« 2022年8月7日(日)平和主日礼拝 説教「キリストの平和〜非暴力不服従」 | トップページ | 2022年8月21日(日)聖霊降臨後第11主日礼拝 説教「傷ついた癒し人」 »

2022年8月13日 (土)

2022年8月14日(日)聖霊降臨後第10主日礼拝 説教「地上に火を投じるイエス」

2022年814日(日)聖霊降臨後第10主日礼拝 説教「地上に火を投じるイエス」

大柴 譲治joshiba@mac.com

〇 エレミア書 23:23-29

夢を見た預言者は夢を解き明かすがよい。しかし、わたしの言葉を受けた者は、忠実にわたしの言葉を語るがよい。もみ殻と穀物が比べものになろうか、と主は言われる。このように、わたしの言葉は火に似ていないか。岩を打ち砕く槌のようではないか、と主は言われる。(28-29節)

〇 ルカによる福音書 12:49-56

わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。(49節)

 

< 「地上に火を投じるイエス」>

 先週私たちは「キリストこそ私たちの平和」(エフェソ2:14)というみ言葉に聴きつつ「平和主日」を守りました。しかし本日の日課でイエスは全く逆のことを告げておられるように感じます。「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」(51節)。このことをどのように理解すればよいのか、そのことが本日の主題となります。もう一度福音書の日課の初めの三節をお読みさせていただきます。

「わたしが来たのは、地上にを投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」。(49-51節、下線は大柴記)

 大変に緊迫したイエスの言葉です。たたみかけるようにして厳しい言葉が重ねられています。ここには「火」「洗礼」「平和/分裂」という三つのキーワードがあって、それらが深いところではつながっているように思われます。

 本日の第一日課のエレミア書には次のような言葉がありました。

「夢を見た預言者は夢を解き明かすがよい。しかし、わたしの言葉を受けた者は、忠実にわたしの言葉を語るがよい。もみ殻と穀物が比べものになろうかと、主は言われる。このように、わたしの言葉は火に似ていないか。岩を打ち砕く槌のようではないか、と主は言われる」。(23:28-29

 神の言葉が「火」のように真実を精錬し、それを公に明らかにしてゆきます。それは単なる「夢」ではないのです。

 

< 精錬する「火」の持つ力 〜 林三兄弟のこと >

 「火による精錬」ということを考えるたびに私は、長くこの大阪教会員であられた林鉄三郎(1929-2020)さんのことを思い起こします。鉄三郎さんは二年前の622日に91歳の天寿を全うされました。COVID-19によるパンデミックが既に始まっていましたので、残念ながら私たちもお見舞いなども思うままにできない状況でした。鉄三郎さんは21歳の時に大阪教会で稲富肇牧師より洗礼(1950/12/23)を受けた筋金入りの信仰者でした(1950年の大阪教会はまだ真法院町にありました。今天王寺教会がある場所です)。そのことは皆さんの方がよくご存じかも知れません。その「鉄三郎」というお名前の由来をご本人から伺ったことが忘れられません。

 私は林さんの告別式の説教の中で次のように語らせていただきました。

 「林さんは金太郎、銀次郎、鉄三郎という三人兄弟の三男として大阪市西成区に生を受けて育ちました。単に『太郎、次郎、三郎』でよいはずなのに、それに加えて『金、銀、鉄』という味わい深い名前を息子さんたちに付けた親の思いを深く思わされます。命名というのは祈りの行為でもあるからです。オリンピックでは『金メダル、銀メダル、銅メダル』ですが、そうではなくて『金、銀、鉄』という三種類の金属の名を付けられた親御さんの慧眼を思うのです。それぞれの金属には金属の個性がある。金には金の、銀には銀の、鉄には鉄の個性があり、存在意義があるのです。『モオツァルト』や『無常ということ』で有名な小林秀雄という評論家がいます。講演のテープなどが何本も残されているのですが、ある講演の後の質疑応答の中である学生に対してこう小林秀雄は語っていて印象的です。『君は君自身でいたまえ』。『君は君自身でいたまえ』とは、何と味わい深い言葉でしょうか。『みんな違ってみんないい』という金子みすゞさんの詩も最近よく引用されますが、私たちは皆『自分が自分自身であってよい』のです。金は金、銀は銀、鉄は鉄であってよい。否、鉄は鉄がよいのです。鉄にしかない深い味わいを持っているのですから。林鉄三郎さんは自分だけに天から与えられた生き方を最後まで貫かれました。イエスがヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時の場面としてこうマルコ福音書には書かれています。「水の中から上がるとすぐ、天が裂けてが鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」(1:10-11)。天からの神の声です。『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』。天からの究極的な存在是認の声、存在義認の声です。林鉄三郎さんはイエス・キリストと出会い、21歳で洗礼を受ける中で、この天からの確かな声を聴き取ったのです。『鉄は鉄であってよい。否、鉄は鉄がよい』のだという声を。

 鉄はそのままだと酸化しやすい、さびやすいという性質を持っていますが、しかしほんの少しの炭素をそこに加えて火で精錬すると鋼(はがね)になる。堅く、しぶとく、しなやかになるのです。鉄三郎さんは鋼のようなしなやかでしぶとい信仰を神さまから信仰を通して与えられ、それを最後までそれを貫かれたことになります。しかし信仰のしなやかさ、しぶとさだけではない。昨夜も申し上げましたが、鉄三郎さんが多くの方に慕われてきたのは、その温かい人間味であり、困っている人を見たら放っておけない、自分のことのように、いや、自分の事よりも先にその人を守り助けようとするその『よきサマリア人』のような熱い心、深いあわれみの心であったと思います。それはその独り子を賜るほどにこの世を愛して下さった天の父なる神の深いあわれみでもありました」。

 

< キリストの受けられた十字架という苦難と死という「洗礼」によって >

 鉄を火で精錬すると鋼になる。神のみ言葉という「火」の力は私たちの信仰を鋼のように強くしてくれるものです。主は言われます。「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」。その火は主ご自身によって点されてゆくべき火なのです。「しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう」。それは主イエスの苦しみの「洗礼」、すなわち「十字架の苦難と死」によってもたらされました。主はオリーブ山で神に「父よ、御心なら、この杯をわたしからとりのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈りながら(ルカ22:42)、汗が血の滴るように地面に落ちるほどもだえ苦しんだことが記されています(22:44)。主が受けられた十字架という洗礼によって、神の愛の火が地上に投ぜられたのです。生ける「神の言」(エレミア23:29)としてイエス・キリストは、私たちのために隠されているこの地上における「神の真実」を「火」のように精錬して、それを私たちの目の前で公に明らかにしてゆくのです。

 

< 「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない」>

 三つ目の「平和/分裂」についてです。主は言われました。「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる」(51-53節)。大変に厳しい言葉です。イエスを救い主として信じるということは「平和」ではなく「分裂」をもたらすというのです。これは初代教会がユダヤ教の側からもローマ帝国の側からも厳しい迫害の中に置かれていた背景を想起させる言葉です。私たちの現実においても、実際にキリスト教の洗礼を受けるということで家族の中で分裂や対立が生じるということもありましょう。そのことで苦しんで来られた方もおられることでしょう。

 しかし私は思います。家族や人間関係におけるキリストのもたらす「分裂・対立」は、本当の家族の絆がどこから与えられるのかという神の真理を明らかにするための「火」なのだということを。私が私自身であるということを含めて、私たちの出会いや「地縁」や「血縁」という絆の背後には「聖霊縁」「キリスト縁」と呼ぶべき神による御心と結び合わせとがあるのだということを明らかにしているのです。

 「人は独りでいるのはよくない。ふさわしい助け手を与えよう」。この神の決意のもとでアダムとエヴァは出会ってゆきます(創世記2:18)。ここで「助け手」とは、上下関係のある「アシスタント」ではなく、対等な関係の「パートナー」を意味します。夫婦に限らず、すべての人々の出会いの背後には神のそのような意図があるのです。そのような神の御心の中に私たちの出会いや絆は祝福されている。「鉄は鉄であってよい。否、鉄は鉄がよいのだ」という自己受容は、ただ神を見上げることによってのみ与えられます。私たちの家族の絆、地域の絆、出会いの背後には、私が私であるのと同じように、神の御心があり、豊かな祝福が注がれているということを主の言葉は私たちに教えています。

 イエス・キリストに結びつけられ、聖霊の炎/火によって精錬された私たちの人間関係を、パウロは「聖なる者」と呼んでいます(ローマ1:71コリント1:2、同6:112コリント1:1など多数)。教会は「聖徒の群れ」であり「キリストによって聖とされた者たちの群れ」なのです。その真理を明らかにするために主イエスはこの地上に降り立ち、十字架の苦難と死という「洗礼」を受けることによって地上に「火」を投じられました。そのことを覚えながら共に新しい一週間を踏み出してまいりましょう。祝福をお祈りいたします。

« 2022年8月7日(日)平和主日礼拝 説教「キリストの平和〜非暴力不服従」 | トップページ | 2022年8月21日(日)聖霊降臨後第11主日礼拝 説教「傷ついた癒し人」 »

心と体」カテゴリの記事