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2022年7月 9日 (土)

2022年7月10日(日)聖霊降臨後第四主日礼拝 説教「小さなキリストになる」

2022年710日(日)聖霊降臨後第四主日礼拝 説教「小さなキリストになる」

大柴 譲治 joshiba@mac.com

〇 ルカによる福音書  10:25-37

ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』

 

< 「良きサマリア人のたとえ」〜 アガペーの愛を行う  

 本日の福音書の日課はあの有名な「良きサマリア人のたとえ」です。これはルカ福音書にしか出てこないたとえですので、三年周期の聖書日課を使っていますと三年に一回このエピソードに触れることになります。大切なたとえですのでご一緒に心を開き、耳を澄ませてみ言葉に聴いてまいりましょう。

 キリスト教は「愛の宗教」と呼ばれます。この「良きサマリア人のたとえ」を読みますとそのことがよく分かります。愛の実践が重要なのです。最初にイエスと律法の専門家のやり取りがあります。逐語会話記録風に記してみましょう。

 

律法家①:「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」

イエス①:「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか。」

律法家②:「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を

愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」

イエス②:「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」

 

 「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」。これは何と明快な言葉でしょうか。そこでは「アガペーの愛を行うこと」が求められています。ここでは最初「永遠の命」を得るためには「神への愛」と「隣人への愛」の二つが必要と明示されている。前者を「垂直方向の愛」に譬えるならば、後者は「水平方向の愛」ということになりましょうか。あの十字架のように、実は垂直方向の神への愛と水平方向の隣人愛とは分かちがたく結びついているのです。もう一つ付け加えておくならば「自分のように隣人を愛せよ」とありますので、そこでは「自分を愛する愛」も前提にされていることになります。ここで「愛」とは「大切にする」ことです。「神への愛」と「自己への愛」そして「隣人への愛」は三方向に向かうベクトルのように見えますが、根本では一つに分かちがたく結び合っています。それは言わば「三位一体の愛」なのです。どの一つのベクトルを否定しても他の二つが成り立たない関係にあります。

 

< 「私の隣人とは誰か」から「誰がこの人の隣人となったか」への主語の転換 〜 主体のコペルニクス的転換 >

 これに続く「隣人とは誰か」という律法学者の問いかけによって、特に「隣人への愛」に焦点が当てられることになります。そこでイエスは「良きサマリア人のたとえ」を語ってゆくのです。もしかしたらこれと似たようなことが実際にあって当時話題となっていたのかも知れません。ユダヤ人とサマリア人は本来同族でした。ソロモン王の後、紀元前922年にイスラエルは南北に分裂する。南王国ユダ(南の2部族)と北王国イスラエルです。北王国は紀元前722年にアッシリアに滅ぼされるのですが、その時に離散した「失われた北の10部族」の流れを引くのがサマリア人でした。当時ユダヤ人とサマリア人は近親憎悪的な「犬猿の仲」。ですから律法学者も最後に苦々しく「その人を助けた人です」と言っています。口が裂けても「サマリア人」とは言いたくなかったのでしょう。そのユダヤ人律法学者は「サマリア人」を自分の「隣人」と認めることはできなかった。人間の愛はそのように、自らの価値基準をもって人と人との間に境界線を引いて分断してしまいます。しかし神のアガペーの愛は人々を相互に隣人として結び合わせるのです。架け橋ですね。

 「誰が私の隣人か」という問いの問題性は、どこまでも自分の価値判断を中心に置いて、自分が自分の隣人を意図的に選ぶ点にありました。イエスはそれをそのたとえの中で逆転させています。「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と。「自分の隣人は誰か」ではなく「誰がこの人の隣人になったか」と逆転させているのです。自分のニーズではなく、相手のニーズを中心に据えてそれに応えてゆくclient-centered care(カール・カール・ロジャースの言う「来談者中心療法」)がそこでは求められていることが分かります。

 

< 「神を愛すること」と「隣人愛」とを分離しないということ >

 さらに大きな次元に触れなければなりません。たとえの中には祭司とレビ人が登場しますが、彼らはエルサレム神殿に仕えていた「宗教家たち」でした。エルサレムでの務めを終えて「祭司の町」と呼ばれたエリコにある自分の家に帰るところだったのでしょう。彼らは「神を愛する」ことを第一義的に実践しなければならない人たちだった。律法には「汚れたものに近づいてはならない」という規定がありました。その定めによると死体や血を流しているものは「汚れたもの」と定められていました(レビ5:210:10等)。彼らも倒れている旅人を見て恐らく気の毒に思ったことでしょう。しかし律法の規定に従うため「道の向こう側/一番遠い所」を通り過ぎていったのです。汚れたものに近づくと、身を清めるまで一定期間宗教的な祭儀ができなくなるからです。彼らは「神への愛」を優先させ、「隣人愛」を切り離したのでした。十字架の垂直のラインと水平のラインを分離させたのです。しかしサマリア人は違いました。無意識だったかもしれませんが、「隣人愛の実践」の中に「神への愛」を貫いたのです。水平のラインと垂直のラインを結びつけて(クロスさせて)生きたのでした。その独り子を賜るほどに私たちに注がれた神のアガペーの愛とはそのような愛なのです。

 

< 「良きサマリア人」=イエス・キリスト 〜  私も「一人の小さなキリスト」になる >

 その意味でこの「良きサマリア人」は私たちにとって主キリストを意味しています。私たち自身が強盗に襲われて傷つけられて道端に倒れている旅人なのです。主はそのようなボロボロになった姿を見て「憐れに思い」(断腸の思いで)、近寄って私たちを介抱してくださるのです。キリストによって私たちはその傷を癒され、罪から解放され救われました。そのキリストは命じています。「行って、あなたも同じようにしなさい」と。 私たち一人ひとりが「良きサマリア人」となるべきことを命じておられる。もう一歩進めて言うならば、主は私たち一人ひとりが「小さなキリスト」になることを命じておられる。主は私たちをその手足として用いて、今もこの地上で「深い憐れみの業」を実践しておられるのです。

 ルターは『キリスト者の自由』の中でこう語ります(徳善義和『キリスト者の自由 〜 自由と愛に生きる 全訳と吟味』、新地書房、p255)。

「まことに私の神は、まったく価値のない、罪に定められた人間である私に何らの功績もなしにまったく無代価で純粋のあわれみから、キリストをとおし、キリストにおいて、すべての義と救いのみちみちた富を与えてくださり、これからのち私が、そのとおりに信じる以外にはもはや何も必要でないようにしてくださった。このあふれるばかりの財宝を私にこのように注いでくださった父(なる神)に向かって、私もまた、自由に喜んで報いを考えずに、みこころにかなうことを行いたい。また、キリストが私に対してなってくださったように、私もまた、私の隣人に対して一人のキリスト者になりたい」(下線は大柴)。

 この最後の「キリストが私に対してなってくださったように、私もまた、私の隣人に対して一人のキリスト者になりたい」という言葉は、岩波文庫に収められている石原謙訳の初版では「わたしも隣人に対して一人の小さなキリストになりたい」となっていました。「一人の小さなキリスト」です。この言葉はストンと私の腑に落ちました。佐藤繁彦からの批判を受けて石原はその部分を次のように訂正したと伝えられています。「キリストがわたしのためになりたもうたように、わたしもまたわたしの隣人のために一人のキリストとなろう」(『キリスト者の自由』、岩波文庫、1955p44)。

 何も「大きなキリスト」でなくてよい。「小さなキリスト」でよいのです。自分ができる範囲内で、小さなキリストとしてささやかな愛の行いを実践すればよい。「良きサマリア人」は、傷ついた旅人に対して、自分にできることをしています。「ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして自分のろばに乗せ宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し(労働者二日分の賃金に相当)、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います』」(33-35節。下線は大柴)。彼は隣人に対して「一人の小さなキリスト」になっていたのです。その宿は恐らくサマリア人にとっては常宿だったのでしょう。彼は帰りがけにもそこに立ち寄り、費用がさらにかかったら支払うことを宿屋の主人に約束します。深いあわれみ(スプラングニゾマイ/断腸の思い)から来る真の愛の行為です。

 私たちもまた、キリストが私たちにしてくださったように、隣人に対して「一人の小さなキリスト」となって、自分にできるささやかなことを具体的になしてゆきたいと思います。主は言われました。「行って、あなたも同じようにしなさい」。ここにこそ「永遠の命」につながる私たちキリスト者の喜びと感謝、そして真の自由とがあるのです。

 お一人おひとりの上に主のアガペーの愛が豊かに注がれますようお祈りいたします。 アーメン。

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