心と体

2018年10月20日 (土)

2018年10月14日 聖霊降臨後第21主日礼拝 説教「天に宝を積むために」

20181014日  聖霊降臨後第21主日礼拝 説教「天に宝を積むために」    大柴 譲治

マルコによる福音書 10:17〜31

イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(21節)

 

永遠の命を受け継ぐためには、何をすればよいか

 本日の福音書には、一人の男性とイエスとの、「永遠の命」を巡る大変に興味深いやりとりが記されています。逐語会話記録風にまとめるとこのようになります。

おとこ1:「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」

イエス1:「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟=十戒)をあなたは知っているはずだ。」

おとこ2:「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました。」

イエス2「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれ

ば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(彼を見つめ、慈しみながら)

おとこ3:・・・(この言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去る。理由:たくさんの財産を持っていたから。)

 このやりとりでイエスが告げていることは明確です。「あなたは十戒を心から守りなさい。十戒に示されている神の御心を大切にして生きなさい」ということです。その男性が「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言うと、イエスは彼を温かい慈しみのまなざしで見つめます。ここで「慈しんで」と訳されている語は「愛して(アガパオー)」という言葉です。実際その人は子どもの頃から誠実に、忠実に、心から十戒を大切にして守ってきたのでしょう。彼にはしかし十戒を守ることだけで「永遠の命」を得ることはできないように感じていたと思われます。これでいいのだろうかと何か物足りないものを感じていたのです。「おとこ2の言葉は、その男性がイエスの答えに対して多少の失望感を持ったようにも私には感じられます。イエスが十戒に言及されたことに少し驚きを覚えたのかも知れません。「十戒は子供の時から守ってきました。それでも私は何か足りないような気がするのです。永遠の命を受け継げるという実感がありません。主イエスよ、私に何が足りないのでしょうか。どうかそれを教えてください」。そのようなひたむきで誠実で一生懸命にまっすぐに生きようとしてきたその人の人柄が伝わってきます。だからこそイエスは彼のその誠実さを愛し慈しんで語られたのでしょう。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」。永遠の命を受け継ぐためには、すべてを捨ててキリストに従うことが必要だと言われるのです。これが天に宝を積むために「なくてならぬこと」「決定的なこと」とイエスは言われるのです。様々なものを所有して生きている私たち自身の生き方が根本から問われているように感じます。イエスの声にはいつも覚醒作用があるのです。

 

「わたしは裸で母の胎を出た。裸でかしこに帰ろう。」(ヨブ1:21

 ヨブ記の言葉を思い起こします。義人のヨブは神に祝福された人生を送っていましたが、突然にすべてを失ってしまいます。強盗たちの略奪や突然の天からの火によって「全財産(羊7千匹、らくだ3千頭、牛500くびき、雌ロバ500頭、非常に多くの使用人)」を失います。また 突風が吹いて家が倒れ、一つに集まって祝宴を開いていた「子供たち全員(息子7人、娘3人)」が死んでしまいます。そして ヨブ自身も突然「ひどい皮膚病」になることで全身をかきむしるようになり、さらには周囲からは④「罪を犯して神に罰せられた者」と言われて「義人」としての名声も失い、挙げ句の果てには妻から「あなたはまだ無邪気にも神を信じているのですか。神を呪って死になさい」という言葉さえ投げかけられて徹底的な孤独を味わうのです。言わば「五重苦」です。そのような一連の苦難のプロセスの中でヨブはこう告白します。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が奪われる。主の御名は誉め讃えられよ」(ヨブ1:21)、「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」(同2:10)と。ヨブは苦しまなかった訳でも悲しまなかった訳でもありません。深い嘆き悲しみの中からこのような言葉をうめくように語っているのだと私は思います。この言葉は「神の御心が成りますように。あなたの僕(しもべ)ヨブはあなたの御心にどこまでも服従します」というヨブの信仰告白なのです。

 私たちは確かに裸で生まれ、裸で死んでゆきます。どれほど資産に恵まれていたとしても、栄誉や名声、業績や家族、賜物やエネルギーに恵まれていたとしても、死ぬ時にはそれを何一つ持ってはゆけない。すべてを置いてゆくのです。何も持たずに裸で母の胎を出た私たちは何も持たずに裸で死んでゆく。その意味では、「永遠の命」を受け継ぐためにはこの世的な財産の多い少ないは関係ありません。財産が大切ではないと言っているのではありません。次元が違うのです。この世を生きるためには財産はどうしても必要なものでありましょう。しかしそれは欠けてはならぬ唯一のものではない。永遠の命を受け継ぐために必要なものはただ一つだけなのです。イエスは言われました。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」。イエスは持ち物をすべて貧しい人たちと分かち合えと命じるのです。すべては神から与えられた恵みだからです。その恵みは自分一人のものではなく、多くの人々と分かち合うために神から私たちに託されている、管理を委ねられているものなのです。ここ数年「断捨離」という言葉が流行っています。必要最低限しかモノを持たない生き方です。物質的に豊かになることで大切なことが見えなくなってしまうことが少なくない中、私たち自身の生き方がそこでは見直されているのでしょう。守るべきモノが多いと私たちはそれに捕らわれてしまい不自由になってしまいます。私たちは「裸で母の胎を出て、裸でかしこに帰る」定めです。しかし私は思います。たった一つだけ持ってゆくことができるものがある。それは何か。私たち自身の「豊かな心」であり、「満ち足りた魂」です。その独り子を賜るほどこの世を愛して下さった神に対する信仰、信頼であり感謝です。

 

「ありがとうと言って死のう〜悲しみの乗り越え方」(高木慶子シスター)

 今月23日(火)の午後2時からるうてるホームでは職員のためのスピリチュアルケア研修会が行われます。教会の入口にもポスターが貼ってありますが、今回の講師はカトリックの高木慶子シスター(上智大学グリーフケア研究所)です。高木先生の講演の主題はズバリ「ありがとうと言って死のう〜悲しみの乗り越え方」です。確かに私たちは死ぬ時には何も持たないで死んでゆくのですが、一つだけ持ってゆくことができるとすればそれは「豊かな心」「感謝の心」です。それが持てたら笑顔でこの地上の生涯を祝福のうちに終えてゆくことができるということになります。

 イエスはある時「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マルコ8:34)と言われました。文字通りにはイエスと同じように十字架と死を背負うことを意味していましょう。しかし今回の「永遠の命」を得ようとイエスのもとに来た一人の男と重ねるならば、彼にとってそれは自分の全財産を貧しい人に施して捨ててからイエスに従うということなのです。そこに永遠の命を受け継ぐ道があるとイエスは宣言している。十戒を守ることを延長線上には「すべてを捨ててイエスに従う」という実践があるのです。そしてそのことは「イエスの慈しみの眼差し」の中で起こる。この男性は自分の財産の多さに目を向けて「気を落とし、悲しみながら」イエスのもとを立ち去りました。自分にはそのようなことはできないという絶望的な思いに心打ち砕かれたのでしょう。その悲しみの中で彼はイエスの慈しみに満ちた眼差しに気づきませんでした。もう一歩だったのに・・・。本当はイエスのみ顔を仰ぎ見てイエスに従うという「未来」に向かって目を向けるべきだったのに、自分が持っている財産と十戒を守ってきたという「過去」の歩みの方に目を向けてしまったのです。残念至極です。イエスにはそれが最初から分かっていたのでしょうか。本当の自由、本当の未来は、おそらく私たちが何も持たなくなったとき、私たちの死の床で明らかになるのでしょう。「永遠の命を受け継ぐ」とは具体的には「ありがとうと言って死ねるか」ということです。そのことは私たちがイエスを見上げる時、私たちに向けられたイエスご自身の愛と慈しみの眼差しに気づく中で起こるのです。それは私たちに永遠の命を与えようとするキリストの眼差しです。そのイエスの眼差しに信頼し、その眼差しの中で、私たちは主に従って歩んでまいりたいと思います。それが「天に宝を積むこと」であり、今ここで、この地上において天とつながって宝を味わいながら生きるということです。その独り子を賜るほどに私たち一人ひとりを愛して下さっている神を覚え、私たちもまた「神さま、ありがとう。皆さま、ありがとう」と言って感謝と平安の中に死にたいと思います。お一人おひとりの上に祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。アーメン。

2018年10月07日 聖霊降臨後第20主日礼拝 説教「神が結び合わせてくださったもの」

2018年10月07日 聖霊降臨後第20主日礼拝 説教「神が結び合わせてくださったもの」 大柴 譲治

○ 創世記 2:18〜24

主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」(18節)

○ マルコによる福音書 10:2〜16

「しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」(6-9節)

 

「結婚」=「神が結び合わせたもの」

 本日は結婚についてのみ言葉が与えられています。「結婚は神からの恵みの賜物、尊い贈り物である」ということが明らかにされているのです。しかし結論を先取りして言うならば、私たちはそれを拡げて理解し、「私たちがこの地上で経験する出会いのすべては神の恵みの賜物である」として受け止めてゆきたいと思います。

旧約の日課である創世記2章を受けてマルコ福音書10章でイエスは結婚について次のように宣言しておられます。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない6-9節)。大変有名な言葉です。結婚式文の中でも宣言される重要な言葉でもあります。私が牧師になってこの西教区の福山教会に赴任した時、教区のある先輩牧師がこの部分を結婚式の中で間違えてこのように言ってしまったことがあると伺ったことがあります。最後の部分ですが、「神が結び合わせたものを、人が離してはならない」と言うべきところをうっかりと無意識に、「人が結び合わせたものを、神が離してはならない」と逆に言ってしまったということでした。その先生はすぐにその言い間違いに気づいて、「もとい! 神が結び合わせたものを、人が話してはならない」と言い直したと言うことでした。笑い話のような本当の話です。

 しかしこのエピソードは私たちに大切なことを考えさせてくれます。結婚というものは、確かに男と女との出会いがあって、そして相互の決断があって二人は夫婦になってゆくのです(恋愛結婚であるかお見合い結婚であるかは問いません)。その意味では結婚には人間が結び合わせてゆくという次元が確かにあります。それにも関わらず聖書は、結婚は人間が発明したものではなくて、神が人間の次元を超えたところから贈り物として贈り与えてくださったものであるということを創世記の1章と2章は繰り返し宣言しています。1章では天地創造物語の中に位置付けているのです。27節。神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」。そして続けられています「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ』28節)。この「男と女に創造された」というのは「夫と妻に創造された」とも訳しうる言葉です。夫婦が「神の似姿」に、即ち相互に愛し合うように「神の愛(アガペー)のかたち」に造られていると聖書はその最初で宣言しているのです。人間が結婚して家庭を築き、家族と共に多くのことを分かち合いながらこの世の人生を生きてゆくことは、神の御心に適うことであり、そこには神の豊かな祝福が注がれているということが告げられています(28節)。この教会の牧師であられた石橋幸男先生は結婚カウンセリングの中で「結婚のことを古い英語では『procreation』と言うのだ」と説明しておられました。それはpro(前進させる)」という接頭辞とcreation(創造)」という名詞からなっていて、「結婚」「神の創造のみ業に参与し、それを前進させる役割を果たす出来事である」ということを力強く語っておられたことを私は思い起こします。結婚というものが神の創造のみ業につながるほど壮大なスケールを持っていることが分かります。

 

結婚〜神から与えられたパートナーシップ

イエスの言葉に戻りたいと思います。ファリサイ派の人々から結婚(離縁)についての論争をしかけられてイエスは次のように宣言しています。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」。神の合わせた結婚を損なうということは、モーセの十戒の第六戒「あなたは姦淫してはならない」を破るものとなるということをイエスは明確に断言しているのです。神の御心は結婚とそれに続く家庭生活を大切にしてゆくところにあります。血縁関係で結ばれている家族の中で唯一血縁関係ではない関係があります。それが夫婦の関係です。しかしそれは「約束の関係」なのです。換言すればそれは「契約の関係」です。夫婦の契約関係が家族の中心に置かれていることは重要な事柄であると思います。子どもは両親の相互関係を見て育ちますから、そこが安定しているかどうかは子どもに大きな影響を与えてゆきます。人間が「神のかたち」に創造されているということは、神と人間とが相互に愛し合う契約の関係の中に置かれているように、夫と妻とが互いに愛し合う約束(契約)の関係の中にあることを意味しています。そしてそれは神が定めたもの、神が結び合わせたものです。創世記の2章には「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」18節)という神の言葉が記されています。「助ける者」とは「上下関係のあるアシスタント」のことではありません。「対等なパートナー」を意味します。この神の決定が先にあって、アダムとエヴァが出会ってゆくのです。古来日本ではその神秘を表現するために「赤い糸に結ばれていた」というように言ってきましたが、聖書もまた夫婦はその出会いに先立って神の決意があることを宣言するのです。私は結婚式の説教で必ずこのように語ります。「これからはお二人の愛が結婚を支える以上に、神の定めた結婚がお二人を支えてゆかれることになります」と。人生山あり谷ありですが、人生の要所要所で夫婦は共に神を見上げてゆくことが求められています。

 

「出会い」=「神が結び合わせたもの」

 そして実はそのことは夫婦関係に限るものではないと私は思わされています。人生におけるすべての出会いの背後には神の御心があるのです。「結婚」のみならず「人生における出会い」もまたすべからく「神が結び合わせたもの」なのです。考えてみれば、自分が自分であるということも実に不思議なことです。気がついたら私たちはこの自分として生きていました。自分で自分を選んで生まれてきたという人はおそらく存在しないことでしょう。この時代、この場所、この両親の下に、この自分として生を受けて生きる。これは私たち自身が選んだことではありません。言わば「向こう側から選ばれたこと」なのです。私たちを超えたところで、神ご自身が選んで、この私を私として生を与えて下さったのです。今この時代に70億を超える人間が地球上に生きているとされています。自分が自分であるという確率は70億分の一」です。自分が自分であるということも不思議なことですが、この自分が今隣に座っている人と出会うという確率は70億分の一」かける70億分の一」という天文学的な数字になります。実に不可思議な奇蹟のような出来事です。その背後には神の決意があると聖書は告げています。

若い頃にファリサイ派の律法学者であったパウロはキリスト教の迫害者でもありました。しかしキリストと出会うことを通してパウロの目は開かれ、次のように告白する者へと変えられてゆきます。わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたと(ガラテヤ115-16)。パウロはここで「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた」と語った預言者エレミヤを明白に意識していると思われますが(エレミヤ15)、生まれる前に既に神の圧倒的な恵みがパウロを選び、彼を捉えて放さなかったと言うのです。そして彼はその神の決定に忠実に従って人々にキリストの福音を宣べ伝えてゆきました。キリストと出会うことでパウロは、人生の出会いがすべて神によって備えられたものであり、神によって結び合わされたものであることを知ることができたのです。この新しい一週間も神の恵みの光に照らされて歩みたいと思います。主が私たちと共にいてくださいます。お一人おひとりの上に祝福が豊かにありますように。アーメン。

2018年9月30日 (日)

2018年9月30日(日)聖霊降臨後第19主日礼拝説教「地獄とは愛のないところ」

2018930日(日)聖霊降臨後第19主日礼拝説教「地獄とは愛のないところ」 大柴 譲治

マルコによる福音書 9:38〜50

もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。(47-48節)

 

嵐(台風24号)のただ中で

 台風24号が日本列島を直撃する中で、本日私たちは主日礼拝を守っています。このような中でもこの礼拝に足を運ぶ方々がおられるということは、私たちがどれほど礼拝を大切に思っているかということを明らかにしていると思います。諸般の事情で本日は礼拝に来ることができないで、たとえばインターネットを通して祈りを合わせ、礼拝に参加しておられる方もおられることでしょう。ある意味私たちは、本日この場に来ることができない人たちの代表・代理としてもこの礼拝に与っているのだと思います。お一人おひとりの上に祝福をお祈りいたします。

 

地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。」〜「地獄」に思いを馳せる

 本日は大変厳しいイエスの言葉が繰り返されています。48節の地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。という言葉です。しかもこれがある写本によると三度も繰り返されているのです(44節と46節。新共同訳聖書では†の印がついて省略されていますが)。本日は「地獄」ということについて焦点を当てて、神の御心に思いを馳せたいと思います。48節に続く49節には「人は皆、火で塩味を付けられる。という言葉が続きます。「地獄の火(業火)」によって燒かれることを通して、「地獄のような現実の苦難」を通して私たちの魂は精錬され、私たちが真の人間として生きるために必要な「塩味」を付けられるということなのでしょうか。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい」50節)。私たちがどこから塩味を与えられるのか心に留めながらみ言葉に聴いてまいりましょう。

 

「ここはまだ地獄じゃない。地獄とは愛のないところなのだから」

 カトリック作家の遠藤周作に『女の一生』(朝日新聞社、1982)という作品があります。長崎とアウシュビッツを舞台にした作品で、その『第二部 サチ子の場合』にはポーランド人のコルベ神父が出てきます。コルベ神父は1930年、ゼノ修道士などと共に長崎に来日し、1936年にポーランドに帰国。そして1941年にアウシュビッツ収容所に入れられ、やがて一人の囚人の身代わりになって殺されてゆくのです。ナガサキの大浦天主堂に隣接する元神学校跡の建物の中にはコルベ神父の生涯を記念する展示室も設置されていました。遠藤周作はそのコルベ神父のアウシュビッツでの姿を印象的に描き出しています。コルベ神父自身は無力で、ボロボロになった姿をした囚人の一人なのですが、その収容所の現実の悲惨さの中で「ここは地獄だ」とつぶやく囚人の一人に対してこう語ったのです。「ヘンリック、ここはまだ地獄ではない。地獄とは愛のないところだ。でもまだここには愛がある」と。愛のないところが地獄なのです。ここにはまだ愛がある。神の愛が生きている。だからまだ地獄ではない。コルベ神父はこう言って自分の僅かなパン切れを倒れている人に分かち合ってゆくのです。大変に印象に残る場面です。

 1941年7月、アウシュビッツ収容所では脱走者が出たことで、10人が選ばれて餓死刑に処せられることになりました。囚人たちは無作為にその番号で呼ばれて選ばれてゆきましたが、そこで自分の番号を呼ばれたフランツィシェク・ガヨフニチェクという男が「私には妻子がいる」と突然叫びだしたのです。10人が連行されようとした時に、そこにいたコルベは「私が彼の身代わりになります、私はカトリック司祭で妻も子もいませんから」と申し出たのです。ナチスでは反カトリック、反聖職者的な雰囲気が強かったためにすぐさまこの申し出は特別に許可されました。コルベ神父と9人の囚人は地下牢に押し込められます。通常、餓死刑に処せられるとその牢内において受刑者たちは飢えと渇きによって錯乱状態で死ぬのが普通でしたが、コルベと9人は互いに励まし合いながら死んでいったといわれています。最後まで彼らは「愛」の中に生きることができたのでした。時折牢内の様子を見に来た看守は、「牢内から聞こえる祈りと歌声によって、餓死室は聖堂のように感じられました」と証言しているほどです。2週間後、コルベを含む4人はまだ息があったため、薬物を注射され殺害されてゆきました。

戦争やテロなどにおける人間の罪深さ、自己中心性、残虐さなどを思う時に、私たちは恐ろしくなります。私たちの中にもそのようになる可能性があるのです。人間は悪魔にもなり得れば、天使にもなり得るのです。信仰者・文学者として人間の心の闇を徹底的に見つめたロシアの作家ドストエフスキーの言葉に次のようなものがあります。「神と悪魔が闘っている。そして、その戦場こそは人間の心なのだ」(『カラマーゾフの兄弟』)。 然り! ドストエフスキーは人間の闇の深淵の奥の奥底までも見つめて、それを言葉に表現しようとしています。なぜか。彼は、人間の持つ闇の絶望的な暗さ・深さを明らかにすると共に、同時にその闇の底に届いているキリストの救いの光をも明らかにしたかったからだと思います。「神と悪魔とが鬪っている戦場」としての私たちの人間の心の中に、私たちを救うために降り立ってくださったお方。それが私たちの主イエス・キリストであり、その十字架への歩みは悪魔との闘いを意味しています。キリストがその苦難と十字架と復活とを通して悪魔に勝利してくださった。だから私たちは知っているのです。キリストの愛が届かないような闇はないということを。


「地獄にもキリストがおられるのだから。」(ルター)

「ヘンリック、ここはまだ地獄じゃない。地獄とは愛のないところだが、ここはまだ愛がある。」と言って、自分が持っていた一切れのパンを倒れている人に差し出していったコルベ神父。私たちはその姿の中に今も生きて働いておられる復活のキリストを見ることができるのだと思います。歴史の中には、おそらくこのような無数の愛の行為があったことでしょう。その多くは人々に知られることなく、忘れ去られているように思われます。しかし、神はそれをきちんと覚えていて、忘れずにその心に刻みつけていてくださるのです。なぜなら、「愛と慈しみがあるところubi caritas et amorには神がおられるからです。そこに私たちに対する神の祝福が豊かに備えられていることを覚えたいと思います。何よりも神はその独り子を賜るほどにこの世を愛してくださいました。それは御子を信じる者が、神の愛を分かち合うことの中で、一人も滅びないで永遠の命を得るためでした(ヨハネ3:16)。ルターはある時にこう言いました。「もし私が地獄に落ちなければならないのであれば、喜んで地獄に落ちよう。なぜなら地獄にもキリストはおられるからだ」。私たちを贖うためにキリストは地獄にも降りたって下さった。ここに私たちに本当の意味の塩味を与えて下さるお方がおられます。キリストの愛こそが私たちを生かす塩なのです。

 私たちにいのちを与えてくださる主イエスが嵐の中でも私たちと共にいてくださいます。この主に従って私たちはともにこの一週間をご一緒に踏み出してまいりたいと思います。どれほど嵐がひどくとも、私たちをキリストの愛から引き離す力をもったものは何も存在していないのですから。

お一人おひとりの上に祝福が豊かにありますように。アーメン。

2018年9月23日(日)聖霊降臨後第18主日礼拝説教「だれが いちばん えらいか」

2018923日(日)聖霊降臨後第18主日礼拝説教「だれが いちばん えらいか」 大柴 譲治

マルコによる福音書 9:30〜37

彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」34-35節)

 

「サタン、引き下がれ!」〜イエスの真剣な、そして厳しい叱責の言葉

 先週はマルコ福音書の8章の終わりから、イエスに対して正しくキリスト告白をしたペトロが、イエスご自身の苦難の預言を聞いた途端イエスを脇にお連れしていさめ始めたため、イエスから「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と叱責された場面を読みました。弟子たちは自分のメシア像をイエスに投影していたのです。

 本日の日課にもイエスと弟子たちの意識の違い、次元の違いが明かにされています。一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。それは弟子たちに、『人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する』と言っておられたからである。弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった930-32)。イエスはまっすぐに、そして真剣にエルサレムの苦難(それは「十字架」ですが、まだ十字架という言葉は出て来ません)を見据えていますが、弟子たちは怖くてそれを尋ねることができなかったのです。イエスは神の御心に従うことを真剣に考え覚悟しています。それに対してまだ弟子たちはボンヤリとしていて、イエスにその意味を尋ねるとペトロのように再び「サタンよ、退け。あなたは神のことを思わないで、人間のことを思っている」とイエスに厳しく叱責されるに違いないと思って怖れていたのでしょう。

 

「だれが いちばん えらいか」

 それどころではありません、イエスが二度目の受難予告をしているにもかかわらず、弟子たちの関心は「だれがイエスの一番弟子であり、二番弟子であるのか」というところにあったのです。「一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、『途中で何を議論していたのか』とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである」33-34節)。だれが一番偉いか! これは少しでも力ある地位を求めようとする私たち人間の主要な関心事です。苦難と恥との道を踏み出そうとするイエスの関心とは対極にあるものでした。弟子たちは全く神のことを思わず、人間のことを思っていたのです。しかし今回はイエスは「サタンよ、退け!」とは叫びませんでした。イエスは座り、かんで含めるようなかたちで12人を呼び寄せてこう言われたのです。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」35節)。そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げてこう言われました。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」(37節)。

 

「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」

 イエスがその弟子たちに求めるものは「へりくだり(謙遜)」であり、「柔和」であり、「寛容」であり、「忍耐」なのです。幼子のような小さき無力な者を受け入れ、自らもそのような者となってゆくことです。言い方を変えて言うならば、「屠り場にひかれてゆく羊」のように、神によって自分に与えられた苦難の十字架を黙って担ってゆくあり方なのです。徹底的に神の御心に対して「御意(然り/イエス)」と言って、それに服従して生きる生き方なのです。そこにこそ本当の生きる喜び、本当の慰めがある。

弟子たちは「だれが一番偉いか」と道々議論していました。イエスは自分に与えられるしんどい道をしっかりと歩み出そうとしておられます。極めて対照的な姿です。「だれが いちばん えらいか」。「えらい」という語の意味が少し変わりますが(「一番ステイタスが高い」という意味ではなく「一番重荷を背負う」という意味です)、それはしんどさにおいて「一番えらい」のはイエスです。この時点に至ってもイエスの思いと決意は誰からも理解されませんでした。

イエスは弟子たちに言われました。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」。天からこの地上に降られたみ子なる神イエス・キリストは私たちに、逆説的な言い方ですが、「下に昇る生き方」「上に降る生き方」を示されたと申し上げることもできましょう。大いなるお方(神)の御心に服従し、神にすべてを委ねて生きること、人々に仕えるために自分を差し出して生きることの中には、私たちが様々な生活の領域の中で「ボランティア精神」をもって生きる時と同じですが、そこには大きな喜びがあり、充実感があります。そこには神の豊かな祝福がある。それは一番損をしているように見えて、実は一番得をする生き方なのです。生と死を超えた神による喜びの生がそこには準備されているのです。

 

「天は、人の上に人を造らず、人の下に人を造らず、と云えり。」

福沢諭吉の『学問のすすめ』の冒頭の言葉をも想起します。「天は、人の上に人を造らず、人の下に人を造らず、と云えり」。これは西洋を視察した諭吉が、キリスト教から深い影響を受けてきた西洋の文化と社会、その価値観を一言で言い表そうとした的確な言葉であり、含蓄のある言葉であると思います。私たちには「天」を見上げたときに初めて見えてくる「神の前での平等」という真実があるのです。「だれが一番偉いか、一番優れているか」という力を競い合う生き方ではなく、神の前にコツコツと自分に与えられた使命を果たしながら誠実に生きる。そのような生き方が求められています。そしてそのような神に対する服従の生き方を貫かれたお方が主イエス・キリストでした。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」という自らの言葉の通り、キリストは生きられたのです。そのことを覚えて、私たちもまた「イミタティオ・クリスティ(Imitatio Christi)」、キリストにならいて、謙遜と柔和、寛容と忍耐とをもって新しい一週間を踏み出してまいりましょう。

本日の第二日課であるヤコブの手紙からの言葉を引用して終わりましょう。あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。しかし、あなたがたは、内心ねたみ深く利己的であるなら、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません。そのような知恵は、上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあるからです。 上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです」(3:13-18)。「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます4:8)。そしてヤコブ4:10にはこのような言葉があります。主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます」。

お一人おひとりの上に天よりの祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。 アーメン。

2018年9月22日 (土)

2018年9月16日(日) 聖霊降臨後第17主日礼拝 説教「サタン、引き下がれ!」

2018916日(日) 聖霊降臨後第17主日礼拝 説教「サタン、引き下がれ!」 大柴 譲治

○ イザヤ書 50: 4〜9a

主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え、疲れた人を励ますように、言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし、弟子として聞き従うようにしてくださる。4節)

○ マルコによる福音書 8:27〜38

しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。33イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」(32-33)

 

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

 

「あなたは、メシアです。」

 本日の福音書の日課では、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」というイエスの問いに対して、弟子たちが答えています。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます」。続けて「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」イエスに問われるかたちで、ペトロが使徒たちを代表して、「あなたは、メシアです」正しくキリスト信仰を告白する場面が描かれています。見事なやり取りです。イエスは神が定めた「時」が来るまでそのことが明らかになることを望まれませんでした。するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた」のです(30節)。

 

「サタン、引き下がれ!」

しかしそれだけで事柄は終わりません。問題はその次です。「あなたこそキリスト(メシア)です」(口語訳聖書)と告白したペトロたちは、各自が自分の中に「確固としたメシア像」を持っていて、そのイメージをイエスに投影していました。イエスには「苦難を受けて無残にも殺されてゆくような無力なメシア像」ではなくて、「ダビデ王のように力ある英雄的なメシア像」を期待していたのです。他の皆もペトロと同じだったでしょう。彼らは皆、等しくイエスのメシアの受難予告に躓いてしまうのです。それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった31-32節)。イエスは何一つ隠そうとはせず、明確に公然として、自らの受難と死と復活とを公言し始めたのです。弟子たちはその意味が分からずに大いに驚いたことでしょう。ここでもペトロが弟子を代表して行動します。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた」38節)。「イエスをわきにお連れして」とは、公然と話すイエスに対して秘かにペトロは語ろうとしたということです。「イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。『サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている』」39節)。イエスはイエスをいさめ始めたペトロを公衆の面前で叱りつけます。しかし同時にそこには「弟子たちを見ながら」という一言が付加されています。イエスはその言葉を弟子たち皆に伝えているのです。そこには例外はありません。サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っているというイエスの叱責は、私たちすべての信仰者に告げられている言葉です。私たち信仰者が陥りやすい罠がそこにはあるのでしょう。「神のことを思わず、人間のことを思う」というのは神が求める信仰ではありません。「わたし以外の何ものをも神としてはならない」とモーセの第一戒が命じているように、「ただまことの神を神とする信仰、神以外のものを神としない信仰」、それが私たちには求められているのです。そのことが明らかになるためにはイエスは容赦しません。信仰を告白する中でもサタンが働くことがあって、イエスは私たちの中におけるそのようなサタンの働きを徹底的に打ち砕かれるのです。これも本当の意味で私たち生かすための神の恩寵と言うべきでありましょう。私が神学生の時に「恩寵無限奨学金」という名前の奨学金がありました。私たちに注がれている神の恩寵は確かに私たちの思いを遙かに超えて無限なのです。

 

「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」

「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」。それは神から私たちの思いを引き離そうとする「悪魔(サタン)のしわざ」だとイエスは言います。しかもそのことが、正しいキリスト告白、信仰告白がなされた直後に起こっている点に私たちは注目したいと思います。神の思いは人智ではとうてい計り知ることができないほど深く、広く、高く、神秘に満ちているのです。メシアは多くの苦難を受け、ユダヤ教の指導者階級(「長老、祭司長、律法学者たち」)によって排斥され殺され、三日目に復活する。これがイエスの語った預言です。「メシアにそのようなことがあってはなりません。そのようなことがあるはずがありません。そのようなことを神がお許しになるはずがない」と愚直にもペトロはイエスをいさめたのだと想像します。もっともなことです。しかし、ペトロの考えはイエスによって打ち砕かれる必要がありました。私たちも皆同じです。ただまことの神を神とする、神以外のものを神としない。絶対者はただお一人で、それ以外のものを絶対化してはならない。そのためにも、私たちは自分の中で思い込んでいることを相対化してゆく必要があるのです。私たちには、各自が自分の宗教的なイメージを信仰の中に持ち込んで、神の事を思わずに人間のことを思うというようなところがある。自己のイメージの実現を求めるようなところがあります。しかもそのことを無自覚的に、意識せずに行ってしまうようなところがあるのです。根深く闇が存在している。それをイエスはストレートに明らかにします。「サタンよ、退け!」というイエスの言葉は、私たちを心底からハッとさせ、私たちが何をどのように信じているか、覚醒させてくれます。「神のこと」即ち「神のご計画やその御心の実現」を思わずに、「人のこと」即ち「人間的な期待や欲求、人間的な計画の実現」を思っているというのです。イエスはペトロを叱責していますが、弟子たちの一人ひとりを見ながらそのように語っていました。そこでは弟子たち全員が同じことを告げられているのです。「サタン、引きさがれ!」と。この言葉は私たちの心に、魂に深く響きます。これは、私たちに悔い改めを迫る言葉です。いつの間にか知らないうちに神から離れてしまっている私たちをもう一度神へと引き戻すイエスの恵みの言葉です。そのことを覚え、ご一緒に深く味わってまいりたいと思います。

本日の旧約の日課であるイザヤ504の言葉で終わります。「主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え、疲れた人を励ますように、言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし、弟子として聞き従うようにしてくださる。」 皆さまの新しい一週間の歩みの上に、神からの恵みと守りと導きとが豊かにありますように。 アーメン。

 

おわりの祝福

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

2018年9月9日(日)聖霊降臨後第16主日礼拝説教「しぶとく しなやかな信仰」

201899日(日)聖霊降臨後第16主日礼拝説教「しぶとく しなやかな信仰」大柴 譲治

マルコによる福音書 7:24〜37

イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」27-28節)

 

しぶとく しなやかな信仰

 本日の福音書の日課には、病気の娘を抱える一人のギリシャ人(異邦人)の母親が登場します。女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ26節)。何の病気かは分かりませんが、「汚れた霊(「悪霊」とも呼ばれています)に取りつかれた」と言われるほどですからその子は七転八倒の苦しみを味わっていたに違いありません。私たちはこの「悪霊」「人間を非人間化する悪の力」として受け止めたいと思います。母は強しです。彼女はわが娘のために必死でイエスの憐れみに拠り頼もうとするのです。それも徹底的に。「キリエ・エレイソン」。イエスとのやり取りの中で、彼女は徹底的にイエスを主とし、自らを従としています。しぶとく、しなやかな信仰の姿を私たちはそこに認めることができるでしょう。

 イエスと女のやり取りはこうです。逐語会話記録風に書くと以下のようになりましょう。

イエス:①「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」

女  :②主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」

イエス:③「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」。

 ①でイエスはその女性の願いをやんわりとではあるけれども拒絶しています。イエスはイスラエルの民のところにまず自分は神から遣わされているということを強く自覚していたのでありましょう。だから、「まず、子供たち(ユダヤ人)に十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬(異邦人/非ユダヤ人)にやってはいけない。」と答えておられるのです。しかし彼女は諦めません。イエスが異邦人のことを「子犬」と位置づけたことを見逃しませんでした。「子犬」も家の中にいるのです。そして機転を利かせながら、イエスの言葉に即して応答しています。②主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきますと。なかなか見事な受け答えです。全体が見えていなければ出てこない言葉です。ともすれば私たちは悩んだり苦しんだりする中で視野が狭くなり、自分のことしか見えなくなってしまうことが少なくありません。しかし彼女は違っていました。イエスとのやり取りの中で、彼女は徹底的にイエスを主とし、自らを従としています。前述のように、私たちはそこに、しぶとくしなやかな真実な信仰の姿を認めることができるでしょう。

同時に私は思います。②の答えは彼女の学の高さを物語っています。彼女はギリシャ人でしたが、イエスはユダヤ人でした。言語の違いをどのように乗り超えたのでしょうか。イエスの話しておられたアラム語をギリシャ人である彼女は自らも話すことができたのでしょうか。あるいは通訳を伴い、通訳を介してコミュニケーションを図ったのでしょうか。いずれにせよ、このウィットに富んだ的確な答えは彼女がただ者ではなかったことを表していると思われます。彼女の信仰が山をも動かしたのです。イエスは最後には根負けしたようなかたちで彼女に告げています。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」と。イエスは苦笑いをしていたのでしょうか。そうではないと私は思います。彼女はイエスが必ず願いを叶えて下さることを信じて疑わなかったのです。そのことをイエスさまは最初から知っていたに違いありません。だからこそ、彼女の粘り強い信仰を皆の前で公に明らかにするためにこのようなやり取りをしているのです。彼女はイエスのまなざしの中に、彼女を信頼し、彼女たち母子の苦しみや悲しみのすべてをご自身の中心(はらわた)で受け止め、はらわたがよじれるような深い憐れみ(断腸の思い)をもって、イエスが深く自分たちに関わって下さることを知ることができたのだったと思います。彼女のしぶとくしなやかな信仰はイエスの深い憐れみが彼女を捉えて放さなかったがゆえに明らかになったのです。

 

岡愛子姉の召天にあたって

 この「しぶとく しなやかな信仰」ということで思い起こす一人の女性がいます。先週の火曜日(94日)の早朝、るうてるホームに入居しておられた大阪教会員のO・愛子姉が、急性心筋梗塞のために82歳のご生涯を終えて天に帰られました。その直前までお元気な姿を見せて下さっていたので私たちは驚かされました。私たちはその10日前の824日に59歳のI・靖兄を天に見送ったばかりでしたので、驚きに驚きを重ねるかたちになりました。ご遺族の上に慰めをお祈りいたします。

 O・愛子さんはいつも大変にエネルギッシュで、好奇心と向上心、そして行動力に富み、マイクをもったら溢れる言葉が内からほとばしり出てなかなか離さないほどでした。讃美歌も腹式呼吸でいつも大きなお声で歌っておられました。ハーモニカもとてもお上手でした。先日の822日にこの場所で行われたるうてる法人会連合の際にも、潮谷義子先生の基調講演を聴きに来られていたばかりでした。6歳の頃に脊髄性小児麻痺になり、下半身麻痺という障がいを背負って、その82年間のご生涯を最後まで全力投球、完全燃焼で歩まれたのです。自分は障がい者であることを神さまに与えられた御自分のアイデンティティーとしてしっかりと受け止め、それを精一杯担ってゆかれたのでした。若い頃には自ら車を運転して、最近では電動車イスを操作して、愛子さんはとても行動半径の広い方でもありました。神戸でクリスチャンのご両親の下にお生まれになられましたが、疎開先の三原で高校時代に洗礼を受けられます(ルーテル三原教会、17歳)。そして神戸のルーテル聖書学院で一年学ばれたあと、三原教会で伝道師として働きながら広島大学の三原分校で二年間聴講します。そして1959年(23歳)に、当時鷺ノ宮にあった日本ルーテル神学校で4年間学ばれます。神学校のルター寮で唯一の女子学生だったそうです。私の前任地でもあった武蔵野教会に四年間通った後に、ルーテルアワーの仕事を二年関して、広島に戻って重度の障害福祉施設「広島ひかり園」に就職。障がいを持つ方と出会い結婚し、20年間連れ添います。そして4年前の2014923日に、長年住み慣れた広島から大阪・四條畷のるうてるホームに移ってこられたのでした。その波瀾万丈、疾風怒濤のご生涯は主イエス・キリストのみあとに従う、そのような信仰の人生でした。私が最近書いた「主の山に備えあり」「わが恵み、汝に足れり」という文章に愛子さんは深い共感を寄せ、大きく頷かれたご生涯だったのです。自らケアを受けるだけではありません。O・愛子さんは自らも、信徒伝道者、信徒牧会者のように多くの人々を毎日のように積極的に訪問して讃美歌を歌い、祈りを共にする、そのような日々を貫かれた信仰者でした。天上はさぞかし賑やかになったことでしょうが、この地上はたいへんに寂しくなりました。再び相見えるその日まで、私たちもまたみ国を仰ぎながら歩みたいと思います。

 岡さんの姿を見ていると、それは私の中では本日の福音書に出てくる「しぶとく しなやかな信仰」を持ったツロ・フェニキアの母親の姿と重なります。神の救いのご計画を知った上で、①「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」というイエスの言葉に母は答えるのです。②「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます」。③「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」。このやりとりの中から私の耳には、「見上げた信仰だ。あなたの信仰があなたを救った」というイエスの賞賛の言葉が聞こえてくるように思われます。彼女を捉えて放さなかったイエスの温かな憐れみのまなざしを私たちも心に刻みたいと思います。七転び八起き。神の信仰はどのような中にあっても私たちに神の憐れみを信じて生きる、そのようなしぶとくしなやかな生き方を与えてくれるのです。そして私たちもまたそのような信仰の生涯に与りたいと思います。その時に私たちの耳にはイエスの確かな声が響いてくるはずです。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けようというイエスの声が(ヨハネ黙示録2:10)。

2018年9月2日(日) 聖霊降臨後第15主日礼拝説教「敵は本能寺にあり」

201892日(日) 聖霊降臨後第15主日礼拝説教「敵は本能寺にあり」 大柴 譲治

マルコによる福音書 7:1〜8,14〜15,21〜23

それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」(14-15節)

「中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」(21-23節)

 

「人から出てくるものこそ、人を汚す。」(20節)

 私たちは今日、上記のようなイエスの厳しい言葉を聞いています。イエスはこう告げることで私たちに自分の内面を深く見つめるように強く促しています。何を食べるか、食べる前にキチンと手を洗ったかどうか、どのような準備をして食べているか、昔から言い伝えられてきた律法に厳格にこだわって従っていたユダヤ人たちがいます。ですから彼らは食前に手を洗おうとしないイエスの弟子たちに批判的な目を向けるのです。それに対してイエスはこう言われます。イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。』あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている6-8節)。神から与えられた律法は本来は人間を生かすために与えられていたはずだ。それなのにあなたがたは本末転倒し、人間の言い伝え、自分の理解だけにこだわっていて、本当に神が律法を通して教えようとしたこと、見るべきことを見ていない。敵は本能寺にある。あなたがたの真の敵は、あなたがたのただ中にいるのだ。外からではなくて、中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである(マルコ7:21-23)。

 「汝自身を知れ」とソクラテスは言いました。私たちは自分自身の限界を、「無知の知」を知る必要があると。主イエスは別の所ではこのような言い方をしています。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる(マタイ7:3-5)。自分の眼の中にある「梁」を見ずに、他人の眼にある「塵」だけを問題にしている。そのような人間の姿をイエスは問題とします。私はある時に開き直ってこの言葉を、ダビデが預言者ナタンに言われて初めて自分の罪に気づいたように(2サムエル12:7)、「自分では自分の眼の中にあるものは見えない。だからこれは『あなたの目には梁/丸太があるよ』と言ってくれる人との交わりへの招きではないか」と思うようになりました。目からウロコですね。

 

突然のI・靖兄の召天に接して

 私たち大阪教会は10日前から深い嘆きと悲しみの中に置かれています。40年に渡ってこの教会を、その中心から支えてきて下さったI・靖兄が、828日(金)の早朝にご自宅で心筋梗塞のために59歳の若さで突然天に召されたからです。奥さまをはじめ、ご家族、ご親族の悲しみの深さを思うとき、私たちは慰めの言葉をなくします。生きるということはいかに辛く悲しいことでありましょうか。靖さんは長年この教会の役員(代議員や書記)として、また壮年会の中心メンバーとして、教会を支えてきて下さいました。宣教百年記念誌を発行するための責任も担ってくださっていました。見えないところで大黒柱としてこの教会を支えてきて下さったのです。靖さんなしに私たちの教会はどのようにこれから歩んでゆけばよいのでしょうか。なぜ神はこのような苦しみをお許しになり、神の御心は一体どこにあるのでしょうか。それほど大きなショックと深いロス(喪失感)とを私たちは感じています。無くしてみて初めてその有り難さが分かるのです。生きると言うことは当たり前の事ではない、文字通り「有り難い」神秘と恵みに満ちた出来事なのだということを私たちは靖さんの59年間の生涯と死とを通して今ここで教えられているのでしょう。

 先週の月曜日と火曜日に前夜式と告別式がこの場所で執り行われました。告別式の説教の中で滝田博之先生が一つのエピソードをシェアして下さいました。「靖さんは普段は寡黙で、必要な事以外はほとんど何も語らなかった方でした。その靖さんが木曜の聖書研究の中で、復活についてこのように自分は理解しているとある時に語られたことが印象に残っています」と滝田先生はそのエピソードを語って下さいました。靖さんはこう語られたそうです。「自分がある人を、意識的にせよ無意識的にせよ(意図的にせよ意図的でないにせよ)、井戸の中に突き落とすかたちになって、その人が死んでしまったとする。その人がもう一度復活して自分の前に現れたときに、その人は私の罪を裁こうとするのではなく、赦そうとしてくれる。自分は復活をそのように理解している」と。その話はとても印象的なエピソードでした。靖さん自身が「信仰」というものを、「イエスの復活」という事柄をどう捉えていたかを明らかにしています。これは深く意識するとしないとに関わらず人を傷つけてしまう自らの罪の深みで苦しんだ者だけが到達することができる地平であると私は思います。私たちの敵は私たちの中に深く巣くっている「罪」であり「悪」なのです。「敵は本能寺にあり」です。この罪を贖い、私たちの罪を赦すためにイエスはあの十字架に架かってくださった。そして復活してくださったのです。

 靖さんは愛唱聖句としてヘブライ人への手紙11611:13-16を挙げておられました。そこにはこうあります。信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。・・・13 この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです14このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。15 もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。16ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです」。ここを愛唱聖句として繰り返し挙げておられた靖さんは、死を意識し、自分もやがて必ず、神が備えてくださる「天の故郷」に入ってゆくのだという終末的な信仰を持っていたと思われます。喪主をされた息子さんによると、「父は自分は60歳で死ぬ」ということを繰り返し語っておられたということでした。靖さんは自分のお父さまが、今からちょうど30年前に61歳で亡くなられたということを意識しておられたのかもしれません。この地上でのいのちが有限であるということを意識しておられたのです。靖さんは1979年のクリスマス、20歳の時にこの教会で石橋幸男牧師の下で洗礼を受けられました。死すべき生命を持った自分が天の故郷へと向かう旅の途上にあるのだということ、罪の赦しと明確に結びついた復活理解を持ちながら、靖さんは復活のキリストを信じる信仰を告白し、洗礼を受けられたのでした。自分の中にある罪をキリストによってその根底から拭い清められる喜びと平安を靖さんは、以降39年間に渡って洗礼と聖餐というサクラメントを通して味わい続けてこられたのだと思います

 「私たちの敵」、「私たちの罪」は外から入るのではなく、私たち自身の心の中にあって、そこから出て来て私たちを汚すのです。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである」。この絶望的な「罪と悪」からの解放の道、救いの道をキリストは、この罪の深淵に降り立ちそれらを十字架まで背負うことを通して私たちに示して下さった。そして復活してくださったのです。ここにこそ希望の道、いのちの再生の道があります。その真実を、復活のキリストに捉えられた一人の信仰者の寡黙で忠実な59年間の生涯は私たちに伝えています。そのことを覚えつつ、本日もご一緒に聖餐式に与ってまいりたいと思います。お一人おひとりの上に天来の慰めと守りとが豊かにありますようお祈りいたします。

(大柴註*:「敵は本能寺にあり」という言葉は、天正10年(1582)、織田信長の家来であった明智光秀が、西の備中(岡山)の毛利勢を攻めると見せかけて出陣し、東の京都・本能寺にいた主君・織田信長を裏切って襲ったことから、本来は「本当の目的・目標は別にある」ということを意味する語です。しかしそれを私自身は「敵は思わぬ所(内部/身内)にある」という意味で受け止めています。)

2018年8月19日(日) 聖霊降臨後第13主日礼拝 説教「このパンを食べる者は永遠に生きる」

2018819日(日) 聖霊降臨後第13主日礼拝 説教「このパンを食べる者は永遠に生きる」大柴 譲治

ヨハネによる福音書 6:51〜58

「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」(51節)「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。」(54-55節)

 

いのちのパンをいただく 〜 歴史を超えて

 729日から四週間に渡って私たちは、この主日礼拝でヨハネ6章から「いのちのパン」についてのみ言葉の解き明かしを聴いてまいりました。729日はこの教会の前牧師であった滝田浩之先生を通して、812日は高校時代にこの教会で内海季秋牧師から洗礼を受け、高校の教師として生涯を送った後に神学校に学んで牧師となられた乾和雄先生を通して、それぞれ語り口の違う味わい深い説教を聴いてきたと思います。神さまはこの大阪教会を通して私たちに「歴史を超えた複数共同牧会」というドラマを味わわせて下さっているのです。先週私は休暇をいただきましたので、今日は久しぶりにリフレッシュしたかたちで自分のホームグラウンドに戻ってきたように感じています。

さて、主イエスははっきりとこう告げておられます。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きると。しかも51節と58節の二度もそう告げておられるのです。私たちは毎週聖餐式に与り、いのちのパンであるキリストのからだをいただいています。主は続けて言われます。はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる」53-57節)。本日は「永遠に生きる」という言葉の、特に「永遠」という語に集中しながら、それが何を意味しているのか覚えながらみ言葉に聴いてまいりたいと思います。私の理解するところでは、「永遠に生きる」とは「永遠に生き続ける」というように時間の長さや永続性を意味する表現ではありません。そうではなくて、質的に「今ここで、私たちが永遠なるお方(=神)とつながって生きる」、「永遠の今を生きる」という意味であり、「神の永遠の祝福の中にあって、今ここを生きる」という意味です。神はアブラハムを選び立ててこう言われました。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように(創世記12:2)。アブラハムを通してすべての民が神の祝福に与ることができるように神は彼を「祝福の基」としたのです。

 

「日ごとの糧」を通して私たちに与えられてきた「いのち」 〜 ある個人史から

 私たちは主の祈りの中で「日ごとの糧を今日もお与え下さい」と祈ります。確かに「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)とイエスは言われていますが、私たちが生きるためにはどうしても水と食べ物(食料)が必要です。それがなければ生きることはできません。これまで私たちが生きてくることができたのは、ある意味では当たり前のことであって当たり前の事ではないのですが、私たちを育ててくれた両親や家族、その他様々な人間関係の中で私たちが守られ支えられてきたからです。私たちのために汗水流して働いて食料を得て私たちを生かしてくれた家族がいたからこそ、今私たちは生きることが許されているのです。その食べ物のお蔭で、それらのいのちをいただいて私たちは生きることができた。それは人の思いを越えて、神が私たちにいのちの水とパンとを与えてくださったということでもありました。

今回私たち夫婦は、秋田県の奥深い山の中にある阿仁合という古い鉱山の町を訪ねました。阿仁という地域には六つの鉱山があり、既に14世紀頃からそこでは金や銀などが発見されたようです。江戸時代から明治にかけてその地は日本有数の銀と銅の産地でもありました。その地は昨秋に亡くなった私の母の両親、私の祖父母が生まれ育った町で、私の祖父は鉱山技術者でした。戦争中は朝鮮など大陸に渡って仕事もしたようです。その意味で私にとってこの旅は、私の叔母が作った六世代にも亘る家系図を持参してのルーツを辿る旅でした。1978年に既に鉱山は閉山していましたが、阿仁合に今も残る郷土文化保存伝承館にはその華やかな歴史が刻まれていました。またそこには、明治時代にドイツからめいた鉱山技術者の住居が「異人館」として残っていたのも印象的でした。普段私たちは意識しないのですが、特に8月のお盆の頃に私たちは盆踊りや様々なお祭り、花火大会などを通して、先祖たちのことを思い起こす機会が与えられます。ご先祖さまがいたからこそ今ここに私が存在しているのだということを強く実感する旅でした。まことに有り難いことと思います。時代が良い時にも悪い時にも、必死になって生きてきたご先祖さまたちがいたからこそ、私たちの今がありこれからがあるのです。今回の旅は10月に出産予定の長女も一緒でしたので、世代を超えていのちが受け継がれてゆくことを目に見えるかたちでも感じ続けた旅でもありました。出会いというものは実に不思議ですね。皆さんお一人おひとりの背後にも今につながるそのような不思議な歴史があるのです。聖書はこの出会いの背後には天の配剤が、神の恵みによる救いのご計画があるということを教えています。

 

「幾千代にも及ぶ神の慈しみ」の約束

 そのような連綿と続く生命を受け継いでゆくという祝福の連鎖の中にあって、今日私たちは主イエスの言葉を聴いています。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きるのだと。そのように考えて来ますと、この天から与えられた永遠の生命につながってゆく「いのちのパン」であるキリストの生命をいただく地点に私たちが辿り着くことができたのは、多くの私たちにつながる先人たちのお蔭があるのだということに気づかされます。私たちは一人ではないのです。神の御計画の中で私たちは今ここに召し出されています。前述のように「永遠」とは「時間/空間」を超えた神さまの世界のことを意味しています。今ここに生きている私たちだけのことではなく、私たちの先祖たちも含めて神さまの祝福のうちに置かれているのです。私は洗礼を受けるということは「先祖や子孫も含めて前後左右に七世代が祝福される」と長く考えて来ました。しかし実は「七世代」どころではない。ルターの小教理にも出て来ますが、出エジプト記20章には次のようにあります。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神(口語訳聖書では「ねたむ神」と訳されていました)である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える(出エジプト20:5-6)。神は何千代にも及ぶ慈しみ(祝福)を与えると言われているのです。主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない(哀歌3:22)とある通り、神の恵みと慈しみは決して絶えることはないのです。また聖書にはこのような言葉もあります。主の慈しみとまことはとこしえに、わたしたちを超えて力強い。ハレルヤ(詩編117:2)、主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い(詩編116:15)。生命のパンであるキリストをいただくとは具体的には聖餐式のことを意味しています。この恵みの食卓を通して幾千代にも及ぶ、恵みが私たちを通して満ち溢れるのです。子々孫々が祝福されるだけではなく、先祖を含めてキリストによって祝福されるということです。そのようなダイナミックな、その独り子を賜るほどの深い神の愛にすべてを委ねてまいりたいと思います。

 パウロのローマ書8章の言葉をもって終わりにします。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。『わたしたちは、あなたのために、一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている』と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです(ローマ8:35-39)。永遠のいのちに至るパンをご一緒に味わいながら、共に新しい一週間を踏み出してまいりましょう。アーメン。

2018年8月18日 (土)

2018年8月5日  平和主日礼拝 説教「平和の実現のために」

201885日  平和主日礼拝 説教「平和の実現のために」          大柴 譲治

エフェソの信徒への手紙 4: 1〜16

そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。(1-3節)

 

平和主日にあたって〜パブロ・カザルスの『鳥の歌』

 毎年8月の最初の日曜日に私たちは、世界に神の平和が実現するために共に祈りを合わせる日として「平和の主日」礼拝を守っています。今年の平和主日にあたって私が最初に思い起こすのはスペインのカタロニア地方の出身のパブロ・カザルス(1876-1973)というチェリストのことです。後には指揮者としても活動した人ですが、チェリストとしてのカザルスは、チェロという楽器の近代的な奏法を確立し、深い精神性を感じさせる演奏において「20世紀最大のチェリスト」とも呼ばれています。それまでは練習曲と見なされていたヨハン・セバスチャン・バッハの無伴奏チェロ組曲の価値を再発見し、広く世界に紹介したことが大きな功績の一つに挙げられます。同時にカザルスは平和活動家としても有名で、スペイン内戦の時にも独裁政権に対する批判からフランスに亡命し、反ファシズムの立場を一貫して貫き、音楽を通して世界平和のために活動し続けたたことでも広く知られています。

19711024日(国連の日)、94歳の時にニューヨークの国連本部に招かれて演奏会を開き、国連平和賞が授与されています。国連でカザルスは、自分が第二次大戦が終結した1945年から弾き始めて繰り返し愛奏してきた故郷カタロニアの民謡『鳥の歌』を弾きます。「私の故郷カタロニアの鳥はピース、ピース(英語で平和)と鳴くのです。」と語ったその演奏は伝説的な名演になっています。その時の演奏は現在ではYouTubeなどインターネットを通して観ることができます。

平和の主日に当たって私が今年最初に思い起こしたのはパブロ・カザルスのこの『鳥の歌』のことでした。「ピース、ピース」という鳥たちの祈りの声は、平和の時には麗しく響きますが、争いや対立、戦争の時にはとても哀しく響く声であると思います。私たちは平和のために可能な限り祈りと力とを合わせてゆかなければならないのです。

 

世界の争いの現実の中で

世界の情勢を見ると戦争や暴動や暴力やテロや殺人のニュースが毎日のように報道されています。突然愛する家族を奪われてしまう者たちの嘆き悲しみのことを思う時、私たちは胸が潰されるような思いになります。どこにも平和がないように見える過酷な現実が私たちの周囲を取り囲んでいます。

昨日私は初めて比叡山で開かれる「第31回宗教サミット〜世界平和祈りの集い」に参加してきました。JELC総会議長として招待状が届きましたので、比叡山は一度伺いたいと思っていた場所でもありましたので、大阪教会員5人と共に参加をしてきました。開闢1200年となる天台宗の総本山・比叡山延暦寺が始めた宗教サミットです。それはその前年の198610月にカトリックのローマ教皇ヨハネ・パウロII世の呼びかけによってイタリアの聖地アッシジで開かれた世界宗教的指導者たちを招いて平和への祈りを捧げたことに端を発しています。アッシジは「平和の祈り」で有名なアッシジのフランチェスコ(1182-1226)を生み出した地です。それに呼応する形で比叡山宗教サミットが翌年始められたのです。昨年は30周年で二日かけた記念会だったようですが、今年は31回ということで一時間と15分の祈りの会でした。参加者はイスだけでも700席ほどあったでしょうか。関係者や立ったままの方々も少なからずおられましたのでその倍ほどはおられたでしょうか。仏教関係者(僧侶)がほとんどでしたが、キリスト教関係者も20人ほどはいたと思われます。200人の中高生たちが平和のことを祈願しながら折った鶴を捧げることから始まって、開会の辞があり、般若心経を唱えた後に、天台座主より平和祈願文が読み上げられました。続いて平和の鐘を聞きながら全員で平和のために黙祷を捧げ、子どもたちからの「平和」への思いということで二人の中高生の代表が発題し、それに宗教者を代表して一人の僧侶が応答しました。続いて、比叡山メッセージが朗読され、子どもたちのリードよる『平和の合言葉』の唱和がありました。それは「一、世界の人々と仲よく暮らそう。一、尊い生命を大切にしよう。一、自然の恵みに感謝しよう。」という具体的な合言葉でした。閉会の辞によって締めくくられましたが、天台宗が本腰を入れて開かれた姿勢をもってこのようなサミットを主催してこられたことに頭が下がりました。その背後にあるカトリック教会と立正佼成会の平和のための諸宗教の枠を超えて連帯を求める働きも見逃すことができないと感じました。私は東京の教会にいた時に杉並区宗教者懇話会という年に二〜三度集まる会があって仏教や神社神道やキリスト教のみならず、立正佼成会や天理教など多くの宗教の交わりの会であり、平和のための連帯を目的とした会でした。

「宗教戦争ほど残虐で悲惨な戦いはない」とも言われます。世界の平和と人々の幸福と安寧(Peace, Well-being)を求めるのが宗教であるはずなのに、宗教が政治的な対立や紛争のために利用されてきたという面もありましょう。しかしもし一つの信仰を持つことが、「自分の宗教だけが正しい」と自己を絶対化することにつながるだけで、「他の宗教の中にもよいものがある」というように開かれた対話的(ダイアローグ的)姿勢の中に自らを相対化できなくなるとすれば、その宗教は自らを縛り、「自分の限界を超えた大いなるもの(something great)」を提示することはできなくなってゆくことでしょう。また、そのようなモノローグ的な宗教は「独善的なもの」として人々からの信頼を失ってしまうことは必定でありましょう。

 パウロは本日のエフェソ書の中で次のように言っています。そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、 一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい」。この「囚人」という言葉からも分かるように、パウロは獄に捕らわれており、エフェソ書はパウロの四つの獄中書簡の一つとされています(フィリピ、コロサイ、フィレモン)。神の招きにふさわしく歩きなさいと進めているのです。具体的には、①一切高ぶることなく(謙遜で)、②柔和で、③寛容で、④愛をもって相互に忍耐し、⑤平和のきずなで結ばれ、⑥霊による一致を保つよう努力しなさい、と勧められています。キリストがそのように生きられたからこそ、キリストに結びつけられている者はそのように歩むことができるというのです。ここでは「主に結ばれて囚人になっているわたし(パウロ)」という言葉が大切です。「神の招きを受けたのだから、その招きにふさわしく生きなさい」とパウロが呼びかける時、そこではキリストの具体的な生き方が思い描かれています。キリスト者とは「主キリストに結ばれた奴隷であり囚人」なのです。しかしそれは不自由な悲しみや苦しみの中に束縛された囚人ではありません。キリストに結ばれていれば、それは愛と自由の中に解放された喜びの囚人なのです。

 

平和の実現のために

 平和の実現のために私たちに何ができるか。様々なレベルがありましょうが、まずは身近な隣人との関係の中で具体的に、謙遜と柔和と寛容の心をもって接し、愛をもって相互に忍耐し、平和のきずなで結ばれ、霊による一致を保つように努力したいと思います。小教理問答で私は「信仰(ピスティス)とは「神と私との関係」を表す関係概念であると語ってきましたが、さらに言えばそれは、「平和のきずなで結ばれ、霊による一致を保つ」とあるように「隣人と私との関係」を表す概念でもあり、また同時に「自分と自分自身との関係」を表す概念でもあるのです。神と隣人と自己との和解のためにキリストは十字架に架かり、「敵意という隔ての中垣」を打ち砕いてくださいました。実に、キリストはわたしたちの平和であります」エフェソ2:14-16にある通りです。主の十字架によって与えられた和解、神と隣人と自分自身との和解は、どのような人生の嵐の中に置かれても揺らぐことはありません。私たちはこのような基盤を持っているのですからそこにしっかりと立ちながら、他者との対話をしてゆきたいのです。カザルスが「ピース、ピース」と鳴く故郷の鳥を思い出しながら平和のために生きたように、私たちもまた野の花、空の鳥を見上げながら、自分にできることを通して平和のために祈りと連帯の力を積み重ねてゆきたいと思います。

2018年7月24日 (火)

2018年7月22日(日) 聖霊降臨後第9主日礼拝説教「五つのパンと二匹の魚(一)」

2018722日(日) 聖霊降臨後第9主日礼拝説教「五つのパンと二匹の魚(一)」  大柴 譲治

    エレミヤ書 23: 1〜 6 4節)

「彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない」と主は言われる。

    マルコによる福音書 6:30〜34、53〜56 34節)

イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。

 

羊飼いイエスの深い憐れみ

 本日の旧約聖書の日課のエレミヤ書6章は主なる神の言葉をこう伝えています。「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」1節)。そして続けます。「あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった。わたしはあなたたちの悪い行いを罰する2節)。神はここで、神の民を正しく導かなかいでいる偽の悪い羊飼いを、民の指導者たちを糾弾しているのです。さらにエレミヤは主なる神の言葉をこう伝えています。このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもないと(3-4節)。神ご自身が「真の牧者(羊飼い)を立てる」と預言しておられます。「その羊の群れはもはや恐れることも、怯えることもなく、迷い出ることもない」のです。

本日与えられているマルコ福音書6章の日課には、旧約聖書エレミヤ書23章の預言の成就として、真の羊飼いであるイエス・キリストの姿が描かれています。特に34節に注目いたしましょう。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。イエスの周囲に押し寄せている大勢の群衆。彼らは様々なニーズを持ってイエスのもとに集まってきています。それが「飼い主のいない迷える羊」のように描かれています。イエスはその有様を深く憐れみ、羊飼いとして「牧会(羊の世話/パストラルケア)」をされてゆくのです。「深い憐れみ」とは聖書の中に出てくる大切なキーワードの一つです。これまで何度も申し上げてきましたが、この「深い憐れみ」とは日本語の「同情」とか「憐憫」とは違う次元の言葉です。それは「はらわた、内蔵」を意味する語から来ていて、日本語では「はらわたがよじれるような思い」「断腸の思い」という表現がありますがそれに近い言葉です。イエスは群衆の苦しみや悲しみ嘆きをご自身のはらわた(存在の中心)で受け止められ、それを断腸の思いをもって共に担われたということを意味しています。イエスは困窮の中に置かれた人々を放ってはおけなかったのです。そこに真の羊飼い、牧者としてのイエスの一人ひとりに対する熱い思いがあります。イエスは神の深い憐れみを体現していました。

毎日報道される西日本豪雨による災害の大きさは私たちの心を痛めますが、しかしそれらの人々のところに「その状況を放っておくことはできない」としてボランティアが大勢集まっていることも報道されています。2011年の東日本大震災の時もそうでしたし、二年前の熊本地震の際にもそうでした。遡って1995年の阪神淡路大震災の時にもそうでした。1995年は「ボランティア元年」とも呼ばれています。1995年以降、世界と同じように、ボランティアが実に献身的で継続的な働きをしているのです。このようなボランティア精神が日本に根付いたというところには隣人愛を説くキリスト教の大きな貢献があったと私は思います。先日のサッカーのワールドカップでも、日本の応援団は試合が終わったあとにゴミ掃除をして世界中に大きな感銘を残しました。選手たちもまた自分たちが使ったロッカーをキレイに清掃して「スパシーボ(ロシア語でありがとう)」と記して帰ってきたことが話題になりました。本来日本人が持っている礼儀正しさ、節度や几帳面さ、きめの細かさやきれい好きな倫理性といった価値観が、ボランティア精神と相俟ってそのような自然なかたちで賞賛を集めているのでしょう。黙々と働き、自分のできることをして黙ってその場を去って行くボランティアの姿に私たちは励まされます。今回の豪雨でも西中国の先生方を中心にボランティアの募集がなされています。連帯献金と共に私たちにできることをなしてゆきたいと思います。

 もう一つの特性として日本人には向かい合う相手に対して失礼の無いように配慮する心が強く働きます。自分よりも相手を中心に据えてケアするという態度です。相手の苦しみや悲しみを自分のことのように感じて、それに対して自分ができることをしてゆこうとする心です。そのような心性がボランティア精神と結びついて黙々と奉仕に励む人が後を絶たないのでしょう。すべての人がそうであるということは言えないでしょうが、他者のために仕えてゆくことの深い喜びを多くの日本人は体験的に知っているのかもしれません。逆に言えば、人の気持ちを大切に受け止めることを知るがゆえにこそ、羊飼いキリストの、はらわたがよじれるほど深く強く羊たちを大切に思う姿は私たちの心にも深く響いてくるのです。

 

「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」(詩編23編)

実は毎週の主日礼拝には主題詩編が一つ選ばれています。本日はあの有名な詩編23編が主題詩編として選ばれています。この詩編を愛唱聖句としておられる方も少なくないことでしょう。実に味わい深い信頼と感謝の詩編です。

【賛歌。ダビデの詩。】 主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。 2主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い3魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。4死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。5わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ、わたしの杯を溢れさせてくださる。6命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう。

 主は私の羊飼いであって、私には何一つ不足したところがないというのです。何という信頼、何という慰めでありましょうか。主の慈しみと憐れみは天より高く、海よりもなおも深く、尽きることがないのです。マルコ6:53からはこう記されていました。こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いて舟をつないだ。一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って、その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた。村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされたと(53-56節)。イエスの憐れみに触れることができた者は皆、癒され、病気や痛みから解放されたのでした。イエスの深い憐れみが大きな奇蹟をもたらしたのです。

 

五つのパンと二匹の魚〜五千人の給食の奇蹟

 本日のマルコ福音書6章には、今日は省略されていますが、「五つのパンと二匹の魚」を用いてイエスが五千人に食べ物を与える場面が記されています。たった五つのパンと二匹の魚で五千人!? 次週滝田先生がその場面をヨハネ福音書から読み解いて下さることになっていますが、その五千人の給食の出来事は私たちの羊飼いイエス・キリストの憐れみがいかに深く、強く、広く、高いかが示された出来事だと思います。「そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった」43節)とありますが、「十二の籠」とは神の民である「イスラエルの12部族」のことを指しています。神の恵みのみ業を通して「神の民」「神の羊の群れ」が満ち溢れる恵みをいただいたことを表しています。人生においては、私たちの力ではどうすることもできないような突然の悲しみや苦しみ、行き詰まりがたくさんあります。しかしたとえそのような苦難の中にあったとしても、主の深い憐れみを私たちは覚えたい。主は羊飼い、わたしには何も欠けることがないのですから。そしてご一緒にその恵みに与りたいと思います。これから聖餐式に与ります。これは主によって備えられた恵みの食卓であり、救いの食卓です。五千人の給食の出来事です。主はご自身の持つすべて(「五つのパンと二匹の魚」)を私たちのために差し出して下さいました。それは私たちが主のいのちに生きるためです。その招きにご一緒に与りつつ、主の憐れみの御業を深く味わってまいりましょう。アーメン。

 

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー