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2022年8月20日 (土)

2022年8月21日(日)聖霊降臨後第11主日礼拝 説教「傷ついた癒し人」

2022年821日(日) 聖霊降臨後第11主日礼拝 説教「傷ついた癒し人」

大柴 譲治joshiba@mac.com

〇 イザヤ書 58: 9b-14

主は常にあなたを導き、焼けつく地であなたの渇きをいやし、骨に力を与えてくださる。あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。(11節)

〇 ルカによる福音書 13:10-17

そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。(11-13節)

 

< 「安息日」の癒し >

 イエスは常に私たちに何が必要であるか、私たちが何を求めているか、私たちの切実な思いとニーズとをご存知です。そして一番必要なものを私たちに備えてくださいます。

今日の福音書には18年間も病気で苦しんできた一人の女性が登場します。場所はユダヤ教の会堂、安息日(土曜日)のことでした。このエピソードはルカにしか出てこない話です。

安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治ったと言って、その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。(10-13節)

「安息日を覚えてこれを聖とせよ」(出エジプト20:8)。これはモーセの十戒の第三戒です。安息日はユダヤ人にとって神の聖なる戒めとして厳守しなければならない特別な日でした。創世記の初めには神が6日間で天地万物を造り「七日目」に休まれたことが記されています。これが「安息日」(「サバス」=第七日。日本語の「安息」は意訳)の由来です。安息日は労働を止め、神を覚えて礼拝する日として定められたのです。ユダヤ人のアイデンティティに関わる事柄でした。

 しかし、イエスが禁を破って繰り返し人々を安息日に癒されたことが福音書に出て来ます。たとえばこのすぐ後の14章にも(ルカ14:1-6。これもルカに固有な記録)、イエスが安息日に水腫の人を癒したことが記されています。またルカ6章では、弟子たちが安息日に「麦の穂を摘む」(労働)ことが問題になっていますし(6:1-5)、すぐその後には「安息日に手の萎えた人を癒す」出来事が記録されています(同6:6-11。これもルカ固有のもの)。また、ヨハネ福音書5章には、38年間も病いに苦しんできた人がベトザタ(ベテスダ)の池でイエスに癒されています。ヨハネ9章では、イエスは生まれつき目の見えない人を安息日に癒されています。イエスが安息日の掟を守らないという批判が起こり繰り返し「安息日論争」が起こったのでしょう。その積み重ねの中でイエスが神を冒瀆している、自分を神の座に置いているという厳しい批判が起こってユダヤ人たちの怒りや憎しみを買うことになり、やがて十字架上で殺されてしまったのでした。

  考えてみれば病気に休日はありません。安息日であっても祝日であっても私たちは病気になる。ウィルスへの罹患も起こる。安息日であろうとなかろうとイエスは神の深い愛と憐れみの御業をもって苦しむ人々に向かい合ってゆかれたのです。神の憐れみは時と場所に限定されない。神の癒しの力をイエスは与えられていたのです。それは新しい神の創造の御業でもあったのでした。マタイには次のようにあります。「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」(マタイ9:36。マルコ6:34も参照)。イエスは私たちの真の羊飼いとして、私たちが弱り果て打ちひしがれているのを見て、深く憐れんでくださるのです。ここで「深い憐れみ」とは内臓を表す語に由来する言葉で「はらわたが痛むような断腸の思いをもって、私たちの苦しみ悲しみ嘆きを御自分の中心で受け止められる」という意味です。

 私たちも気をつけたいところですが、安息日論争になってゆくとユダヤ人たちは強いこだわりのゆえに大切なことが見えなくなってしまいます。そこで一番大切なことは何か。神の私たちに対する愛であり深い憐れみなのです。安息日は本来、人間が神に思いを向ける日として与えられました。私たちの現実の中に働いておられる神の憐れみを覚える日なのです。打ちひしがれ弱り果てている私たちの現実の中に、神が深い憐れみを持って介入してくださいます。本日の第一日課には次のようにありました。「主は常にあなたを導き、焼けつく地であなたの渇きをいやし、骨に力を与えてくださる。あなたは潤された園、水の涸れない泉となる」(イザヤ58:11)。神の介入によりこの恵みの出来事が起こるのです。

 

< 「牧会」(英語:パストラルケア)「魂の配慮」(独語:ゼールゾルゲ) >

 日本福音ルーテル教会(JELC)は現在第七次綜合宣教方策を策定しつつあります、その中心には「牧会ぼっかい」というキーワードがあります。英語で言えば “Pastoral Care”、ドイツ語で言えば “Seelsorge(ゼールゾルゲ)です。前者は「牧羊」「羊の世話をする」という意味の語で、後者は「魂の配慮」という意味の語です。ヨハネ21章には、復活の主がペトロに対して三度「私を愛するか」と問うて「愛します」というペトロに対して「私の羊を養いなさい」「私の羊の世話をしなさい」と命じる場面があります。復活の主は弟子たちに人々の魂の世話をするように命じられたのです。プロテスタントでは聖職者のことを「牧師pastor」と呼ぶのもそこに由来します。特にルーテル教会では「全信徒祭司性」を強調しますので、信徒一人ひとりに牧会的な使命があるということになります。相互に魂のケアをするという相互牧会の役割ですね。

 本日の福音に戻るならば、18年間の長きに渡って背中が曲がるという恐らく痛みを伴う病気に苦しみ続けてきた一人の女性は、イエスによって身体的に癒されただけではなく霊的にも「全人的」にも癒されたのです。ルカは医者でしたから病気の人の気持ちに敏感です。彼女が18年間も「病の霊」に取りつかれていたことに言及しながら (11節)、イエスの言葉を記します。「この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」(18節)。この言葉は何と深い愛情に満ちていることか。このイエスの言葉を聞いた女性はどれほど深い喜びに捉えられたことでしょうか。自分をこれほど真剣に思って大切にしてくれた人は今までいなかった。「私も神の救いの中にある一人のアブラハムの娘なのだ。主は私をそのように大切に見ていてくださった」と。

 彼女においては病気の癒しだけではなく「病の霊」にがんじがらめに縛られていたところからの霊的な解放が起こりました。救いはいつも神との「全き関係の回復」によって起こります。ルカ福音書15章にあるように、失われた者が見出された時には天上では大きな喜びの宴が開かれてゆくのです。それらはすべて神とイエスの深い憐れみによる御業でした。その女性の18年間の痛み苦しみをご自身のはらわた(中心)で受け止め、ご自身の味わわれた断腸の思いを通して彼女を悪しき力の束縛から解放したのでした。それが彼女の救いでした。「イエスはその女を呼び寄せ、『婦人よ、病気は治った(=「解放された/解かれた」という語)と言って、その上に手を置かれた」(12-13a節)。このエピソードでは「会堂長」もまた神の憐れみに触れて解放されるべき存在として描かれていますが、そこに今回は立ち入らないことにいたします。

 

< 牧者キリストのリアリティ〜『傷ついた癒し人』(ヘンリ・ナウエン)>

 この出来事はイエスがエルサレムに向かう途上で起こりました。その前後には次のように記されています。「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」(ルカ9:51)。「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムに向かって進んでおられた」(同14:22)。13章の終わりにはイエスがエルサレムのために嘆いたとも記されています。エルサレムで起こることはイエスが弟子たちにも見捨てられて十字架の苦難と死を背負う出来事でした。

 ヘンリ・ナウエンというカトリック神父が『傷ついた癒し人』という本の中で正しく指摘しているように、その出来事はイエスがご自身が被った十字架の傷を人々の癒しのために用いられたということです。イザヤ書53章にはこうあります。「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」(4-5節。下線は大柴)。

 悪しき霊によって18年間も苦しめられてきたこの一人の女性を救うために、そして私たちすべての者を救うために主はこの地上に降り立たって最も低いところを歩まれ、そして十字架の上ですべてを与えてくださったのです。その主が背負われた苦しみと傷によって私たちは癒されています。これこそイエスご自身が私たちに示された「牧会」であり「魂の配慮」です。主こそが私たちのために天からこの地上に派遣された真の「傷ついた癒し人」なのです。苦しみや悲しみ、痛みの中にある人々の上に、主の深い憐れみと慰め、解放と救いの御業がなされますように。

 お一人おひとりの上に主の守りと祝福がありますようお祈りいたします。 アーメン。

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