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2019年7月 8日 (月)

2019年7月7日(日)聖霊降臨後第四主日礼拝説教「二人一組の派遣」

2019年77日(日) 聖霊降臨後第四主日礼拝説教「二人一組の派遣」     大柴 譲治

ルカによる福音書 10:1−11、16−20

1  その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。 2そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」 (1-2節)

 

「二人一組の派遣」

 本日の説教題は「二人一組の派遣」とさせていただきました。本日の福音書の日課にはイエスが72人の弟子たちを二人ずつ派遣したことが記されています。「その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。そして、彼らに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい』」(ルカ10:1-2。下線:大柴)。本日の主題はこの二人一組というところに焦点を当て、そのことの大切な意味について思い巡らせてみたいと思います。

 

なぜ「二人一組」なのか

 それにしてもなぜイエスは弟子たちを「二人ずつ」派遣したのでしょうか。なぜ「二人一組」なのでしょうか。

72人の派遣に先立って、ルカ福音書の9章にはイエスが12弟子を同じように派遣したことが記されています。ここには「二人ずつ」という描写はないのですが、その平衡箇所であるマルコ福音書6章には実ははっきりと「二人ずつ組にして」と書かれています。「それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして『下着は二枚着てはならない』と命じられた」(マルコ6:6a-9、下線:大柴)。「二人ずつ」という語は福音書ではマルコ6:7とルカ10:1の二ヶ所にしか出て来ませんが、聖書の中では重要なキーワードでもあります。

旧約聖書のコヘレトの言葉(伝道の書)4章の中に次のような言葉があります。「ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。更に、ふたりで寝れば暖かいが、ひとりでどうして暖まれようか。ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する。三つよりの糸は切れにくい」(9-12節)。二人三脚で支え合い守り合う「友」や「仲間」や「家族」の存在は確かに大きいのです。「人」という字が二人の人が支え合って立っていることを意味しているように、二人一組であれば必要な時に相互に助け合い支え合うことができるからです。

 

ボンヘッファーの『共に生きる生活』

 第二次戦争中に、ディートリッヒ・ボンヘッファーというドイツ・ルター派の牧師がいました(1906-1945)。1943年にユダヤ人の亡命を支援したという罪で捕らえられ、ヒトラー暗殺計画に加担したという罪も明らかになって、194549日に39歳で強制収容所で処刑された人物です。彼の生前に出版された彼の「白鳥の歌」と呼ばれる『共に生きる生活』という本があります。それは牧師補研修所の所長として若き牧師補たちと生活を共にする中で書かれた書物で、キリスト者としての日々の生活や「霊性(スピリチュアリティー)」といったものをよく表している書物です。皆さんの中にもお読みになられた方がおられることでしょう。機会があればぜひ手に取っていただきたい本の一つです。その本の中には(要約ですが)次のようなことが書かれています。「キリスト者が他のキリスト者と共にいるということは自明なことではない。神の恩寵である。私たちの救いは常に私たちの外から来る(’extra nos’)。キリスト者は他のキリスト者の口を通して語られるキリストの言葉を必要とする。私の心の中のキリストは、兄弟姉妹の声(言葉)におけるキリストよりも弱いのだから」。味わい深い洞察であると思います。一人の信仰者は他の信仰者の具体的な言葉(=声)を通して支えられる必要があるというのです。

「レジリエンス」

 『るうてる7月号』が届きましたが、今回私は「議長室から」ということで「レジリエンス」について書かせていただきました。「レジリエンス」とは元々は「バネの復元力」のことを意味する言葉で、そこから「逆境力」とか「折れない心」とも訳されるようになりました。困難の中にあっても、めげない力、しぶとくしなやかにそれらを跳ね返す力を指しています。私はそれを「七転び八起き(する力)」だと思っています。レジリエンスの研究は米国で最も進んでいると言われますが、今から6年程前に埼玉県の大宮にある聖学院大学である米国の研究者の講演を聞いたことがありました。ご存知のように米国は銃社会です。護身用に銃を持っている人は少なくありません。自分の身は自分で守るという考え方が徹底しているのです。その方はこう話されました。米国では住民の70%の人が人生の中で一度は生命の危険を感じるほど怖い体験をするのだそうです。もちろん個々の事象によって差はあるでしょうが、皆その瞬間には大きな恐怖やショックを感じるのですが、調査してみるとそのうちの713%の人に精神的なトラウマ(傷)が残るそうなのです。「PTSDPost Traumatic Stress Disorder/心的外傷後ストレス障害」ですね。しかし、逆に言えば、8793%の人は、何とかその体験を乗り越えて通常の生活に戻ることができるというのです。そしてトラウマが残る人と残らない人のその違いはどこから来るのかということを調べるのが「レジリエンスの研究」なのです(もともとはベトナム戦争の時にその研究は始まったようですが)。日本でも1995年の阪神・淡路大震災や2011年の東日本大震災以降によくこのことは研究されるようになってきました。

 レジリエンスに関しては今では様々な研究の成果が報告されていますが、その先生はそこには三つの要因があると話されました。①「性格」、②誰か一人でもいいから自分の気持ちを聴いてくれる「友」を持つこと、③「温かい共同体に所属すること」、の三つです。確かにそうですね。①性格的に明るい人の方が、暗い人よりもレジリエンスが強いと言えましょう。落ち込んだとしてもあまりクヨクヨせずに、前を向いて、上を向いて歩いてゆこうとすることでしょう。②もその通りです。自分の中に沸き起こる様々な感情を安心・安全な環境の中で言葉として表現することができて、それを黙って(批判せずに)聴いてくれる人がそばにいるかどうかで大きな違いが出るのです。一人でいいのです。そのような信頼できる家族や友や恩師がいてくれるかどうかが重要なのです。イエスの「二人一組の派遣」も、その意味では相互にレジリエンスを高め合うための具体的な配慮であったと思われます。ドイツにはこういう諺があるそうです。「二人で分かち合えば、苦しみは半分になり、喜びは倍になる」。また、アフリカにはこういう諺もあるそうです。「早く行きたいのであれば、独りで歩きなさい。遠くまで行きたいのであれば、誰かと一緒に歩きなさい」。私たちにはパートナー、仲間が必要なのです。親子であっても兄弟であっても、夫婦であっても友人であっても、同僚であっても先輩後輩であっても、師と弟子というかたちであっても、どのようなかたちでもよいのです。③の温かい共同体に所属する人の方が、冷たく互いに裁き合う共同体に所属する人よりもレジリエンスは高いというのも体験的によく分かることです。「喜ぶものと共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」とパウロもローマ12:15で勧めています。何が起こるか分からない先の見えない社会の中で、何が起こったとしてもそれを共に担ってゆくためにも、キリストの教会はあたたかい共同体であることが求められています。

 

「ふさわしい助け手(パートナー/コンパニオン)を与えよう」(創世記2:18

 創世記2章には、アダムとエバの出会いに先立って、神ご自身が「人が独りでいるのはよくない。ふさわしい助け手を与えよう」と決意する場面が出て来ます(18節)。「助け手」とは上下関係のある「アシスタント」ではなく、対等な関係の「パートナー」であり「コンパニオン(ラテン語で「パンを共に食する」の意)」ということです。その神の決意の下でアダムとエバが出会ってゆく。これは夫婦に限らず、親子や兄弟、友人、恩師、同僚と出会ってゆくことの背後には天の配剤があるということを明らかにしていると私は思います。人生は出会いですが、その出会いの背後には神の御旨があるのです。「二人一組の派遣」はそのような深い神の愛の御心を覚えつつ、イエスによって実践されたことなのです。そのことを覚えて私たちは、神によってこの大阪教会を通して与えられた、「地縁」でも「血縁」でもない、「キリスト縁」「聖霊縁」を大切にしてゆきたいと思います。お一人おひとりに祝福をお祈りいたします。

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