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2022年9月 4日 (日)

2022年9月4日(日)聖霊降臨後第13主日礼拝 説教「信従と断捨離」

2022年94日(日)聖霊降臨後第13主日礼拝 説教「信従と断捨離」

大柴 譲治 joshiba@mac.com

○ 申命記 30 : 15 – 20

わたしは今日、天と地をあなたたちに対する証人として呼び出し、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにし、あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい。 (19-20a節)

○ ルカによる福音書 14 : 25 - 33

もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。 (26-27節)

 

< はじめに >

  私はこの説教檀に立つのは87日(日)の平和主日以来ですので、今朝は久しぶりにホームグラウンドに立たせていただいている感があって嬉しく思っています。811日(木)に喉に違和感を感じ、12日に発熱してCOVID-19陽性となりました。そして821日(日)までの10日間、自宅療養となりました。814日と21日の二回の日曜日は、信徒による礼拝隣、私の説教を西田代議員が代読をしてくださるかたちになりました。そして先週の主日礼拝は、2018年以来4年振りにドイツ・ブラウンシュヴァイク州立教会に招かれて宣教会議に出席することになっておりましたので、信徒による礼拝となりました。犬飼代議員が奨励をしてくださいました。731日(日)には私が夏の休暇を取らせていただいたために、大阪教会はやはり信徒による礼拝で、西田代議員に奨励をしていただきました。このようなかたちで安定して信徒による礼拝が淡々と行われてゆくところにこの大阪教会の底力を感じたのは私ひとりではないと思われます。

 振り返ってみれば、2020年の2月からCOVID-19のパンデミックが始まり、私たち大阪教会でももしもの場合はどうすればよいかを検討し始めました。その結果、2020年は11回、昨年2021年は18回、今年は6回の主日礼拝を、それまでのようにこの会堂に集まるというかたちを止め、ごく少人数(結果としては毎回4-5人のみ)がこの会堂に集まって礼拝を行い、その礼拝をインターネットで中継するというかたちで守りました。礼拝を短縮し、讃美歌もヒムプレイヤーを用いて1節のみを歌い、それまでは毎週行っていた聖餐式や礼拝後の愛餐会も休止となりました。三密を避けることや換気に気を使うことなどなど、これまで体験したことのない状況に対処することになったのです。それまで私たちは礼拝堂で礼拝を守ることができるということが当たり前と思っていたわけですが、実はそうではなくて大きな恵みであることを私たちは体験してきました。教会で礼拝ができなくなるということ、これは大きなチャレンジでもありました。しかしインターネットのオンライン配信を通しても、神は働いてくださっているということを私たちは知ることになったのです。日本語で「礼拝」と言うと私たち人間の「礼拝(らいはい)」という行為に焦点が当たってしまいますが、ドイツ語では「礼拝」のことを「Gottesdienst」(神の奉仕/神による奉仕)と呼びます。英語では以前はやはり「Worship(礼拝/らいはい)」と呼んでいましたが、今は「神による礼拝」という意味で「Service」という語が用いられます。牧師の司式・説教による礼拝も信徒による礼拝も共に「神の礼拝」であることに違いはないのです。そこで働くのは神であり、神の聖霊です。対面のみの形態であっても、オンラインのみの形態であっても、あるいは両者が同時に行われる形態であったも、それは「神による礼拝」です。今から50年ほど前から福音宣教に関して「ミシオデイ」という言葉が用いられるようになりました。それは「神の宣教」「神による宣教」という意味のラテン語です。

 2020年にパンデミックが始まった時から、もし牧師がCOVID-19に感染した場合(陽性者になった場合)にはどう対処するかということも役員会では話し合いました。礼拝を短縮して、もし牧師が説教を作ることができるのであればそれを役員が代読する「代読説教」のかたちを考えました。それが適わない場合には、たとえば他の教会では『聖書日課』を読むという形態を取ったところもありますし、他教会のオンライン礼拝につながるという形態を取ったところもあります。いずれの形態を取るにせよ、参加者が少なくても多くても、礼拝は常に「神による礼拝」なのです。「聖霊」がそこでは天から吹き注がれています。

 

< 神の招き 〜「あなたは命と祝福を選びなさい。」>

  本日の第一日課には申命記30章からの言葉がありました。とても率直で明快な言葉です。

「わたしは今日、天と地をあなたたちに対する証人として呼び出し、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにし、あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい。それが、まさしくあなたの命であり、あなたは長く生きて、主があなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた土地に住むことができる」(19-20節)。

 神はここで私たちに「命と祝福」とを選ぶように求めておられます。神の御心は私たちが死ではなくて命を、呪いをではなくて祝福を選ぶことなのです。「神の礼拝(Gottesdienst/God’s Service)」に与るということは、神の恵みによって私たちが命と祝福を選ぶという行為なのです。そのことを私たちはいつも心に留めておきたいと思います。

 

< 本日の福音の日課が私たちに伝えていること 〜 キリストへの信従 >

 本日の福音の日課はルカ14:25-33。イエスによって大変厳しい言葉が語られています。その言葉はイエスについてくる大勢の群衆に対して語られています。「大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた」(25節)。これまで弟子の心得として12弟子に語ってこられたことと同じでした(マタイ10:34-36)。「平和ではなく、剣を投げ込むためにわたしは来た」というイエスの言葉もルカ12:49-53にはありました(それは814日の日課でした)。

「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」(26節)。イエスに従うということ、イエスを信じて従うという意味で私はそれを「キリストへの信従」と呼びたいのですが、「信従」においてはイエスを第一とすることが徹底的に語られます。地縁や血縁ではなく、キリストに聴従する。イエスに従う者にはそのような覚悟が問われている。続く27節にはさらに厳しい言葉が続きます。「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」。「十字架を背負う」ということは「不条理なかたちの苦難と死であってもそれを覚悟する」ということです。既にルカ9章でイエスは弟子たちにはっきり告げておられました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(9:23)。日々、すなわち「毎日、自分を捨て、自分の十字架を背負え」というのです。

  28節〜32節は少し前後の脈絡からは分かりにくい言葉が挟まれています。「塔を建てるケース」と「敵と戦うケース」のことが言及されている。どちらの場合にも予めそれを成し遂げるための計算が必要ということでしょう。33節ではこう結ばれています。「だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」。この33節は27節の言葉(「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」)に直接つながる言葉です。「自分の持ち物を一切捨てる」ということは、最近よく用いられる言葉で言えば「断捨離」ということになりましょうか。もともと「断捨離」とはヨーガで用いられている言葉で「不要な物を減らし、生活に調和をもたらそうとする思想」のことを言います。「自分の持ち物を一切捨てよ」という意味ではないようですが、キリストに従う(信従する)といういことは「断捨離」という原意(断ち、捨て、離れる)よりもさらに徹底した、すべてを捨ててキリストに従うという覚悟がそこには求められています。

 私は一昨日までドイツに10日間滞在してきました。前半は宣教会議で、ブラウンシュヴァイクがパートナーとしているナミビアやインドからの代表と一緒でした。後半はルターのスタディーツアーでした。5年間交換牧師としてドイツにいた松本義宣先生に運転とガイドをお願いして、4日間、ウィッテンベルクやアイスレーベン(ルター生誕と召天の町)、シュトッテルンハイム(落雷の場所)などを訪ねることができました。私にとっては初めてのルターの足跡を辿る旅で、とても意義深いものであったと思っています。特にアイスレーベンでルターが亡くなった家が資料館になっていて、ルターの最後の言葉がそこに大きく刻まれていました。それはこういう言葉です。「私は神の乞食(こつじき)だ。これはまことだ」。生涯「神こそわが砦、わが強き楯」と語り続けたルターの言葉です。徹頭徹尾、自分は神の前に何も持っていないというルターの自覚がそこには現れています。ルターは、自分の持ち物を一切捨てて(否、最初から自分の持ち物などないのかもしれません。すべては神の持ち物なのですから)、ひたすらキリストを信じて従った一人の貧しき信徒でした。旅の詳細はまた別に機会に触れたいと思います。「聖書のみ、恵みのみ、信仰のみ」。大切なすべてはそこに帰着する。キリストに従う喜びがあれば、私たちにはそれだけでよいのです。

 共に「神の礼拝/神による礼拝」につながることで、その恵みを日々深く味わってまいりたいと思います。神こそわがやぐら、わが助け。どのような時にも共にいてくださる羊飼い。主において命と祝福を選ぶ者であり続けましょう。

 お一人おひとりの上に主の守りと祝福がありますようにお祈りいたします。アーメン。

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