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2019年5月 8日 (水)

2019年4月28日(日)復活節第2主日礼拝 説教「聖霊の息吹によって証しする」

2019年4月28日(日)復活節第2主日礼拝説教「聖霊の息吹によって証しする」 竹田 大地

本日の聖書日課

第1日課:使徒言行録 5章27-32節

5:27彼らが使徒たちを引いて来て最高法院の中に立たせると、大祭司が尋問した。28「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている。」29ペトロとほかの使徒たちは答えた。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。30わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。31神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。32わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」

 

第2日課:ヨハネの黙示録 1章4-8節

1:4‐5ヨハネからアジア州にある七つの教会へ。今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、玉座の前におられる七つの霊から、更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、6わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン。

7見よ、その方が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る、/ことに、彼を突き刺した者どもは。地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。然り、アーメン。

8神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」

 

福音書:ヨハネによる福音書 20章19‐31節

20:19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。21イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」24十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。25そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」26さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。27それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」28トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。29イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」30このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。31これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。 

【説教】

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

 

復活の朝、私たちは主イエスの復活のお姿に見え、希望と喜びを与えられました。復活節を迎えて、何か清々しい気持ちを覚えて私たちは過ごしています。皆さんも先週のイースターにおいてその祝福を分かち合ったばかりでした。そのような中で与えられている福音の出来事は、主イエスの復活の後の弟子たちとイエスの出会いの出来事からです。この福音からご一緒に神に御心を聴いてまいりましょう。

 

いつも私が個人的に思うのは、私たちにとって非常に大きな喜びを齎してくださっているイースターという出来事なのですが、聖書に記されているその出来事は、どことなく暗い雰囲気が充満しているように読み取れるのです。なぜそのように感じるのでしょうか。そこに聴いていくとき、今日の福音の真理が顕されているのではないかと思うのです。

 

本日の福音においても「弟子たちはユダヤ人たちを恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。」と記されている通り、そこには恐れがあります。何に対する恐れかというならば、自分たちにとって偉大だと思っていた者を失った恐れです。弟子たちは、数々の奇跡を目の当たりにし、誰も教えたことがないような教えを語り、大きな期待を寄せていた人が、十字架に架けられて、罪人(ざいにん)として死んだという事実は、受け止めきれないほどの悲しみ、落胆、嘆きを心の内にもたらし、またイエスとの関係を断ち切られ、もう二度と戻すことのできない限界を感じ、孤独に陥っていました。

 

そのように沈み切った弟子たちの元に復活された主イエスは突然現れました。そして、イエスは弟子たちに「あなたがたに平和があるように」と言われました。これは、皆さんご存知と思いますが「シャローム」という言葉です。イスラエルの人々にとっては、非常に慣れ親しんだ言葉なのです。「おはよう」「こんにちは」「こんばんは」「さようなら」といった挨拶の時にいつも交わしている言葉です。ですから、イスラエルの人々からするならば何ら特別な言葉ではありませんでした。

 

しかしながら、この何の変哲もない挨拶の言葉によって、彼らは希望と喜びに溢れかえったのです。この挨拶の言葉には双方の親しい関係性があります。見ず知らずの人に私たちはなかなか「おはよう」などと声をかけることは致しません。今の今まで沈み切っていた彼らは、この言葉によって励まされ、変えられたという出来事が示されています。この事がらに顕れている福音とは、神は私たちの抱える悲しみ、落胆、苦しみ、嘆きの内に現れてくださり、何の変哲もないように思える挨拶の言葉をもって語り掛け、私たちを神との親しい交わりの内に回復してくださる方なのです。

 

翻って、皆さんの日常を見つめてみてください。主イエスの姿が見当たらないと、見えないと思われるとき、そのような経験をしたことがあることだろうと思います。しかしながら、イエスは、何の変哲もない挨拶をもって現れてくださったように、私たちのそういった思いをご存知であり、そこに特別な言葉で、威厳をもって現れるのではなく、親しみのある挨拶で弟子たちに語り掛けてくださり、私という存在は、神との親しい交わりの内にあるのだと語り掛けてくださっているのです。

 

トマスもまさにこの孤独の内にあったと想像できます。他の弟子たちは、復活の主イエスに見え、関係の回復の喜びの内にあることを経験しました。トマスは、何をしていたかは分かりませんが、その時その場に居合わせていませんでした。他の人々が喜んでいることを素直に我がこととして受け止めきれずにいる姿が垣間見えます。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」というトマスの言葉は、そういう多数の中にある少数者が抱える孤独や疎外感から来る疑いであると思うのです。

 

彼が強がりだからとか、融通が利かないからだということではありません。皆さんも自分以外の人々が喜んだり、何か共通の体験をしているのに、その輪に入れずに孤独を覚えるという経験をしたことはないでしょうか。私自身のことですが、教会に帰っていくときそれを痛烈に感じました。周りの人々は顔見知りで、皆親しく交わりを持ち、喜びをもって奉仕に打ち込んでいる姿は、このトマスにも似たような心境だったことを思い出します。

 

しかし、そのトマスにも復活の主イエスは現れてくださいました。疑いと迷い、疎外と孤独を抱える者の元にもあの「シャローム」という挨拶をもって現れてくださったのです。そして、他の弟子たち同様に神との交わりの内に回復してくださったのです。この出来事から、神は私たち一人ひとりと出会ってくださり、私たちを復活の主イエスを信じる信仰に招いて下さっているということです。ペトロたちにも、トマスにも同じ復活の主イエスが臨み、死をも打ち破る力なる神の御姿を見る者としてくださるのです。

 

そして、回復された者をイエスは「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」と私たちにイエスと同様の召しを与え、霊の力づけと権能を授けてくださるのです。ここでも「回復」が示されています。なぜならば、この弟子たちは、十字架の場面においてイエスを捨て、逃げ、ペトロの至っては三度知らないとイエスを拒んだ罪人の群でした。トマスは復活の主イエスを疑いました。そのような者たちをイエスが用いられたということは、神の赦しがそこに在るということです。

イエスとの関係を断ち、拒絶したのは私たち人間であったにもかかわらず、その私たちにイエスが霊を注いでくださった出来事の背後には、神の憐れみ、赦しが示されているのです。そして、この与えられた霊が無ければ、私たちはまた苦難や、嘆きの内に落とされた時、失望し、落胆し、神のみ前から逃げ出し、その歩みを止めてしまうことでしょう。疑いと孤独の内に陥ってしまいます。

 

しかしながら、もはやそれらの力に打ち勝つ方から私たちは力づけを与えられています。それゆえに、第一日課のペトロのようにユダヤ人たちの尋問にあいながら、イエスについて教えることを止めさせようとする勢力に対して、毅然と「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。」と復活の主イエスの証人として力強く語ることがかなうのです。

 

復活の主イエスを信じる者の強さを私たちは垣間見ます。しかしそれは、弟子たち自身が強いからではありません。死に打ち勝ち、罪の力を打ち破ってくださった方から与えられている恵みです。それによらなければ私たちは決して強くあること、交わりの内にある喜びを覚えていくことはできません。

私たちは、この復活の主イエスと弟子たちとの出会い以来、私たちの日々を神との交わりの回復の喜びの内に歩ませ、生かし続けてくださる方の恵みによって「私」という者が在るのです。

 

あなたにとって暗く長いトンネルと思われていることは、このイエスの復活を信じる信仰によって打ち破られます。この福音が示されても、つい私たちは悲観主義に陥ります。しかしながら、その日常の中にイエスは生きておられ、私たち一人ひとりと共に今も在ります。「シャローム」と語り掛け、私たちを神との交わりの内に置いて下さり、霊を与え、信仰を与え、恵みの内に生かしてくださるのです。

 

あなたの心の鍵は、戸は、主イエスの親しみのある挨拶によって開け放たれています。自分の命を隣人のために献げてくださったイエスの姿に倣う者として霊を与えられ、新しい命の営みへと遣わしてくださっています。この復活の日の弟子たちやトマスのような思いを抱えている方々が教会の内外にまだまだたくさん居られることを思います。私たちはどうあるべきでしょうか。主イエスは、弟子たちにどのようなお姿を示し、私たちの模範となってくださったでしょうか。聖霊の息吹はあなたにどのような道を示しているでしょうか。どうぞその霊の導きに従って歩んでいき、主イエスの後を歩む幸いを覚えて歩んでまいりましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

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