キリスト両性論(キリストは「まことの神にして、まことの人」という完全な神性と完全な人性を併せ持つという)の教理」です。この二つの教理は両方とも神の神秘であり、人間が理性を用いて完全に理解することも説明することもできないような次元の事柄です。繰り返しますが、異端との血を流すような厳しい戦いを通して、教会は「公会議」でそのように「信じます」と信仰の告白をしてきたのです。私たちもそのような信仰に連なっています。

「三位一体の神」とは

 皆さんも洗礼準備の際、ルーテル教会の場合にはルターの『小教理問答』を学びますが、その学びの中で「三位一体論」「キリスト両性論」について牧師から説明をお聞きになったことと思います(濃淡はあったかも知れませんが)。「三位一体の神」とは何を意味するのか。私は通常こう説明します。「父なる神、御子なる神、聖霊なる神がおられるけれども、神が三人のいるわけではない。ひとりの神が三つのペルソナを持ってご自身を現されている。三位は一体なのである。教会はそのように三位一体の神を信じてきた」と。「キリスト両性論」についても同じです。私たちは「まことの神にしてまことの人である主イエス・キリストを信じる。イエス・キリストは完全な神性と完全な人性を併せ持っておられる」と。

「三つを一つにおいて、一つを三つにおいて信じる」「三つで一つ、一つで三つ」というのは確かに論理を超えています。あるカトリック神父の話。受洗準備のための公教要理のクラスの中で「三位一体について説明しなさい」という問いを出したそうです。それに対して「分かりません」と答えたら「○」、言葉でもって色々と説明しようとしたらX(バツ)」を与えたということでした。私の先輩の渡邉純幸牧師は「三位一体と聞いて、うな丼と説く。なぜなら、そこではうなぎと山椒とタレの三つが一体であるから」と言っておられました。それでは最初から取り組みを避けていることになるのではないかと私は思いますが・・・。

私は、私たち人間には理性というものが与えられているのですから、いくつかのかたちで説明を試みてみたいと思うのです。私たちの信仰はどこまでも「知解を求める信仰(理解するということを大切にする信仰)」(アンセルムス)でもあるからです。

    「私」という存在を考えてみます。「私」は、子供の前では父親であり、親の前では子であり、妻の前では夫です。私という一人の人間の中に「父」「子」「夫」という三つの役割が同居していることになります。同様に、ただおひとりの神の中に「父と子と聖霊」という「三つのペルソナ」が同居していると説明できましょう。

    H2Oという分子構造を考えてみます。これは二つの水素原子と一つの酸素原子が結びついた物質(=「水」)を表す分子構造です。H2Oは状況に応じてその形を変化させてゆきます。「1気圧」という条件においてですが、「零度以下」では「氷=個体」、「零度から百度まで」では「水=液体」、「百度以上」になると「水蒸気=気体」になる。H2Oという本質は同じ物質が固体・液体・気体というように三つに姿を変えるのです。「三位一体の神」も同様であると説明できます。もっとも「零度以下」「百度以上」が何を意味するのか説明しきれない部分が残りますが、かつて理系であった私にはこれが一番しっくりくる説明です。

    三つ目は、私自身がある方から教えられたことです。治験会社の社長までされて、60歳を超えてからようやく教会に来る時間が与えられて洗礼を受けられた方です。「私は三位一体というものがよく分かります。光のことを考えてみるとよく分かるのです。光には二つの相反する性質があります。光は粒子という性質と波動(波)という性質を併せ持っているのです。神もそれと同じく、三つの位格を持っていると捉えています。」

 四つ目はこうです。先述しましたが、アガペーである神はその愛を何とかして私たちに伝えようとされました。「父なる神」「その独り子なる神イエス・キリスト(=み子なる神)」をこの地上に派遣することを通して、そして「聖霊なる神(=神の息吹)」をこの地上に吹き込むことを通して、その愛を私たちに伝えようとしているのです、と。

 

「むつかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく」(井上ひさし)

 いかがだったでしょうか。少し理屈っぽく感じられたかも知れません。「神学」とは「信仰の内省の学」です。『ひょっこりひょうたん島』を作ったカトリック劇作家・井上ひさしさんはこう言っていました。「むつかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいこともおもしろく、おもしろいことをゆかいに、ゆかいなことをさらにゆかいに、語りたい」と。味わい深い言葉です。三位一体についてもそのように語りたいと思いながら本日は準備いたしました。神が聖霊の息吹を通して私たちを新たに生まれ変わらせ、神の国に生きる者としてくださいますように。

2018年5月22日 (火)

2018年5月20日(日) 聖霊降臨日 礼拝説教「真理の霊による弁護」

20185月20日(日) 聖霊降臨祭 礼拝 説教「真理の霊による弁護」 大柴 譲治

 使徒言行録 2: 1〜21

1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 3そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。4すると、一同は聖霊に満たされ、が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。(1-4節)

 ヨハネによる福音書 15:26〜27,16:4b〜15

わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者(ルター訳聖書では「慰め主」)、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。(26節)

 

ペンテコステの出来事〜「使徒行伝は聖霊行伝」(間垣洋助)

 本日は聖霊降臨日。復活から数えてちょうど50日目に聖霊降臨(「ペンテコステ」とはギリシャ語で50の意)の出来事が起こります。使徒言行録2章にこう記されています。五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした(2:1-4)。

 私は1986年に東京三鷹の日本ルーテル神学校を卒業して牧師となりました。最近、神学校時代の事をいろいろ思い起こします。その頃には分からなかったことが少しずつ分かってきたように感じるのです。当時新約学の教授であられた間垣洋助先生が授業の中で使徒行伝について次のように語って下さいました(まだ1987年に新共同訳聖書が出る前でしたので「使徒行伝」でした)。「新約聖書の『使徒行伝』は、その前半はペトロ、後半はパウロが主人公であるように見えます。しかしその本当の主人公は、ペトロでもパウロでもなく、彼らを捉えて使徒として立て、派遣した神の聖霊なのです。だからそれは『使徒行伝』と呼ばれるよりもむしろ『聖霊行伝』と呼ばれるべきものなのです。そしてその書物は28章で終わっているように見えるかも知れない。しかしそれはそこで閉ざされて終わっているのではなく、開かれたまま終わっているのであって、29章以降は神の聖霊が後に続く私たちキリスト者を通して書き加えられてゆくのです」。間垣先生の言われた通りであると思います。神の聖霊がキリスト教の二千年の歴史を通してこの地上に注がれ、キリスト者を動かしてその働きを継承してきたのです。私たちが今日、この聖霊降臨日の礼拝を守ることもまたこの『聖霊行伝』に一ページを加えるかたちになっていると信じます。

使徒言行録の最後は次のように記されています。パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた28:30-31)。間垣先生の言われた通り、いかにも「次に続くto be continuedという開かれた終わり方です。この「続き」は、神の聖霊が二千年に渡って人々の上に注がれ、人々を捉えて「使徒(働き人/信仰者/復活の証人)」として立て、福音宣教と神の国の実現のために世界へと派遣ゆくことを通して書き加えられていったのです。マタイ福音書の最後に復活の主は次のように弟子たちに命じています(それは「大宣教命令」とも呼ばれます)。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる28:18-20)。

 通常「風」自体は私たちの目に見えません。不可視です。しかし「風」が吹くときには何かが動かされます。落ち葉が舞ったり、旗や洗濯物がはためいたり、空を雲がたゆたっていったり、遠い山々の木々が揺れ動いたり、心地よい風を肌に感じたりします。何かが動かされる時、私たちはそこに風が吹いていることを知るのです。聖霊降臨の出来事の中では「突然、激しい風が吹いてくるような大きな音が天からして、・・・炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人ひとりの上にとどまった」とあり、目に見えるかたち、耳で聞こえるかたちにおいても「聖霊」が降ったことが証言されています。他にも、例えばイエスの受洗時などに「天が裂けて、聖霊がハトのように御自分に降ってくるのを御覧になった」(マルコ1:10)とあります。しかし通常は「聖霊」自体は「見えない風」のようなものでありましょう。それが働く時にはそこでは何かが動かされてゆく。何かが動く時、そこに私たち自身の生き方が目に見える形で変えられていったり、エマオ途上の二人の旅人のように私たちの心が静かに燃えていたことが後から分かったりする。聖霊が注がれる時、私たちの中で何かが変えられてゆくのです。それは、本日の第一日課のエゼキエル書37章に預言されているように、「枯れた骨」をもよみがえらせてゆくような神のいのちの力を持った「神の息吹き」であります。創世記27節には「主なる神は土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」とある通りです。

 

ペンテコステの出来事〜「バベルの塔の出来事」(創世記11章)の対極にある出来事

 聖霊の注ぎを受けた人々においては何が変えられたのでしょうか。すると、一同は聖霊に満たされ、が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだしたとあります(2:2)。不思議なことにそれまで習ったことのない様々な言語で突然語り始めたというのです。何をか。イエス・キリストの出来事、神の救いの出来事を語り始めたのです。

 このペンテコステの出来事は、創世記11章に出てくるバベルの塔の出来事に対応し、その対極にある出来事と位置付けられると私は考えています。そこでは人々は「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」と考えました。人間がその分際を超えて「神」のようになろうとしたのです。しかしその結果は、相互に言葉が混乱して通じなくなり、人間には心が通い合うコミュニケーションができなくなっていったのです。「神のようになろうとした人間」は、相互に分断され孤立化し、心のつながりを断ち切られて、バラバラになってしまったのでした。ペンテコステに起こった出来事はその逆の出来事でした。相互にコミュニケーションができなかった者たちが、聖霊降臨を通して、様々な言語にもかかわらず、イエス・キリストにおいて一つに結びつけられたのです。

 

「弁護者」=「慰め主」(ルター)

 ヨハネ福音書では、イエスがその告別説教の中で「聖霊/真理の霊」のことを「弁護者(パラクレートス)」と呼んで、神から弁護者が派遣されるであろうことを弟子たちに約束しています。その原意は「パラ(傍らに、そばに)」「クレートス(呼ばれたもの)」という意味です。そこでは私の傍ら(隣り)にあって、真実を語ることで私を支え守る存在としての聖霊が考えられています。新共同訳聖書では、そこから「弁護者」という訳語が取られたのでしょう。口語訳聖書では「助け主」と訳されていました(新改訳聖書も「助け主」)。新約聖書をドイツ語に訳したマルティン・ルターはこのそれを「慰め主」と訳しました。ルターは困難な状況の中で、どのような時にも神が私たちの霊的なニーズを満たしてくださるために、「真の慰め」のため「助け手」を派遣して下さると信じたのでした。終わりの日の出来事を預言している黙示的なマルコ13章の、キリスト教への厳しい迫害が預言されている中で語られたイエスの言葉を想起します。引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ11節)。

 遠藤周作と三浦朱門というカトリックの作家が、井上洋治神父と三人で、キリシタンたちが迫害され殉教した九州の雲仙地獄を旅した時のエピソードが伝えられています。遠藤周作が三浦朱門に、グツグツと煮立っている坊主地獄を見ながら、「自分だったら、こんなところに投げ込まれるとすれば、すぐに転んで踏み絵を踏んでしまうだろう。あんたはどうだ」と三浦朱門に問うたら、彼も「自分も全く同じだ」と答える。今度は井上洋治神父に同じことを遠藤が尋ねると、井上神父は突縁プリプリと怒り出して、「そんなことはその場になってみなければ分からん。聖霊がどう働くかだ」と答えたそうです。確かにその通りでありましょう。人間の力ではなく神の聖霊、真理の霊が「助け手/弁護者/慰め主」として働く時に、人間の思いを遙かに超えたことが起こるのです。神の聖霊が私たちに自分が生きるべき道を教えてくれる、そのような時が人生には必ずあるのです。

 

本日の洗礼・堅信式と転入式にあたって

 今日はこの後にST兄の洗礼・堅信式と、TN兄の転入式が行われます。これらの出来事は、私たちがイエス・キリストに、またこの教会に導かれたのと同様に、神の聖霊の働きです。見えない聖霊が見えるかたちで私たちの中に注がれて、今ここでこのような礼拝が行われているのです。この101年を迎えた大阪教会の今日の主日聖餐礼拝もまた、「聖霊行伝/聖霊言行録」の一ページであると申し上げることができましょう。そのような神の聖霊が私たちの上に注がれています。そのことを神に感謝し、深く味わい、この喜びを分かち合ってゆきたいと思います。

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