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2018年12月 4日 (火)

2018年11月25日(日)聖霊降臨後最終主日礼拝説教「真理に属する人とは」

20181125日(日) 聖霊降臨後最終主日礼拝説教 「真理に属する人とは」   大柴 譲治

ヨハネによる福音書 18:33〜37

そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」(38ピラトは言った。「真理とは何か。」)(37-38節)

 

聖霊降臨後最終主日「王であるキリストの日」に

本日私たちは聖霊降臨後の最終主日の礼拝を守っています。実は教会で用いられている暦(「教会暦」と呼びます)が今週で一年の終わりを迎えます。次週からはいよいよクリスマスの四週間前、アドヴェントが始まります。そのアドヴェントから教会では新しい一年が始まるのです。

教会暦の終わりの主日には「王なる(王である)キリストの日」という別名が与えられています。聖霊降臨後の最終主日である本日は、「私たちの王であるイエス・キリスト」について思いを馳せる日なのです。キリストが私たちにとって「どのような王であるか」に思いを馳せながら、共にみ言葉に聴いてまいりましょう。

本日はイエス・キリストが、当時ローマ帝国からユダヤ地方に派遣されていた総督「ポンテオ・ピラト」(在位A.D.26-36年)とのやりとりを通して「真理」について語る場面が与えられています(ヨハネ福音書18章)。このやり取りの結果、ピラトはイエスに何の罪も認めることができなかったにもかかわらず、「イエスを十字架に架けよ」と叫ぶ民衆が暴動を起こすのを恐れて結局イエスを十字架に架けてゆくことになるのです(ヨハネ19章参照)。私たちの王であるキリストは「茨の冠」をかぶり、「紫の衣」をまとい、「十字架という玉座に着座された王」なのです。

 

「真理」とは何か

 第四福音書にはいくつもの重要なキーワードが出て来ますが、「真理(アレーテイア)」という語もその一つです。ヨハネ福音書の中からよく知られている三つの例を挙げてみましょう。

①「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」1:14

②「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」8:32

③「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。』」14:6

イエスが伝える「真理」とは「父なる神から示された真理」であり、御子イエスご自身がその「真理」に至る「道」なのです。イエスはピラトに対してこう宣言します。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」。イエスは神の真理を告げています。どこまでも人間を恐れる政治家のピラトには、イエスの語る教えが真理であることを理解することはできませんでした。

 

ピラトとのやり取り

 ピラトはイエスにこう問いました。そのやりとりを逐語会話記録風に書くとこうなります。

P1:「お前がユダヤ人の王なのか。」

J1:「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」

P2:「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」

J2:「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」

P3:「それでは、やはり王なのか。」

J3:「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」

P4:「真理とは何か。」(38節。本日の日課は37節までなので、この節は日課外の言葉になります。)

 このように並べてみると改めて、神を畏れずに人間を恐れているピラトの言葉はイエスとのやりとりの中で右に左に揺れ動いており、そこには拠って立つ基盤(「真理」)がないことが分かります。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞くというイエスの毅然とした言葉に対して、本日の福音書の日課に続く次にあるピラトの言葉がそのことを明らかにしています。ピラトはイエスに(おそらく怯えて震えながら)問うのです。「真理とは何か」と(38節)。イエスが証しするために来た「神の真理」がピラトには理解できません。「真理に属する人は皆、イエスの声を聞く」のですが、できればユダヤ人のゴタゴタとの関わりは避けて政治的決着を図りたいと考えるピラトも、イエスを十字架に架けて殺そうとする民衆も皆、「真理に属していない」ためそのことが分からずにいます。ピラトは揺るぐことのないイエスの態度の中に尋常ではないものを感じたのでしょう。ピラトにはイエスを有罪とすべき証拠は見出せませんでしたので、何とかイエスを助けようとします。しかし最後は民衆の圧力に屈服してゆきます。それは最後まで毅然としていたイエスの態度と対照的でした。

 37節でピラトが「それでは、やはり王なのか」とイエスに問うた答えは、以前に私たちが親しんでいた口語訳聖書では次のように訳されていました。あなたの言うとおり、わたしは王である。わたしは真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世にきたのである。だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける。この下線部分は新共同訳になった時に私が最も驚かされた部分の一つでした。口語訳ではイエスが決然として自分が王であることを宣言したように訳されていましたが、新共同訳では「それはあなたの言うことだ」「それはあなたが勝手に言っていることに過ぎない」というような、どちらかというと否定的な意味に受け取られる訳になっています。訳によっては全く逆の印象を与えるのです。ギリシャ語を確認すると新共同訳の方が原文に近いことが分かります。確固とした基盤を持たないピラトは、このイエスの答えを聞いてさらに不安になったに違いありません。

 かつてイエスは弟子たちに言われました。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にすると(8:32)。神の真理はそれを知る者を真の自由へと解放してゆくのです。イエスの姿は神の真理によって自由とされた者の生き方を明らかにしています。そしてそのようなイエスの確かな声は、恐れとおののきの中に呪縛されていたピラトと同じような立場にあった者をも本当の自由の中へと解放するのです。私たちはどのような時にも、どのような場所、どのような状況の中にあっても、キリストの声に耳を傾けなければなりません。キリストは迷える羊を見つけるまで、その名を呼んで探し歩いてくださるまことの羊飼いなのですから。キリストの声こそ私たちを支える力です。

 

真理に属する人

 ピラトがイエスに問うた最後の問い、「真理とは何か」38節)という問いは、私たち自身が人生の中で常にそこに戻ってくるべき重要かつ根源的な問いでもあります。キリストの与える「神の真理」こそが、私たちを非人間化している諸々の束縛から解放し、私たちを生かし、私たちに人生に意味を与え、私たちの人生を正しく方向づけてゆくからです。ヨハネ福音書は告げています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)と。これが真理であり、この神の真実に目が開かれることが私たちには求められています。「クリスチャン/キリスト者」とは「キリストに属する者」という意味ですが、私たちは「神の真理に属する者」でありたいと願っています。主ご自身がそのような者であり続ける力を私たちに豊かに与えてくださいますようにお祈りいたします。 アーメン。

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