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2018年11月18日 (日)

2018年11月18日  聖霊降臨後第26主日礼拝 説教 「世界の終わりに」

20181118日  聖霊降臨後第26主日礼拝 説教 「世界の終わりに」   大柴 譲治

マルコによる福音書 13: 1〜 8

イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。」5-8節)

 

教会暦の終わりを臨み見て

本日私たちは聖霊降臨後第26主日の礼拝を守っています。与えられた聖書のみ言葉には「世界の終わり」について預言されています。実は、教会で用いられている暦(「教会暦」と呼びます)が来週で一年の終わりを迎えます。二週間後からはいよいよクリスマスの四週間前、「アドヴェント(待降節)」が始まります。アドヴェントからは教会では新しい一年が始まるのです。教会暦の終わりには毎年、いつも世界の終わりについて思いを馳せるようなみ言葉が与えられています。

 

世界の終わりに

 聖書はこの世界の始まりと終わりについて言及しています。初めがあるものは必ず終わりもあるのです。この世界の始まりについては主として創世記などで記されています。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた(創世記1:1-4。ヨハネ福音書の冒頭にも、創世記の冒頭に呼応するようなかたちで、「初め」についてのダイナミックな言葉があります。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった(ヨハネ1:1-3。さらには、この世界の終わりについてはヨハネ黙示録だけでなく様々な場面で告げられています。本日与えられた旧約の日課であるダニエル書12:1-3もそうですし、福音書の日課であるマルコ福音書13章もそうです。このマルコの13章は「小黙示録」とも呼ばれる箇所でもあります。

 実はマルコ福音書が書かれたのは紀元70年〜80年と推測されていますので、エルサレムにあった壮麗な神殿は(弟子の一人はそれを見てイエスに「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」と言っているくらいです)、その紀元70年、ローマ帝国によってエルサレムという町そのものと共に徹底的に破壊され尽くされています。マルコが福音書を書いた時には神殿は完全に破壊されていました。イエスの「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」という預言の言葉がその通りになったことをマルコや初代教会は既に知っているのです。かたちあるものは皆滅びるのです。平家物語が歌っているように、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者栄華の理をあらわす」のです。

 イエスの言葉に驚いた弟子たちの四人(ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレ)が、秘かにイエスに尋ねます。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか」4節)。弟子たちもまた迫害の中にあったのでしょう。それに応えてイエスは話し始められました。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである」5-8節)

 身がすくみ、震えが来るようなインパクトのある言葉です。しかしまさにイエスが預言したことが現在、現実の世界の中で起こりつつあるように思います。今年の夏には天変地異が続きました。集中豪雨や地震、台風、猛暑など、いくつもの想定外の事柄が次々に起こったのです。逆走台風12号など見たことがありません。偏西風や海流が変動していることも報告されています。地球の温暖化で北極の氷が溶けてきているとも言われています。また、思想信条のぶつかり合いがあり、テロや紛争、争いが絶えません。巨大国においても自国の利益だけを考えるような保護主義的でナショナリズムを標榜する風潮がはびこっています。地球とその歴史が全体として加速度を上げて終わりに向かって走っているような感じがしてくるほどです。これは「終わりの始まり」なのでしょうか。これからこの世界はどうなってゆくのでしょうか。イエスさまの言葉もそのような現実の状況の中で聴く時、とてもリアルに感じます。

そして、そのことは「産みの苦しみの始まり」と位置付けられています。そのような天地が揺らぐような世界の中で私たちは何を頼りにすればよいのでしょうか。イエスはそのことを弟子たちに告げているのです。「あなたがたはしっかりと揺らぐことなく、神が据えた御言という固い基盤の上に立ち続けなさい」と。

 

本当の礎石

 すべてが揺れ動く中で私たちは自分の小ささ、無力さを知らされます。世界の終わりを迎えるときに、あるいは自分の余命がいくばくもないということが宣告されるときに、私たちは改めて知らされるのです。それまで私たちを支えてきた自分の経験や体験、知恵や知識、信念(ビリーフ)や価値観、地位や財産、人々との絆や信頼関係など、すべてが色褪せてしまい、世界の終わりに当たっては頼ることができないものであったことを。世界の滅び、死を前にしたときに、いったい私たちに何ができるというのでしょうか。

唯一私たちにできることがあるとすれば、死を超えられた復活者イエス・キリストに信頼して、そこに自分を託してゆくことではないかと思われるのです。イエスも言われました。「『事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる』」(ヨハネ黙示録21:6-7。午後から納骨式が行われる岡愛子姉の愛唱聖句でもあります)。聖書は私たちに確固としたものに足場を据えた生き方を示しています。「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない」1ペトロ1:24-25)。

 生ける神の言であるイエス・キリストの上に私たちはすべてを置いて生きることです。イエスご自身が語っておられる通りです。「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった」(ルカ6:46-49。神の言という揺るぐことのない土台の上に人生の礎/基盤/土台を置いて、私たちはそれを行いつつ生きるのです。

 

「たとえ明日世界が滅びようとも、今日わたしはリンゴの木を植える。」(マルティン・ルター)

ルターの言葉として伝えられているものの中に有名な言葉があります。「たとえ明日世界の終わりが来ようとも、わたしは今日リンゴの木を植える」。よく知られた言葉です。私たちの多くは自分が明日までのいのちと知るとパニックになって揺れ動くことでしょう。しかしルターはここで徹底して神の働きに信頼しています。彼はそこから、たとえ全世界が揺れ動いても、明日その滅びが来たとしても、「本当の終わり」はその向こう側、神の中にこそあると看破し、それを見据えているのです。だからこそキリスト者はこの世界の滅びを越えて本当の未来、真の明日に向かって神に与えられた日々の務めを果たしてゆくことができるというのです。ルターはまた「世界を動かす力は希望である」とも言っていますが、確かに人間は「希望」がなければ生きてゆけません。本当の終わり、本当の未来、真の希望は神の中にある。これに目を向けたいと思います。イエスは言われました。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と(マルコ13:31ほか平衡箇所)。それはイエスが、「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」(イザヤ40:8)という「父なる神(アッバ)の言」に徹底的に信頼していたからです。そのような信仰を私たちは神にいただいて生きるのです。そのことを味わいながら新しい一週間を、主と共に踏み出してまいりましょう。

 お一人おひとりの上に祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。 アーメン。

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