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2018年12月22日 (土)

2018年12月16日 待降節第三主日礼拝説教「聖霊と火による洗礼」

20181216日 待降節第三主日礼拝 説教「聖霊と火による洗礼」大柴 譲治

ルカによる福音書 3: 7〜18

こで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」。16節)

 

待降節(アドヴェント)第三主日に〜「悔い改めにふさわしい実を結べ!」

 本日私たちは待降節(アドヴェント)第三主日の礼拝を守っています。アドヴェントクランツの三本目のロウソクが点されました。主の来臨を祝う日がいよいよ近づいてまいりました。アドヴェントの典礼色は悔い改めの色、王の色である「紫」。本日与えられた福音書の日課は、私たち自身が自らの生き方を省みて、罪を打ち砕かれ、神の前に悔い改める者となるよう強く命じています。特に、洗礼者ヨハネの厳しい言葉は鋭く私たちの実存を問うてきます。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる7-9節)。

 ヨハネはヨルダン川で悔い改めの洗礼を受けようとやってきた群衆に向かって「悔い改めにふさわしい良い実を結べ」と命じているのです。自分中心を捨て、「悔い改め(メタノイア)とは真の神を神とするという生き方に立ち返ることです。徹底的に神の前に打ち砕かれ、神以外のものを神としない、自らを神のようにしないということです。「神への方向転換」とも説明できますが、それは「主体の転換」を含みます。パウロは言いました、「生きているのはもはやわたしではない。キリストがわたしのうちで生きておられるのだ」と(ガラテヤ220)。地球を中心にして太陽が地球の周りを回っていると捉える「天動説」ではなく、太陽の周りを地球が回っているということを知る「地動説」への「コペルニクス的転換」こそがここで求められています。人間が自分を中心として自分の目的のために神を利用するのではなく、神をすべての中心に置いて、神が主体とり私たちはその道具として御心のままに用いられてゆくのです。それが「悔い改め(メタノイア)です。そしてヨハネは神の前での真実の悔い改めが、必ず「実を結ぶことを伴う」ということをはっきりと言っています。ここで「実」とは「実践」のことであり、「愛の行い」のことです。

 

洗礼者ヨハネのもとに洗礼を受けに来た「群衆」と「徴税人」と「兵士」

 洗礼者ヨハネのもとには三種類の人々が来たことが記されています。①「群衆」②「徴税人たち」、そして③「兵士たち」です。「悔い改めにふさしい実を結べ」と神の権威をもって命じるヨハネに対して、①「群衆」は問いかけています。「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と(10節)。ヨハネの答えはこうでした。「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」11節)自分の持っているものを僅かであっても貧しい者、飢えた者たちと分かち合えと命じているのです。洗礼を受けるためにヨハネのもとに来た②「徴税人たち」に対してはこう応えます。「規定以上のものは取り立てるな」13節)。③「兵士たち」に対してはこうです。「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」14節)

考えてみれば、これらはとても具体的かつ当たり前のことであり、倫理的にも正しいことです。当時の社会では、当たり前のことが当たり前では無かったということなのでしょう。当時のユダヤ人社会では、自分の立場を利用して、規定以上に税金を取り立てたり、弱い人から金をゆすり取ったり、だまし取ったりしていたということがあったのでしょう。人間社会の常として倫理的には誇れない面があったのでしょう。皆がそうであったとは思えませんが、ずる賢く、自分の立場を利用して人々を騙し、私腹を肥やしていた者が少なからずいたのでしょう。洗礼者ヨハネは、文字通り「神への道を整える」ため、曲がった道筋をまっすぐにし、デコボコになった道を平らにするために来たのでした。それは具体的に神の前に正しく生き方を変えるようにとの「悔い改めへの招き」でした。「マムシの子らよ」というヨハネの呼びかけ自体が、その声を聞く者を心底震え上げさせたに違いありません。「悔い改めよ」と迫る神の声は、私たちの一部分ではなく、全存在を神の前に立たせるよう求めておられるのです。

 

洗礼者ヨハネの「後から来るお方」(=イエス・キリスト)は「聖霊と火での洗礼を施す」

 15節には「民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた」と記されています。洗礼者ヨハネには人々の期待が集まったのです。しかしヨハネは皆に向かって言います。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」(16-17節)。これは間接的に「自分はメシアではない」と告げているのと同じです。「わたしよりも優れた方」の前では自分は全く取るに足りず、その方の履物のひもを解く値打ちもないほどであると言うのです。自分とは比べようもないほど「優れたお方」が到来する。自分はあなたたちに「水」で洗礼を授けるが、そのお方は「聖霊と火」であなたたちに洗礼をお授けになると言うのです。「聖霊」「火」「神の聖霊(=息吹き)」を意味しています。ここでの「火」とは物質的な火のことではなく、「聖霊」の目に見えるイメージのかたどりとして記されています。聖霊降臨日に聖霊が降った出来事にも聖霊が「炎のような舌」に分かれて一人ひとりの上に留まったとありました(使徒言行録2:1-4)。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」。火が鉄を溶かして精錬するように(イザヤ48:10、エレミヤ6:29)、聖霊は人の心を熱くするのです(エゼキエル22:17-22、詩編66:10)。水によるヨハネの洗礼は「外的なしるし」にすぎませんので、それ自体は人間の内面に大きな影響を及ぼす力はないのです。しかしそれに対してキリストによる洗礼は、来週のクリスマス礼拝では三名の方の洗礼式が行われますが、「外的なしるし」だけでなく、実際にキリストの霊によって内的な変化が行われるしるしなのです。「キリストの御名による洗礼」とは、古い自分がキリストと共に死に、新しい自分がキリストと共に復活するという、存在自体がその根底から新たにされるという恵みの出来事(サクラメント)なのです。ですから最近では、(希望をすればですが)洗礼名が与えられるようになってきました。洗礼名が与えられるということは、洗礼を通して受洗者が主にある新しい存在として生き始めるということなのです。

 洗礼者ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、イエスの先駆者としての役割を果たし、イザヤが預言した「荒れ野で叫ぶ者の声」として民衆に神の「福音Good Newsを告げ知らせてゆきます(18節)。私たちは本日、ヨハネの言葉を聞きながら、自らのこころをキリストに向かってキチンと方向付けながら、自らも「悔い改めにふさわしい実を結ぶこと」を祈り求めてまいりたいと思います。マラナ・タ。主よ、来たりませ。

 お一人おひとりの上に祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。 アーメン。

 

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