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2022年8月 6日 (土)

2022年8月7日(日)平和主日礼拝 説教「キリストの平和〜非暴力不服従」

2022年87日(日)平和主日礼拝 説教「キリストの平和〜非暴力不服従」

大柴 譲治joshiba@mac.com

〇 ミカ書 4: 1- 5

主は多くの民の争いを裁き、はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。(3節)

〇 エフェソの信徒への手紙 2:13-18

実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。(14-16節)。

 

< 聖書がその最初に宣言していること 〜「『光あれ!』 すると光があった。」>

 創世記は神が混沌の闇で最初に光を創造したことを伝えています。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」(1:1-3)。光は今もなお闇の中に輝き続けています(ヨハネ1:5)。

 本日は平和主日。毎年8月の第一日曜日を私たちは平和を祈念しながら「平和主日」として守っています。聖書は「キリストこそ私たちの平和」であり、敵対する者たちの間にある「敵意(=憎しみ)」という「隔ての中垣」を十字架において廃棄し、二つのものを一つにするという神の前での究極的な和解を成し遂げてくださったことを高らかに宣言しています。私たちはこのキリストの平和のもとに今ここで一つに呼び集められていることを最初に覚えたいのです。私たちに与えられているのは和解の務めです。分断のための壁を作ることではなく、相互に橋を架けてゆくことなのです。

 このエフェソ書の言葉は、本日第一日課として与えられているミカ書の預言の成就です。キリストの十字架の愛によって敵対する者たちは互いに「剣を打ち直して鋤賭し、槍を打ち直して鎌とする」ことができるようになるのです。イエスは十字架上でこう祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです」(ルカ23:34)。ヨハネ福音書は「人が友のために自分の命を捨てる。これ以上に大きな愛はない」というイエスの言葉を伝えていますが(15:13)、マタイ福音書はそれをさらに徹底させるイエスの言葉を記録します。「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(5:44)。その言葉通り、イエスは十字架上で自分を殺そうとする敵のために神に赦しを祈り、自分のすべてを捧げてゆかれたのです。ここに本当のアガペーの愛がある。この愛に触れるときに私たちの目は開かれ、私たちは心の底から自分自身を新たにされてゆくのです。パウロは言っています。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(2コリント5:17。ガラテア6:15をも参照)。「キリストによって新しく創造される」とはミカ書の言葉を借りるならば、「剣を鋤に、槍を鎌に打ち直すという平和の働きに召し出されるということ」なのです。敵意や憎悪という隔ての中垣(壁)によって分断されたこの世界に、たゆまず努力をして和解の橋を架けてゆくことです。なぜならばキリストがそのような和解の働きへと私たち一人ひとりを召し出しているからです。敵意によってバラバラになり、もはや自分の力では結び合うことができない私たちのこころを、イエスの真実な祈りは打ち砕き結び合わせます。これこそ神の聖霊の働きです。闇の中にキリストの十字架と復活によって揺らぐことのない光が創造されたと聖書は告げています。私たちはこの光のもとに集められ、闇の中に輝いている光を証しして生きるのです。光や暗闇の中に輝き続けています(ヨハネ1:5)。

 

< 「ルーテル教会 = 悪魔の教会」>

 しかし、私たちの現実はこれとはほど遠いところにあります。721日(木)の午後、私は東京四谷にある麹町聖イグナチオ教会での「シノドス(「共に歩む道」の意)」についてのヒアリングとカトリック教会・日本聖公会・JELC・日本キリスト教協議会NCCの合同礼拝に与ることを許されました(それはYouTubeで公開されていて週報にも掲載してあります)。

 1980年615日、目白にある東京カテドラル聖マリア大聖堂でエキュメニカルな「第11回教会音楽祭」が開かれルーテル神大の聖歌隊として参加しました。主題は「よろこびの声をあげよう」。そこに参加した教派は、日本基督教団、カトリック、聖公会、JELC、バプテスト連盟の5団体。その大聖堂は東京オリンピックと同じ年である1964年に、丹下健三という日本を代表する建築家によって設計され完成された壮大な建築物。その巨大さと壮麗さに圧倒されました。

 そのリハーサル時に、一人のカトリックのシスターが私たちルーテル神大の聖歌隊に向かってこう言ったのです。「ルーテル教会、悪魔の教会!」。耳を疑いました。まさかそのような言葉をそこで聞くことになるとは思ってもいませんでした。シスターは真剣でした。そう言わずにはおれない何かがあったのでしょう。私たちは言葉が出ませんでしたが、それはとても悲しい体験でした。互いに罵り合った500年前の宗教改革の再現のようでもありました。確かにその中では互いに行き過ぎた面もあったと思います。しかし私たちはこの現実の中で再度対話を始めなければならないと強く思わされました。これが私自身のエキュメニズム運動の原点となっています。それは20171123日の長崎の浦上天主堂においてカトリックとJELCとは歴史的な「宗教改革500年共同記念」の機会を持つことができました。これは世界的に見ても画期的な出来事であったと自負しています。これまでの地道な対話の努力が実を結んだのです。「たとえ明日世界の終わりが来ようとも、今日私たちは(神の備える真の未来に向かって)リンゴの木を植える」のです。

 浦上には1300人の参加者が集いました(現在でもYouTubeで閲覧が可能です)。半分がカトリック、半分がルーテルです。その時のシンポジウムの最初の発題者であった長崎教区の橋本勲神父は、「自分たちの教会では先週バザーが行われ、その時『免罪符』を売っていたらさらに収益を伸ばすことができたはずで、失敗しました」と最初にユーモラスに語っておられたことが印象的でした。どのような時にも私たちはユーモアを忘れずに対話の努力を積み重ねてゆきます。今年の平和主日にあたって、そう強く思わされています。

 今回の721日(木)の聖イグナチオ教会での合同礼拝で一番私の印象に残ったのは、前田万葉カトリック枢機卿を中心にして5人の補司式者たち(菊池カトリック大司教、高橋聖公会主教、𠮷髙NCC議長と私)が大きな復活のキャンドルから小さな五つのキャンドルに火を移してその五つを聖書の前に置いて分かち合ったことでした。どちらを向いても深い闇しか見えないような中で、その光は希望の光に見えたのです。私たちは決して独りきりではない。孤立してはいないのです。このような信仰の仲間、友がいることを深く実感として与えられ幸いでした。特に前田先生とは玉造での一致祈祷会で毎年ご一緒させていただいていますし、5年前の浦上天主堂では共同司式をさせていただきました。人生は出会いですね。その温かいお人柄とお話しとは大変魅力的に感じます。

 

< 「非暴力不服従運動」 >

 機関誌『るうてる』の8月号の議長コラムに少し書かせていただきましたが、インドの独立運動のリーダー、マハトマ・ガンジーの非暴力不服従運動には私たちが学ぶべき点が多々あると思います。

マハトマ・ガンジーの「非暴力不服従」運動が大きな成功を収めたのはそれが英国人の「良心」に強く訴えたからでした。映画『ガンジー』でも壮絶な場面として描かれていますが、何も持たずまっすぐ自分たちに向かってくる無抵抗な民衆を英国兵は次第に銃撃できなくなってゆきます。若くして英国に留学したガンジーは英国人の良識/良心を信じ、それに訴えるかたちで抵抗運動を展開したのです。相手がAI兵器のように良心を持たないマシンだったらそれは功を奏することはなかったでしょう。8月の平和月間に私たちが「良心」について考えることは意味あることと思います。私たち一人ひとりが神と人の前で自らの良心に従って生きることができますように祈ります。地上に平和が来ますように。s.d.g.

 相手の中にある良識/良心を信じて、信じ抜くこと。これがマハトマ・ガンジーがその抵抗運動の中心に据えていた根本的な理念でした。この真実が人々の心を強く打ち、良心を呼び覚まして連帯させ、敵意という隔ての中垣を打ち壊して、世界を動かし、独立を勝ち取っていったのです。

 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです」。この主の十字架の祈りもまた私たちに力を注いでくれる祈りだと思います。主は私たちの悔い改めを信じてくださっているのです。告別の説教で主はこう語りました。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」(ヨハネ14:27)。キリストが私たちの中に残された平和、キリストが与えてくださる平和こそが私たちの希望であり、力の源、私たちを困難の中にあっても動かしてゆくのです。敵意/憎悪という隔ての中垣をあの十字架において廃棄して、二つの敵対する者たちを一つとし、神と和解させてくださったこのキリストの愛の力を信じて、私たちは自分に与えられた「剣を鋤に、槍を鎌に打ち直してゆく和解の努め」を果たしてまいりたいと思います。壁で人々を隔てるのではなく、対話と愛と赦しを通して、傷ついた魂と共にキリストの癒しに与れるように力を尽くしてまいりましょう。 アーメン。

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