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2019年6月13日 (木)

2019年5月26日(日)復活後第5主日礼拝説教「約束された力」 竹田大地牧師

【説教】

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

 

私たちは、復活節を過ごしています。主イエスの十字架による贖い、死者の中からの復活という大きな悲嘆、そしてそれを打ち破り、主の栄光、喜び、平安をもたらしてくださった復活の出来事を覚えながら日々を過ごしています。真に復活がなければ私たちの信仰は無に等しく、この神の御業が福音そのものの栄光を豊かに啓かにしていることを思い起こします。

 

その復活の主イエスが弟子たちに現われ、復活の恵みを啓示してくださっている時はそろそろ終わりに近づいています。今週の木曜日に、私たちは昇天日を迎えますから、いよいよイエスがこの世でのお働きの最期の時を歩んでいるということも教会暦の歩みから感じ取ることができるのではないでしょうか。そのような中にあって、今日私たちのために神が示してくださった福音は、「父なる神が聖霊を遣わす」という約束を教えてくださっている場面からです。ご一緒にこのひと時、与えられている福音を通して神の御心に聴いてまいりましょう。

 

さて、イエスは弟子たちに「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」という約束がされています。しかしながら、私たちは、真に主を愛することの難しさの中に生きている者です。なぜならば、この「愛」は「アガペー」の愛だからです。友愛、恋愛、家族愛とはまったく異なる愛の姿です。

 

今、挙げた「愛」の姿は、ある意味でgive-and-takeの愛です。自分が与えた事がらに対して、見返りを求めてしまいます。親子愛を例にするならば、こんなに頑張っているのに親がちっとも褒めてくれないという子どもの思いがありますし、親は親でこれだけしているのにちっとも理想通りに育ってくれないという思いを持つ方もあると思います。それは友愛、恋愛においてもそうでありましょう。特に恋愛などは、そういう面が強いように思います。そして、それを面倒くさがると、良い結果は生まれないことを皆さんもそれぞれに経験したことだろうと思います。

 

しかしながら、イエスが示された「アガペー」の「愛」は、完全にgiveのみです。イエスの十字架の姿にこの神の愛が示されています。十字架は私たちの罪を神であるイエスが、私たちに代わり担い、贖ってくださった驚くべき出来事です。本来であれば、私たちは自分自身で犯した罪について自分自身で償っていかなければなりません。子どもが殺人を犯したからといって、親がその罪を肩代わりして代償することはできません。法律を犯せば、それ相応の償いが本人に課せられています。

 

しかしながら、神はこの人間の側に償いの業を期待するのではなく、神自らが人となり、十字架を通して、それらすべてを贖うという救いの業を啓示してくださったのです。この行為に何の得があるでしょうか。まったくもって非合理的です。自分の命を落としてまですることでしょうか。しかしながら、神は文字通り命を懸けて私たち一人ひとりを愛しているからこそ、この御業を成し遂げてくださったのです。自分の命よりも、私たち一人ひとりが、神の御国に行くこと、救われることを大切にされたのです。

 

さて、ここに集う皆さん罪人です。もっと言えば、ローマ法王も、マザーテレサも、日野原重明さんも、ダライ・ラマも罪人の一人にすぎません。有名無名を問わず誰であれ神が与えた律法に照らすならば、誰一人としてその教えを守ることができていないのが現実です。姦通の女を赦す場面、イエスは民衆に「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(ヨハネ8:7)と言われた時、年長者から始まって、最後にはイエスお一人だけが残りました。これが人間の真実の姿です。ですからすべての人間は、神に償っていかなければならない罪を抱えているにもかかわらず、神ご自身が私たちの罪を贖う働きを成し遂げてくださったことはまったく驚くべきことであり、この根底にこそ「アガペー」があるのです。

 

この愛に私たちの命の根本があります。この愛によって私たちの信仰の礎は確かなものとされています。藍はすべてを完成させるのです。ですから、私たち自身この愛を根本として生きていくことの恵みを心に刻んでいきたいと思うのです。これをしたので愛してくださいという思いで神を愛するのではありません。悩み、苦難、痛みを取ってくれたら愛しますでもありません。ただ真っすぐに神を愛する。この世の栄光、富ではなく、神を真っすぐに愛する。そこに神は住まわれると約束されています。罪人の一人のところに神が来られ、神が住むということは、実に驚くべきことです。罪人にもかかわらず、神の宿るところに私たちは造り変えられているのです。

 

そして、私たち一人ひとりに住まわれている主の栄光が、私たちを通して世に輝きだすのです。イエスの十字架と復活の出来事には、私たちのあらゆる限界を超えて起こる奇跡のような御業が実現していることを思わされます。罪人の罪を神ご自身が働き、贖う。死という越えられない溝を越えて来られ復活し、罪人の体を主の宮とする。こうした御業の根底には、「アガペー」の「愛」があります。私たちの命は、この神のアガペーにすべて生かされているのです。

 

主イエスは、間もなくこの世から天に上げられていきます。しかし、それは永遠の別れではありません。私たちの内にアガペーがあります。そして、そのアガペーによって、神の平和の内に喜び、平安、癒し、慰め、励ましといったあらゆる善きもの、恵みに満たされているのです。それでも尚、私たちの本質が罪人であることに変わりはありません。その中でこのみ言葉を通して今日改めて主の愛に生かされている福音を告げ知らされました。

 

この福音を私たちは、宣べ伝える召しに与っていますが、宣教の根本にもアガペーが不可欠であることを教えられます。

パウロの「13:1たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。2たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。」(1コリ13:1、2)という証しはまさに「然り」「アーメン」です。

神の愛、アガペーに生きることができるように「神の愛の器としてください」と祈り、求めながら、与えられた福音を宣べ伝える使徒として歩む光栄を覚えてまいりましょう。神の愛が皆さんの内に豊かにありますように。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

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