心と体

2022年12月 3日 (土)

2022年12月4日(日)待降節第二主日礼拝 説教「悔い改めにふさわしい実を結べ」

2022年124日(日) 待降節第二主日礼拝 説教「悔い改めにふさわしい実を結べ」

大柴 譲治 joshiba@mac.com

〇 イザヤ書 11: 1- 10

エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。(1-2節)

〇 マタイによる福音書 3: 1-12

そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。(1-6節)

 

< 「待降節第二主日」に〜「悔い改めにふさわしい実を結べ」 >

 本日は待降節(アドヴェント)第二主日。福音書には洗礼者ヨハネが登場します。ヨハネは「ユダヤの荒野」で叫びます、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と。彼は民に対して「荒野」から「神の声」を告げている。毎年必ずアドヴェントにはこのエピソードが読まれますが、「天の国が近づいた」というメッセージはこの期節にまことに相応しいものなのです。向こう側から私たちに向かって「天国」(神の国)がドンドンと近づいて来る。だからこそ私たちはその到来のために今ここで備えをする必要があるのです。預言者イザヤの「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」という預言は洗礼者ヨハネにおいて成就しました。洗礼者が人々に、そして私たちに求めていることは「悔い改め」(メタノイア)でした。

  ヨハネが声を挙げた「荒野」という場所は、片時も人間が自分の力に頼ることのできない「死の世界」です。そこは同時に神がご自身を示される「神顕現の場」であり、神の働く所でもありました。モーセによる出エジプトの出来事の後、かつてイスラエルは40年間を荒野で過ごしました。マナと呼ばれる日毎のパンと岩清水とウズラを食物として神から与えられて、「40年」(ひと世代)を過ごしたのです。「荒野」とは神によって生きる以外にはない場所を意味しています。

 ヨハネはいかにも預言者然とした装いをしていました。4節にはこうあった。「ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた」。このヨハネの容姿(「らくだの毛衣」「革の腰帯」)はエリヤの姿と重なります。エリヤは「毛衣を着て、腰には革帯を締めていた」とありました(列王紀下1:8)。「いなごと野蜜を食物とする」に関しては、食物規定を記すレビ11:22では「いなご」は食べてよいものとされています。また、サムソンが裂いた獅子の死骸に生じた野蜜を食したことは記録として出て来ます(士師記14:8-9)。「らくだの毛衣と革の帯」とは荒野が与える質素な衣であり、「いなごと野蜜」は荒野が備えるほんの僅かな食べ物であったことでしょう。しかし彼はイザヤ40:3で預言されていた「荒れ野で叫ぶ者の声」でした。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」。本日の旧約の日課・イザヤ書11章にあった「正義をその腰の帯とし、真実をその身に帯びる」(5節)という言葉も洗礼者ヨハネの姿と重なるように思われます。

 荒野で叫ぶ洗礼者の声に応えるようなかたちで、続々と人々はヨハネのもとに集まってきます。ヨハネのストレートでダイナミックな言葉が人々の魂を打ち、心に深く響いたのでしょう。「そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」(5-6節)。ここでの「罪」とは(ギリシャ語原文では複数形が用いられていますが)「個々に犯した各自の個別の罪」というよりも、もっと根源的で普遍的な「主なる神との破れた関係」を意味しているものと思われます。モーセの第一戒に違反する罪ですね。

 そこには厳格な律法主義であった「ファリサイ派」や貴族階級であって現世肯定的な「サドカイ派」という当時のユダヤ教の指導者階級も集まってきていました。ヨハネは彼らに向かって厳しく言い放ちます。「蝮(まむし)の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」(7-8節)。誰が聞いても身がすくみ、魂が震えあがるような鋭い言葉です。マタイ福音書にはユダヤ教の指導者に対して厳しい言葉がいくつも記されています。「蝮の子ら」という語もここを含めて三回も出てきますし(他にマタイ12:34 と23:33。ルカにも3:7に一度だけ出てきます)、「偽善者よ」(マタイでは8回)とか「白く塗った墓に似ている」とかいう言葉もイエスによって発せられたと記録されています(23:27)。洗礼者ヨハネもイエスも、自らを特権階級としてそれに甘んじて安穏としていた宗教者たちの偽善を徹底的に明らかにし、打ち砕こうとしたのです。洗礼者ヨハネは彼らにこう続けて言います。「『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(9-10節)。私たちの「信仰(faith)」とはどこまでも神との関係の中で日毎に新たに与えられるものであって、自分の中に継続して保たれている「信念(belief)」や「自信」とは似て非なるものです。このことを私たちはしっかりと心に刻まなければなりません。

 10節に出てくる「火」という語はこの後すぐに11-12節でも二回繰り返されています。後から来るお方イエスはヨハネが「その履物をお脱がせする値打ちもない」ほど優れたお方です。ヨハネは「水」で洗礼を授けているけれども、イエスは「聖霊と火」とで洗礼を授けるお方。「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」(11-12節)。ヨハネは「最後の審判者」として天から派遣されるメシア・イエスが近づきつつあることを「荒野の声」としてここに預言しているのです。終わりの日は必ず来ます。

 アドヴェントの典礼色は「紫」。悲しみの色であり悔い改めの色、王の高貴さを表す色でもあります。四週間の期間、私たちは日毎に自らを省み、自らの罪に思いを向けながら過ごしています。ヨハネの言葉は私たちの中にある、「自分は救われている」と知らずに傲慢になってしまっている内なる隠れた「選民意識」や「優越感」といったものを打ち砕きます。「『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな」。私たちはどこかに自分をイエスに属する者として神の救いの中に置いて安心してしまっているようなところがあるのではないか。打ち砕かれることの中で、私たちは実は自身の内には何も頼るべきものを持っていないことを知らされます。神がイニシアティブをもってこの地上に御子イエス・キリストを派遣してくださった。その主の「救い」に与ることができるのは、100%打ち砕かれ、100%「恵みのみ」「信仰のみ」「聖書のみ」というイエスの出来事を信じる者だけに与えられるのです。

 前述のように、「悔い改めよ。天の国は近づいた」という洗礼者の呼びかけは「わたし以外の何ものをも神としてはならない」というモーセの第一戒と重なります。それは「まことの神のみを神とする」「神以外のものを神としない」という徹底した信仰を私たちに求めています。洗礼者ヨハネの言葉は私たちを打ち砕き、新たな心と魂とを与えてくださるのです。私たちはただ神の憐れみの御業に依り頼みます。

 

< 日毎に「打ち砕かれ悔いる魂」を神に捧げる喜び(詩編51編) >

 私たちがイエス・キリストという神の救いに与ることができるのは恵みであり恩寵です。それは父としての純粋な憐れみによる出来事です。自分が打ち砕かれることなしにこの恩寵のすばらしさを知ることはできません。繰り返しますが、本当の信仰による自由、本当の信仰の喜びは真の神を神とするところにある。「信仰 faith」とは、その漢字は「信じて仰ぐ」という人間の行為がそのまま字となっていますが、人間の行為ではなくて私たちの内に働く神の行為なのです。

 ルターは言いました。「キリスト者の全生涯は日毎の悔い改めである」と(『95ヶ条の提題』)。あの荒野での40年間、天から与えられた日毎のマナによって生かされた神の民のように、私たちは毎日新たに打ち砕かれ続ける必要がある。そして日毎に、生ける神からの命のパンであるイエス・キリストのみ言によって真の喜びの中に生かされる必要があります。

 最後にダビデの悔い改めの詩編である詩編51編からの引用をもって終わります。ダビデは部下ウリヤの妻を奪うという罪を神と人の前に犯し、預言者ナタンに非難されるまでその罪に気づかなかったのでした。罪を迫る声を身近に持つ者は幸いです。

 自らの罪を知って打ち砕かれた霊の上に、日毎に清い心と新たな喜びの霊が降りますように祈ります。アーメン。

 「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。御前からわたしを退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないでください。御救いの喜びを再びわたしに味わわせ、自由の霊によって支えてください。」(12-14節。礼拝式文奉献唱)

 「もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら、わたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません。」(18-19節)

2022年11月27日 (日)

2022年11月27日(日)待降節第一主日礼拝 説教「目を覚ませ、時は迫っている」

2022年1127日(日)待降節第一主日礼拝 説教「目を覚ませ、時は迫っている」

大柴 譲治 joshiba@mac.com

〇 イザヤ書 2: 1- 5

主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。(4-5節)

〇 ローマの信徒への手紙 13:11 -14

更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。夜は更け、日は近づいた。(11-12a節)

〇 マタイによる福音書 24:36-44

「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。・・・だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」 (36-37, 42-44節)

 

< 「待降節(アドヴェント)第一主日」にあたって >

 本日私たちは待降節第一主日の礼拝を守っています。「教会歴」では本日が一年で最初の日曜日です。今日から始まったこの新しい一年は、昨年まではルカ福音書を読んできましたが、今年はマタイ福音書を中心に読みます。礼拝堂の入口にはポインセチアが置かれ、入り口のホールにはクリスマスツリーが飾られています。そして礼拝堂の聖書台の横にはアドヴェントクランツと四本のローソクが置かれました。アドヴェントの四週間、毎週一本ずつ点火されるローソクが増えてゆきます。クリスマスが近づくにつれローソクの光は増えてゆき、1225日には5本目が点火されます。そして典礼色は紫。悲しみの色であり、悔い改めの色、高貴さを表す王の色でもある。アドヴェントの期間、私たちは自省して罪を悔い改めながら過ごすのです。「アドヴェント」とはラテン語で「到来」を意味します。二千年前の「主のご降誕」である「第一のアドヴェント」と、終わりの日の「主の再臨」である「第二のアドヴェント」の間に私たちは今を生きています。

 本日与えられた主題は「目を覚ませ。時は迫っている」。主は私たちに覚醒を呼びかけています。「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」(42-44節)。いつ「再臨の時」が来るのか分からないのに目を覚まし続けることはなかなか困難なことです。イエスが逮捕される直前、ゲッセマネの園での祈りの際にも、疲労困憊したためでしょうか深い悲しみのためでしょうか、ペトロとヤコブとヨハネはウトウトと(しかも三度とも)寝入ってしまいました(マタイ26:36-46)。ボンヤリしていたら私たちも目を覚ましていることはできません。覚醒しているためには、私たちの意識をハッキリとキリストに向かって保ち続ける必要があります。

 

<「愚かな金持ちのたとえ」>

 ルカ福音書の12章には「愚かな金持ちのたとえ」が記されています(ルカ12:15-21)。これはルカにしか出てこないたとえですが、自分が今夜までの命であることを知らず永遠に生きるかのように考えて富を蓄えることだけを考えている愚者が登場します。私たちは限られた時間と労力と富を自分のためではなく、神の前に豊かになるため賢く積む必要がある。

「そして、一同に言われた『どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。』 それから、イエスはたとえを話された。『ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、「どうしよう。作物をしまっておく場所がない」と思い巡らしたが、やがて言った。「こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。『さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ』と。」しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」(ルカ12:13-21)。

 

< “Stay hungry, stay foolish.”(「ハングリーであれ、愚か者であれ」)>

 先日何気なくテレビを観ていたら、NHKのバタフライエフェクトという番組でアップルコンピューターを立ち上げた故スティーブ・ジョブズ(1955-2011)が20056月にスタンフォード大学の卒業式で行った講演が放映されていました。彼はアップルコンピューターの創始者であり、その後にNEXTや映画『トイストーリー』を作ったピクサーをも作った創始者でもあります。最後にジョブズがその講演を締めくくった “Stay hungry, stay foolish.”(空腹であれ、愚かであれ)」という言葉はとても有名になりましたが、もともとそれは『全地球カタログ』という本に掲載された別の人の言葉であったことを私は初めて知りました。ジョブズはこう語っていました。

 私は17歳のときに『毎日をそれが人生最後の一日だと思って生きれば、その通りになる』という言葉にどこかで出合ったのです。それは印象に残る言葉で、その日を境に33年間、私は毎朝、鏡に映る自分に問いかけるようにしているのです。『もし今日が最後の日だとしても、今からやろうとしていたことをするだろうか』と。『違う』という答えが何日も続くようなら、ちょっと生き方を見直せということです。

自分はまもなく死ぬという認識が、重大な決断を下すときに一番役立つのです。なぜなら、永遠の希望やプライド、失敗する不安 これらはほとんどすべて、死の前には何の意味もなさなくなるからです。本当に大切なことしか残らない。自分は死ぬのだと思い出すことが、敗北する不安にとらわれない最良の方法です。我々はみんな最初から裸です。自分の心に従わない理由はないのです。」

 彼はその一年前に膵臓ガンであることが分かり死を強く意識します。手術で切除が可能と分かってホッとしています。

人生で死にもっとも近づいたひとときでした。今後の何十年かはこうしたことが起こらないことを願っています。このような経験をしたからこそ、死というものがあなた方にとっても便利で大切な概念だと自信をもっていえます。

誰も死にたくない。天国に行きたいと思っている人間でさえ、死んでそこにたどり着きたいとは思わないでしょう。死は我々全員の行き先です。死から逃れた人間は一人もいない。それは、あるべき姿なのです。死はたぶん、生命の最高の発明です。それは生物を進化させる担い手。古いものを取り去り、新しいものを生み出す。今、あなた方は新しい存在ですが、いずれは年老いて、消えゆくのです。深刻な話で申し訳ないですが、真実です。

あなた方の時間は限られています。だから、本意でない人生を生きて時間を無駄にしないでください。ドグマにとらわれてはいけない。それは他人の考えに従って生きることと同じです。他人の考えに溺れるあまり、あなた方の内なる声がかき消されないように。そして何より大事なのは、自分の心と直感に従う勇気を持つことです。あなた方の心や直感は、自分が本当は何をしたいのかもう知っているはず。ほかのことは二の次で構わないのです。

 「時間は限られています。だから、本意でない人生を生きて時間を無駄にしないでください」という言葉は私たちの心に深く響きます。「そして何より大事なのは、自分の心と直感に従う勇気を持つこと」と彼は言います。どこまでも「ハングリー精神」を失わない「愚か者」として、自らの直観を信じて勇気をもってチャレンジしてゆくことが大切だと言うのです。

 私はそこに神のコール(召し出し)とミッション(使命)を重ね合わせたいのです。イエスは山上の説教を次のように始めました。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。・・・ 平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」(マタイ5:3-4, 9-12)。イエス・キリストこそ神からの「聖なる愚者」でした。

 本日のイザヤ書2章には次のような言葉もあります。「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」(2:4-5)。「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」という作業は地道で報われることの少ない辛い作業でありましょう。しかし、それが神の御心であり、平和の構築のためにはどうしても必要なプロセスです。「国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」。そのような明確なビジョンを聖書は明示しています。このビジョンの実現のために私たちは実は召し出されているのです。「主の光の中を、希望の光の中を歩もう」と私たちは呼びかけられています。主の平和の実現に対してハングリーである者として、そして神の愚かさまとう者として、私たちは歩むのです。「主イエス・キリストを身にまといなさい」(本日の第二日課のローマ13:14)。どこまでも「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」のです(1コリント1:25)。「目を覚ませ、時は迫っている」。キリストを見上げながら、私たちは “Stay hungry for God, stay foolish in Christ.” という言葉を共に心に深く刻みたいと思います。 

 皆さまお一人おひとりの上に祝福をお祈りいたします。 アーメン。

2022年11月19日 (土)

2022年11月20日(日)聖霊降臨後最終主日礼拝説教「王なるキリスト〜その玉座は十字架」

2022年1120日(日)聖霊降臨後最終主日礼拝説教「王なるキリスト〜その玉座は十字架」

大柴譲治joshiba@mac.com

〇 ルカによる福音書 23:33-43

「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕・・・そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。(33-34, 42-43節)

 

< 聖霊降臨後最終主日「王なるキリストの日」に発せられる王の声 >

 本日私たちは聖霊降臨後最終主日「王なるキリストの日」の礼拝を守っています。教会で用いる「教会歴」では本日が一年の一番最後の日曜日です。次週の27日(日)からは「待降節」(アドヴェント)を迎え、新しい一年が始まります。教会暦の一年の終わりに私たちは王なるキリストの言葉を聴いているのです。私たちの王であるキリストのこの地上での玉座は、華やかな黄金の玉座ではなく、ゴルゴダの丘の上に立てられたシンプルで大変痛ましい十字架でした。私たちの聖なる王はローマ帝国に対する反逆者として十字架に架けられたのです。その頭に被ったのは黄金の冠ではなく、イバラの冠でした。私たち「神の民」は、今日そこから発せられるキリストの言葉を「王の言葉」として聴いています。

 本日は一度聴いたら忘れられないほど印象的でインパクトのある二つの言葉が与えられています。十字架上の七つの言葉は教会讃美歌86番に載っていますが、その第一と第二の言葉がそれです。これはルカ福音書にだけ記されているエピソードで、特に34節の前半部分はいくつかの有力な写本に欠けているため『新共同訳聖書』(1987)でも『日本聖書協会共同訳聖書』(2018)でもそれが括弧に入っています。「〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」〕」。最初に新共同訳聖書を手にした時に私は少なからぬショックを受けました。「このインパクトのあるイエスの言葉がもし聖書になかったとしたら・・・。それは困る」と思ったのです。それほどこの言葉は私にとって大切な言葉だったのです。自分を十字架に架けて殺そうとする者のために、イエスは父なる神にその赦しを祈られた。これほど大きな愛はありません。「あなたの敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(マタイ5:44)と弟子たちに命じられた主は、自らもそのように言葉に命を賭けて生きられたのです。最初の殉教者であったステファノもイエスと同様の祈りを最後に大声で叫んでいます。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(使徒7:60)。自分の命を奪おうとする者の罪を赦すほど大きなアガペーの愛が示されている。独り子を賜るほどこの世を愛された神の真実と出会うということは、根底から私たちのそれまでの生き方を変えてしまうほど大きな力を持っているのです。

 

< 聽 〜 私たちは耳と目と心を一つにして十全に用いて王なるお方の命を聽く >

 私はこの4年半、JELCの執行部としての責任を担ってきました。COVID-19との格闘がありましたのでなかなか大変でした。私の譲治という名前は米国の初代大統領ジョージ・ワシントンと同じ誕生日であったところから名付けられています。サクラの木を切ってもキチンと罪を告白する正直な大人になるようにという両親の願いと、俊和としかずという名の父は米国で苦労したのでしょう、グローバルに通用する名を付けたいと思ったようです。東京教会の幼稚園教諭だった母は岡山出身の童話作家・坪田譲治から「ゆずりおさめる」という字をもらいました。いずれにせよ米国の初代大統領 President にちなんで付けられた名前をもつ私がJELCのPresident(総会議長)となったということに不思議な思いがしています。話が脱線しましたが、議長として私は毎月『るうてる』に「議長室から」というコラムを書いています。11月は召天者を覚える月でもありますので「メメント・モリ(死を覚えよ)」というタイトルで書かせていただきました。議長コラムには常に「傾聴」の「聴」という字の旧字体が大きく添えられています。「聽」という難しい字ですね。そこにはとても大切な意味が込められています。左側には「耳」という字の下に「王」が置かれ、右側には「十」と「四」(実はこれは数字の「四」ではなく「目」が横たわっている)と「一」と「心」が来る。「聽」という字は「耳と目と心を一つにし、それらを十全に用いて王の命に従え」という意味を持っているのです。「王なるキリストの日」に相応しい字と思い、ご紹介させていただきました。

 

< 十字架の玉座から発せられた二つの王の言葉 >

 もう一度日課を確認したいと思います。一節前の32節から引用します。そこには二つのイエスの言葉があります。

 ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕 人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。」(32-43節。下線は大柴)

 十字架というものは徹底的に無力さを曝け出す極刑です。①詩編22:19の預言にあるように「人々」はくじを引いてイエスの服を分け合います。②「民衆」もそこに立ってそれを(恐らく同じくイエスをバカにするような気持ちだったのでしょう)見つめていた。③「議員たち」はイエスをあざ笑いつつ、「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」と罵る。④「兵士たち」はイエスに近寄り酸いぶどう酒を突きつけて侮辱します。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」。さらに、⑤イエスの頭の上には「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてありました。おまけに、⑥一緒に「十字架に架けられた者」も隣からイエスを罵ります。まったくもって無力で無様で惨めな「ユダヤ人の王」の姿がそこには晒されている。それはイザヤ書53章に預言されていた「苦難の僕」のイメージの通りでした。誰からも理解されることなく、多くの人々から辱めを受ける中、ただ黙ってイエスは十字架の上で「神の小羊」として屠られようとしていた。神もただ沈黙しています。その沈黙の中に神の御心が貫かれてゆきます。

 わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。 (イザヤ53:1-4

 

<「あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる。」>

 十字架にかけられていた犯罪人の一人がイエスを罵りました。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」。そこにおいてとても不思議なことが起こります。神の聖霊がそのように働いた。ただ一人、土壇場で、神を畏れイエスの「王としての権威と力」を土壇場で見抜いて王を信じ弁護する者が現れる。それがもう一人の罪人でした。二人は仲間だったので互いによく相手のことを知っていたことでしょう。彼は罵る仲間をたしなめて言います。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」(40-41節)。そしてイエスに向かってこう願い出ます。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(42節)。英語で言えば “Remember me”。イエスもこの言葉に大きな喜びを与えられたことと思います。

 最後の最後で彼はイエスに自分の罪の告白ができたのでした。そしてイエスから究極的な救いの言葉を与えられたのです。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(43節)。土壇場でこのような救いの言葉を聴くことができる者は幸いです。死は終わりではなく墓は終着駅ではない。イエスと共に死線を越えてパラダイスに招き入れられる約束です!「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(2コリント6:2)。何という幸い、何という慰めでしょうか。私たちの王キリストは、自らの罪を自覚しそれを心の底から悔い改める者を決して見捨てないで、天の楽園に招き入れてくださるのです。これは十字架という玉座からの王の宣言です。ただ主の憐れみにより、恵みにおいて、信仰を通して私たちもまたその宣言に与ることができる。死の床にあってこのような福音を聽くことができる者は幸いです。

 お一人おひとりにそのような王の祝福をお祈りします。 

2022年11月12日 (土)

2022年11月13日(日)聖霊降臨後第23主日礼拝 説教「たとえ明日、世界が終わろうとも」

2022年1113日(日)聖霊降臨後第23主日礼拝 説教「たとえ明日、世界が終わろうとも」

大柴 譲治 joshiba@mac.com

〇 マラキ書 3:19-20b

見よ、その日が来る、炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者はすべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。(19-20節b

〇 ルカによる福音書 21: 5-19

「戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」(10-19節)

 

< 「神殿の崩壊の予告」と「終末の徴」 >

 本日私たちはルカ福音書21章から「神殿の崩壊の予告」と「終末の徴」についての御言葉を聴いています。教会暦では来週20日(日)が「王なるキリストの日」と呼ばれる聖霊降臨後最終主日で、1127日(日)から待降節(アドヴェント)が始まり新しい一年を迎えます。教会暦の一年の終わりに世界の終わりについての厳しい御言葉が与えられているのです。神の民イスラエルにとってエルサレムの神殿の崩壊は頼るべき「信仰の土台」が根底から崩れてしまう大地震のような出来事でした。紀元前6世紀のバビロン捕囚の時にも神殿は跡形もなく崩されましたし、イエスの時代にそびえ立っていたヘロデ大王の作った壮麗なエルサレム神殿も紀元後70年にローマによって徹底的に破壊し尽くされてゆきます。形ある物は皆滅びるのです。それ以降、ユダヤ教は「神殿中心の祭儀宗教」から「シナゴーグ(会堂)中心の律法宗教」へと変化してゆきました。

 「ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。『あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る』」(ルカ21:5-6)。このイエスの預言はそれを聞くユダヤ人たちにバビロン捕囚時の苦い出来事を想起させ、大きな不安と恐怖とを与えたに違いありません。「そこで、彼らはイエスに尋ねた。『先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。』イエスは言われた。『惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、「わたしがそれだ」とか、「時が近づいた」とか言うが、ついて行ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである』」(21:7-9。下線は大柴)。

 私たちも、2020年の2月からCOVID-19パンデミックに苦しみ、今年224日からはロシアによるウクライナの侵略が始まって心を痛め、温暖化や砂漠化など世界的な気候変動の中、大きな惑いと不安の中に置かれています。核戦争勃発の可能性も語られていますし、連日のようにミサイルを発射する隣国もあります。惑わされるなと言われても惑わされない方がおかしいのではないかと思うくらいです。私自身も初任地が広島県の福山でしたので西教区の平和委員会(平和と核兵器廃絶を求める/PND委員会)を通して毎年のように広島に足を運び、広島平和セミナー等の平和活動に関わってきたこともあって「偶発的であったとしても、もし核戦争が始まったら誰も止めることができない状況になってこの世界は破滅を迎える可能性が高い」という強い内的な危機感を持っています。米国の原子力科学者会報が毎年発表している「世界終末時計(Doomsday Clock)」というものがあります。それは世界の終わりまであとどれくらいかを示す時計です。今年の121日に発表された「2022年の世界終末時計」は、20201月から二年間据え置かれていて、午前零時まで「残り100秒」となっています。残り140秒です。いたずらに不安を煽りたいとは思いませんが、片方ではそのような危機的な現実があると警鐘を鳴らし続ける少なからぬ科学者たちがいるのです。そのような中で私たちはイエスの言葉を聴いています。「戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである」。私たちは現実を冷静に見つめつつ、イエスの言葉に堅く依り頼む者でありたいと願います。「世の終わりはすぐには来ない」と語られて既に二千年が経ちました。確かに世の終わりは近づきつつある。目を覚ましていたいと思います。

 

< 「たとえ明日世界が終わろうとも、今日わたしはリンゴの木を植える」(ルター) >

 『るうてる11月号』議長コラムに神戸で緩和ケア医をしておられた関本剛氏について書かせていただきました。末期がんと闘病して今年の4月に45歳で天に召されたカトリックの信徒です。現在、自身の葬儀のために録画された「お別れの挨拶」が神戸新聞によってYouTubeで配信されていて多くの人たちに感銘を与えているようです。関本氏によって書かれた『がんになった緩和ケア医が語る「残り2年」の生き方・考え方』(宝島SUGOI文庫、2022)という本には「ルターの言葉」が出てきます。「たとえ明日世界が終わろうとも、今日わたしはリンゴの木を植える」という有名な言葉です。この言葉は多くの人に慰めと励まし、希望を与えてきた言葉なのでしょう。出典はルター自身までは遡れないとしてもルター的な言葉です。

 本日はこの言葉に注目したいのです。通常の感覚では、もし世界が明日終わるならば、収穫を期待してリンゴの木を植えるというのはナンセンスということになりましょう。明日が世界の最後の日ですから私たちの命もまた明日までとなり、明後日以降のことは存在しなくなる。未来に希望が持てないとすれば私たちの多くは自暴自棄になってしまうことでしょう。ユダヤ人精神科医のヴィクトール・フランクルは『夜と霧』の中で、強制収容所で最初に倒れていったのは体力の弱い人たちではなくて希望を見失った人たちだったと報告しています。クリスマスには解放されると思っていたのに解放されなかったため、絶望して倒れていった人々も少なくありませんでした。明日の希望があればこそ私たちは今日の苦難を忍耐して頑張ることができるのです。ルターは言っています。「世界を動かす力、それは希望である」と。希望があればこそ、私たちは世界を動かし、少しずつでも変えてゆくことができるのです。

 ルターの言葉は私たちにとても大切なことを告げています。本当の明日は「世界の滅び」が起こったとしても、その向こう側にあるということを示している。「明日」という字は「明るい日」と書きますが、本当の「明日」は神の中にこそあるのです。天とのつながりの中にある。そこには神の恵みに対するルターの絶大な信頼があります。それを信じればこそ、私たちは一人ひとりが自分に神から与えられた「リンゴの木を植える」という務めを果たし続けることができるのです。明日世界が終わったとしてもなお神は永遠なるお方、アルファでありオメガであるお方、時間と空間を越えたお方であります。神はすべてを御手の内に置いておられるのですから、神に与えられた使命はどこまでも生き残り続けます。

 人間は「死への存在である」とある哲学者は言いました。確かに私たちは「死すべき存在」であり、誰も死から逃れることはできません。すべての人は100%死ぬのです。これにはエビデンスがあります。しかし復活のキリストを信じる者にとって事柄は違います。死は終わりではなく墓は終着駅ではない。死の向こう側にはキリストによって用意されている「永遠の命」がある。ただこれにはエビデンスがありません。私もまだ死を体験していないので体験的にも理性的にもそれを証明することはできません。「わたしは復活であり、命である」(ヨハネ11:25)というキリストの言葉をただ信じる他ないのです。

 ヨハネ福音書の20章には、「私たちは復活の主を見た」と喜ぶ他の10人の弟子たちに対してただ一人、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」(25節)と言い続けたトマスが登場します。復活の主が向こう側からそのトマスに近づいてきてご自身の手とわき腹との十字架の傷痕(スティグマ)を示し、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(27節)と告げる場面が記録されています。疑いのトマスは復活の主の顕現とご臨在によって「わが主、わが神」(28節)と最高の信仰告白をする者へと変えられました。復活を信じるということは人間の力ではないのです。神の〈まこと〉(忠実/真実/ピスティス)が私たちに迫り、私たちの中に働く時に、そこに出来事としての救いが起こるのです。

 本日の日課の後半には迫害を予告する主の言葉もあります。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」(10-19節)。「私があなたがたと共にいて、必ずあなたがたを弁護し守り抜く。だから私につながっていなさい」と命じておられるのです。私たちにとっての「義の太陽」(マラキ3:20)であるこのキリストに寄り頼みつつ、私たちは「今日」ここで、神から各自に与えられた「リンゴの木を植える」という使命を続けてゆきたいのです。皆さまの上に祝福をお祈りします。

2022年11月 5日 (土)

2022年11月6日(日)召天者記念(全聖徒)主日礼拝 説教「天より祝福を祈る人々」

2022年116日(日)召天者記念(全聖徒)主日礼拝 説教「天より祝福を祈る人々」

大柴 譲治 joshiba@mac.com

〇 エフェソの信徒への手紙 1:11-23

どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。(17-19節)

〇 ルカによる福音書 6:20-31

さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。」(20-21節)

 

2022年の「召天者記念主日」にあたって〜「教会は人(=聖徒の群れ)である」 >

 本日私たちは「召天者記念(全聖徒)主日」を守っています。毎年111日には「全聖徒の日」が巡ってきますので、それに合わせて11月の第一日曜日をこのようなかたちで召天者のお写真を前に並べて礼拝を守ってきました。今回は126枚のお写真が並んでいます。二人または三人で映ったものもありますので、総勢136人となりましょうか。皆さまの中にもお一人おひとりの笑顔やその懐かしいお声が聞こえてくる気持ちになる方もおられることでしょう。その笑顔やお声は私たちの魂に深く刻まれていると思います。今年は原田滋さんと畑奈菜美さんに加え、るうてるホームの初代施設長であった泉亮さん(にお願いして)の洋子夫人と息子さんの徹さんの写真をも加えさせていただきました。

 私たちルーテル教会が大切にしているアウグスブルク信仰告白の第7条には「教会」について次のように書かれています。「教会は、聖徒の群れであって、そこで、福音が純粋に説教され聖礼典が福音に従って正しく執行される」。教会とは「聖徒の群れ」即ち「信仰者の群れ(信仰共同体)」なのです。制度や建物ではありません。人なのです。そしてそこにおいて福音が純粋に説教され、サクラメントが福音に従って正しく行われる場です。カトリック教会はこれに対して「教会とは聖なる空間である」と定めています。それは「聖遺物(聖人の遺骨・遺品)」などによって特別に「聖別された空間」なのです。これはカトリックとプロテスタントの教会論を分ける決定的な違いの一つでもある。私たちプロテスタント教会で「教会」とはどこまでも信仰を継承する者たちの群れなのです。その意味で全聖徒の日、召天者記念の日は特別な意味を持っています。神が聖霊によってこの教会を起こし、信仰のバトンを継承させてこられた。時が良くても悪くてもそれが105年に渡り継承されてきました。そしてそれが神の御業である限り、それはこれからも継承されてゆくことでしょう。

 現在大阪教会には教籍簿が5冊あり、そこには940のお名前が記されています。戦前の教籍簿は失われていますので、そこには戦後の1945年以降の教会員たちのお名前が記録されています。大阪でのルーテル教会の宣教は1917年のイースターに、チャールズ・ウィリアム・ヘプナー牧師(宣教師として30歳で着任し、1917-35年の18年間、関西での伝道に従事)と山内量平牧師(JELC最初の牧師。69歳で着任。1917-18年、最晩年の一年間を大阪伝道のため捧げた)の二人の牧師の主日礼拝によって始まりました。既に105年前のことです。最初の10年間は、宣教地は仮であったようです(天王寺の脇ケ岡で伝道を開始したという記録が残っています。現在では脇ケ岡という地名は残っていません)。瀧本幸吉郎牧師(56歳で着任し、在任期間は1918-31年)によって1927年に天王寺の真法院町(現在天王寺教会と真生幼稚園がある場所の道を挟んだ向かい側)に宣教地を定めて活動が始まっています(1927-54年。大阪教会の牧師館は1960年までそこにありました)。そこに礼拝堂が建ったのは太平洋戦争直前の1939年でした(1931-45年に大阪教会の牧師であった小泉昂のぼる伝道師)。小泉先生は194555日に結核のため、あと8日で41歳になろうとする若さで武子夫人と5人の子どもたちを残して召天。さぞかし無念なことであったことでしょう。キリスト教は「敵性宗教」ということで過酷な迫害もありました。その葬儀もその途中で空襲警報のために中止となり参列者は散らされてしまったあります。大阪教会の『70年誌』には、ご長男の11歳になろうとする小泉潤くんが母親と共にリヤカーでその棺桶を斎場に連れて行って火葬されたことが記録されています。その悔しさを胸に秘めて、やがて伝道者・小泉潤牧師が生まれます。戦災で焼失した谷町の現在地を1954年に稲富肇牧師が日本基督教団(旧米国メソジスト教会)から購入し、同年12月に会堂を建てました。1960年に牧師館が真法院町から谷町に移転(真生幼稚園は19531月に誕生し、1960年には天王寺教会が誕生しています)。1975年に9階建ての初代大阪会館が完成し、ホテル・ザ・ルーテルがJELC全体の収益事業として始まります(内海季秋牧師時代)。その際に大阪教会の礼拝堂は9階に位置していました。1997年の阪神淡路大震災を経て、隣地300坪を購入し、200112月に10階建ての第二代目の大阪会館が完成しました。そのような建物の変遷の背後には連綿と続く大阪教会の信徒たちの信仰がありました。否、そこには、信じる者を捉えて放さないキリストの愛と聖霊の働きがあったと言うべきでしょう。

 

< 「教会はキリストの身体」=「すべておいてすべてを満たしている方の満ちておられる場」 >

 召天者記念主日(全聖徒主日)の本日、み言葉として与えられているのはエフェソ書のパウロの言葉です。「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように」(17-19節)。そしてこう続きます。「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」(20-23節)。「教会」は「すべておいてすべてを満たしている方の満ちておられる場」なのです。これは何とすばらしい表現でしょうか。満ち溢れる神の恵みとシャロームとが宣言されています。詩編23編は「主はわたしの羊飼い、私には欠けたところ(乏しいこと)がない」と歌っていますが、その通りに、教会とは「何一つ欠けたところのない神の愛と祝福とが充満した場」なのです。

 

< 天よりの祝福を祈る人々 >

 主の昇天主日(今年は529日でした)に読まれたルカ福音書の最後の部分には次のように記されていました。「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」(ルカ24:50-53)。イエスは召天の時、手を上げて祝福される姿のままで、「祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」のでした。私は天に迎え入れられた者たちも同じように、この地上に生きる私たちを天から祝福しておられるのだろうと想像しています。その天からの祝福を受けて、私たちはそれを多くの人たちとシェアしながら生きるのです。大きな喜びが満ち溢れています。そしてこの喜びは何によっても奪い去られることのない天上の喜びでもあります。本日並べられている召天者たちの笑顔とその声とがそのことを私たちに証言しています。私たちが今ここに、大阪教会の歴史に連なることができている幸いを感謝いたします。

 お一人おひとりの上に天からの祝福が豊かにありますようお祈りいたします。 アーメン。

 

 

 

2022年10月29日 (土)

2022年10月30日(日)宗教改革記念主日礼拝 説教「恩恵〜キリストによる無償の義」

2022年1030日(日)宗教改革記念主日礼拝 説教「恩恵〜キリストによる無償の義」 

大柴 譲治 joshiba@mac.com

○ エレミヤ書 31 : 31- 34

見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。 (31節)

○ ローマの信徒への手紙  3 : 19 – 28

なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。・・・なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。(20-2228節)

○ ヨハネによる福音書 8 : 31 - 36

あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。 (32節)

 

< 「宗教改革記念主日」に >

 本日私たちは「宗教改革記念主日」を守っています。15171031日は、ルターがウィッテンベルク城教会の扉に公開討論会の開催を求めて『95ヶ条の提題』を打ち付けた日でした。以来505年に渡って毎年1031日は「宗教改革運動」の記念日として覚えられてきました。「贖宥券」(免罪符)の販売を契機に、ルターは「共にパウロに戻ろう、キリスト者としての原点に戻ろう」と呼びかけたのです。しかし結果としてルター自身はカトリック教会から異端として破門され、その結果「福音主義教会」=「プロテスタント教会」はカトリック教会から分裂してゆくことになります。しかし、第二ヴァチカン公会議(1962-65)以降、カトリック教会の内部でも改革が進み、世界レベルでは50年を超すエキュメニカルな対話の成果として、また日本でも40年を超す対話の成果として、5年前の2017年に長崎のカトリック浦上天主堂においてカトリック教会とルーテル教会は歴史的な宗教改革500年記念の共同礼拝とシンポジウムを行うことができたことは私たちの記憶に新しいところです。モーセの第一戒のように神のみを神とし、私たち人間は自己を相対化してゆく必要があるのです。

 

< 使徒パウロの喜び 〜 「イエス・キリストの真実により、信じる者すべてに与えられる神の義」=神の喜び>

   本日与えられている使徒書の日課はローマ書3章です。ここで「律法」と呼ばれているのは、モーセの十戒を中心とする神から与えられた「律法」であり「神の言葉」。律法を実行することによっては神の義(=救い)は与えられないということをパウロは復活の主イエス・キリストと出会うことで徹底的に知らされたのでした。「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません」(3:20-22)。律法の行いではなく、イエス・キリストを信じる信仰を通して神の義が与えられるのです。しかもそこには何の差別もない。それは老若男女を問わず、思想・信条・感性・能力・立場・業績などの違いを超えて、すべての人に恩恵/恩寵として与えられる神の義です。

 これはイエスと出会う前のパウロにとっては全く理解できない生き方であり、むしろ以前のパウロはそれを完全に否定した生き方をしていたのでした。若き日のパウロはキリスト教の迫害者で、使徒言行録によればパウロは最初の殉教者ステファノが殺される場面にも関係していました(使徒8:1)。先週も触れましたが、若き日のファリサイ派律法学者であったパウロは次のような強い自負を持っていました。紀元54年頃に書かれたガラテヤ書とフィリピ書の二つから引用します。まずガラテヤ書1章。「あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました」(ガラテヤ1:13-14)。次にフィリピ書3章。「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした」とパウロは語ります(フィリピ3:56)。この「律法の義については非のうちどころのない者」という言葉はとても強烈です。「完璧に自分は律法を守ってきた」というのです。このような人のそばにはなかなか息苦しくて近よりにくいと私は思います。

 しかしパウロは(ダマスコ途上で)復活の主の啓示を受けることにより完全に打ち砕かれ、それまでとは違うキリストを信じる信仰中心の喜びに溢れた新しい生き方を与えられました。キリストの真実によって自由を得たのです。彼は「キリスト教の迫害者」から「キリスト教の伝道者」「異邦人の使徒」へと変えられたのでした。彼は続けます。「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくた(口語訳では「糞土」)と見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります」(フィリピ3:79。下線は大柴)。なお、新しい日本聖書協会協同訳聖書(2018)では9節はこう訳されています。「キリストの内にいる者と認められるためです。私には、律法による自分の義ではなく、キリストの真実による義その真実に基づいて神から与えられる義があります」。新しい訳では、最新の学問的成果を取り入れて、ギリシャ語の「ピスティス」という語を「信仰」ではなくて「真実」と訳しています。

 その「律法の義については非の打ちどころのない者」であったパウロが、本日のローマ書3章ではこう語ります。「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」(3:20)。自分の義なる行いを誇っていたパウロがキリストによって打ち砕かれ、全く新たにされました。彼がそこから生涯に渡り大きな喜びに満たされ続けたことを心に刻みたいのです。福音信仰の基調音はどこまでも喜びなのです。

 

< 宗教改革者ルターの場合にも、み言葉を通して大きな喜びに捉えられる >

 私はこの8月の終わりに、初めてルターが宗教改革を始めたウィッテンベルクを松本義宣先生と共に訪ねることが許されました。ルターの生誕地であり同時に召天地でもあったアイスレーベンも訪ね、また若きルターが22歳の時に突然落雷を受けて修道院に入ると誓ったシュトッテルンハイムにも足を運ぶことができました。長年の夢が叶えられたのでした。そこで驚かされたことは、ルターが実に多彩な働きをしていたということでした。ルターたちが35年間住んでいた家(ウィッテンベルクのルターハウス)は元々アウグスティヌス修道院だったのをフリードリッヒ(賢公とも呼ばれた)選帝侯がルターの家として提供した場所で、今はルター記念館となっています。いつも15人ほどの子どもたち(ルター自身は6人の子どもがいましたが、早世した兄弟たちの子どもたちも預かっていたようです)が一緒にいて、さぞかし賑やかなことだったでしょう。家族や親族以外にも何人もの書生たちや友人、給仕人、来客者もいたようですので、妻となったカタリーナ・フォン・ボラは(結婚は15256月で、当時ルターは42歳、ケーテは26歳)、合わせて40人もの食事を毎回準備しなければなりませんでした(卓上語録/テーブルトークとはそのような賑やかな食事時にルターが食卓で語ったことを書生たち残したメモ)。妻のケーテは食材の準備だけで大変でした。家庭農園を作ったり、近くの川に魚を捕りに行ったり、ビールマイスターとしての資格をケーテは修道院で持っていたようでしたから、ビール造りも頑張っていたようです。なかなか能力のあるしっかりした女性だったことが伝わってきます。元修道士と元修道女が結婚したというのは当時の社会の中ではビッグニュースでした。宗教改革者の中で夫婦並んで肖像画を残したのはルターだけでした。

 ルターの小教理問答は、家庭においてキリストの福音を教えるという大切な役割を果たしてきました。ルターは家庭という具体的な場を、キリストの宿るところとしてとても大切に位置付けていたのでした。小教理問答の中でルターは親を神の代理として位置づけています。子どもたちや若い世代に対して神を正しく指し示す役割を与えているのです。家庭が喜びと平安の場であったことがルターの宗教改革を支えたのだということを、今回の訪問で私は強く感じ取ってまいりました。激動の時代の中にあって、ルターは家族の存在によって大きく支えられていたのでした。また、メランヒトンやブーゲンハーゲンなどの友人たちにも恵まれていたルターの日々が伝わってきました。宗教改革運動は、決して孤独な闘いではなく、多くの人々によって支えられ、祈られ、進められていった信仰覚醒運動だったのです。キリストの恩恵/恩寵によって義とされたという大きな喜びがルターの家庭にも、ウィッテンベルクの町にも満ちていたのでした。なお、ウィッテンベルクとアイスレーベンのルター記念館は1996年、広島原爆ドームと共に世界文化遺産に登録されました。教会の二階には Yadegar Asisi 氏の描いた絵(Luther 1517)のポスターを飾ってありますので、ご覧ください。

 ルターはキリストの福音がその中心にあるところの喜びと慰め、喜望に満ちた「神の家族」「教会」を何よりも大切に思っていました。ウィッテンベルクの町教会にあるクラナッハが描いた説教者ルターの絵画は、右側の説教台のルターが真ん中にある十字架のキリストを指さし、左側の会衆席にいる者が皆(ルターでなく)中央の十字架のキリストを見上げている構図となっています。常にその中心はキリストなのです。

 本日も私たちは半年ぶりに主の聖餐に与ります。お一人おひとりにキリストの祝福をお祈りいたします。 

2022年10月22日 (土)

2022年10月23日(日)聖霊降臨後第20主日礼拝 説教「神よ、私を憐れんでください」

2022年1023日(日)聖霊降臨後第20主日礼拝 説教「神よ、私を憐れんでください」

大柴 譲治 joshiba@mac.com

○ エレミヤ書 14 : 7-10

我々の罪が我々自身を告発しています。主よ、御名にふさわしく行ってください。我々の背信は大きく、あなたに対して罪を犯しました。(7節)

○ ルカによる福音書 18 : 9 - 14

二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」 (10-13節)

 

< 「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ」>

 本日私たちはイエスの「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ」(ルカ18:9-14)を聴いています。これはルカ福音書にしか出てこない分かり易い印象的なたとえです。「自分の信仰的に正しい生き方にうぬぼれて、他人を見下している人」(=「ファリサイ派の人」)と「自分の罪を自覚してそれを深く恥じ、神の憐れみにのみすがろうとする人」(=「徴税人」)が対比されています。

 

< 「回心前のパウロ」と「回心後のパウロ」 >

 私の中ではイエス・キリストと出会う前のパウロの姿と出会った後のパウロの姿がこのたとえの中に出てくる二人にピッタリと重なります。主と出会う前の「回心前のパウロ」は若きユダヤ教のエリートファリサイ学者でした。キリストと出会った後の「回心後のパウロ」は完全に打ち砕かれ、それまでの生き方から180度転換させられてキリスト教の伝道者となります。パウロはキリストとの出会いによって全くの別人になったのでした。自意識過剰のように響きますが、彼はユダヤ教に精進していた頃の自分についてフィリピ書で次のように記します。「とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした」(フィリピ3:4-6)。

 「律法の義」即ち「律法を守ることに関しては完璧だった」と言うくらいに誇り高いユダヤ教徒だったのです。「完璧」です。すなわち、何一つ欠けたところがなかったということです。強烈な自我によるすごい自信です。実際、徹底的にエネルギッシュにそうだったに違いありません。パウロの同労者だった医者のルカはパウロのことをよく知っていて、本人からもいろいろと話を聴いていたことでしょう。また、パウロが書いたフィリピ書やガラテア書を含む書簡も何度も読んでは親しみ、自らの福音書と使徒言行録の執筆の参考にしていたはずです。よほどパウロの回心についての話が記憶に残ったのでしょう。ルカは使徒言行録の中で三度も繰り返し「ダマスコ体験」(回心の体験)を記録しています(使徒9章と22章と26章)。

 ただしパウロ自身は「ダマスコ体験」について具体的に言及したことはありません。ですからこの出来事が本当にあったのかというその歴史性はよく分からない部分があります。しかしパウロは実際、何度も復活の主キリストの声を直接聴くという体験を持っていたようです。パウロは生前のイエスには一度も会ったことがありませんでした。その意味で彼は、生前からイエスによって召し出されてイエスに従っていた「12使徒」とは立場が全く違います。そのためにパウロが本当に使徒だったのかという彼の「使徒性」が問題とされたこともありました(2コリント書、ガラテヤ書など)。

 少なくともイエスの言葉に関して証言が三つ、新約聖書にあります。二つはルカの記録、一つはパウロ自身の記録です。①ダマスコ途上で天からの光に照らされて地に倒れた時に、復活の主から「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかけられます(使徒9:4。同22:7、同26:14)。パウロは復活の主によって直接「異邦人の使徒」として召し出されたのでした。だからこそ彼はガラテヤ書の冒頭をこう書き始めることができた。「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神によって使徒とされたパウロ」(1:1)。人間によって立てられたのでも人を媒介としてでもない。自分は直接キリストと父なる神によって使徒とされたというパウロの強い自負が窺えます。②使徒20:35でパウロは「受けるよりは与える方が幸いである」というイエスの言葉を主ご自身から聴いたと伝えています。③何よりも有名なのは2コリント12章です。「肉体の棘」で苦しんでいたパウロは三度主にそれを離れ去らせてくださいと祈る。そこで主の言葉を聴きます。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(2コリント12:9a)。肉体の棘は離れ去ることはないのですが、彼は次のように告白する者とされます。「だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」(同12:9b-10)。パウロは完全に打ち砕かれています。そのどん底でイエス・キリストにおける神の恵みを知ったのです。

 

< パウロ自身の回心についての証言 〜 「イエス・キリストの啓示」による回心 >

 ガラテヤ書で彼自身はその回心を簡潔に次のように記します。「兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず、また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした」(ガラテヤ1:11-17。下線大柴)。

 ここで大切なことは三つある。①神はパウロがまだ母の胎内にある時から選び分けて召し出し(call)てくださったという事実。②神は御心のままに御子(イエス・キリスト)をパウロに示してくださったという事実。③第三は、それらすべては100%神の恵みによるという事実。イエスとの出会いを通してパウロは教会の迫害者から福音の宣教者に劇的に変えられたのです。

 フィリピ書3章に戻りましょう。「ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人」「律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者」だったとパウロはかつての自分について言い切ります。そして(7節)以下で、主との出会いを通してパウロはその根本から考え方・生き方が変えられたと証言しているのです(フィリピ3:7-9)。「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくた(口語訳では「糞土」でした)と見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです」(フィリピ33)。

 以上をまとめると、回心前のパウロは自分自身を誇っています(自己完結的なモノローグ)が、回心後のパウロはキリストを誇っています(神とのダイアローグ)。回心を通して彼は御子をも与えてくださった神の愛、神の憐れみと出会ったのです。自身がそこでは完全に打ち砕かれ、消え去っている。彼はキリストと出会うことでそれまでとは異なる、全く新たな価値観を得たのでした。それを(地球の周りを太陽が回っているという)天動説から(太陽の周りを地球が回っているという)地動説へのコペルニクス的転換と呼ぶこともできましょう。そこからパウロは「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています」とまで言うのですから、その基調音は大きな喜びです。パウロは主と出会うことによって打ち砕かれ、自由とされ、大きな喜びの中に招き入れられました。それはどのような悪の力によっても損なわれたり失われたりすることのない喜びです。主と出会うということは、私たちにとってもパウロ同様の喜び体験をすることなのです。

 

 「神さま、罪人のわたしを憐れんでください」と告白する者だけがキリストと出会うことができる >

 徴税人はたとえでこう描かれています。「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください』」。「胸を打ちながら」というのは悔いや悲しみを表す行為で、彼は神殿から遠く離れて立ち、目を天に向けることもできません。本日の旧約聖書の日課であるエレミヤ書には次のようにありました。「我々の罪が我々自身を告発しています。主よ、御名にふさわしく行ってください。我々の背信は大きく、あなたに対して罪を犯しました」(同14:7)。徴税人は神の前に犯した自分自身の罪を知って悲しみ、苦しんでいます。主なる神の深い憐れみに拠り頼む以外にそこからの突破口はないということを彼は知っている。

 しかし「弱さ」は欠点ではありません。私たちは自らが持つ「弱さ/無力さ」を通して、罪に「苦しむこと」、自らの惨めさを「悲しむこと」、不信仰を「悩むこと」に導かれます。それらは御子を賜るほどこの私を愛してくださった「憐れむ神」「神の憐れみ」に出会うための好機となります。パウロはそこでイエスの声を聴きました。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。キリストにまで導かれること、それこそが私たちの救いなのです。

2022年10月15日 (土)

2022年10月16日(日)聖霊降臨後第19主日礼拝 説教「不正な裁判官に聞け」

2022年1016日(日)聖霊降臨後第19主日礼拝 説教「不正な裁判官に聞け」

大柴 譲治 joshiba@mac.com

○ 創世記 32 : 23-32

そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」 (24b-29節)

○ ルカによる福音書 18 : 1 - 8

裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。」(4-8a節)

 

< 「不正な裁判官に聞け。」 >

 本日私たちはイエスによる「不正な裁判官のたとえ」(ルカ18:1-8)を聴いています。これはルカにしか出てこないたとえです。ルカが記すように、その主題は1節に明らかです。「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるため」イエスはこのたとえを弟子たちに語っているのです。それはこう始まっています。「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた」(2節)。いかにもありそうな話です。この裁判官は自分の立場のゆえ、自分が神のようになったと思い違い(錯覚)をしていたのでしょう。だから「神を畏れず、人を人とも思わない」でいた。ところがそこに一人の未亡人が登場します。「ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた」(3節)。何らかの問題で係争中だったのでしょう。裁判官の裁きを繰り返し願い出たのでした。「裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった」とあります(4a)。しかし彼女が余りにもしつこく訴えるので、裁判官は考えを改めます。「しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない』」(4b-6節)。神を畏れず人を人とも思わない裁判官でさえそうなのだから、諦めずに祈り続けなさいとイエスは弟子たちに教えているのです。山上の説教の「求めよ、さらば与えられん。搜せ、さらば見出さん。叩け、さらば開かれん」というイエスの言葉を思い起こします(マタイ7:7)。このたとえで「やもめ」とは「教会」を指しています。

 

< 創世記32章でのヤコブの神との格闘 〜 勝ち取った神からの祝福と新しい名 >

 本日の旧約の日課には創世記32章から、ヤコブがヤボクの渡しで朝まで何者かと格闘したという場面が与えられています。ヤコブはその格闘の中で腿のつがいを外されてしまうという大きな代償を払うのですが(それ以降彼は足を引きずって歩くことになる)、最後まで負けませんでした。結局ヤコブはその格闘が神との格闘であることを途中で知ることになる。そしてヤコブは最後には神から「イスラエル」という新しい名前と神の祝福とを得てゆくのです。それは「神と人と闘って勝利した」という意味であるとされています。ヤコブは神との格闘に勝利したと神によって宣言されているのです。

 昨年私は女性会連盟の会報にこの箇所について巻頭言を書きました。その際に私は、「ヤコブの勝利が宣言されているが、本当にそうか。ヤコブは相手に『負けなかった』だけであり、せいぜい『引き分けだった』のではないか」と書かせていただきました。「格闘」に勝たなくてもよいのです。負けないでいればよい。引き分けでよいのです。めげないこと、最後まで諦めないこと、それを神は私たちの勝利とみなしてくださるということを私はここから学びました。終わりの見えないCOVID-19との格闘の中で、私自身はそこから大きな慰めを示されたように思います。本日の「不正な裁判官のたとえ」と重ね合わせるならば「気を落とさずに祈り続けること」が私たちに求められているのです。諦めないこと、格闘し続けることが私たちには求められている。ヤコブの場合同様、それを神は私たちの勝利と認めてくださることでしょう。

 

< 過酷な現実の中で「気を落とさずに祈り続ける」ために >

 しかし私たちの生活に眼を向けてみると、どちらを向いても「気を落とさずに祈り続けること」が難しい現実があります。現実が厳しいために私たちは気を落として祈ることを断念してしまいがちなのです。イエスはそのことをよくご存知でした。この世の厳しさも私たちの弱さもよく知っておられた。だからこそこのたとえを弟子たちに語られたのです。どれほど私たちが困難な状況に置かれていたとしても、イエスは「気を落とさずに祈り続ける」ように私たちの眼を天の父へと向けてくださっているのです。イエスはこう言います。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい」(6節)。そこに大切なものがあると言うのです。そしてイエスがこのたとえで最も言いたかった言葉が続きます。「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる」(6b-8a節。下線は大柴)。神は、昼も夜も神に対して叫び求めている人たちをいつまでも放っておくことがあろうか。そのようなことは断じてない! 言っておくが、神は速やかに正しく裁いてくださる! 神の正しい裁きをあなたがたは決して諦めず確信していなさい。イエスはそのように神の御心に私たちの思いを向けています。

 しかし最後の8b節は気になります。「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」。イエスが再臨される時に果たしてこの地上の世界に「信仰」を見出すことができるだろうかとイエスは嘆いておられる。ルカ17章の言葉につなげるならば、そこに「からし種一粒ほどの信仰」を見出すことができるだろうかと言っておられるのです。この最後のイエスの言葉は「それは難しいであろう」というようなどこか諦めに似た言葉であるように響きます。イエスご自身がここで弱音を吐いているように聞こえる。イエスも私たち/弟子たち人間の現実を見て「気を落として」「祈ることを断念している」ようにも聞こえるのです。それほどまでに私たちを襲うこの世の「試練」は厳しく「格闘」を継続することは困難であることを伝えています。私はイエスご自身のオリーブ山での祈りを想起します。「父よ、御心なら、この杯をわたしからとりのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(ルカ22:42)。「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた」ほどでした。このように祈りつつ、イエスは最後まで、それも十字架の死に至るまで天の父の御心に従順に従われたのです。それによって復活の勝利が与えられました。

 

< 祈ることを通して与えられる上からの力 〜 希望の光としての「主の祈り」 >

 どうすれば私たちは現実の困難さの中でヤコブやイエスに倣って諦めずに祈り続けることができるのか。そのためには「インマヌエルの神」のご臨在を信じ抜く必要があります。神われらと共にいます。十字架と復活の主イエスが片時も離れずに私たちと共にいてくださることを信じるのです。イエスが共にいてくださるがゆえに、私たちは「気を落とさず」に祈り続けることができる。否、気を落としたとしても、もう一度立ち上がって格闘を続けることができるのです。

 イエスは私たちに「主の祈り」を教えてくださいました。「天にましますわれらの父よ。願はくは、御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と私たちが日々唱えている「主の祈り」です。この祈りにはイエスの秘められたパワーが込められています。それを祈ることで私たちは神から聖霊の力をいただくことができる。祈りを通して私たちには希望の光が見えてきます。どこにも出口が見えないような暗闇の中にあっても、祈ることができないようなドン底においても、たとえ気を落とす以外にできないような厳しい状況に置かれても、私たちは祈りを通して繰り返し上からの力をいただくのです。祈りは私たちの中に希望の光を点してくれます。「『光あれ』。すると光があった」と創世記がその冒頭で告げているように、神の御声(神の言)が混沌の闇の中で響く時、そこには希望の光が創造されるのです。ヨハネ福音書もこう告げています。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(1:1-5)。

 神は「昼も夜も叫び求めている選ばれた人たち」をいつまでも放っておくことは決してありません。神は神に叫び求めている者たちのために「速やかに」裁いてくださる。そこには確かに備えられた「神の時」(コヘレト3:1)があるかもしれませんが、私たちはそのことを信じ、そこに希望を置いて、気を落とさずに、否、気落ちしたとしても、希望の光の中に、神の御心の実現を祈り続けるのです。ヤコブが格闘を通して神から新しい名前(イスラエル)が与えられ祝福を獲得することができたように、そしてイエスが十字架を通して復活の勝利に至ることができたように、私たちもまた苦難を通して新しい存在とされてゆくことがそこには約束されているのです。主は常に苦難の中にある者と共におられるからです。

 不正な裁判官が一人のやもめの訴えによって変えられたように、絶えざる祈りを通して現実が変えられてゆきます。からし種一粒ほどの信仰があれば桑の木が海の真中に移って根を下ろす。人にはできなくても神にはできないことはない。不正な裁判官の言いぐさに聞きながら、私たちもめげずに御国の実現を祈りつつ、主イエスに従ってまいりましょう。

2022年10月 8日 (土)

2022年10月9日(日)聖霊降臨後第18主日礼拝説教「あなたの信仰があなたを救った」

2022年109日(日)聖霊降臨後第18主日礼拝説教「あなたの信仰があなたを救った」

大柴譲治 joshiba@mac.com

○ テモテの手紙 二 2 : 8 – 15 (11-13節)

次の言葉は真実です。「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。・・・わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否むことができないからである。」

○ ルカによる福音書 17 : 11 – 19 (17-19節)

そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」 

 

< 「神に従う人は信仰によって生きる」 >

 先週私たちは「神に従う人は信仰(ヘブル語で「エムナー」、ギリシャ語で「ピスティス」)によって生きる」というハバクク書1:4の御言に聴きました。「私たちの信仰を増し加えてください」と願い出た弟子たちにイエスはこう言われたのです。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰(ピスティス)があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」(ルカ17:6)。人間の「信仰(ピスティス/faith)」は、神の「真実(trueness)/誠実(sincerity)/忠実(faithfulness)/(揺らぐことのない)信頼(trustworthy)」が私たちの中に働くことによって生じるのです。日本語では「信仰」とは「信じて仰ぐ」という人間の行為がそのまま言葉になっていますが、最初に働きかけてくるのは神の側であり、私たち人間はそれに対して応答し呼び返してゆくのです。その意味で「信仰」は人間の業ではなく神の御業です。私たちは神の中におり、神が私たちの中におられることに私たちは気づく必要があります。「我らは神の中に生き、動き、存在する」とある通りです(使徒17:28)。神ご自身が私たちにおいて働かれるのですから、それがたとえからし種一粒のようにしか見えなくても、全てを神に委ねて生きる時に、そこには私たちの思いを遥に越えるような不思議な出来事(神の恵みの御業/「桑の木が自分で歩いていって海の中に根を下ろすようなこと」)が起こるのです。人間にはできないことであっても神にはできないことはありません。神の御業は人間には実に不思議に見えるのです。

 

< イエスによる勝利宣言 〜 「あなたの信仰があなたを救った。」 >

 本日の福音書の日課では、イエスは「10人の重い皮膚病」の人々を癒やした後、感謝しに戻ってきた一人のサマリア人に対して「あなたの信仰があなたを救った」と告げています。戻らなかった他の9人はそれを聴くことができなかったことになります。彼らは病気は癒されたけれど本当の意味でのイエスによる「救い/清め」に与れなかったのでしょう。

 先週も触れましたが、この「あなたの信仰があなたを救った」という言葉は福音書の中で、四つの奇蹟を通して計7回も繰り返されています(①マタイ9:22、②マルコ5:34、③マルコ10:52、④ルカ7:50、⑤ルカ8:48、⑥ルカ17:19、⑦ルカ18:42。マタイに1回、マルコに2回、ルカに4回。①②⑤は12年間出血が止まらずに苦しんできた女性がイエスに後ろから近づいてそっとその衣に触れることで癒された奇蹟。③と⑦はエリコの近くでイエスに癒された盲人)。特にルカが一番多くて、4回もそれを記録していることが分かります。福音書記者であった医者ルカはこのイエスの言葉を奇蹟と共に書き留めておきたかったのでしょう。

 この「あなたの信仰があなたを救った」とはイエスによる「信仰(ピスティス)の勝利宣言」であると言えましょう。信仰は人間の行為ではなく私たち人間の中に働く神の行為であると先に申し上げました。そこからこの言葉を再度読み解くならばそれはこうなります。「あなたは苦難の中で決して独りきりではなかった。インマヌエルの神は常にあなたと共にいて、あなたを守り導いてきた。そしてあなた自身の中に働く神のピスティス(真実・真理・忠実・確かさ・揺れ動くことのない〈まこと〉/faithfulness/trueness)があなたを救ったのだ」。

 

< 病気を癒された一人のサマリア人が示した、神への応答としての「信仰(ピスティス)」 >

 本日の福音書の日課には10人の「重い皮膚病」に苦しんできた人々が出て来ます。「イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、『イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください』と言った」(ルカ17:11-13)。私たちの目の前には情景が生き生きと浮かんでくるように思われます。私の中では詩編130編が伝える言葉がこの場面にピッタリ重なります。詩編120編から134編までの15の詩編は「都詣での歌」としてエルサレムに上る巡礼団が道々歌ったものです。イエスはこの時、エルサレムでの過ぎ越しの祭りを祝うための巡礼団の中にいたのです。詩編130編はこのような詩編です。全体を引用しておきます。

深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。

主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。

主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう。

しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです。

わたしは主に望みをおき/わたしの魂は望みをおき/御言葉を待ち望みます。

わたしの魂は主を待ち望みます/見張りが朝を待つにもまして/見張りが朝を待つにもまして。

イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに/豊かな贖いも主のもとに。

主は、イスラエルを/すべての罪から贖ってくださる。  (詩編130編)

 

 彼ら10人は深い絶望の淵からイエスに向かって魂の限りに叫びました。「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください」と。10人が声の限り口々に叫び続ける情景が浮かびます。「イエスさま、先生、どうか私たちを憐れんでください」。ここで「重い皮膚病」と訳されているのはヘブル語では「ツァーラアト」、ギリシャ語では「レプラ」で、長く「らい病」(「ハンセン病」)と訳されてきました。新共同訳聖書でも1987年の出版当初はそうなっていて、大阪教会で使っている講壇用の大型聖書もそうなっています。しかし研究の成果によって、歴史的にも医学的にもその語は「ハンセン病」を指すのではなく「重い皮膚病」を意味していることが分かって翻訳はすべて正されました。「ツァーラアト/レプラ」は「皮膚病」であって(レビ記13章を読むとそこには腫瘍やカビを含めた様々な皮膚病の規定があります)、何の病気であるか分からないものを「らい病」とすることは間違っていました。新共同訳聖書も2008年に版が新しくなり訳語を変えました。旧版はすべて読み替えられることになりました。2018年に出た最新の聖書協会共同訳では「規定の病い」と訳されています。「律法によって規定されていた病気」という意味です。「らい病」という語が差別的な表現であり、それによって差別と偏見が助長されると長く訴えてこられた方々の主張が認められたのです。私たちはその思いをキチンと受け止めてゆきたいと思います。そして私たち自身と社会の中に根強く潜む偏見と差別とを正してゆかなければなりません。神は常に苦しめられる者の側に立たれます。

 聖書の時代には「重い皮膚病」を判断するのは「祭司」の役割でした。祭司が「清い」と宣言すると、共同体から隔離されていた者たちは再び共同体に復帰することができた。だからイエスは10人に「祭司のところに行け」と命じているのです。「イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、『祭司たちのところに行って、体を見せなさい』と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた」(14節)。「癒された」ではなく「清くされた」とあることにご注意ください。長く「宗教」が「汚れた人」とそうでない人を分けてきた事実があるのです。「宗教」が歴史的にそのような役割を果たしてきたことに注意しておかねばなりません。聖書に出てくる「ファリサイ人」というのは「自らを汚れから分離する」という意味から来ています。しかしイエスは「汚れている」とか「清い」という次元を常に遥に突破しておられていて自由です。たとえばルカはこう記します。「イエスがある町におられたとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいた。この人はイエスを見てひれ伏し、『主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』と願った。イエスが手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち重い皮膚病は去った」(ルカ5:12-13。平衡箇所のマタイ8:2-3をも参照)。イエスは自ら手を伸べてその人に触れています。これは当時の社会ではとても衝撃的な出来事でした。またマルコ14:3にはイエスがベタニアで、重い皮膚病のシモンという名を持つ人の家で食事に招かれていたことが記されています(平衡箇所はマタイ26:6)。「イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた」。高価なナルドの香油によってイエスの葬りの備えがなされた場面です。イエスは常に自由なお方でした。

 使徒言行録には二度、ペトロがヤッファで見た幻で三度聴いた「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」という天の声が記されています(10:1511:9)。ユダヤ人は長く異邦人を「汚れた者」としてきたのですが、今や全く新しい幻が天から与えられたのです。そこからペトロは霊の導きによりローマの百人隊長コルネリウスと出会うことになる。ペトロはその出会いを通してヤッファの幻の真の意味を知りました。「そこで、ペトロは口を開きこう言った。『神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです」(10:34-35)。そこからペトロによってキリストの福音が高らかに告知されてゆきます。ユダヤ人と異邦人とを分けていた「敵意」という「隔ての中垣」がキリストによって打ち砕かれ、和解がもたらされたのです。

 この新しい一週間もご一緒に私たちの中に働く「神の真実・真理・〈まこと〉」の御業を見上げてゆきましょう。「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする」(ヨハネ8:32)との主の言葉を共に深く味わいたいのです。s.d.g.

2022年10月 1日 (土)

2022年10月2日(日)聖霊降臨後第17主日礼拝 説教「からし種一粒〜すべてを神に頼る信仰」

2022年102日(日)聖霊降臨後第17主日礼拝 説教「からし種一粒〜すべてを神に頼る信仰」

大柴譲治joshiba@mac.com

○ ハバクク書 1 : 1-4、2: 1 – 4

見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。(4節)

○ ルカによる福音書 17 : 5 - 10

使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。 (5-6節)

 

< 「神に従う人は信仰によって生きる」 > (以下、下線は大柴が記す)

 本日の第一日課のハバクク書はこう告げています。「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように、板の上にはっきりと記せ。定められた時のために、もうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる」(2:2-4)。「神に従う人は信仰によって生きる」。これが本日の主題です。

 この主題は実は聖書の中では繰り返し宣言されています。特に使徒パウロはこのことを強調しました。たとえばローマ書の117節が有名です。彼はハバクク書を引用しながらこう語ります。「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです」(新共同訳,1987)。新共同訳聖書は「初めから終わりまで信仰を通して」と意訳していますが、それはギリシャ語原文で読むと「ピスティスからピスティスへ」とある。「ピスティス」とは通常「信仰」と訳される語ですが、実は初めの「ピスティス」は「神のピスティス(真実・真理)」を、後ろの「ピスティス」は「人間の(応答としての)〈まこと〉」を意味する。新共同訳のようにそれを「初めから終わりまで」と訳すとそれが消えてしまう。最新の聖書協会共同訳(2018)では次のように訳し分けられています。「神の義が、福音の内に、真実により信仰へと啓示されているからです」。

 パウロは、ガラテヤ書3章では「信仰の父」と呼ばれるアブラハムを引きながら次のように言っています。「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」。そして続けるのです。「だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい」(7節)。「それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています」(9節)。「律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、『正しい者は信仰によって生きる』からです」(11節)。「正しい者、神に正しく従う者」は「神のピスティスによって生きる」のです。

 

< では「ピスティス」とは何か 〜 それは「神ご自身の、真実・忠実・まこと」のこと >

 これまでも申し上げてきたことですが、私たちはここでも注意しなければなりません。「信仰」という日本語は「礼拝」という語と同じく、人間の行為が主体となっている語です。「人間が(神を)信じて仰ぐ」ことが「信仰」であり、「人間が(神を)礼拝らいはいする」ことが「礼拝れいはい」となっているのです。確かにそのような側面もありますが、それでは事柄の半分も表現し切れていない。もともと「ピスティス」というギリシャ語(その形容詞は「ピストス」)は「真実・真理・まこと・忠実」という意味を表す語です。旧約聖書のヘブル語では「エメト」(真実・真理)が「エムナー」(信頼・信仰)となり、私たちが祈りや讃美歌の最後に唱える「アーモーン/アーメン」(まことに・真実に)という語につながっていきます。

 そしてこの「ピスティス」「エメト/エムナー」という語は人間の行為に先立って、実は神の側の行為を意味する言葉なのです。このことはとても大切です。神の行為が先にあって人間がそれに応答してゆく。イニシアティブは常に神の側にある。これが聖書が繰り返し告げている事柄です。人間が神を探し求めるのではなく神が人間を捜し求め、人間に呼びかけてくださっているのです。それを私の恩師である小川修先生は、「第一義のピスティス」と「第二義のピスティス」とキチンと厳密に区別しています。「神の真実/〈まこと〉」「第一義の〈まこと〉」が先にあって、それに対して私たち人間が「第二義の〈まこと〉」「人間のピスティス(信仰)」をもって応答するのです。「ピスティス」という語が出てくる際には人間の次元だけを考えるのではなく、神との次元を、神と人との相互関係を考えなければなりません。

 

< 私たちの中に働く「からし種一粒ほど」の「神のピスティス」 >

 本日の福音書の日課では、弟子たちがイエスに問うところから始まっています。「使徒たちが、『わたしどもの信仰を増してください』と言ったとき、主は言われた。『もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、「抜け出して海に根を下ろせ」と言っても、言うことを聞くであろう』」(ルカ17:5-6)。

 この弟子たちの質問の背後には、何年経ってもなかなか自分たちの信仰が強くならないという実存的な悩みがあったことが想像できます。私たち自身もそのように思う面があるためによく分かります。「自分は洗礼を受けてずいぶん年月が経つけれども、自分の中に信仰が深まってきているという実感がない。もしかすると自分は信仰者失格なのではないか」というような深い疑いや迷いが私たちの中にもあるのです。特に受洗者の姿を見るととてもまぶしいような気がする。確かに自分も同じ気持ちだったはずなのに・・・。弟子たちがイエスに「私たちの信仰を増し加えてください」と願い出たことには、そのような思いが透けて見えてきます。

 16章で「不正な管理人のたとえ」と「金持ちとラザロのたとえ」を聞き、17章の最初にはさらに厳しいイエスの言葉を聞いて、彼らは自分たちがその厳しさに耐えられるだろうかと不安になったのでしょう。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」(17:1-4)。弟子たちは自分が「躓きをもたらす不幸な者」ではないか、「首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまうような者」ではないかと怖くなったのです。「自分は七回も赦し続けることができない」と感じたかも知れません。イエスの言葉に従うことの困難さを身に沁みて分かっていたから、どうか自分たちの中に信仰を増し加えてくださいと彼らは願い出たのに違いないのです。自分にはさらなる確固たる信仰が必要だと思ったからです。この意味で弟子たちは正しいと思われます。私たちもまた弟子たち同様に、常に、信仰を増し加えてくださいとイエスに願い出る者、祈り求める者であるのですから。

 

< イエスによる神のピスティスの勝利宣言 〜 「あなたの信仰があなたを救った。」 >

 「ピスティス(信仰)」とは実は人間の行為ではないと先に申し上げました。ヘブライ書11:1には信仰の定義が次のように記されています。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」。有名な言葉です。しかしこれには補足が必要です。信仰とは、「神が私において望んでいる事柄を確信し、見えない神の恵みの事実を確認することなのだ」と。繰り返しますが、「ピスティス」とは人間の行為ではなくて私たちにおいて働く神の主体的な行為です。

 イエスは新約聖書の中で繰り返し告げています。「あなたの信仰があなたを救った」と。調べますと、この言葉は福音書の中に7回も繰り返し記されている。①マタイ9:22、②マルコ5:34、③マルコ10:52、④ルカ7:50、⑤ルカ8:48、⑥ルカ17:19、⑦ルカ18:42。特にルカが一番多くそれを記録していることが分かります。このうち①と②と⑤は12年間出血が止まらずに苦しんできた女性がイエスに後ろから近づいてそっとその衣に触れると癒された場面で語られ、③と⑦はエリコの近くで癒された盲人についての並行箇所で告げられていますので、厳密に言えば四つの奇蹟の出来事においてイエスは語っていることになります。「奇蹟」とは「神の憐れみの行為」であることを心に留めておきたいと思うのです。いずれにせよこの「あなたの信仰があなたを救った」というのは、イエスによるピスティスの勝利宣言であると言えましょう。信仰とは人間の行為ではなく、私たち人間の中に働く神の行為です。そこからこの言葉を再度読み解くならばそれはこのような宣言になる。「あなたの中に働く神のピスティス(真実・真理・〈まこと〉)があなたを救った」。

 実はイエスの「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」という言葉もそこから理解してゆかなければなりません。「桑の木が自ら歩き出して海にまで動いていって根を下ろす」ということは物理的には無理な話です。桑の木には足はないのですから。その前半の「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば」という語が大切なのです。イエスは次のように告げておられるのです。「あなたがたの中には実は既に、『からし種一粒』のように、それは小さく見えるのでどんなに努力して見ようとしても見えにくいのかも知れないが、『神のピスティス』が確かに働いているのだ。そのピスティスは莫大なエネルギーを有している。桑の木が海の真中に移って根を降ろすように、神が願うことはそれが不可能に見えたとしても必ず実現する。あなたの中に働く神の〈まこと〉が必ずあなたを守り、導き、救いの御業を実現するのである。人間にはできないことであっても神にできないことはないからだ」。神の恵みの働きからもれてしまう人間はどこにはいないのです。これが福音です。

 私たちはご一緒に、私たちの中に働く神の真実・真理・〈まこと〉の御業を見上げてゆきたいのです。

 お一人おひとりの上に主の祝福をお祈りいたします。 シャローム。

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