心と体

2019年2月 4日 (月)

2019年2月3日JELC大阪教会総会(顕現五)礼拝説教「預言者:神の言を預かる者」

201923JELC大阪教会総会(顕現節第五)礼拝説教「預言者:神の言を預かる者」 大柴 譲治

エレミヤ書 14−10

主の言葉がわたしに臨んだ。「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。」4-5節)

ルカによる福音書 4:21−30

「これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。」28-30節)

 

「神の預言者」=「神の言を預かる者」

 本日は大阪教会の総会礼拝です。2018年活動を振り返り、新しく始まった2019年の計画について祈りながら協議し、決定してゆく大切な日です。役員の選挙もあります。私たち大阪教会が何を基盤にして立(建)てられているのかということをしっかりとみ言葉から聴き取ってゆきたいと思います。

 本日は顕現節第五主日の旧約と福音書の日課を用いています。特に本日は「預言者」についてのみ言です。説教題も「預言者:神の言を預かる者」というタイトルです。

言者」という言葉の最初の字は、「予告」「予」ではなくて「預金」「預」です。

言者」
ではないのです。

言者」
とは「神の言を神から預かり、それを人々に語り伝える者」という意味なのです。

 旧約聖書の日課はエレミヤ書1:4-10の、預言者エレミヤの召命の場面が与えられています。これはとても味わい深いエピソードです。「主の言葉がわたしに臨んだ。『わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。』わたしは言った。『ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。』しかし、主はわたしに言われた。『若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行って、わたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す』と主は言われた。主は手を伸ばして、わたしの口に触れ、主はわたしに言われた。『見よ、わたしはあなたの口に、わたしの言葉を授ける。見よ、今日、あなたに、諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるために』」。「主なる神」「言」が人に臨む時には、必ずこのような「召し出し(召命)の出来事」が起こるのです。アブラハム(まだアブラムと呼ばれていましたが)の場合もそうでした(創世記12章、ならびに15章)。モーセの場合もそうです(出エジプト記3章)。母マリアの場合もそうですし(ルカ1:26-38)、イエスの12弟子たちの場合もそうでした(ルカ5-6章)。

 パウロ自身もエレミヤの召命と自分自身のことを重ねて、手紙の中で次のように語っています。しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた(とき)と(ガラテヤ1:15-16)。若い頃のパウロはエリートファリサイ派の律法学者の独りであり、キリスト教の迫害者でした。使徒言行録の7-8章を読むと、彼は最初の殉教者ステファノの死にも関わっていたと言われています(使徒8:1)。しかしダマスコ途上で復活のキリストに呼びかけられて三日三晩目が見えなくなり、劇的な回心を遂げます。「キリスト教の迫害者」から「キリスト教の伝道者」へと、それも「異邦人への使徒」へと180度方向転換させられるのです。「メタノイア(悔い改め)」とは「神への方向転換」であり、「キリスト中心への主体のコペルニクス的転換」(コペルニクスは天動説から地動説への転換を主張)なのです。そこからパウロは「母の胎内にある時から神が自分を選び分け、恵みによって召し出してくださった」という根源的な原事実に気づく。キリストとの出会いによって文字通り「目からウロコが落ちた」のでした(使徒9:18)。

 実はパウロだけではなく、私たち一人ひとりもまた「母の胎内」にある時から、いや、胎内に造られる遥か以前から、神の恵みによって選び分けられ、神によって祝福され、聖別されていると聖書は告げているのです。これはとても驚くべき恵み(Amazing Grace!)です。神の恵みの選びが既に私たちがこの世に生まれる前からあるというのですから。私たちの人生は神と出会うためにあるのです。このような私たちの人生に備えられている「神の使命(ミッション)」を知ることが大切です。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」というイエスが与えられた天からの存在是認の声は、私たち一人ひとりに向けられているのです。江口再起先生はそれを「恩寵義認」と呼びました。イエス・キリストの受肉と十字架と復活という出来事を通して、その恵みは100%無代価で、無条件に私たちに恩寵として与えられているのです。私が神学生の時にある篤志家の献金によって「恩寵無限奨学金」という奨学金がありました。確かに神の恩寵は無限であり、それが私たちを義とするのです。神はその独り子を賜るほど、この世を愛してくださっているのですから(ヨハネ3:16)。

 

聖霊によって導かれるイエス、そしてイエスを拒絶するナザレの人々の「罪」

本日の福音書の日課はルカ福音書4章の21節から30節。洗礼の場面でも、荒れ野の誘惑の場面でも、イエスを聖霊が常に支え導いていることを私たちは聴いてまいりました。先週の日課にはこうありました(14節)。イエスはの力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた」。しかし16節からはイエスの故郷であるナザレでは、人々から敬われなかったことが記されています。22節ではまだ人々はイエスの権威ある教えに驚いています。「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。『この人はヨセフの子ではないか』」。しかしそのような郷里の人々に対して、イエスは厳しい言葉を投げかけています。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここ(ナザレ)でもしてくれ』と言うにちがいない」23節)。そして、続けて言われました。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」24節)。幼い頃からイエスを知る人が大勢いる故郷のナザレでは、イエスは人々に敬われることがなかったということが記されています。それどころか恐ろしいことに、イエスの言葉に激高した人々はイエスを崖から突き落とそうとまでするのです。幼い頃からイエスを良く知っているという思い上がった「人間的な知識」と自己中心的な「怒り」とが彼らの目を塞ぎ、イエスが持つ神の権威を見えなくしているのです。私たち人間はその罪のゆえにイエスの十字架を必要としたのです。

 イザヤ書の預言がイエスにおいて「今日、ここで」成就したという福音の喜びが頑なな彼らには全く見えてきません。なんともったいないことでしょうか。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた」(ルカ4:18-21)。イエスと出会うことを通して私たちは、母の胎内にある時から神によって祝福され、聖別されているという事実を知ることができる。その事実は、どんなに辛い状況が私たちを襲ったとしても、私たちを存在の根底から支え続け、守り続けるのです。その福音を全世界に伝えるための「預言者(神の言を預かる者)」としてこの私たちを選び、「母の胎内」にあるときから召し出してくださった。神はこの日本福音ルーテル大阪教会を、アブラハム同様、「祝福の基//器」として、これまでも用いてこられたし、現在も用いておられるし、これからも用いてゆかれるのです。そのことを信じ、ご一緒に味わいながら、2019年度の教会総会に臨み、新しい一年を主イエスに向かって踏み出してまいりましょう。

お一人おひとりに神の祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。 アーメン。

2019年1月31日 (木)

2019年1月27日(日)顕現節第四主日礼拝説教「今日、実現した神の言」

2019127日(日) 顕現節第四主日礼拝 説教「今日、実現した神の言」    大柴 譲治

ルカによる福音書 4:14−21

「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。(18-21節)

 

「神の霊」によって満たされ、導かれるイエス

 本日は顕現節第四主日。本日はルカ福音書4章の14節から21節が与えられています。洗礼を受けた後、荒れ野でのサタンの誘惑に打ち勝たれたイエスは、自分のふるさとであるガリラヤに戻りました。その時の様子が最初の部分に記されています。イエスはの力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた14-15節)。「イエスは霊の力に満ちて」と書かれています。「霊」とは神の聖霊のことであり、「神からの命の息吹」「神からの風」のことです。その霊の力にイエスは満たされているのです。

実はルカはイエスの洗礼の場面と、荒野の誘惑の場面でも「霊」について言及しています。洗礼の場面ではこうなっています。民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた3:21-22)。荒野での誘惑を受ける場面はこうです。「さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中をによって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた」1-2節)。

さて、話を聖霊に戻しましょう。洗礼を受けたヨルダン川からイエスは「聖霊に満ちて」お帰りになられました。それだけではない。荒れ野の中をによって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられたとある。「霊によって引き回され」というのは、新しく出たばかりの聖書協会共同訳では「霊によって導かれて」となっています。「引き回され」「導かれ」とではずいぶん印象が違って響きますが、大切なことはその主導権が神の聖霊にあったということです。神の霊がイエスを荒野に導き、40日間イエスはそこで悪魔の誘惑を受けたということです。40日」というのはモーセとイスラエルの民が、エジプトを脱出した後に、荒れ野で40年を過ごした事を私たちに思い起こさせます。聖書では40という数字は「完全数」とも呼ばれ、例えば40年」と言うとそれは「人間の生涯の全体」を、即ち「一世代」を意味すると考えられていたようです。モーセと一緒にエジプトを脱出したイスラエルの民たちが、モーセが民を離れてシナイ山で神から十戒を与えられている時に、不安になって「金の子牛」を作ってそれを拝んだことが出エジプト記32章には記されています。偶像崇拝の罪を犯したためにイスラエルは荒野で40年間を過ごさなければならなくなるのです。モーセもモーセの兄であったアロンも、民の罪を背負う形で荒野においてその生涯を終えてゆきました。そして「神の約束の地」に入っていったのはヨシュアとカレブに導かれた次の世代の者たちだったのです。「荒野の40年」とはそのような意味を持っていたのです。イエスの荒野での40日間の誘惑というものも、イエスの生涯全体がサタンとの闘いであったということを意味しています。

 「聖霊に満ちた」イエスが荒れ野の中をによって引き回され」、「四十日間、悪魔から誘惑を受けられた」というのは、それと同時に「私たちの人生を導くのもやはり神の聖霊である」ということをルカは明らかにしているのです。ルカは福音書の続編として「使徒言行録(使徒行伝)」を記しました。使徒言行録の前半はペトロの働きを中心に書かれ、後半はパウロの働きが書かれています。しかしその本当の主人公はペトロでもパウロでもなく、彼らを捉えて福音の宣教者として立てた「神の聖霊」なのです。その意味ではそれは「使徒言行録(使徒行伝)」と呼ばれるよりも「聖霊言行録(聖霊行伝)」と呼ばれる方が相応しいと言わなければなりません。そしてルカはそのことが「使徒言行録」においてだけでなく「福音書」においても同じであるということ、「神の聖霊(神の命の息吹)」がすべてを捉え、立て、動かし、導いている歴史の本当の主役なのだということを確信しつつ書いているのでありましょう。だからこのように記すことができたのです。イエスはの力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた14-15節)。

 

ユダヤ教のシナゴーグ(会堂)で聖書(イザヤ書)を読み説くイエス

 しかしそれに続くエピソードでは、幼い頃からのイエスを知る人が大勢いる故郷のナザレではイエスは人々に敬われることがなかったということが記されています。そのことは次週の日課ですのでその時に触れたいと思います。本日の日課は21節までです。イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった」16節)。「いつものとおり」とはイエスが毎週、ユダヤ教のシナゴーグで安息日(土曜日)礼拝に参加していたことを記しています。そこでは「預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった」17節)。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」18-19節)。「キリスト(メシア)」とは「神によって油注がれた者(=特別な使命のために立てられた者)」という意味です。そして「イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた」とあります20-21節)。これはイエスによって全く新しく、イザヤが預言していた通りの神の救いの新時代が始まったという重要な宣言です。

 

本日、日本基督教団大阪東十三教会からのゲストを迎えて

私たちの日本福音ルーテル大阪教会は1917年に宣教が開始されましたから、今年で宣教102年目となります。天王寺からこの場所に映ってきたのは195412月のことでした。当時の大阪教会牧師の稲富肇先生がメソジスト教会からこの土地を購入したのです。今私たちの教会があるこの場所には、戦前にはメソジスト教会と幼稚園とがありました。今から二年少し前の20161231日に、るうてるホームにおいて107歳で天の召しを受けられた糸長清子姉はそのメソジスト教会の幼稚園で長く先生をされていたと伺っています。本日はその教会と関わりのあった日本基督教団大阪東十三教会の方々がこの礼拝に出席されています。

調べてみますと、今教会があるこの場所は不思議な神の歴史(これまた「聖霊言行録」です)に導かれていました。1895(明治28)年、ここにメソジスト教会と牧師館が建築されました。それは「南美以教会(アメリカ南メソジスト監督教会)大阪東部教会」という名でした。1895年に既に神によって聖別されたキリスト教会がこの場所に建築されていたのです。日本基督教団大阪東梅田教会のホームページに下記のような記述があります。1895年に、大阪市東区(現中央区)内本町1丁目谷町西ヘ入ル(現在ホテル・ザ・ルーテルがある場所)にて教会堂と牧師館を3120円で建設する」。しかしその礼拝堂は1905103日の夜に英学校のランプが落下して火事となり全焼。二年後の1907年4月28日にレンガの会堂として再建されています。1941年、太平洋戦争が始まると「日本基督教団」に組み入れられ、1942年にはその名称も「日本基督教団大阪大手前教会」と改称されました。1945615日、空襲のため教会は全焼します。それはどれほど大きな打撃だったことでしょうか。そしてその後、同じ年である1945年の11月に大阪YWCAにおいて祈祷会が行われ、翌1946年1月から戦後の焼け跡の中で日本基督教団に属する4つの教会の合同礼拝が始まりました。日本福音ルーテル教会においても事柄は同様でした。19531128日に稲富肇牧師の時にこの土地をメソジスト教会から購入し、195412月5日に新会堂の献堂式が行われました。真法院町にあった大阪教会は何とか焼失を免れたようですが、谷町に礼拝堂を建てた後もしばらくは牧師館はまだ天王寺の真法院町にあったということです。この場所を通して、そのような神の霊の守りと導きの中で粛々と福音の宣教は行われてきました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とイエスが言われた通り、イザヤ書の救いの預言が今日それを聴く私たちにおいて実現しているのです。そのことを深く味わいつつ、ご一緒に主の食卓に集ってまいりましょう。

皆さまの上に神の祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。アーメン。

2019年1月20日 (日)

2019年1月20日(日)顕現節第三主日礼拝説教「水を極上のワインに変えるお方」 大柴 譲治

2019120日(日)顕現節第三主日礼拝説教「水を極上のワインに変えるお方」 大柴 譲治

ヨハネによる福音書 2:1−11

イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。(7-8節)

 

カナの婚礼

 本日は顕現節第三主日。典礼色は(神の栄光を表す)「白」から(希望と成長の色である)「緑」に戻りました。先週はイエスがヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時のことを覚えてみ言に耳を傾けました。本日はヨハネ福音書2章のガリラヤのカナでの結婚式のエピソードです。このカナの婚宴でのイエスが水を極上のワイン(ブドウ酒)に変えられたという出来事が、ヨハネ福音書では七つの奇蹟のうちの「最初のしるし(奇蹟)」として記録されています。「ブドウ酒」は旧約聖書の中ではメシア時代における「神の愛と恵み、民の幸福」を意味する比喩として繰り返し用いられています(エレミア31:12、ホセア14:8、アモス9:13-14など)。それは「神の祝福」を表しているのです。結論を先取りして言うならば、イエスが水を極上のブドウ酒に変えられたというのは、神の祝福が信じる者の上に豊かに注がれて、その人生が喜びと慰めに満ちたものとなるということを表しています。福音書記者ヨハネはこのエピソードを最初の奇蹟として記すことで、私たちのイエスを救い主として信じるこの人生は、「カナの婚宴」のようにどのようなピンチ(ブドウ酒が足りなくなる事態)がそこに生じたとしても、イエス・キリストのゆえに「セレブレイション(祝宴)」に変えられてゆくのだというヨハネ福音書全体の主題を提示したかったと思います。

 

最初のしるし(奇蹟)

 もう少しこの出来事を細かく見てゆきましょう。カナはガリラヤ地方の村です。イエスが育ったナザレから北に向かって14キロほど上ったところにあります。ガリラヤ湖畔の漁師町カファルナウム(イエスたちが主として活動したところ)からは西に向かって20キロと少しほど行ったところです。そこで開かれた婚宴にはイエスの母マリアも招かれていました。マリアの親族でしょうか、その地方ではなかなか有力な人だったのでしょう、イエスや弟子たちもまた招かれていたのです。

 しかしそこでブドウ酒が足りなくなるという危機的な状況が生じます。母マリアは(「マリア」という固有名はヨハネ福音書には出てこないのですが)イエスに「ぶどう酒がなくなりました」と伝えます。それに対するイエスの言葉は極めて冷たく、どこか他人行儀的に響きます。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」4節)。イエスはそのように言うことで自分の母との人間的な関係を退けているように感じます。単に考えが違うということを言っているわけではありません。「わたしの時」「神の定めた時」は未だ到来していないということを人々に示しています。そう言うことでイエスは人々に神を見上げさせ、その救いのみ業を覚えさせているのです。何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時があると言われています(コヘレト3:1)。その「時」とはいつを指しているのでしょうか。それはイエスが自らの死によって神の栄光を顕す「十字架の時」なのでしょうか。あるいは、水を極上のワインに変えるというカナの奇蹟が完成する「終末の時」なのでしょうか。

イエスの母はイエスの言葉にひるむことなく、何事もなかったかのように召し使いたちに言います。「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」。80-120リットルもの水がはいるほどの「大きな石の水がめ」が六つ置いてありました。ユダヤ人は生活の中でも清めの水を大切にしました。石ですからそれらは極めて重かったことでしょう。召使いたちの懸命な奉仕によってその水がめに水が注がれました。それがイエスの命によって宴会の世話役のところに届けられました。実に不思議なことに水は極上のワインに変わっていたのです。その背後には水がめに水を汲み、世話役のところにそれを運ぶという奉仕の業がありました。人生においてイエスに出会うということは、イエスにおける神の祝福を通して水が最高のワインに変えられたように、私たちの人生がイエスによってそのようなものへと変えられてゆくということを意味しています。そこには多くの人たちの執り成しの奉仕があることも覚えたいと思います。

 イエスは別のところで「あなたがたは地の塩、世の光である」と言われました(マタイ5:13)。「地の塩になりなさい、世の光になりなさい」というのではありません。「あなたがたはそのままで地の塩、世の光なのだ。わたしの目には(神の祝福と恵みの中で)そのように見えている」と宣言してくださっているのです。私たちの耳には、先週聞いたみ言葉の「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」というイエスの洗礼時の天からの声が、そこでは繰り返し聞こえてくるように思えます。「あなたはわたしの目には価高く、貴く、わたしはあなたを愛している。恐れるな、わたしはあなたと共にいる。水の中を通るときも、火の中を歩くときも、わたしはあなたと共にいる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ」(イザヤ43:1-4、大柴要約)という声が。

 

美しい水の結晶〜真実の愛の業

 水の研究をしている江本勝という研究者が書いた『水は語る』という本があって、それを最初に読んだ時には少なからず驚かされました。著者はその本の中で様々な場所の水道水や湧水を採種して、特殊な仕方でその水の結晶の写真を撮って、それを比較して解説しているのです。そこには美しい結晶を見せる水もあればそうでない水もありました。塩素の含有量などで変わるようですが、さらに驚かされたことは同じ水でも「ありがとう」という良い言葉をかけるとその結晶が美しくなり、「ばかやろう」という悪い言葉をかけると結晶が崩れてゆくのです。実に不思議な出来事でした。確かに牛やワインにモーツァルトとの音楽を聴かせるとより美味しい牛乳が取れたり、味がよくなるということは聞いたことがありました。言葉そのものの持つ波動の力というのでしょうか、人間の身体も多くの水分によって構成されていますから(一般には人間の水分含有量は、胎児9割、赤ちゃん8割、子ども7割、大人6割、高齢者5割と説明されます)、良い言葉かけをしてもらうと私たちの体内でもより良い結晶が生じるということなのかもしれません。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」とか、「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛している」とか、「わたしはどのような時にもいつもあなたと共にいる」というような温かい言葉を聞くと、私たちが深く慰められ、支えられ、励まされてゆくのもそのことから説明することもできるのかもしれませんね。

水を極上のワインに変えられたお方は、私たちの人生をも味わい深いものに変えてくださると信じます。そのことを通して、アブラハムが神の恵みの選びによって「祝福の基/源」(創世記12:2とされたように、「土の器」である私たちをも「祝福の器」として用いてくださるのです。そのことを覚えて新しい一週間をご一緒に踏み出してまいりましょう。

お一人おひとりに神の祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。 アーメン。

2019年1月13日(日)主の洗礼日礼拝説教「あなたはわたしの愛する子」

2019113日(日) 主の洗礼日礼拝説教 「あなたはわたしの愛する子」  大柴 譲治

イザヤ書 43:1−7

わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする。恐れるな、わたしはあなたと共にいる。4-5a

ルカによる福音書 3:15−17、21−22

民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。21-22節)

 

主の洗礼日〜天からの声

 本日は主の洗礼日。イエスがヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時のことを覚え、そのことの意味についてみ言に耳を傾ける礼拝です。ルカ福音書は端的にこう記しています。「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」21-22節)。不思議な情景です。ある意味で「洗礼」が天とつながる出来事(サクラメント)であることがよく分かります。そしてこのことはイエスにおいてのみ妥当する出来事ではなく、洗礼に与るすべての者にとって起こる確かな出来事であるということが宣言されているのです。私たちは皆、洗礼を通して「『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という天からの声」を与えられており、その声によって生かされ、導かれていると聖書は告げているのです。このような究極的な「存在是認の声」と出会うことができる者は幸いであります。

 

「聖書は神からのラブレター」(キルケゴール)

 『あれかこれか』『おそれとおののき』『死に至る病』などの著作でもよく知られ、「実存哲学の祖」とも呼ばれるデンマークのセーレン・キルケゴール(1813-1855)という思想家がいます。彼はルーテル教会のメンバーでしたが、(彼からは)形式的なことばかりにこだわり内容を伴わないように見えた当時の国教会(ルーテル教会)に対して痛烈に批判・プロテストすることが少なくありませんでした。私自身はその意味でキルケゴールをいかにもルター的でプロテスタント的な「信徒神学者」と位置付けて受け止めています。

大阪教会の教会案内リーフレットにも記させていただきましたが、キルケゴールの言葉に「聖書は神からのラブレター」というものがあります。聖書は確かに、文学書としても歴史書としても格言の書としても様々な読み方が可能な書物です。しかし私たちキリスト者はそれを、どのページからも神からのI Love You”という声が聞こえてくる「神からのラブレター」として読むのだというのです。まことに言い得て妙と思います。なかなかそのようには読みにくい頁もありますが、基本的にはその通りです。本日与えられている「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」というイエスの受洗時の天からの声こそ、まさにI Love You”という神の声です。そしてそのことはただイエス一人に対して告げられた声ではなく、私たち一人ひとりに対して熱い思いをもって語られた「熱情の神」の声なのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)と聖書にある通りです。本日の第一日課にもこうありました。わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛している(イザヤ43:4)。天の父なる神はその独り子イエス・キリストを与えるほどに強く、私たち一人ひとりを深い憐れみと愛をもって受け入れて下さっています。

 

「根拠のない自信」

 「根拠のない自信」という語があります。なかなか味わい深い表現と思いますが、10年ほど前に東京にある東洋英和女学院というミッションスクールでのクリスマス礼拝に招かれた時のことです。保護者会の世話役で一人のお母さんがこう話してくださいました。「子どもたちはとにかくこの学校が大好きなのです。学校が楽しくて仕方がない。この学校は子供たちの中に根拠のない自信を豊かに育ててくれました」と。そういえば私が三鷹のルーテル神学大学(現ルーテル学院大学)で学んでいた時にも東洋英和女学院出身の学生がいて、大変に行動派であった彼女(吉岡康子牧師。今は青山学院女子短期大学の宗教主任)がいつも「私には根拠のない自信があるのよ」と誇りつつ語っていたことを思い起こします。東洋英和女学院にはカナダから派遣された初期の宣教師たちが伝えた「根拠のない自信」という言葉が長く継承されてきたのだと思います。私は昨年7月に大阪女学院のチャペル説教に招かれましたが、その際にも「生徒たちはこの学校が大好きであり、卒業しても繰り返し母校に帰ってきてくれるのです」と中村真喜子校長先生(中学・高校)からお話しを伺わせていただきました。その日、ヘール記念講堂に礼拝のために集まった生徒たちの熱気からも、東洋英和女学院と同じように皆学校が大好きであること、学校を通して生徒たちが「根拠のない自信」を培われていることなどを感じました。おそらくそれは、“I Love You, あなたはわたしの大切な存在」という神の声を響かせているミッションスクールの良さだと思われます。すべての人は神に愛されているのです。ミッションスクールに限らず、学校や家庭というものは本来子供たちの中に「根拠のない自信」を育むという使命を持つものなのではないかとも思わされています。そのために大人たちは子どもに愛情を豊かに注いでゆくことが求められています。

 「根拠のない自信」を持つ者には「迷い」がありません。否、たとえ「迷い」があったとしてもその「根拠のない自信」のゆえに、周囲を巻き込みながらも逆境を乗り越えてゆくことができるのだと思われます。粘り強く肯定的な「自尊感情」がその人の「レジリエンス(本来はバネの復元力を意味する言葉でしたが、そこから「回復力/逆境力/折れない心」等とも訳されます)」を支えています。私などは「根拠のない自信」ということではまっさきに、逆境に強かった大先輩のあの故小泉潤牧師の生き方をも思い起こします。ふだんの日常生活ではあまり分かりませんが、いざという時には私たちが持つ「根拠のない自信」が大きく事を左右するのでありましょう。

 2011年の6月、ちょうど東日本大震災後のタイミングになってしまいましたが、『子どもへのまなざし』『子どもの心の育て方』等の著書でよく知られている川崎医大のキリスト者児童精神科医の佐々木正美先生(1935-2017)を私が牧会していたむさしの教会にお招きしたことがありました。先生はそこで子供たちの内に「根拠のない自信」を育むことの大切さを語られたのです。そのためには「子供たちに溢れるほどの愛情を注いで、大いに甘やかせてあげて欲しい」と言われたのでした。

 人を愛するためにはまず自分が人に愛されるという体験が必要となります。そして大人(特に親)から愛されることを通して子供たちには「根拠のない自信」が育まれてゆくのです。佐々木先生はこう続けられました。「私たちは普通『根拠のある自信』を持っています。しかし『根拠のある自信』はその根拠が揺れ動くとガラガラと崩れてしまう。けれども『根拠のない自信』は、根拠がないがゆえに決して揺れ動くことがないのです」。その実践に裏打ちされた温かい言葉は今でも私の中で一つの確かな声として響いています。

 「根拠のない自信」とはいかにも逆説的な言い方ですが、よく考えてみればやはりそこには「根拠」があると私は思います。そもそも「自信」とは「自分に対する信頼」を意味しますが、その「自信」「根拠」が自分の「内」ではなく「外」にあって、それが「外」から「私」を支えているということなのです。そこでの「自信」とは「自分に対する信頼」よりもむしろ「自分を支えるものに対する信頼」という意味となりましょう。自らの外に自分を支える「確固とした足場・基盤」を持つということが大切なのです。万物は揺らぐとも主の言は永久に立つのです。自己を支えるそのような足場を持つことができる者は幸いであると言わなければならないと思います。

 「神からのラブレター」である聖書が告げている「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛しているという確かな声が私たちを捉えて放さないのです。“I Love You”という神の熱い声に信頼して、神から私たちに贈られた「根拠のない自信」を深く味わいながら、新しい一週間を踏み出してまりましょう。 お一人おひとりに神の祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。アーメン。

2019年1月6日(日)主の顕現日礼拝説教「至宝を捧げた博士たち」 

201916日(日) 主の顕現日礼拝 説教「至宝を捧げた博士たち」    大柴 譲治

イザヤ書 60:1−6

起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。国々はあなたを照らす光に向かい、王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。(1-3節)

マタイによる福音書 2:1−12

彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。(9-11節)

 

はじめに

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

 

新しい2019年の最初の主日礼拝にあたって

 新年おめでとうございます。この新しい年も聖餐礼拝をもって始めることができることを心から感謝いたします。新しい年の上に神さまの祝福が豊かにありますよう祈りつつ、ご一緒に神のみ言に聽いてまいりたいと思います。

 ここで「聽く」という語は、「傾聴」「聴」という字の旧字体を覚えたいのです。「耳」の下に「王」という字があって、右側には「十」「目」が横たわった姿、そして「一」「心」という字が組み合わされています。その意味は「耳と目と心を一つにしてそれを十全に用いて王なる者の声に聽いてゆく」ということになります。王なる神の声に私たちは全身全霊を用いて耳を傾けてゆくのです。神のみ言に聽いてゆく、この私たちの姿勢を新しい年の初めにもまず心に刻みたいのです。天地万物が揺らぐとも主の言葉は永久に立つのですから。

 

主の栄光の顕現

 本日は主の顕現日。主の栄光が諸国の民に顕現した(顕れた)ということを記念する日です。ローマ教会(西方教会)では1225日から本日までの二週間がクリスマスの期間として定められていますが、ギリシャ正教会やロシア正教会などの東方教会ではこの日がクリスマス(聖降誕日)として定められています。

 本日与えられているマタイ2章の日課には当方からの博士たちが黄金・乳香・没薬という宝物を持ってイエスの元を訪れる場面が記されています。そのことは旧約聖書の日課であるイザヤ書60章の預言の成就でもありました。そこにはこうあります。「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。国々はあなたを照らす光に向かい、王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む」1-3節)。

 闇の中に主の栄光の光が輝いたことが記されています。国々はその光に向かって進み、王たちが指し出でるその輝きに向かって歩むのです。アドヴェントに入りましてから「オリエンテーション」という語についてしばしば触れさせていただきました。仕事や勉強の最初には「オリエンテーションの時間」がありますが、「オリエンテーション」とは本来は「オリエント(日の出づる方角=東)に身を向けること」を意味しています。このイザヤ書の60章の預言から来ていることが分かります。義の太陽であるキリストが昇り、闇の中に住んでいた諸国の民を照らすのです。ここでの光は「希望」を表しています。私たちが生きてゆくためにはどうしても「希望の光」が必要なのです。神が示してくださった希望の光に向かって私たちは生きるのです。

 私が牧師として歩んできた33年間には少なからぬ方々との忘れ得ぬ出会いがありました。様々な言葉をその声や表情と共に思い起こします。その中でも「人生は神さまと出会うためにあるのではないでしょうか」という、ガンのために47歳でこの地上での生涯を終えることになられた一人の母親の言葉を思い起こします。不治の病となってから求道し、親しい友人の通っていた教会に半年通い続け、1997年のクリスマスに洗礼を受けられた女性でした。そして1998年のイースターの後、天へと帰ってゆかれました。この「人生は神さまと出会うためにある」という言葉は、私たちの人生を方向付けてくれる言葉であると思います。闇の中に光が輝き出た。その方向に向かって私たちは身を向け、顏を上げ、宝物を携えて進むのです。それはちょうど東から旅してきた占星術の学者たちと同様です。彼らは異教徒でした。しかし自分たちの力をすべて用いて神の真理を知ったのです。星に導かれた博士たちはエルサレムのヘロデ大王のもとに立ち寄りこう問いかけました。ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」なぜか星はベツレヘムまで直接に彼らを導きませんでした。神の都エルサレム、そこは人間が何としても自分の権力を守り抜こうとするドロドロとした権謀術数の場でもありました。そのエルサレムを通して神は彼らをベツレヘムに導いたのです。ヘロデ王やエルサレムの住人たちが感じた「不安」3節)とは、それは神が人間に与えるところの「根源的で実存的な不安」です。神の前に私たち人間は自らの無力さを感じながら「畏れとおののき」とをもって立つ以外にはないのですから。ヘロデはその幼子を抹殺することを心に秘めながら彼らに心にもない言葉を伝えます。そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、『行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう』と言ってベツレヘムへ送り出した」7-8節)。私たち人間の心の闇の深さを知らされる場面でもあります。

 

星を見て喜びに溢れる博士たち

 しかし博士たちはさらに歩みを進めました。「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた9-10節)。その星は学者たちに大きな喜びを与えるのです。ヘロデたちの不安や恐れとは対照的です。私たちもこの新しい一年、星の輝きを見上げながら、旅を続けてゆきたいと思います。神さまは必ず必要な守りと導きを与えてくださるはずですから。「人生とは神さまと出会うためにある」のです。私たちもまた、博士たちがそうであったように、自分の宝物を携えて救い主イエス・キリストのもとに参上したいと思います。「(彼らが)家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」12節)。一説によると、この三つの宝物(黄金・乳香・没薬)は博士たちの占星術のために遣う道具であったとも言われています。救い主と出会った彼らは、それまでの古い生き方をすべて捨てて、全く新しい生き方へと変えられていったのです。さらに13節にはこうあります。「『ヘロデのところへ帰るな』と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」。神が新しい道を示されたのです。それは「喜びに溢れ続ける道」でもあります。神の導きと守りとにすべてを委ねて、私たちもその新しい喜びの歩みを踏み出してゆきたいと思います。 皆さまの上に神の祝福をお祈りいたします。 アーメン。


「目を上げて、見渡すがよい。みな集い、あなたのもとに来る。息子たちは遠くから、娘たちは抱かれて、進んで来る。そのとき、あなたは畏れつつも喜びに輝き、おののきつつも心は晴れやかになる。海からの宝があなたに送られ、国々の富はあなたのもとに集まる。らくだの大群、ミディアンとエファの若いらくだが、あなたのもとに押し寄せる。シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる」(イザヤ60:4-6)。

 

おわりの祝福

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

2019年1月 1日 (火)

2019年1月1日 元旦礼拝説教 「主の恵みの年の初めに」

201911日 元旦礼拝説教 「主の恵みの年の初めに」           大柴 譲治

○ コヘレトの言葉 3:1−13

何事にも時があり, 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。‥神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。1, 11節)

○ ヨハネの黙示録 21:1―6

のとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」3-4節)

○ マタイによる福音書 25:31−46

そこで、王は答える。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」40節)

 

はじめに

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。  アーメン。

 

一年の計は元旦にあり〜「聽く」という姿勢を大切に

 新年あけましておめでとうございます。この新しい年もご一緒に聖餐礼拝をもって始めることができることを心から感謝します。新年の上に神さまの祝福が豊かにありますよう祈りつつ、神のみ言に聽いてまいりたいと思います。

 ここで「聽く」という語は、「傾聴」「聴」という字の旧字体を覚えたいのです。「耳」の下に「王」という字があって、右側には「十」「目」が横たわった姿(「四」ではありません)、そして「一」「心」という字が組み合わされています。その意味は「耳と目と心を一つにしてそれを十全に用いて王なる者の声に聽いてゆく」ということになります。王なる神の声に私たちは全身全霊を用いて耳を傾けてゆくのです。神のみ言に聽いてゆく、この私たちの姿勢を新しい年の初めにもまず心に刻みたいのです。天地万物が揺らぐとも主の言葉は永久に立つのですから。

 

本日与えられた三つのみ言〜①コヘレト3章、②ヨハネ黙示録21章、③マタイ25

 本日与えられている三つの日課はそれぞれに大変特徴的な箇所です。旧約日課はコヘレトの言葉3章です。1節はこうなっています。何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」。そして11節。「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない」。これは私たちが長く「神のなさることは皆その時に適って美しい」という口語訳聖書の伝道の書で親しんできたみ言でもあります。昨年12月に新しく出た『聖書協会共同訳』ではこうなっていまして少し口語訳に戻っている感がします。「天の下では、すべてに時期があり、すべての出来事に時がある。生まれるに時があり、死ぬに時がある。・・・神はすべてを時に適って麗しく造り、永遠を人の心に与えた。だが、神の行った業を人は初めから終わりまで見きわめることはできない」。私たちには神のなさることを見究めることはできないのです。コヘレトの最初の言葉を想起します。「何という空しさ、何という空しさ。すべては空しい」(新共同訳)。「コヘレトは言う、空の空、空の空、一切は空である」(聖書協会共同訳)。私たち日本人が平家物語で深く馴染んでいるように、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす」のです。すべては空しくため息のように過ぎ去っていってしまうこの世の現実の中にあって、私たちには決して空しくなることのない「神の定めた麗しい時」を見上げてゆく信仰のまなざしが求められています。

 使徒書の日課ではヨハネ黙示録21章の新しい天と新しい地が到来する際の預言が与えられています。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである3-4節)。このみ言はこれまでどれほど多くの人を支え、慰め、励ましてきたことでしょうか。やがて私たちの涙が神ご自身によってぬぐわれる日が必ず来ると約束されているのです。もはや死はなく、悲しみも嘆きも労苦もない世界の到来が約束されています。その日を目指し、その日を見上げながら私たちは共にこの地上を旅して行くのです。

 福音書の日課にはマタイ25章の終わりの日の預言が与えられています。誤解を恐れず言うならば、その際に問われるのは何を信じていたかという私たちの信仰ではなくて、いと小さき者たちに愛の行いをしたかどうかということなのだという点が重要です。それも、最も小さき者の一人の中に、彼らと共に歩まれる見えないキリストを見、キリストに仕えるという信仰からくる愛(アガペー)の行いが求められていることが分かります。主は常に小さくされた者たちの側におられます。そのことを心に刻みつつ、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣き」(ローマ12:15)ながら、この新しい一年をも私たちはご一緒に歩んでまいりたいのです。

 

るうてる(20191月号) 議長室から 「一千年を視野に入れて今を生きる」

 年頭に当たりJELCの機関誌『るうてる』1月号の議長室からで書かせていただいた文書をお読みさせていただきます。

 

 新年おめでとうございます。1992年にヒロシマで開かれた宗教者平和会議での相馬信夫カトリック司教の言葉を思い起こします。司教は1993年のJELC宣教百年記念熊本大会のゲストでもありました。司教は「カトリック正義と平和協議会」の会長を務め、1991年の湾岸戦争の際には自衛隊機の派遣に反対し民間機をチャーターしておよそ三千人の避難民を母国に移送したことでも知られています。ヒロシマでの講演を司教は次のような言葉で始められました。「私たち宗教者は20年、30年を視野に入れているだけではダメです。一千年を視野に入れて、今を生きなければなりません」と。私にとってそれは度肝を抜かれるような、目からウロコが落ちるほどスケールの大きな衝撃的な言葉でした。

 「千年を視野に入れて今ここを生きる」!?具体的にそれが何を意味するのか、以来ずっと考えさせられてきました。今この場所で永遠なるお方(神)とつながって生きるということなのか(「永遠の今」を生きる)。確かに聖書にはこうある。「千年といえども御目には、昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません」(詩編90:4)、「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」と記されています(2ペトロ3:8)。神の視点を持って生きるということなのか。詩編90編が告げるように私たちの人生は70年ないしは80年ほどの儚いものにしか過ぎません。労苦に充ちたこの世の人生においては「瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ってゆく」(10節)のです。モーセと共に私たちも「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように」と祈りたいと思います(12節)。

 司教の言葉を思い巡らせることの中で一つ気づいたことがあります。人が活動できる一生を仮に「40年」(聖書的な数字ですが)とすれば「千年」は「25世代」です。神はその御心を実現するために「世代」を超えて私たち一人ひとりをその平和の道具として用いてゆかれるのです。新年も共に主の御心の実現を祈り求めてゆきたいと願います。皆さまの上に神の祝福をお祈りいたします。

 

 お一人おひとりに神の祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。 アーメン。

 

おわりの祝福

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

2018年12月31日 (月)

2018年12月30日(日)降誕後主日礼拝 説教「主の年2018年を振り返って」

20181230日(日)降誕後主日礼拝 説教 「主の年2018年を振り返って」     大柴 譲治

コロサイの信徒への手紙 31217

これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。(14節)

ルカによる福音書 24152

イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。(52節)

 

はじめに

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン。

 

降誕後主日、2018年の最後の日曜日にあたって

 クリスマスおめでとうございます。本日は降誕後の主日、2018年の一番最後の日曜日となります。節目の日曜日です。一年を振り返ってみますと、皆さま方にとってこの一年はどのような一年だったでしょうか。災害が多かった一年であると感じておられる方は少なくないでしょう。一年を表す今年の字も「災」という字が選ばれるくらいです。日本が災害列島となっただけではなく、つい最近もインドネシアにおける火山の噴火による突然の津波など世界的に多くの災害が起こった一年でもありました。11月に市ヶ谷で行われたJELC常議員会の議長報告に私は次のように書かせていただきました。

 

01)西日本豪雨と台風、地震などの被害に対する支援について

 6月から10月までの日本列島は、繰り返し豪雨や地震、台風などの自然災害に襲われ大きな被害が出ました。尊い生命を失われた方々、そのご遺族、被災者の上にお慰めをお祈りいたします。また支援活動に当たっておられる方々のためにも祈ります。618日には大阪府北部地震が起こりましたし、6月末から7月上旬にかけての西日本豪雨の被災地に対しては西教区を中心として継続的な支援活動が続けられています。728日の逆走台風12号。96日に起こった北海道胆振東部地震94日に関空など関西を中心に大きな被害をもたらした台風21号。930日に各地に停電等の大きな被害をもたらした台風25号。さらには928日にインドネシア・スラウェシ島で発生した地震と津波の被害の大きさにも心を痛めています。皆さまからお寄せいただいた連帯献金は9月末の時点で700万円近くになっています。ありがとうございます。連帯献金は当初は西日本豪雨のために呼びかけましたが、今後は広く災害緊急支援のために用いてまいりたいと思います(12月末まで)。引き続きご協力をお願いします。

 

『災害ユートピア〜なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか』

 レベッカ・ソルニットという米国人のノンフィクション作家の書いた『災害ユートピア〜なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか』(亜紀書房、2010という興味深い本があります(原題はA Paradise Built in Hell, 2009)。大災害や大事故が起こった時には、いつもそこにはユートピアが出現したというのです。私たち人間には不思議な性質が備わっています。大災害が起こったときに人は利己的になるよりも利他的になるというのです。不幸のどん底にありながら、人は困っている人に手を差し伸べる。人々は喜々として自分のやれることに精を出す。見ず知らずの人間に食事や寝場所を与える。知らぬ間に話し合いのフォーラムができるということが起こるのです。著者は具体的に様々な事例を検証しながらそのことを証明してゆくのです。古くは1906年のサンフランシスコ大地震、新しくは2001年の9.11テロの際にも、被災地において理想的な相互扶助社会が生まれていることを証明するのです。

 

地震、爆撃、大嵐などの直後には緊迫した状況の中で誰もが利他的になり、自身や身内のみならず隣人や見も知らぬ人々に対してさえ、まず思いやりを示す。大惨事に直面すると、人間は利己的になり、パニックに陥り、退行現象が起きて野蛮になるという一般的なイメージがあるが、それは真実とは程遠い。二次大戦の爆撃から、洪水、竜巻、地震、大嵐にいたるまで、惨事が起きたときの世界中の人々の行動についての何十年もの綿密な社会学的調査の結果が、これを裏づけている。

 

 二日ほど前に観たNHKテレビは西日本豪雨の被災者の一人の言葉を伝えていました。「このことを通して人と人との絆がこれほど大きな力を持っているということを、改めて知ることができました」。もちろん災害そのものは歓迎すべき事柄ではありません。深い嘆きと悲しみの谷を通ってゆかなければならなくなるからです。しかしそのことを通して、今までは明らかでなかったものが明らかになってくることも事実なのです。それは人と人とのつながりの大切さであり「絆」が持つ力です。問題はむしろ、災害時にはそのようなユートピアが形成されるのに、日常生活の中ではそれが失われてしまうのかという点にありましょう。

 私自身も牧師としてグリーフケアに関わってきて思わされることは、「自助グループ」の持つ大きな力であり、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く」ことができるような共同体形成の大切さです。教会もそのような共同体の一つとして立てられています。今日の第二日課であるコロサイ書が伝えている通りです。「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです」3:12-14)。その通りであると思います。「アガペーの愛」こそが、すべてを完成させる「絆」なのです。

 

大阪教会にとっての一年

 大阪教会にとって2018年はどのような一年だったでしょうか。今年は大阪教会にとって「宣教101年」の年でしたが、211日にS.K兄(92歳)が召天された後、5人のメンバーが天に移されるという年になりました。特に8月後半以降、一ヶ月半のうちに4人もの教会員が次々と天に召されるという激動の一年でもありました。823日にR.Y姉がご自宅において80歳で亡くなり(それが私たちに伝えられたのはしばらく後でしたが)、824日には役員であったY.I兄がご自宅で心筋梗塞のため59歳の地上でのご生涯を閉じられました。続いて、94日にはA.O姉がるうてるホームにおいてやはり急性心筋梗塞のため82歳で天の召しを受け、108日にはK.W兄が73歳で天に帰られました。ご遺族の皆さまの上に天来の慰めをお祈りいたします。身近な者が共におられない初めてのクリスマスです。これまで傍にいてくれた人が不在となってしまったということで、どれほど寂しい思いを味わっておられる方が少なくないかと思います。ある方が「これまで傍にいてくれた人がいないという、『その気配がない』ということが一番寂しい」と哀しそうに言われたことが忘れられません。「気配がない」。本当にその通りであると思います。

 しかし不思議なことに悲しい離別体験の後で、それとは対極の思いを伝えてくださった方々もおられます。「今まで以上にその人が自分の傍に、一緒にいてくれる感じがします」と。『魂でもいいから、そばにいて〜3.11後の霊体験』(奥野修司、新潮社、2017という不思議な体験を綴ったドキュメンタリーもあります。それは突然目の前から去ってしまった愛する者の「気配」を、様々な不思議なかたちで感じているというレポートでした。

 

キリストの光によって照らされた一年

 本日の福音書には12歳になったイエスのエピソードが記されています。少年イエスのエピソードは唯一つしかなく、ルカが記したものだけが伝えられています。その最後にはこうあります。「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」52節)。神と人とに愛されたイエス。それは洗礼を受けた私たち自身の姿でもあります。イエスの洗礼時に天からの声はこう告げていました。「あなたはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」(マルコ1:11)。神の祝福の光、愛の光に照らされて私たちは日々を過ごしてゆくのです。この一年もそのような一年であったと思います。そのことを感謝しつつ、お一人おひとりの上に神の祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。アーメン。

 

おわりの祝福

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

2018年12月24日 (月)

2018年12月23日 聖降誕主日洗礼・堅信・聖餐礼拝説教「永遠と今との接点」

20181223日 聖降誕主日洗礼・堅信・聖餐礼拝  説教「永遠と今との接点」   大柴 譲治

イザヤ書 916

闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。・・・ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる。15節)

ルカによる福音書 2114

天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」10-11節)

 

クリスマスの喜び

 クリスマスおめでとうございます! アドヴェントクランツのすべてのロウソクが点されました。待ちに待った日がやってきたのです。今日は主のご来臨を祝う日です。アドヴェントの期間の悔い改めを表す「紫」の色から神の栄光を現す「白」へと典礼色は変えられました。「白」はすべての色を反射させて白く輝いています。山上の変貌の出来事の中でイエスがどんなさらし職人の腕も及ばぬほどの「白く輝く姿」で、旧約を代表するモーセとエリヤと親しく語り合ったことが福音書には記されていますが、「白」はそのように神の栄光の姿を表しています。「白」は光輝く光の色でもあります。「光あれ!」(創世記1:2)と言って天地創造を始められた神が、イエス・キリストにおいて再び闇の中に光を創造されたのです。

 本日の第一の日課、イザヤ書9章は高らかに告げています。闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。・・・ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる15節)。驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」。ヘンデルのメサイアではWonderful Counselor, Almighty God, Eternal Father, Prince of Peaceとなっていました。主キリストは「ワンダフルカウンセラー」なのです。

 ルカ福音書は野宿をしていた羊飼いたちに主の天使が近づき、主の栄光が光輝く中で、天使がこう告げました。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」10-12節)。すると、突然に、この天使に天の大軍が加わって神への讃美の歌声が響きます。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」という歌声が

 

もしクリスマスがなかったとしたら

 「もしもクリスマスがなかったとしたら」と最近私はよく考えます。それはどれほど寂しく味気のないものであったことであろうかと思うのです。イエスがこの地上にお生まれにならなかったとしたら、キリスト教は存在せず、キリスト教会もなく、私たちも人生においてイエス・キリストという救い主と出会うことができなかっただろうと思います。血縁でも地縁でもなく、「聖霊縁」「キリスト縁」とも呼ぶべきかたちで、私たちは私たちの人生においてキリストと出会い、キリストによって呼び集められてこの日本福音ルーテル大阪教会に集められています。そして、本日も三人の方の洗礼式が行われますが、キリストを救い主として信じて洗礼を受けてきたのです。もしもクリスマスがなかったとしたら、イエス・キリストがこの地上に誕生されることがなかったら、私たちは未だに出口のない闇の中に捕らえられていたことでしょう。そのように思うとゾッとします。反対にクリスマスは闇の中に光が射し込んだことを教えています。この地上にみ子なる神がお生まれになったということは、この世の闇のどん底にまで神の救いの光が届いたということです。その光が届かない闇の深淵はもはや存在しないということです。「闇はこれに勝たなかった」とヨハネ1:5にある通りです(口語訳1955と聖書協会共同訳2018。この光は私たちの希望の光です。

 イエス・キリストにおいて永遠なるものがこの地上に降り立たれました。キリストが生きられたあの33年ほどの時間とは「神の救いの歴史の中心」であり、「時の中心」(コンツェルマン)とも言えましょう。イエス・キリストにおいて神が人となった、永遠なる世界(天)がこの世界(地)に接したということです。あの十字架が縦軸と横軸がクロスしているように、キリストは天と地の接点であり、永遠と今この時との接点でもあるのです。今ここで私たちが生きているということは、永遠なるお方とつながって生きるということでさり、「永遠の今」を生きているということです。パウロはそのことを「私たちの国籍は天にあり」と言いました(フィリピ3:20。新共同訳は「私たちの本国は天にあります」)。私たちはキリストと共に、今ここで、地上と天上の二重国籍を同時に生きているのです。今ここで、神とつながって永遠の今を生きていると申し上げることができましょう。

 もしもクリスマスがなかったとしたら、イヴ礼拝もクリスマス礼拝もなかったことでしょう。私たちに深い慰めをもたらすクリスマスの讃美歌(キャロル)や、バッハやヘンデルなどの優れた宗教音楽も存在しなかったことになりましょう。今夜は大阪コレギウム・ムジクム(大阪ハインリッヒ・シュッツ合唱団)による特別なクリスマスコンサートがこの場所で行われます。シュッツ合唱団は昨年讃美歌のCDを出されましたが、今回もこの第二弾を出されました。このCDにはクリスマスキャロルがたくさん入っていて深く慰められます。もしクリスマスがなかったとしたらこのような慰めに充ちた音楽もすべてなかったことになりましょう。これは音楽の好きな者としては耐えられないのではないでしょうか。

 私は前の教会(東教区のむさしの教会)にいた時にクリスマスイヴの礼拝は東京バッハアンサンブルによる音楽讃美礼拝として毎年守ってきました。もう50年以上前から守ってきたのです。それは、池宮英才(いけみやひでとし、1924-2003という東京女子大学の教授で、指揮者をされていた方が教会の中心メンバーの一人として始められたものでした。池宮先生は毎年、ヘンデルのメサイアをフルオーケストラと合唱で48年にも渡ってオペラシティーや人見記念講堂などのコンサートホールで開催してこられた方でもありました。また30年にも渡って指揮をした明治学院大学のグリークラブによるバッハのクリスマスオラトリオなど、音楽を通して神さまへの讃美の歌声を奏でてこられた大変にエネルギッシュな音楽家でした。「音楽家」というあだ名があったルターは巧みにリュートを弾いたそうですが、ルターの言葉として次のようなものが伝えられています。「音楽は神から与えられた最上の賜物の一つであり、悲しむ者の心を慰め、その呼吸を楽にしてくれる。そして悪魔の力もこれに勝たない」。私たちが天上からのクリスマスキャロルに声を合わせて歌う時には、悪魔の力も音楽の力に勝たないのです。

 

三人の受洗者〜天における喜びの祝宴に与る

 本日はKS兄、SC姉、SY姉の洗礼式がこの後に行われます。古い自分が死んで、キリストと共に新しい自分が誕生する、洗礼とはそのようなうまれかわりと再生の出来事です。そしてその後で聖餐式が行われます。それは「ワンダフルカウンセラー」であるキリストが私たちのために与えてくださった天の祝宴の先取りであり、前祝いであります。その「サクラメント(洗礼と聖餐という二つの聖礼典)」において私たちは永遠と今との接点をまことに恵み深いものとして味わうのです。パウロが言うように、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」です(2コリント6:2)。そのような恵みの時が、今ここで私たちに与えられていることを神に感謝し、共に神を讃美したいと思います。お一人おひとりに、メリークリスマス! 神の祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。 アーメン。

 

2018年12月22日 (土)

2018年12月16日 待降節第三主日礼拝説教「聖霊と火による洗礼」

20181216日 待降節第三主日礼拝 説教「聖霊と火による洗礼」大柴 譲治

ルカによる福音書 3: 7〜18

こで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」。16節)

 

待降節(アドヴェント)第三主日に〜「悔い改めにふさわしい実を結べ!」

 本日私たちは待降節(アドヴェント)第三主日の礼拝を守っています。アドヴェントクランツの三本目のロウソクが点されました。主の来臨を祝う日がいよいよ近づいてまいりました。アドヴェントの典礼色は悔い改めの色、王の色である「紫」。本日与えられた福音書の日課は、私たち自身が自らの生き方を省みて、罪を打ち砕かれ、神の前に悔い改める者となるよう強く命じています。特に、洗礼者ヨハネの厳しい言葉は鋭く私たちの実存を問うてきます。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる7-9節)。

 ヨハネはヨルダン川で悔い改めの洗礼を受けようとやってきた群衆に向かって「悔い改めにふさわしい良い実を結べ」と命じているのです。自分中心を捨て、「悔い改め(メタノイア)とは真の神を神とするという生き方に立ち返ることです。徹底的に神の前に打ち砕かれ、神以外のものを神としない、自らを神のようにしないということです。「神への方向転換」とも説明できますが、それは「主体の転換」を含みます。パウロは言いました、「生きているのはもはやわたしではない。キリストがわたしのうちで生きておられるのだ」と(ガラテヤ220)。地球を中心にして太陽が地球の周りを回っていると捉える「天動説」ではなく、太陽の周りを地球が回っているということを知る「地動説」への「コペルニクス的転換」こそがここで求められています。人間が自分を中心として自分の目的のために神を利用するのではなく、神をすべての中心に置いて、神が主体とり私たちはその道具として御心のままに用いられてゆくのです。それが「悔い改め(メタノイア)です。そしてヨハネは神の前での真実の悔い改めが、必ず「実を結ぶことを伴う」ということをはっきりと言っています。ここで「実」とは「実践」のことであり、「愛の行い」のことです。

 

洗礼者ヨハネのもとに洗礼を受けに来た「群衆」と「徴税人」と「兵士」

 洗礼者ヨハネのもとには三種類の人々が来たことが記されています。①「群衆」②「徴税人たち」、そして③「兵士たち」です。「悔い改めにふさしい実を結べ」と神の権威をもって命じるヨハネに対して、①「群衆」は問いかけています。「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と(10節)。ヨハネの答えはこうでした。「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」11節)自分の持っているものを僅かであっても貧しい者、飢えた者たちと分かち合えと命じているのです。洗礼を受けるためにヨハネのもとに来た②「徴税人たち」に対してはこう応えます。「規定以上のものは取り立てるな」13節)。③「兵士たち」に対してはこうです。「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」14節)

考えてみれば、これらはとても具体的かつ当たり前のことであり、倫理的にも正しいことです。当時の社会では、当たり前のことが当たり前では無かったということなのでしょう。当時のユダヤ人社会では、自分の立場を利用して、規定以上に税金を取り立てたり、弱い人から金をゆすり取ったり、だまし取ったりしていたということがあったのでしょう。人間社会の常として倫理的には誇れない面があったのでしょう。皆がそうであったとは思えませんが、ずる賢く、自分の立場を利用して人々を騙し、私腹を肥やしていた者が少なからずいたのでしょう。洗礼者ヨハネは、文字通り「神への道を整える」ため、曲がった道筋をまっすぐにし、デコボコになった道を平らにするために来たのでした。それは具体的に神の前に正しく生き方を変えるようにとの「悔い改めへの招き」でした。「マムシの子らよ」というヨハネの呼びかけ自体が、その声を聞く者を心底震え上げさせたに違いありません。「悔い改めよ」と迫る神の声は、私たちの一部分ではなく、全存在を神の前に立たせるよう求めておられるのです。

 

洗礼者ヨハネの「後から来るお方」(=イエス・キリスト)は「聖霊と火での洗礼を施す」

 15節には「民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた」と記されています。洗礼者ヨハネには人々の期待が集まったのです。しかしヨハネは皆に向かって言います。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」(16-17節)。これは間接的に「自分はメシアではない」と告げているのと同じです。「わたしよりも優れた方」の前では自分は全く取るに足りず、その方の履物のひもを解く値打ちもないほどであると言うのです。自分とは比べようもないほど「優れたお方」が到来する。自分はあなたたちに「水」で洗礼を授けるが、そのお方は「聖霊と火」であなたたちに洗礼をお授けになると言うのです。「聖霊」「火」「神の聖霊(=息吹き)」を意味しています。ここでの「火」とは物質的な火のことではなく、「聖霊」の目に見えるイメージのかたどりとして記されています。聖霊降臨日に聖霊が降った出来事にも聖霊が「炎のような舌」に分かれて一人ひとりの上に留まったとありました(使徒言行録2:1-4)。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」。火が鉄を溶かして精錬するように(イザヤ48:10、エレミヤ6:29)、聖霊は人の心を熱くするのです(エゼキエル22:17-22、詩編66:10)。水によるヨハネの洗礼は「外的なしるし」にすぎませんので、それ自体は人間の内面に大きな影響を及ぼす力はないのです。しかしそれに対してキリストによる洗礼は、来週のクリスマス礼拝では三名の方の洗礼式が行われますが、「外的なしるし」だけでなく、実際にキリストの霊によって内的な変化が行われるしるしなのです。「キリストの御名による洗礼」とは、古い自分がキリストと共に死に、新しい自分がキリストと共に復活するという、存在自体がその根底から新たにされるという恵みの出来事(サクラメント)なのです。ですから最近では、(希望をすればですが)洗礼名が与えられるようになってきました。洗礼名が与えられるということは、洗礼を通して受洗者が主にある新しい存在として生き始めるということなのです。

 洗礼者ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、イエスの先駆者としての役割を果たし、イザヤが預言した「荒れ野で叫ぶ者の声」として民衆に神の「福音Good Newsを告げ知らせてゆきます(18節)。私たちは本日、ヨハネの言葉を聞きながら、自らのこころをキリストに向かってキチンと方向付けながら、自らも「悔い改めにふさわしい実を結ぶこと」を祈り求めてまいりたいと思います。マラナ・タ。主よ、来たりませ。

 お一人おひとりの上に祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。 アーメン。

 

2018年12月15日 (土)

2018年12月9日 待降節第二主日 礼拝説教「主の道をまっすぐにせよ」

2018129日 待降節第二主日 礼拝説教「主の道をまっすぐにせよ」     大柴 譲治

ルカによる福音書 3: 1〜 6

これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」(4-6節)

 

待降節第二主日にあたって〜「主の道をまっすぐにせよ」

 本日私たちは待降節第二主日の礼拝を守っています。実は教会で用いられている「教会暦」では待降節第一主日から新しい一年が始まっています。クリスマスに備えるためのアドヴェントの期節です。典礼色は悔い改めの色、王の色である「紫」。アドヴェントクランツの二本目のローソクが点されましたが、クリスマスまでの期間を私たちは、私たちに近づいてこられる主の到来に備え、自らを省みてその道備えをしてゆくのです。今日は洗礼者ヨハネが荒れ野で叫ぶ者の声として響きました。それは旧約の預言者イザヤ書40章の預言の成就です。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る4-6節)。すべての人が神の救いを仰ぎ見るのです。

 私たちは一年の始まりをイエス・キリストに向けて心を整えるところから始めます。主の道を整え、その道筋をまっすぐにしようとするのです。一般に使われる「オリエンテーション」という語には本来「オリエント(東方)を向く」という意味があり、「義の太陽」であるキリストが昇ってくる方向を向いて私たちは身を正すのです。

 本日の主題は私たち自身がキリストの到来する道であり、その道をまっすぐ整えてゆく必要があるということです。本日の第一日課であるマラキ書3章は次のように告げています。見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は、突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者、見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。2だが、彼の来る日に誰が身を支えうるか。彼の現れるとき、誰が耐えうるか。彼は精錬する者の火、洗う者の灰汁のようだ。 3彼は精錬する者、銀を清める者として座し、レビの子らを清め、金や銀のように彼らの汚れを除く。彼らが主に献げ物を、正しくささげる者となるためである」マラキ書3:1〜3)。

 

イエスの先駆者である洗礼者ヨハネの登場〜その歴史的なコンテクスト

 本日のルカ福音書の日課の冒頭部分には多くの固有名が登場します。その多くは人物の名前です。これは歴史的に見ても貴重な証言です。イエスがいつ、どのようなセッティングの中に生まれて生涯を生きたのかが分かるというのも、ルカ福音書の1:5とこの箇所があるからです。もう一度読んでみましょう。「皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った」1-2節)。

ティベリウス(BC42年〜AD37年。ローマ帝国の第2代皇帝。在位:AD14年〜37年)、ポンティオ・ピラト(生没年不詳。第5代ユダヤ属州総督。在位:AD26年〜36年)、ヘロデ(ヘロデ・アンティパス。ヘロデ大王の子。ガリラヤとベレア地方の領主。在位BC4年〜AD39年。ヘロデ大王の在位はBC37年〜BC4年。大王はエルサレム神殿を再建したことで知られる。またイエスの誕生時にベツレヘム周辺の2歳以下の男の子を殺したことがマタイ福音書には記録されている)、フィリポ(ヘロデ大王の子でヘロデ・アンティパスの兄弟)、リサニア(不明)、エルサレム神殿の大祭司のアンナス(在位:AD6年〜AD15年。カイアファのしゅうと。ローマ帝国から更迭された後もその称号と権威とを保っていたと言われる)とカイアファ(在位:AD18年〜AD36年)、そしてザカリア(祭司)とその子供であるヨハネ(=洗礼者ヨハネ)の九人です。ティベリウスとポンテオ・ピラトの二人がローマ人で、あとの七人はユダヤ人となります。九人のうち最初の五人が政治家、あとの四人は宗教家(含洗礼者ヨハネ)です。ユダヤ人の七人のうち三人の領主たちは、当時はローマ帝国の属州でしたから、ローマから認められた親ローマ帝国の立場を取る政治家たちであったことになります。このような名前が並置されるところにも、異邦人の医者でもあったルカの歴史家としての客観的な視点を感じることができましょう。

聖書は完全に沈黙していて一度もその言及がないのですが、領主ヘロデ(ヘロデ・アンティパス)はAD20年頃に、ガリラヤ湖の西側に「ティベリア」という皇帝ティベリウスの名前を付したローマ風の都市を建築し、強制的に人々を移住させ、そのティベリアがガリラヤの首都となっていました。イエスとその一行は一度もそこには足を運ばず、ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネが住むカファルナウム(カペナウム)という漁師の町をガリラヤでの活動の本拠地としていたのでした。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」という洗礼者ヨハネにおいて実現したイザヤ書の預言は、都市ではなく「荒れ野」という言わば「死の世界」から、「人間の力では生きてゆけない場所」「辺境」において発せられたのです。神の御業は常に辺境から始まっていると申し上げることができましょう。大きなもの、力あるものではなくて、小さいもの、無力なものが神の恵みによって優先的に選ばれてゆくのです。イエスの祝福の言葉にこうありました。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである」と(ルカ6:20)。

 

①「神の言葉」が、②「荒れ野」で、③「洗礼者ヨハネ」に、④「降る」ということ

 2節の後半にはこうあります。「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った」。①④「神の言葉が降った」とありますがそれを「降らせた」主体は神ご自身であり、神の聖霊の息吹きです。③「洗礼者ヨハネ」の先駆的で預言者的な働きが「時」が充ちるかたちで、神がヨハネを通して語らせた言葉によって始められたのです。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」とヨハネ福音書の1:1にある通りです。

大切なことはいつも神の救いのみ業は②「荒れ野」から始まるということです。「荒れ野」とは人間が自分の力に頼っては生きてゆけない世界を意味しています。そこは神に頼る以外には生きることができない「死の世界」なのです。私は荒れ野ということで映画『十戒』1956)の中に描かれていた一場面を想起します。それはエジプト人を殺して逃げてきた若きモーセがミデアンの荒れ野まで来て力尽きて倒れる場面です。力尽きたモーセを見つけて助けるのが祭司エテロの娘のチッポラでした。そこにはこのようなテロップが入っていました。「人の力が尽きたところから神の御業が始まる」と。そうです。荒れ野とは人間の力が尽きる場所なのです。しかし私は思います。神の御業は荒れ野だけではなく、どこにおいても働いていると。私たちは普段はそのことに気づかないだけなのです。私たちがその御業に気づくためには、自分の力に頼ることを止めなければならないのではないか。苦難や試練の中で自分の無力さや破れ、罪といったものを思い知らされて打ち砕かれ自分に絶望する時、私たちは初めてそこに神の恵みの業が豊かに働いていること、働いていたことを知るのです。

洗礼者ヨハネはヨルダン川で悔い改めの洗礼を人々に授けてゆきました(3節)。それは「罪の赦しを得させるため」でした。「罪」とは神との破れた関係を意味する関係概念ですから、「罪の赦し」とは再度神との義しい関係に入ることであり、そのために必要な事柄です。「悔い改め(メタノイア)」とは「神への方向転換」であり、さらに言うならばそれを超えた「主体の転換」です。当時の時代状況もあるのでしょう。行き詰まりを感じていた人々が大勢いて、ヨハネのもとには続々と人々が集まってきました。洗礼者ヨハネの中に人々は神の示される「希望」を見出したのです。イエスもまたヨルダン川で洗礼者ヨハネから受洗しました。そこには「神⇒洗礼者ヨハネ⇒イエス・キリスト」という一本の道筋がまっすぐに引かれています。そのように見てゆくと、「神の言葉」は私たちの上に「降る」ことが分かります。今日私たちは礼拝において神のみ言の前に立たされていますが、聖霊降臨と同じく、神の言葉が私たち一人ひとりに「降る(降臨する)」のです。そしてそこから私たちはその「神の言葉」を伝えてゆくための「神の声」として、洗礼者ヨハネがそうであったように、また12使徒やパウロ、歴代の宣教師や牧師、信仰の先達たちがそうであったように、私たちもまた神によって用いられてゆくのです。神の救いの道と人生の「荒れ野」において、神によって選び立てられた「人間」を通してまっすぐに敷かれてゆくのです。順風満帆の時ではなく、逆風に揺り動かされ沈没しそうになった艱難の時、試練の時にこそ神が私たちを支え力づけ、必要な助けを与えてくださってきたのだと信じます。それは見えないかたちで主キリストご自身が私たちと共にいてくださり、私たちを守り導いてくださった時でもありました。そのことを覚えたいと思うのです。お一人おひとりの上に祝福をお祈りいたします。アーメン。

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