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2022年7月23日 (土)

2022年7月24日(日)聖霊降臨後第七主日礼拝 説教「父よ、御国が来ますように」

2022年724日(日)聖霊降臨後第七主日礼拝 説教「父よ、御国が来ますように」

大柴 譲治 joshiba@mac.com

〇 創世記 18:20-32

主は言われた。「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」アブラハムは答えた。「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、五十人の正しい者に五人足りないかもしれません。それでもあなたは、五人足りないために、町のすべてを滅ぼされますか。」主は言われた。「もし、四十五人いれば滅ぼさない。」・・・アブラハムは言った。「主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」(26-28, 29節)

〇 ルカによる福音書  11: 1-13

イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。』 (1-2節)

 

 

< ある教会員の憤り 〜 「どうしてこのような悪が地上には満ちているのですか?」>

 二週間前のことです。礼拝後に一人の教会員の青年が私のところに来てこう語られました。「どうしてこのような悪が地上には満ちているのですか? 神はなぜ沈黙しているのですか。神はどこにいて何をなさっておられるのですか?」と。それは深い悲憤に満ちた声であり表情でした。この世で現在起こっていることを思う時に、本当にその通りだと思います。その気持ちが私たちには痛いほど分かります。どこを向いても暗い現実ばかりなのですから、ある意味で悲憤を持つことは当然でもある。その時の話の中で私は本日の主題でもある「主の祈り」について言及しました。

 

< 「主の祈り」=「世界を守る祈り」>

 本日の福音書には主の祈りが与えられています。私たちは毎週の主日礼拝の中でこのイエスがお教え下さった主の祈りを祈りますし、毎日の生活の中でも繰り返し祈ります。私はCOVID-19になって以来、毎日正午にこの主の祈りを祈るようにしています。この祈りは「世界を包む祈り」であり「世界を守る祈り」でもあると信じるからです(H・ティーリケ)。特にその最初の三つの願い、「天にましますわれらの父よ、願わくは、御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。御心の天になるごとく、地にも成させたまえ」という最初の三つの願いは、神の御心の実現を祈る祈りです。これはイエスが教えてくださらなければ私たちの中からはなかなか出てこない祈りかと思っています。私たちはともすれば自分のことしか祈らないからです(もちろん、自分のことを祈ってよいのですが)。主の祈りもまた私たち自身のことを祈ります。後半の四つの願いはこうです。「われらの日ごとの糧を、今日も与えたまえ。われらに罪を犯す者をわれらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ。われらを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」。私たちは主の祈りを通して、まず神の御心の実現を祈る中で私たち自身の願いも祈るのです。この順番が大切です。「かたちからはいる」という語がありますが、主の祈りを繰り返し祈ることの中で不思議なことに私たちの心の中の祈る姿勢は整えられてゆくのです。

 ドイツのルーテル教会の牧師である神学者のヘルムート・ティーリケは次のようなことを言っています。「この主の祈りは今この瞬間にもどこかの国で祈られ続けている祈りです。世界には24時間の時差があるため、これはいつも誰かが世界のどこかで祈っている祈りです。その意味でこれは、『世界を包む祈り』であり『世界を守る祈り』なのです。この祈りがあるから世界がこれ以上悪くならないように守られていると言えましょう」。まことにその通りと私も思っています。この世界は十分に悪に満ちていて既に十分に悪くなってしまっているように思いますが、さらに悪くなっていかないようにこの祈りが守っていると言うのです。新約聖書の一番最後に置かれているヨハネの黙示録も「ジグザクのようにこの世界はドンドン悪くなってゆく。そのどん底において突然終わりの日が来る」ということを預言しています。

 今日の旧約の日課である創世記18章には、アブラハムがソドムのために執り成しの祈りを神に捧げる場面が出てきます。それは「執り成しの祈り」というよりもむしろ凄まじいばかりのアブラハムの神との「執り成し交渉」であり「格闘」とも呼べるような場面です。私などは創世記32章に出てくるペヌエルでのヤコブの神との格闘を思い起こします。「もしソドムに50人の正しい者がいるとしたら、神よあなたは、その50人をソドムと一緒に滅ぼすのですか」とアブラハムは神に問いかけます。「50人の正しい者がそこにいたら、ソドムを滅ぼさない」と神は答えます。「45人では?」「40人では?」「30人では?」「20人では?」「10人では?」とアブラハムは粘り続けます。神は根負けしたようにアブラハムに答えるのです。「その十人のためにわたしは滅ぼさない」(創世記18:32)。

 このアブラハムと神とのやりとりは圧巻です。アブラハムの粘り強い執り成しの祈りに神は動かされている。結局ソドムは「10人の正しい者」がいなかったために滅ぼされてしまいます。アブラハムの甥のロトの家族は、振り返ってはならないという戒めに逆らって後ろを振り返り「塩の柱」になってしまったロトの妻を除いて(創世記19:26)助かるのですが、その数も結局10人に満たなかったということなのでしょう。アブラハムのソドムのためのこの執り成しの祈りは私たちの心の中に深く響き続けます。

 

< 「10人の正しい者(=神にとりなす者)」になる >

 私は思います。「父よ、御国を来たらせたまえ」と祈ることは、ルターが小教理問答の中で告げているように、私たち自身を「神の道具」として差し出すことだと。ルターは次のように語っています(『小教理問答』)。

 

  第二の願い  「み国が来ますように。」

   これはどんな意味ですか。

  答 ― たしかに神の国は、わたしたちの祈りがなくても、みずからくるものです。しかしわたしたちはこの祈りにおいて、み国がわたしたちのところにもくるようにと祈るのです。

   それはどうして実現しますか。

  答 ― それは天の父がわたしたちに聖霊を与えて、わたしたちが、神の恵みによって、聖なるみことばを信じ、この世においても、永遠の世においても、信仰ある生活をするときに、実現します。

 

< 「父よ、御国が来ますように」と祈る = 私たちがそのための「神の道具」「地の塩・世の光」になる>

 「神の国(バシレイア・トゥ・セウー)」という語で私たちは、領土的・空間的な国土のようなものを連想するかも知れません。しかしそれはむしろ関係を表すところの「神の統治」「神のご支配」という意味の語なのです。私たちが神との信頼関係・主従関係に生きる時、そこには既に「神の国」が実現していると言うことができる。ルターが「それは天の父がわたしたちに聖霊を与えて、わたしたちが、神の恵みによって、聖なるみことばを信じ、この世においても、永遠の世においても、信仰ある生活をするときに、実現します」と言っている通りなのです。

 創世記の18章のみ言葉と重ね合わせてみるならば、私たちが「10人の正しい者」としてこの地上に生きる時に、神が「ソドムをその10人のゆえに滅ぼさない」と言われたように、神の御国が私たちを通して実現するのです。そのために何ができるのかは私たち一人ひとりが置かれた場で祈りながら考えてゆかなければなりません。主は言われました。「あなたがたは地の塩、世の光である」と(マタイ5:13-16)。私たちをそのように見て宣言してくださるイエス・キリストがおられるのです。

 ルカ福音書はこのところ毎週のように「神のアガペーの愛をもって隣人を愛すること」を繰り返し私たちに告げています。アガペーの愛をもって私たちが生きる時に神の御業がこの地上において現れるのです。そのようなコールとミッションが私たちキリスト者一人ひとりにキリストご自身から与えられていることを心に刻みたいと思います。「天の父よ、私たちを通してこの地上にあなたのみ国が来ますように」と祈りながら、新しい一歩を踏み出してまいりましょう。

 お一人おひとりの上に憐れみ深い主イエスのアガペーの愛が満ち溢れますようにお祈りいたします。

 アーメン。

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