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2022年9月10日 (土)

2022年9月11日(日)聖霊降臨後第14主日礼拝 説教「魂を探し求める神」

2022年911日(日)聖霊降臨後第14主日礼拝 説教「魂を探し求める神」 

大柴 譲治 joshiba@mac.com

○ 出エジプト記 32 : 7 – 14

どうか、あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自ら誓って、『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか。」主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。(13-14節)

○ テモテの手紙 一 1 : 12 – 17

以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。 (13-15節)

○ ルカによる福音書 15 : 1 - 10

「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」 (4-7節)

 

 

< 礼拝 = 神によって罪赦された「罪人たち」の祝宴 >

 本日のルカ福音書15章には「失われた羊」と「失われた銀貨」のたとえが出て来ます。どちらも大切な「神の民」のたとえですが、神の前に罪を犯して失われた者たちが再度見出された時には天において大いなる祝宴が開かれると言われています。7節にはこうあります。「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」。福音の基調音はどこまでも天の喜びなのです。

 このたとえは次のような状況で語られました。「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした』」(1-2節)。当時のユダヤ教の律法から見ればイエスの食卓には「罪人たち」としか思えない人々が集まっていました。それが厳しく批判されている。それに対してイエスは、罪を悔い改めた者たちのためには天においては大きな祝宴が開かれるのだと宣言しています。同時にそこでは、イエスを囲むこの食卓が天の祝宴の先取りであり前祝いであることが告げられているのです。礼拝とは実に、神に罪を赦された者たちの祝宴なのです。そこで求められている大切なことは「罪の自覚」であり「罪の悔い改め」です。自分が道を見失ってしまっているということに気づく必要があります。

 

< 罪を忍耐される憐れみの神 >

 本日の第一日課である出エジプト32章には、偶像崇拝の罪を犯した神の民に対して怒りを燃やし厳しい裁きを与えようとする神の姿が記されています。「主はモーセに仰せになった。『直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ」と叫んでいる。』主は更に、モーセに言われた。『わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする』」(7-10節)。しかし結局、モーセが神をなだめたために神は怒りをもって裁きを下すことを「思い直された」のでした(14節)。先週の日課の申命記30:20にあったように、神は民に「死と呪い」でなくて「生と祝福」を選ぶことを望んでいるからです。私たちにもとりなしの役割が求められています。

 また、第二日課も再度読んでおきたいと思います。そこでパウロは自らを「罪人の頭」(口語訳聖書、聖書協会協同訳聖書)と呼んでいますが、それにも関わらず「神の憐れみ」によって救われたことが明記されている。「以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です」(1テモテ1:13-15)。かつては神を冒涜し、迫害し、暴力を振るう者であったパウロ。彼を神は憐れみによって赦し、強め、選び立て、用いてゆかれるのです。「わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです」とある通りです(12節)。

 

< イエスのもとに集まった人々 〜 見失われていたのに見出された者たち >

 ある時にイエスはこう言われました。「健康な人に医者はいらない。いるのは病人である(医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である)」と(ルカ5:31)。その通りです。病気や障がいや様々な生きづらさ、痛みや苦しみ、悲しみを抱えている人が「魂の医者」であるイエスのところに集まったのです。その者たちをイエスは「飼い主のいない羊/見失われた羊」として深く憐れまれたのです(マタイ9:36)。それはイエスこそが、私たちの失われた魂の在処を探し求め、傷ついた魂を癒やし、救いを与えてくださる真の「魂の医者」であり、すばらしい「魂のカウンセラー」なのです。

 しかし前述のように私たちの最大の問題は、自分の罪、自分の傷、自分の失われた存在性に気づかないでいることです。それは「イエスは罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだしたファリサイ派や律法学者たちの姿勢に明かです。「自分は健康」と自覚している者の魂ほど絶望という死に至る病に犯されていると言えるかもしれません。自分が体調が悪く医者が必要と自覚している者は医者のところに足を運びますが、そのような自覚がない者たちはそれをせずに手遅れになってゆくのです。その意味で「罪の自覚」を持つということ、自分の魂のあり方に「これでいいのか」と違和感を持つということが大切です。弱り果て、打ちひしがれている自らの姿に気づくのです。

 では「罪」とは何か。「罪」と聞くと私たちはすぐに何か悪いことを「する」ことを連想します。法律に違反することを「罪を犯す」と言うからです。「あなたがたは罪人だ」と言われると私たちはそれを否定したい気持ちになる。法を犯してはいない、何も悪いことはしていないのですから。実は聖書では「罪」とは神と人間との破れた関係を表す関係概念です。真の神との正しい関係に入っていないことを「罪」と呼ぶのです。何か悪いことをするという行為Doingの次元ではなく、関係の破れという存在Beingの次元を表す言葉です。その自覚は、たとえば良心の呵責や罪責感情、羞恥感情のような違和感や痛みに現れましょう。痛みを感じる時に私たちは自分の身に何かおかしいことが起こっていると感じて医者に行きます。痛みがないと大変なことになってしまう。パウロはかつての自分が「罪人の頭」であり、「神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者」だったと告白します。これはかつてパウロがユダヤ教の若きエリートだった時にキリスト教の迫害者だったことを語っています。その時には彼には全くその自覚はありませんでした。ダマスコ途上で復活のキリストと出会うことでそれは劇的なかたちで生じました。そこにはキリストと出会うことを通して知った自らの罪の、それまでは真の神を神としなかったという深い痛み・苦しみ・反省・悔い改めがあるのです。

 

< 祝宴への招き〜「自分のような罪人の頭が天国に入れないとすれば、それはキリストの沽券に関わる」(鈴木正久) >

 私たちは今朝もこのキリストの食卓に招かれています。聖餐式こそ行われませんが、御言の祝宴に与っています。そのことを共に喜び祝いたいのです。私はかつて日本基督教団の総会議長だった故鈴木正久牧師の言葉をしばしば思い起こします。「私のような罪人の頭が天国に入れるかどうかということに関してですが、もし天国に入れないとすればそれはキリストの沽券に関わります」。鈴木先生は癌末期の闘病の中、最晩年の説教の中でそう言われました。録音テープが残っています。「沽券に関わる」とは古風な言い方ですが、「品格や価値、プライドや面目を保てないこと」を意味します。それはイエス・キリストは御自分の持つすべてを賭けて、私たちを必ず神の国・天の祝宴に招き入れてくださるという鈴木正久先生逆説的で確固とした信仰告白なのです。

 本日私たちは「神の礼拝」に与っています。この礼拝は天の祝宴の先取りであり前祝いです。この地上での礼拝は天における礼拝につながっています。今ここで、この瞬間にも私たちは天の祝宴に共に集っているのです。失われた一匹の羊が見出された時の大きな喜びがそこにはあります。神は私たちの魂を見出すためにその在処を探し求めてくださっています。神は「見失った一匹を見つけ出すまで捜し回る」お方です。そのことを覚えて心より感謝したいのです。

 お一人おひとりの上に天よりの祝福をお祈りいたします。 アーメン。

 

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