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2018年11月11日 (日)

2018年11月4日(日) 全聖徒主日礼拝 説教「キリストの涙」

2018114日(日) 全聖徒主日礼拝 説教 「キリストの涙」       大柴 譲治

ヨハネによる福音書 11:32〜44

マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。(32-35節)

 

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

 

全聖徒主日にあたって

本日私たちは「全聖徒主日」を守っています。別名で「召天者記念主日」とも呼ばれますが、召天された方々を覚えて本日は礼拝を守っているのです。この一年間で私たち大阪教会は五名の兄弟姉妹を天に見送りました。2/11にはK.正一兄を92歳で、②8/23にはY.玲子姉を80歳で、③8/24にはI.靖兄を59歳で、④9/4には O.愛子姉を82歳で、⑤10/8にはW.憲一兄を73歳で見送りました。特にこの二ヶ月余りのうちに四名を天へと見送ったことになります。天上はさぞかし賑やかになったことでしょうが、地上はたいへん寂しくなりました。ご遺族の上に天来の慰めをお祈りいたします。皆さまにおかれましても、この一年で親しい者を天へと見送られた方々が何人もおられることでしょう。私たちはいつも生老病死という四つの大きな苦しみと悲哀の中に置かれているのです。それを避けることはできません。それをどのように受け止め担うことができるか。聖書はそれを担う一本の確かな道を示しています。それは私たちのために十字架にかかり、死して復活してくださったお方、イエス・キリストを信じるキリストの道です。

 

怒るイエスの姿

 本日の福音書には、感情をとても強く表現しているイエスの姿が描かれています。特にそこに表されているのは「憤り」であり「怒り」です。そこには「怒るイエスの姿」が記されているのです。そして涙を流すほどまで怒り狂われるイエスの姿がそこにはあります。ある意味で私たちはそのようなイエスの姿にショックを受けるのではないかと思います。

登場するのはマルタの姉妹マリアです。マリアは、マルタ同様、弟のラザロを亡くして深く嘆き悲しんでいます。

マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、『主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに』と言った。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。『どこに葬ったのか。』彼らは、『主よ、来て、御覧ください』と言った32-34節)。そして35節にはイエスが涙を流されたことが端的に記されています。イエスは涙を流された」。本日の説教題である「キリストの涙」はここから取られています。本日は主が流されたこの「涙」に焦点を当てて、その意味を味わいたいと思います。

キリストの涙を見てユダヤ人たちは二つの反応をします。イエスの涙を見て、彼らは二つの解釈をしたと言ってもよいでしょう。ユダヤ人たちは、『御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか』と言った。しかし、中には、『盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか』と言う者もいた」36-37節)。そして38節でも再度イエスは深い憤りを表しています。どうしようもなくイエスは怒っているのです。「イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた」。人間を非人間化する「悪」「死」の力に対してイエスは怒りつつ向かい合っているのです。

今日の日課の前の部分ですが、イエスは既にマルタに対してこう告げられました(25-26節)。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」。この言葉が真実であることを、イエスはここでラザロを死からよみがえらせることを通して明らかにしています。そしてやがてイエスは、ご自身の死からの復活によってその真実性を証言してゆかれるのです。

私たちはこの「キリストの涙」を、人間をどこまでも非人間化しようとする「罪と死の力」に対して流された「怒りの涙」「闘いを宣言する涙」として受け止めたいのです。私たちの苦しみをご自身のはらわた(中心)で受け止められるイエスです。私たちを死からいのちへと取り戻そうとして死と闘うために感情のエネルギーを出しておられるのです。イエスはご自身の「われは復活なり、いのちなり。あなたはこれを信じるか」という宣言と問いかけを力あるものとして実践するために私たちのところに来てくださったのです。神と等しくあられたお方が私たちの救い主としてこの地上に派遣された。そのお方は私たちのためにその十字架の苦難と死とを背負ってくださったお方です。私たちのために、私たちと共に、熱い涙を流してくださるお方です。

 

祝福の涙

本日も私たちは聖餐式に与ります。礼拝堂の聖壇部分の中心に置かれているのはキリストの食卓です。「あなたはこの杯が飲めるか」というイエスのみ言葉を私たちは二週間前に聞きました。この「キリストの杯」は苦難と死の杯でもあると共に、喜びの杯、復活のいのちの杯でもあります。神のいのちの喜びが私たち一人ひとりを満たして下さいますように祈ります。この食卓を中心として、目に見えるこちら側には私たち生ける者が集いますが、見えない向こう側には天に召された聖徒の群れが集っています。キリストは生者と死者の両方の救い主であり、私たちは生きるとしても主のために生き、死ぬとしても主のために死ぬからです。私たちは生きるとしても死ぬとしても主のものだからです。ここには私たちの生と死を超えた、この世の苦しみと悲しみを超えた「復活といのち」があります。今ここで、永遠なる神とつながっている「永遠の今」があります。その意味で教会は「天国に一番近いところ」であると言えましょう。

本日の第二日課であるヨハネ黙示録21章は次のように宣言しています。「そのとき(新しい天と新しい地が実現するとき)、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである』」(黙示録21:3-5)。もはや死はなく、悲しみも嘆きも労苦もない、そのような世界が復活のキリストによって約束されている。そのように信じる者にとって、キリストの流された「涙」はもはや怒りの涙ではありません。それは私たちの嘆きの涙を喜びの涙としてくださるキリストの涙であり、私たちの人間性を回復し、私たちの涙を感謝と讃美の涙に変えてくださる「祝福の涙」なのです。

お一人おひとりの上に祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。 アーメン。

 

おわりの祝福

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

 

 

 

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