« 2022年9月25日(日)聖霊降臨後第16主日礼拝 説教「ラザロを深く省みられる神」 | トップページ | 2022年10月9日(日)聖霊降臨後第18主日礼拝説教「あなたの信仰があなたを救った」 »

2022年10月 1日 (土)

2022年10月2日(日)聖霊降臨後第17主日礼拝 説教「からし種一粒〜すべてを神に頼る信仰」

2022年102日(日)聖霊降臨後第17主日礼拝 説教「からし種一粒〜すべてを神に頼る信仰」

大柴譲治joshiba@mac.com

○ ハバクク書 1 : 1-4、2: 1 – 4

見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。(4節)

○ ルカによる福音書 17 : 5 - 10

使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。 (5-6節)

 

< 「神に従う人は信仰によって生きる」 > (以下、下線は大柴が記す)

 本日の第一日課のハバクク書はこう告げています。「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように、板の上にはっきりと記せ。定められた時のために、もうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる」(2:2-4)。「神に従う人は信仰によって生きる」。これが本日の主題です。

 この主題は実は聖書の中では繰り返し宣言されています。特に使徒パウロはこのことを強調しました。たとえばローマ書の117節が有名です。彼はハバクク書を引用しながらこう語ります。「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです」(新共同訳,1987)。新共同訳聖書は「初めから終わりまで信仰を通して」と意訳していますが、それはギリシャ語原文で読むと「ピスティスからピスティスへ」とある。「ピスティス」とは通常「信仰」と訳される語ですが、実は初めの「ピスティス」は「神のピスティス(真実・真理)」を、後ろの「ピスティス」は「人間の(応答としての)〈まこと〉」を意味する。新共同訳のようにそれを「初めから終わりまで」と訳すとそれが消えてしまう。最新の聖書協会共同訳(2018)では次のように訳し分けられています。「神の義が、福音の内に、真実により信仰へと啓示されているからです」。

 パウロは、ガラテヤ書3章では「信仰の父」と呼ばれるアブラハムを引きながら次のように言っています。「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」。そして続けるのです。「だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい」(7節)。「それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています」(9節)。「律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、『正しい者は信仰によって生きる』からです」(11節)。「正しい者、神に正しく従う者」は「神のピスティスによって生きる」のです。

 

< では「ピスティス」とは何か 〜 それは「神ご自身の、真実・忠実・まこと」のこと >

 これまでも申し上げてきたことですが、私たちはここでも注意しなければなりません。「信仰」という日本語は「礼拝」という語と同じく、人間の行為が主体となっている語です。「人間が(神を)信じて仰ぐ」ことが「信仰」であり、「人間が(神を)礼拝らいはいする」ことが「礼拝れいはい」となっているのです。確かにそのような側面もありますが、それでは事柄の半分も表現し切れていない。もともと「ピスティス」というギリシャ語(その形容詞は「ピストス」)は「真実・真理・まこと・忠実」という意味を表す語です。旧約聖書のヘブル語では「エメト」(真実・真理)が「エムナー」(信頼・信仰)となり、私たちが祈りや讃美歌の最後に唱える「アーモーン/アーメン」(まことに・真実に)という語につながっていきます。

 そしてこの「ピスティス」「エメト/エムナー」という語は人間の行為に先立って、実は神の側の行為を意味する言葉なのです。このことはとても大切です。神の行為が先にあって人間がそれに応答してゆく。イニシアティブは常に神の側にある。これが聖書が繰り返し告げている事柄です。人間が神を探し求めるのではなく神が人間を捜し求め、人間に呼びかけてくださっているのです。それを私の恩師である小川修先生は、「第一義のピスティス」と「第二義のピスティス」とキチンと厳密に区別しています。「神の真実/〈まこと〉」「第一義の〈まこと〉」が先にあって、それに対して私たち人間が「第二義の〈まこと〉」「人間のピスティス(信仰)」をもって応答するのです。「ピスティス」という語が出てくる際には人間の次元だけを考えるのではなく、神との次元を、神と人との相互関係を考えなければなりません。

 

< 私たちの中に働く「からし種一粒ほど」の「神のピスティス」 >

 本日の福音書の日課では、弟子たちがイエスに問うところから始まっています。「使徒たちが、『わたしどもの信仰を増してください』と言ったとき、主は言われた。『もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、「抜け出して海に根を下ろせ」と言っても、言うことを聞くであろう』」(ルカ17:5-6)。

 この弟子たちの質問の背後には、何年経ってもなかなか自分たちの信仰が強くならないという実存的な悩みがあったことが想像できます。私たち自身もそのように思う面があるためによく分かります。「自分は洗礼を受けてずいぶん年月が経つけれども、自分の中に信仰が深まってきているという実感がない。もしかすると自分は信仰者失格なのではないか」というような深い疑いや迷いが私たちの中にもあるのです。特に受洗者の姿を見るととてもまぶしいような気がする。確かに自分も同じ気持ちだったはずなのに・・・。弟子たちがイエスに「私たちの信仰を増し加えてください」と願い出たことには、そのような思いが透けて見えてきます。

 16章で「不正な管理人のたとえ」と「金持ちとラザロのたとえ」を聞き、17章の最初にはさらに厳しいイエスの言葉を聞いて、彼らは自分たちがその厳しさに耐えられるだろうかと不安になったのでしょう。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」(17:1-4)。弟子たちは自分が「躓きをもたらす不幸な者」ではないか、「首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまうような者」ではないかと怖くなったのです。「自分は七回も赦し続けることができない」と感じたかも知れません。イエスの言葉に従うことの困難さを身に沁みて分かっていたから、どうか自分たちの中に信仰を増し加えてくださいと彼らは願い出たのに違いないのです。自分にはさらなる確固たる信仰が必要だと思ったからです。この意味で弟子たちは正しいと思われます。私たちもまた弟子たち同様に、常に、信仰を増し加えてくださいとイエスに願い出る者、祈り求める者であるのですから。

 

< イエスによる神のピスティスの勝利宣言 〜 「あなたの信仰があなたを救った。」 >

 「ピスティス(信仰)」とは実は人間の行為ではないと先に申し上げました。ヘブライ書11:1には信仰の定義が次のように記されています。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」。有名な言葉です。しかしこれには補足が必要です。信仰とは、「神が私において望んでいる事柄を確信し、見えない神の恵みの事実を確認することなのだ」と。繰り返しますが、「ピスティス」とは人間の行為ではなくて私たちにおいて働く神の主体的な行為です。

 イエスは新約聖書の中で繰り返し告げています。「あなたの信仰があなたを救った」と。調べますと、この言葉は福音書の中に7回も繰り返し記されている。①マタイ9:22、②マルコ5:34、③マルコ10:52、④ルカ7:50、⑤ルカ8:48、⑥ルカ17:19、⑦ルカ18:42。特にルカが一番多くそれを記録していることが分かります。このうち①と②と⑤は12年間出血が止まらずに苦しんできた女性がイエスに後ろから近づいてそっとその衣に触れると癒された場面で語られ、③と⑦はエリコの近くで癒された盲人についての並行箇所で告げられていますので、厳密に言えば四つの奇蹟の出来事においてイエスは語っていることになります。「奇蹟」とは「神の憐れみの行為」であることを心に留めておきたいと思うのです。いずれにせよこの「あなたの信仰があなたを救った」というのは、イエスによるピスティスの勝利宣言であると言えましょう。信仰とは人間の行為ではなく、私たち人間の中に働く神の行為です。そこからこの言葉を再度読み解くならばそれはこのような宣言になる。「あなたの中に働く神のピスティス(真実・真理・〈まこと〉)があなたを救った」。

 実はイエスの「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」という言葉もそこから理解してゆかなければなりません。「桑の木が自ら歩き出して海にまで動いていって根を下ろす」ということは物理的には無理な話です。桑の木には足はないのですから。その前半の「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば」という語が大切なのです。イエスは次のように告げておられるのです。「あなたがたの中には実は既に、『からし種一粒』のように、それは小さく見えるのでどんなに努力して見ようとしても見えにくいのかも知れないが、『神のピスティス』が確かに働いているのだ。そのピスティスは莫大なエネルギーを有している。桑の木が海の真中に移って根を降ろすように、神が願うことはそれが不可能に見えたとしても必ず実現する。あなたの中に働く神の〈まこと〉が必ずあなたを守り、導き、救いの御業を実現するのである。人間にはできないことであっても神にできないことはないからだ」。神の恵みの働きからもれてしまう人間はどこにはいないのです。これが福音です。

 私たちはご一緒に、私たちの中に働く神の真実・真理・〈まこと〉の御業を見上げてゆきたいのです。

 お一人おひとりの上に主の祝福をお祈りいたします。 シャローム。

« 2022年9月25日(日)聖霊降臨後第16主日礼拝 説教「ラザロを深く省みられる神」 | トップページ | 2022年10月9日(日)聖霊降臨後第18主日礼拝説教「あなたの信仰があなたを救った」 »

心と体」カテゴリの記事