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2022年7月16日 (土)

2022年7月17日(日) 聖霊降臨後第六主日礼拝 説教「ディアコニアの原点〜マルタとマリア」

2022年717日(日) 聖霊降臨後第六主日礼拝 説教「ディアコニアの原点〜マルタとマリア」

大柴 譲治 joshiba@mac.com

 

〇 ルカによる福音書 10:38-42                                        

主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(41-42節)

 

< 「マルタとマリア」 >

 先週の福音書の日課はルカ福音書にしか出てこない「良きサマリア人のたとえ」でした。本日はマルタとマリアについてのエピソードで、これまたルカにしか出てこない話です。マルタとマリアの二人はヨハネ福音書11章にも登場しますが、おそらく同一人物でありましょう。姉妹であっても二人は性格的に対照的でした。マルタは働き者、イエスをもてなすために心を砕いて頑張っています。ここで「もてなし」とはギリシャ語で「ディアコニア」、給仕することです。対照的にマリアはイエスのもとに座って一生懸命その言葉に耳を傾けています。マルタはそのような中でイエスにマリアにも手伝うように言ってくださいと申し出るのです。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」(40節)。

 私たちには状況が手に取るように分かります。マルタの気持ちがよく分かるのです。おそらく日常的に私たちの周囲では現実にそのようなことがしばしば起こるからでありましょう。マルタに対するイエスの言葉は聴きようによっては、やんわりとはしていますが、冷たく拒絶的なものに響きます。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」(41-42節)。確かにマリアは一生懸命にイエスに耳を傾けることを選んでいる。「必要なただ一つ」の「良い方」を選んでいるのです。それはマリアから取り上げてはならないことでした。

 不公平だと思っていたマルタにはそれはショッキングな言葉でもありました。マルタも早く食卓の準備を終えてイエスに耳を傾けたいと思っていたことでしょう。だからマリアにも手伝って欲しかった。ですからマルタはそれまでも何度か直接マリアに手伝うように声かけやサインを出していたのかも知れません。でもマリアは重い腰を上げようとしなかった。ですからマルタはイエスに直接申し出たのでしょう。イエスの答えは彼女にとって思いもよらないものでした。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」(41節)。ここでイエスが慈しむように二度マルタの名を呼んでいるのはマルタに対する深い愛情が表れていると思われます。漢字で「忙しい」とは「心を亡ぼす」と書きますが、忙しいと私たちは大切なことを忘れてしまいがちなのです。マルタは、「いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いている」中で、「もてなしの心」「ディアコニアの心」を見失ってしまいました。そこでイエスに近寄ってそのように不平を言ったのです。イエスのこの答えにマルタはハッとして自らを振り返ることができたでしょうか。そうであったことを期待します。イエスの言葉は常に私たちに自らの罪や至らなさに気づかせ、私たちを神へと立ち返らせてくれるからです。福音の言葉は常に私たちをハッとさせホッとさせるのです。

 

<「雑用というものはありません。用を雑にしているかどうかなのです」(渡辺和子)

 前にもご紹介したことがありましたが、『置かれた場所で咲きなさい』という本で有名な渡辺和子シスター(1927-2016)の若い頃のエピソードです。シスターは若い頃米国の修道院に留学をしていました。しかし修道院では来る日も来る日も食堂で皿洗いばかりをさせられて、ある日我慢ができなくなって修道院長に「なぜ私に皿洗いという雑用ばかりをさせるのですか」と文句を言ったそうです。すると修道院長はニコニコと笑いながら、「シスター和子、雑用というものはないのですよ。用を雑にしているかどうかだけなのです」と答えたということでした。和子シスターはその言葉にハッとします。よく見ると、美味しい食事を心を込めて作ってくださる方がいて、それをきれいに洗われたお皿に美しくもりつける方がいて、そして美味しく食べてくださる方がいる。お皿を洗うという仕事もそう考えるとなくてはならない大切な仕事だということが見えてきたのです。それ以降シスターは心を込め祈りを込めてお皿を洗うことができるようになりました。このエピソードを私は初任地の福山で市民クリスマスにシスターから伺い、確かにそうだとハッとしました。まあ、私たちは分かってはいるけれども忙しさの中で「もてなし(ディアコニア)の心」を忘れて、不満が頭をもたげてくることがあるだろうと思います。「雑用という仕事はない。用を雑にしているかどうかである」という言葉に繰り返し戻ってくる必要があるのでしょう。

 私の前任地の東京・阿佐ヶ谷にある「むさしの教会」にはかつて5本のサクラ・ソメイヨシノの大木がありました。1958年に鷺ノ宮の神学校から現在地に新会堂ができて移ってきたときに植樹されたサクラです。四季折々にそのサクラは美しい姿を見せてくれました。しかし正直に言わなければなりません。秋の落葉掃きは私にとってはなかなか楽ではない「修行」でした。その時に支えになったのが「雑用という仕事はない」というこの言葉でした。来る日も来る日も山のような落ち葉を掃きながら、しかしその落ち葉が最高に美しく感じる日がある。それを過ぎると落ち葉は次第にみずみずしさを失って枯れてゆく。不思議な「神のカイロス(時)」に立ち会うことができました。

 私たちには忙しさの中でイエスにグチをこぼしたマルタの気持ちがよく分かります。でもマルタはイエスに対峙した点で正しかったのだと思います。イエスに向かっていつでも私たちはグチをこぼしてよいのです。イエスはマルタの気持ちを受け止めておられる。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」。これはマルタの思いを汲んでマルタにも必要なことに気づくよう促したイエスの温かな言葉でした。詩編150編のうち4割は嘆きの詩編です。神に向かって嘆いてよい、グチをこぼしてよい。神はそれらを受け止め必ず聴き取ってくださるのです。

 

<「9時〜5時、5時〜9時」〜「マルタ」:「マリア」:「ジョージ」=1:1:1

 マルタとマリアは姉妹として描かれていますが、私はこの二人をどうしても自分の中にある二つの部分として見てしまいます。私たちの中には確かに「マルタ的な部分」「マリア的な部分」の両方があり、また両方が必要であると思います。大切なことは両者を行きつ戻りつする「バランス」なのです。

 かつてインドのマザーテレサの修道院を三回訪れた神学生がいました。浜松教会の渡邉克博牧師です。彼から「9時〜5時、5時〜9時」という言葉を聞いたことがありました。シスターたちは朝の9時から夕方5時までは貧しい人々のために献身的に尽くします。しかし夕方5時になると「ではまた明日お会いしましょう」と言って修道院に戻って、バタンと扉を閉めて翌朝の9時までは決して出てこないのだそうです。「9時〜5時」の8時間は他者に仕える時間、いわば「マルタ的な時間」。それに対し「5時〜9時」の16時間は、自分自身のためのマリア的な時間とも言えましょう。それは、祈りの時、み言の時、ボンヤリしている時であり、ゆっくりと食事を取って安息し、眠る時でもあります。そのような「自分をケアするための時間」があるからシスターたちは働き続けることができる。それはどうしても必要な「自分を愛する(大切にする)ための時間」なのです。これはマルタにもマリアにも必要です。

 私は「常時大暇」(北陸での学生時代に私がいつも暇そうにしているのでそのように呼ぶ後輩がいた)というあだ名をサークルの後輩からもらったことがあります。よほど暇そうに見えたのでしょう。仮にジョージ的な部分として「ジョージ」と呼ぶとすれば、マルタとマリアとジョージのバランスを取るということが求められるのではないかと思うのです(彼らにはラザロという弟がいましたがその名を使うのはラザロに気の毒ですので、ぼんやりと何もしていない時間を仮に「ジョージ的」と呼ぶことにしておきましょう。皆さんはそこに自分の名前を当てはめてください)。

 ペンテコステの日に突然私は「突発性難聴」になりました。皆さまには色々とご心配をかけすみませんでした。またお祈りをありがとうございました。迅速な治療とアドヴァイス、お祈りのおかげで、左耳のザーッと言うホワイトノイズも一週間ほどでほぼ治まりました。異次元の聖霊体験(パウロの言うところの「第三の天に上げられた」のような体験)だったように受け止めています。その際に教会員の耳鼻科の医師から「安静にしてください」というアドヴァイスをいただきました。その通りですので素直に「ハイ」と答えました。しかし妻から「安静、安静」と言われると、やましい気持ちがあるためか、なぜかそれが「反省、反省」に聞こえました。笑い話のような本当の話です。

いずれにせよ、この「安静に」という言葉によって気づかされたことがあります。「もてなすマルタ」と「イエスに聴くマリア」の他に、私たちには「ボンヤリとしてキチンと休息と睡眠を取るジョージ」が大切だということです。先ほどの「9時〜5時、5時〜9時」も「1:2」の割合でした。マルタとマリアとジョージは恐らく「1:1:1」の割合でバランスよく受け止めてゆくことが大切なのでしょう。簡単ではないでしょうが、「安静、安静」と「反省、反省」という二重の天の声を聴きながら、日々の生活を大切に歩んでゆきたいと思います。

 皆さまに天よりの祝福をお祈りいたします。

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