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2019年1月 1日 (火)

2019年1月1日 元旦礼拝説教 「主の恵みの年の初めに」

201911日 元旦礼拝説教 「主の恵みの年の初めに」           大柴 譲治

○ コヘレトの言葉 3:1−13

何事にも時があり, 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。‥神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。1, 11節)

○ ヨハネの黙示録 21:1―6

のとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」3-4節)

○ マタイによる福音書 25:31−46

そこで、王は答える。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」40節)

 

はじめに

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。  アーメン。

 

一年の計は元旦にあり〜「聽く」という姿勢を大切に

 新年あけましておめでとうございます。この新しい年もご一緒に聖餐礼拝をもって始めることができることを心から感謝します。新年の上に神さまの祝福が豊かにありますよう祈りつつ、神のみ言に聽いてまいりたいと思います。

 ここで「聽く」という語は、「傾聴」「聴」という字の旧字体を覚えたいのです。「耳」の下に「王」という字があって、右側には「十」「目」が横たわった姿(「四」ではありません)、そして「一」「心」という字が組み合わされています。その意味は「耳と目と心を一つにしてそれを十全に用いて王なる者の声に聽いてゆく」ということになります。王なる神の声に私たちは全身全霊を用いて耳を傾けてゆくのです。神のみ言に聽いてゆく、この私たちの姿勢を新しい年の初めにもまず心に刻みたいのです。天地万物が揺らぐとも主の言葉は永久に立つのですから。

 

本日与えられた三つのみ言〜①コヘレト3章、②ヨハネ黙示録21章、③マタイ25

 本日与えられている三つの日課はそれぞれに大変特徴的な箇所です。旧約日課はコヘレトの言葉3章です。1節はこうなっています。何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」。そして11節。「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない」。これは私たちが長く「神のなさることは皆その時に適って美しい」という口語訳聖書の伝道の書で親しんできたみ言でもあります。昨年12月に新しく出た『聖書協会共同訳』ではこうなっていまして少し口語訳に戻っている感がします。「天の下では、すべてに時期があり、すべての出来事に時がある。生まれるに時があり、死ぬに時がある。・・・神はすべてを時に適って麗しく造り、永遠を人の心に与えた。だが、神の行った業を人は初めから終わりまで見きわめることはできない」。私たちには神のなさることを見究めることはできないのです。コヘレトの最初の言葉を想起します。「何という空しさ、何という空しさ。すべては空しい」(新共同訳)。「コヘレトは言う、空の空、空の空、一切は空である」(聖書協会共同訳)。私たち日本人が平家物語で深く馴染んでいるように、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす」のです。すべては空しくため息のように過ぎ去っていってしまうこの世の現実の中にあって、私たちには決して空しくなることのない「神の定めた麗しい時」を見上げてゆく信仰のまなざしが求められています。

 使徒書の日課ではヨハネ黙示録21章の新しい天と新しい地が到来する際の預言が与えられています。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである3-4節)。このみ言はこれまでどれほど多くの人を支え、慰め、励ましてきたことでしょうか。やがて私たちの涙が神ご自身によってぬぐわれる日が必ず来ると約束されているのです。もはや死はなく、悲しみも嘆きも労苦もない世界の到来が約束されています。その日を目指し、その日を見上げながら私たちは共にこの地上を旅して行くのです。

 福音書の日課にはマタイ25章の終わりの日の預言が与えられています。誤解を恐れず言うならば、その際に問われるのは何を信じていたかという私たちの信仰ではなくて、いと小さき者たちに愛の行いをしたかどうかということなのだという点が重要です。それも、最も小さき者の一人の中に、彼らと共に歩まれる見えないキリストを見、キリストに仕えるという信仰からくる愛(アガペー)の行いが求められていることが分かります。主は常に小さくされた者たちの側におられます。そのことを心に刻みつつ、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣き」(ローマ12:15)ながら、この新しい一年をも私たちはご一緒に歩んでまいりたいのです。

 

るうてる(20191月号) 議長室から 「一千年を視野に入れて今を生きる」

 年頭に当たりJELCの機関誌『るうてる』1月号の議長室からで書かせていただいた文書をお読みさせていただきます。

 

 新年おめでとうございます。1992年にヒロシマで開かれた宗教者平和会議での相馬信夫カトリック司教の言葉を思い起こします。司教は1993年のJELC宣教百年記念熊本大会のゲストでもありました。司教は「カトリック正義と平和協議会」の会長を務め、1991年の湾岸戦争の際には自衛隊機の派遣に反対し民間機をチャーターしておよそ三千人の避難民を母国に移送したことでも知られています。ヒロシマでの講演を司教は次のような言葉で始められました。「私たち宗教者は20年、30年を視野に入れているだけではダメです。一千年を視野に入れて、今を生きなければなりません」と。私にとってそれは度肝を抜かれるような、目からウロコが落ちるほどスケールの大きな衝撃的な言葉でした。

 「千年を視野に入れて今ここを生きる」!?具体的にそれが何を意味するのか、以来ずっと考えさせられてきました。今この場所で永遠なるお方(神)とつながって生きるということなのか(「永遠の今」を生きる)。確かに聖書にはこうある。「千年といえども御目には、昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません」(詩編90:4)、「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」と記されています(2ペトロ3:8)。神の視点を持って生きるということなのか。詩編90編が告げるように私たちの人生は70年ないしは80年ほどの儚いものにしか過ぎません。労苦に充ちたこの世の人生においては「瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ってゆく」(10節)のです。モーセと共に私たちも「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように」と祈りたいと思います(12節)。

 司教の言葉を思い巡らせることの中で一つ気づいたことがあります。人が活動できる一生を仮に「40年」(聖書的な数字ですが)とすれば「千年」は「25世代」です。神はその御心を実現するために「世代」を超えて私たち一人ひとりをその平和の道具として用いてゆかれるのです。新年も共に主の御心の実現を祈り求めてゆきたいと願います。皆さまの上に神の祝福をお祈りいたします。

 

 お一人おひとりに神の祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。 アーメン。

 

おわりの祝福

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

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