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2018年12月15日 (土)

2018年12月9日 待降節第二主日 礼拝説教「主の道をまっすぐにせよ」

2018129日 待降節第二主日 礼拝説教「主の道をまっすぐにせよ」     大柴 譲治

ルカによる福音書 3: 1〜 6

これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」(4-6節)

 

待降節第二主日にあたって〜「主の道をまっすぐにせよ」

 本日私たちは待降節第二主日の礼拝を守っています。実は教会で用いられている「教会暦」では待降節第一主日から新しい一年が始まっています。クリスマスに備えるためのアドヴェントの期節です。典礼色は悔い改めの色、王の色である「紫」。アドヴェントクランツの二本目のローソクが点されましたが、クリスマスまでの期間を私たちは、私たちに近づいてこられる主の到来に備え、自らを省みてその道備えをしてゆくのです。今日は洗礼者ヨハネが荒れ野で叫ぶ者の声として響きました。それは旧約の預言者イザヤ書40章の預言の成就です。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る4-6節)。すべての人が神の救いを仰ぎ見るのです。

 私たちは一年の始まりをイエス・キリストに向けて心を整えるところから始めます。主の道を整え、その道筋をまっすぐにしようとするのです。一般に使われる「オリエンテーション」という語には本来「オリエント(東方)を向く」という意味があり、「義の太陽」であるキリストが昇ってくる方向を向いて私たちは身を正すのです。

 本日の主題は私たち自身がキリストの到来する道であり、その道をまっすぐ整えてゆく必要があるということです。本日の第一日課であるマラキ書3章は次のように告げています。見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は、突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者、見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。2だが、彼の来る日に誰が身を支えうるか。彼の現れるとき、誰が耐えうるか。彼は精錬する者の火、洗う者の灰汁のようだ。 3彼は精錬する者、銀を清める者として座し、レビの子らを清め、金や銀のように彼らの汚れを除く。彼らが主に献げ物を、正しくささげる者となるためである」マラキ書3:1〜3)。

 

イエスの先駆者である洗礼者ヨハネの登場〜その歴史的なコンテクスト

 本日のルカ福音書の日課の冒頭部分には多くの固有名が登場します。その多くは人物の名前です。これは歴史的に見ても貴重な証言です。イエスがいつ、どのようなセッティングの中に生まれて生涯を生きたのかが分かるというのも、ルカ福音書の1:5とこの箇所があるからです。もう一度読んでみましょう。「皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った」1-2節)。

ティベリウス(BC42年〜AD37年。ローマ帝国の第2代皇帝。在位:AD14年〜37年)、ポンティオ・ピラト(生没年不詳。第5代ユダヤ属州総督。在位:AD26年〜36年)、ヘロデ(ヘロデ・アンティパス。ヘロデ大王の子。ガリラヤとベレア地方の領主。在位BC4年〜AD39年。ヘロデ大王の在位はBC37年〜BC4年。大王はエルサレム神殿を再建したことで知られる。またイエスの誕生時にベツレヘム周辺の2歳以下の男の子を殺したことがマタイ福音書には記録されている)、フィリポ(ヘロデ大王の子でヘロデ・アンティパスの兄弟)、リサニア(不明)、エルサレム神殿の大祭司のアンナス(在位:AD6年〜AD15年。カイアファのしゅうと。ローマ帝国から更迭された後もその称号と権威とを保っていたと言われる)とカイアファ(在位:AD18年〜AD36年)、そしてザカリア(祭司)とその子供であるヨハネ(=洗礼者ヨハネ)の九人です。ティベリウスとポンテオ・ピラトの二人がローマ人で、あとの七人はユダヤ人となります。九人のうち最初の五人が政治家、あとの四人は宗教家(含洗礼者ヨハネ)です。ユダヤ人の七人のうち三人の領主たちは、当時はローマ帝国の属州でしたから、ローマから認められた親ローマ帝国の立場を取る政治家たちであったことになります。このような名前が並置されるところにも、異邦人の医者でもあったルカの歴史家としての客観的な視点を感じることができましょう。

聖書は完全に沈黙していて一度もその言及がないのですが、領主ヘロデ(ヘロデ・アンティパス)はAD20年頃に、ガリラヤ湖の西側に「ティベリア」という皇帝ティベリウスの名前を付したローマ風の都市を建築し、強制的に人々を移住させ、そのティベリアがガリラヤの首都となっていました。イエスとその一行は一度もそこには足を運ばず、ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネが住むカファルナウム(カペナウム)という漁師の町をガリラヤでの活動の本拠地としていたのでした。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」という洗礼者ヨハネにおいて実現したイザヤ書の預言は、都市ではなく「荒れ野」という言わば「死の世界」から、「人間の力では生きてゆけない場所」「辺境」において発せられたのです。神の御業は常に辺境から始まっていると申し上げることができましょう。大きなもの、力あるものではなくて、小さいもの、無力なものが神の恵みによって優先的に選ばれてゆくのです。イエスの祝福の言葉にこうありました。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである」と(ルカ6:20)。

 

①「神の言葉」が、②「荒れ野」で、③「洗礼者ヨハネ」に、④「降る」ということ

 2節の後半にはこうあります。「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った」。①④「神の言葉が降った」とありますがそれを「降らせた」主体は神ご自身であり、神の聖霊の息吹きです。③「洗礼者ヨハネ」の先駆的で預言者的な働きが「時」が充ちるかたちで、神がヨハネを通して語らせた言葉によって始められたのです。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」とヨハネ福音書の1:1にある通りです。

大切なことはいつも神の救いのみ業は②「荒れ野」から始まるということです。「荒れ野」とは人間が自分の力に頼っては生きてゆけない世界を意味しています。そこは神に頼る以外には生きることができない「死の世界」なのです。私は荒れ野ということで映画『十戒』1956)の中に描かれていた一場面を想起します。それはエジプト人を殺して逃げてきた若きモーセがミデアンの荒れ野まで来て力尽きて倒れる場面です。力尽きたモーセを見つけて助けるのが祭司エテロの娘のチッポラでした。そこにはこのようなテロップが入っていました。「人の力が尽きたところから神の御業が始まる」と。そうです。荒れ野とは人間の力が尽きる場所なのです。しかし私は思います。神の御業は荒れ野だけではなく、どこにおいても働いていると。私たちは普段はそのことに気づかないだけなのです。私たちがその御業に気づくためには、自分の力に頼ることを止めなければならないのではないか。苦難や試練の中で自分の無力さや破れ、罪といったものを思い知らされて打ち砕かれ自分に絶望する時、私たちは初めてそこに神の恵みの業が豊かに働いていること、働いていたことを知るのです。

洗礼者ヨハネはヨルダン川で悔い改めの洗礼を人々に授けてゆきました(3節)。それは「罪の赦しを得させるため」でした。「罪」とは神との破れた関係を意味する関係概念ですから、「罪の赦し」とは再度神との義しい関係に入ることであり、そのために必要な事柄です。「悔い改め(メタノイア)」とは「神への方向転換」であり、さらに言うならばそれを超えた「主体の転換」です。当時の時代状況もあるのでしょう。行き詰まりを感じていた人々が大勢いて、ヨハネのもとには続々と人々が集まってきました。洗礼者ヨハネの中に人々は神の示される「希望」を見出したのです。イエスもまたヨルダン川で洗礼者ヨハネから受洗しました。そこには「神⇒洗礼者ヨハネ⇒イエス・キリスト」という一本の道筋がまっすぐに引かれています。そのように見てゆくと、「神の言葉」は私たちの上に「降る」ことが分かります。今日私たちは礼拝において神のみ言の前に立たされていますが、聖霊降臨と同じく、神の言葉が私たち一人ひとりに「降る(降臨する)」のです。そしてそこから私たちはその「神の言葉」を伝えてゆくための「神の声」として、洗礼者ヨハネがそうであったように、また12使徒やパウロ、歴代の宣教師や牧師、信仰の先達たちがそうであったように、私たちもまた神によって用いられてゆくのです。神の救いの道と人生の「荒れ野」において、神によって選び立てられた「人間」を通してまっすぐに敷かれてゆくのです。順風満帆の時ではなく、逆風に揺り動かされ沈没しそうになった艱難の時、試練の時にこそ神が私たちを支え力づけ、必要な助けを与えてくださってきたのだと信じます。それは見えないかたちで主キリストご自身が私たちと共にいてくださり、私たちを守り導いてくださった時でもありました。そのことを覚えたいと思うのです。お一人おひとりの上に祝福をお祈りいたします。アーメン。

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