« 2019年4月28日(日)復活節第2主日礼拝 説教「聖霊の息吹によって証しする」 | トップページ | 2019年5月12日(日)復活節第四主日礼拝 説教「天の声を聴き分ける力」 »

2019年5月 8日 (水)

2019年5月5日(日)復活節第三主日礼拝 説教「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」

2019年55日(日) 復活節第三主日礼拝 説教 「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」  大柴 譲治

使徒言行録 9: 1− 6

ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。(3-4節)

ヨハネによる福音書 21: 1−19

三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」(17節)

 

復活の主の声〜三つの言葉

 「主イエス・キリストが死んだ者たちの中からよみがえられた!」 この喜びの音信はまたたく間に弟子たちの中に広まりました。本日のヨハネ福音書には復活されたキリストが三度目に弟子たちの前に現れた様子が記されています。特に今日は復活の主の「三つの言葉(=声)」を拾いたいと思います。

前半部分には、夜通し漁に出ても何も獲れなかった弟子たちに復活の主が①「舟の右側に網を打ちなさい」と命じて、網を上げることができないほどおびただしい量の魚がかかったとあります。そこには「153匹」もの大きな魚があったとある。153という数字は当時知られていた魚の全種類を意味していたと考えられます。「網は破れていなかった」というのは、教会という弟子たちの網を用いて復活の主がすべての民族の中にその福音宣教の働きを遂行されるということが示されているのでしょう。復活の主の福音が地上のすべての民族へと宣べ伝えられてゆくこと、それが大きな収穫をもたらすことが予告されているのです。

 

朝食を準備してくださる復活の主〜炭火と焼き魚のリアリティ

 続いてヨハネ福音書21章では、復活の主が炭火を起こして弟子たちのために朝食の準備をしてくださる様子が記録されています。そして主は言われるのです。②「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と。私には復活の主のリアリティが「炭火と焼き魚の音と匂いと煙」の中に感じられるように思います。本日は残念ながら、時間の都合上、その部分にはこれ以上光を当てることは出来ませんが、復活の主が弟子たちに給仕する姿勢で、私たちを豊かに養ってくださるということがここに宣言されていると受け止めたいと思います。今日も行われる「聖餐式」は復活の主が自ら準備してくださった私たちのための「朝の食事」なのです。「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と招かれています。

 

「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」

 本日私が特に光を当ててフォーカスしたいのはその後の部分、すなわち復活の主とペトロとのやり取りの部分です。復活の主は三度もペトロに対して問いかけられました。③「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」と。実はヨハネ福音書ではペトロがイエスによって弟子とされたのは、他の共観福音書とは異なり、漁師であった彼が漁をしていたときではありませんでした。ヨハネ1:35-42を読みますと、洗礼者ヨハネがイエスを「見よ、神の小羊」と示したことを受けて、ヨハネの二人の弟子たちがイエスに従うことになりました。その一人がシモン・ペトロの兄弟アンデレだったのです。ヨハネ福音書によると、そのアンデレが兄弟ペトロに出会って「わたしたちはメシアと出会った」と告げてペトロをイエスのもとに連れてきたと報告されています。その際にイエスはペトロにこう言われました。「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ(岩)と呼ぶことにする」(ヨハネ1:42)。そこからペトロは、その素朴でまっすぐな性格のゆえでしょう、「ケファ(=ペトロ)」というあだ名で呼ばれるようになったのです。

 実は「ヨハネの子シモン」という呼びかけはそこが最初で、今日のところに三回、新約聖書の中に計4回繰り返されています。ペトロはここで自分の名前を復活の主に三度も呼ばれて身を正される思いがしたのではなかったかと思います。今日の第一日課・使徒言行録9章でもことは同じです。パウロがダマスコ途上で復活の主から呼びかけられた場面です。「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか」。復活の主がパウロに向かって直接語られたのです。この声とまばゆい光に打たれてパウロはキリスト教の迫害者からキリスト教の伝道者へと劇的な回心を遂げます。私たちに呼びかけてくる復活の主の側にこそイニシアチブ(主導権)があるのです。意識するかしないか、気づくか気づかないかに関わらず、私たちもまた人生の中で復活の主に自分の名前を呼ばれたのだと思います。一人ひとりその具体的なかたちは異なっていましょうが、私たちが今日この場に集っているのは、復活の主の呼びかけ(の声)に応答したということの具体的な結果なのです。

 

ペトロの罪の赦し〜ペトロの三度の否認を取り消された復活の主

 なぜペトロがここで三度も復活の主から呼びかけられているのでしょうか。ペトロは鶏が鳴く前に三度イエスを知らないと否みました。それはイエスご自身によって予告されていたことでもありました(13章。洗足の記事の直後)。予告の通りにペトロは「弟子の一人ではないか」という嫌疑に対して三度も「違う」と否定してしまったのです(18:15-27)。「ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた」と27節にはあります。ペトロは慟哭の中で自分の涙を止め得なかったことでしょう。そのようなペトロに対し、復活の主は彼の三度の否認を取り消すかのようなかたちで三度ペトロに確認しているのです。「ヨハネの子シモン、あなたはわたしを愛しているか」と。ペトロは応えます。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と。すると復活の主は「わたしの小羊を飼いなさい」と言われたのでした。復活の主が三度も同じことを繰り返し問われたために、ペトロは自分がそれほど信頼されていないのかととても悲しくなったことでしょう。イエスを自分が三度も否んだことが赦されていないと思ったかもしれません。私たちはペトロのどやるせない気持ちが分かるように思います。しかし復活の主はペトロを赦し、新しい使命を与えています。罪は繰り返し問われ続けなければならないのでありましょう。「あなたはわたしを愛しているか」。そして何度も繰り返して私たちは復活の主に答える必要があるのでしょう。「わたしはあなたを愛しています」。これは信仰の告白です。「わたしの羊を飼いなさい。世話をしなさい」というのは羊飼いのようにキリストの羊たちを牧会(パストラルケア)しなさいということです。復活の主はペトロ(とその後継者であるローマ教皇)にその任を託したとカトリック教会は理解しています。私たちプロテスタント教会は復活の主はその務めを教会に託されたと理解します。大切なことは復活の主の委託です。「ヨハネの子シモン、あなたはわたしを愛しているか」。私たち一人ひとりにも復活の主はそのように呼びかけてくださっているのだと思います。牧師だけではなく、すべての信仰者は相互に牧会的なケアをするよう復活の主から呼びかけられています。その主の委託に私たちは自分のできる範囲内で応えてゆきたいのです。それがキリストに従うということです。その声に耳を澄ませたいのです。

 

「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」(詩編23編)

私の先輩である定年教師の松本教義牧師(87歳)が53日に、内海望牧師(84歳)が54日にこの地上での役割を終えて相次いで天に召されました。すべてを復活の主の御手に委ねながら。天上はさぞかしにぎやかになったことでしょうが、地上はたいへんに寂しくなりました。ご遺族の上に天来の慰めをお祈りいたします。

私たち一人ひとりの名前を呼んで「あなたはわたしを愛しているか」と問うてくださる復活の主が、皆さまお一人おひとりを豊かに祝福してくださいますようにお祈りいたします。 アーメン。

« 2019年4月28日(日)復活節第2主日礼拝 説教「聖霊の息吹によって証しする」 | トップページ | 2019年5月12日(日)復活節第四主日礼拝 説教「天の声を聴き分ける力」 »

心と体」カテゴリの記事