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2022年9月17日 (土)

2022年9月18日(日)聖霊降臨後第15主日礼拝 説教「不正にまみれた富で友達を作れ」

2022年918日(日)聖霊降臨後第15主日礼拝 説教「不正にまみれた富で友達を作れ」

大柴 譲治joshiba@mac.com

○ ルカによる福音書 16 : 1 - 13

主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。(8-11節)

 

< 「抜け目のない管理人のたとえ」 >

 本日のルカ福音書15章には「不正な管理人のたとえ」が登場しています。これはなかなか印象的なたとえで、主人の借金帳を書き直して負債者たちに恩を売ろうとする「抜け目のない(賢い)管理人」が出てくるのです。彼は雇い人の中で「管理人」になるほど能力に長けた人物でした。しかし彼には敵対する者がいた。彼を主人に告発する者がいたのです。「この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口をする者があった」。おそらく彼はこれまで、金持ちである主人の管理人になるためには手段を選ばなかったのでしょう。人は必ず自分の蒔いたものを刈り取ってゆくことになるのです。「財産を無駄使いしている」ということに関しては全く反論していないことから、彼にはそのように告発されても仕方のない事実があったと思われます。また彼は自らの非を認めて弁解や謝罪をするということもしていません。

 主人は彼を呼びつけて言います。「お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない」。会計報告を出せばすべては一目瞭然となる。彼は悪知恵を用いて、自分が首になったらどうすればよいのか懸命に考えます。彼の「土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい」という自己理解はなかなか冷静でシビアな観察です。自分の立場を最大限利用して将来のためにできることは何かと全力を尽くす。彼は全く後ろを振り返ろうとはしない。「そうだ、借金証書を書き換えて負債者たちに恩を売ろう」と思いつき、すぐさまそれを実行に移します。倫理的には正しいとは言えない行動であるとしても恩を売るのには効果的なやり方でした。

 このたとえの解釈には色々あって、「借金を帳消しにした部分」はもともと「利子だった」「管理人の取り分だった」「管理人に自由に負かされていた部分だった」と整合的に説明する人もいます。なるほどとは思いますが、それではあまり面白くありません。聖書の後ろに記されている度量衡によると、「油100バトス(2300ℓ)」を半分にするということは1150ℓも減らすということになりますし、「小麦100コロス(23000ℓ)」を「80コロス」にというのはその20%を返済しなくてよいことになり、両方とも膨大な量となる。負債者たちに恩を売るためには半端ではなく十分すぎるほどの量でした。負債者たちは多いに助かったに違いありません。管理人に対して忘れ難い恩義を感じたことでしょう。彼は確かに「ヘビのように賢い」。彼は自分の立場を最大限利用することで、何一つ自身は損をしていません。損をしているのは主人だけです。もし書き換えた量が「利子分」であるとすれば、当初の契約は履行されないとしても主人も実際は損をしていないことになる。「不正な管理人」のしたことは違法行為スレスレか分際を越えていたのかも知れませんが、それによって負債者は大いに得をするし、管理人自身も恩を売ることで大きな利を得ることになるのです。

 

< イエスのおおらかさ 〜 「ヘビのように賢く、ハトのように素直であれ」(マタイ10:16)>

 イエスはその不正な管理人を非難することはせず、それを認めるようなかたちで大らかにもこう言いました。「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている」(8節)。ここで「主人」と訳されている語は「キュリオス」。それはイエスご自身を指しているとも受け止めることができます。「抜け目のない」と訳されていますがそれは「賢い」という語。マタイが言うところの「ヘビのような賢さ」です(10:16)。不正な管理人の賢いやり方をここでほめているのは主人であると共にキリストご自身でもあるのです。私たちもまた、しぶとくしなやかに、賢く、諦めず、この世の現実に対処してゆかなければなりません。

 「そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか」(9-11節)。9節の「富」はギリシャ語で「マモン(お金)」。ルカ福音書は実は「この世のマモンの正しい用い方」についてこれまでも繰り返し触れていました。この後に記されている1619節からの「金持ちとラザロのたとえ」も19章の「徴税人ザアカイのエピソード」もそこに関わっています。15章の終わりには有名な「放蕩息子のたとえ」があり、これもまた「マモンの正しい使い方」についての教訓を含んでいました。「放蕩息子」は父親から得た財産を自分の欲望を満たす放蕩だけのために用いたのですが、実はそれを「友」を作るために用いるべきでした。しかし彼はそれを自らのためにしか使おうとしなかったため、飢饉が起こった時にせいぜい「ブタの世話」を紹介してくれるほどの知人しか得ることができませんでした。誰も助けてくれなかったのです。どん底に落ちて初めて彼は「我」に返ります。「そうだ、お父さんのところに帰ろう」と。自分が帰るべき場所にようやく思い至ったのです(ルカ15:17)。

 

< 私たちが立ち帰るべき場所 〜 父と子から示された永遠の恩義 「いつくしみ深き 友なるイエスは」 >

 イエスがこのたとえでほめたのは、その管理人が自分を助けたい一心であったとしても、恩義を売ることによって将来のために自分の友を作ろうとした点にありました。困ったときに頼りになるのは真に「忠実な友」です。今日の日課には「小事に忠実な者が大事にも忠実である」というイエスの言葉が出ています。この「忠実な」という語は、第二日課にも出て来ていたのですが、大事なキーワードでもあります。ギリシャ語では「ピストス」という形容詞でその名詞形は「ピスティス」。「真実な」「忠実な」「誠実な」「信頼に足る」「信仰的な」「まことの」という意味の語であり、「愛(アガペー)」という語と同様、聖書では神の本質を表す重要な言葉でなのです。

 管理人はそのように証書を書き換えることで恩を売って「忠実な友」を得ることができました。困ったときに恩を示されるという出来事は私たちの魂に深く刻まれます。「恩恵」という語にも「恩」という字が含まれていますが、私たちは恩義を受けるとそれを容易に忘れることはできません。私たち自身の人生をそれぞれ振り返って見てもそうでありましょう。親の恩、親族の恩、恩師や親友による恩、見ず知らずの人から示された小さな恩に至るまで瞬時に思い起こせます。借金を減額してもらった人々は、その額は50%であれ20%であれ、膨大なものでした。心の底から有り難いと恩義を感じたことだった。「不正にまみれた富」を用いて「恩義を忘れない忠実な友を作ったこと」になります。イエスの言う通り、「そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」ことになるのです。

 さらにこのことに関して大切なことがあります。それが最も重要と私は思うのですが、私たちを「永遠の住まいに迎え入れてくださる」のは神です。それは独り子を賜るほどこの世を愛された真実なる神なのです。十字架の道を歩まれた御子イエス・キリストこそ、その天父の〈まこと〉に最も忠実に歩まれたお方でした。そこに、神の愛(アガペー)と真実(ピスティス)とがある。「友のために命を捨てるほど大きな愛はない」(ヨハネ15:13)という自らの言葉の通り、イエスは自らの命を捨てるほどの真実な愛を示して、先週の日課にあったように「罪人の頭」(1テモテ1:15)でしかない私たちの友となり、その罪を贖ってくださった。十字架に示された父と子からの「恩恵」を受け止めることが求められています。

 先週礼拝後に持たれた召天記念会と納骨式で私たちは「いつくしみ深き、友なるイエスは」という讃美歌(教団讃美歌312番、教会讃美歌371番)を歌いました。この讃美歌は、葬儀でも結婚式でも、繰り返し歌われる教会で最も愛されている讃美歌の一つです。まさにここで歌われている通りの憐れみと愛と真実を「いつくしみ深き友」として主イエス・キリストは私たちに示してくださったのです。そのことを覚えつつ、すべてを捨てて友となってくださったお方の恩義に応えて、私たちのすべてを主に託してまいりたいと思います。 お一人おひとりの上に祝福をお祈りいたします。 アーメン。

 

 いつくしみ深き 友なるイエスは、

 罪とが憂いを 取り去りたもう。

 こころの嘆きを 包まず述べて、

 などかはおろさぬ、負える重荷を。

 

 いつくしみ深き 友なるイエスは、

 われらの弱きを 知りて憐れむ。

 悩み悲しみに 沈めるときも、

 祈りにこたえて 慰めたまわん。

 

 いつくしみ深き 友なるイエスは、 

 かわらぬ愛もて 導きたもう。

 世の友われらを 棄て去るときも、 

 祈りにこたえて 労りたまわん。  アーメン。

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