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2018年11月11日 (日)

2018年10月21日(日) 聖霊降臨後第22主日礼拝説教「わたしの飲む杯が飲めるか」

20181021日(日) 聖霊降臨後第22主日礼拝説教「わたしの飲む杯が飲めるか」大柴譲治

第一日課:イザヤ書 53:4〜12

彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ。彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。(4-5節)

福音書:マルコによる福音書 10:35〜45

二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」(37-38節)

 

「あなたの一番弟子と二番弟子にしてください。」〜ヤコブとヨハネの願い

 本日の福音書には、12使徒の中のゼベダイの子ヤコブとヨハネがイエスに自分たちを一番弟子、二番弟子にしてくださいと願い出る場面が描かれています。三回目の受難予告のすぐ後です。つい先日(四週間前)も「だれが一番偉いか」で弟子たちが論争していた場面を読みました(923日、マルコ9:30-37)。二番目の受難予告のすぐ後の出来事でした。イエスが語ることと弟子たちが考えていたことのすれ違いはなかなか埋まることはなかったのです。福音書記者マルコは弟子たちの人間的な思いをイエスの受難予告に結びつけることで、いかにイエスが(そしてイエスに従うことが)私たちの日常の上昇志向的な価値観と異なっているかを明確にしようとしているのでしょう。神の御旨はイエスの言葉、および本日の第一日課であるイザヤ書53章に明白です。イエスは弟子たちを呼び寄せて言われました。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである42-45節)。「人の子」とはイエスがご自身を呼ぶときの言い方です。私たちに「キリストに倣え」というのです。キリストはイザヤ書53章に預言されていることを実現するために神によってこの地上に派遣されてきたのです。彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた53:4-5)。そして10-11節にはこうあります。病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは、彼の手によって成し遂げられる。彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った」。

話をもとに戻しましょう。他の10人の弟子たちはヤコブとヨハネに出し抜かれたと感じて大いに腹が立ったと記されています。この二人だけではなく、12人全員が一番弟子、二番弟子を狙っていたからでした。かの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。41節)。イエスは繰り返し弟子たちには「一番になりたい者は、最も低い姿を取ってすべての人々に仕える生き方をしなさい」とか、「自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従ってきなさい」と教えてきたにもかかわらず、彼らは何を学んできたのでしょうか。人間は自分が聞きたいことだけを聞こうとするものなのです。イエスは何も分かっていない(分かろうとしていない)弟子たちの鈍さと頑なさに、頭を抱えたのではなかったでしょうか。特にゼベダイの二人の子らは「ボアネルゲス(雷の子ら)」というニックネームがイエスによって付けられていました。それくらい気性が激しく短気だったのでしょう。一言で言えば二人は「わがまま」だったのです。ゼベダイには雇い人たちが何人もいたようですから、漁業も成功していた資産家であったに違いありません。彼らの父親のゼベダイはカファルナウムでかなりの顔役だったに違いありません。恐らくペトロ以外は、そのような気性の激しく、豊かな財産を持つゼベダイ家の彼らに対して面と向かってはなかなか正面からは言えなかったのかも知れません。マタイ20章の並行箇所では、イエスに「二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は座れるとおっしゃってください」と申し出たのは彼ら自身ではなく、彼らの母親であったと記されています。「この母にしてこの子あり」と言いましょうか、「子を思う母は強し」と言いましょうか。その姿に思い当たる節は私たち自身にもあるのかもしれませんね(苦笑い)。

 

「わたしが飲む杯が飲めるか。」

 しかしイエスはそれらが父なる神の決定に属することであると明言し、このように言われました。二人に、そして弟子たちに鋭く問われたのです。「『あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。』彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。『確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ』」38-40節)。

イエスが今飲もうとされているのは十字架の苦難と死という「にがいにがい苦しみの杯」です。「わたしが飲む杯が飲めるか」。この言葉は、「自分を捨て、自分の十字架を負ってわたしに従いなさい」と言われた私たち一人ひとりに向けて語られた言葉でもあります。しかし同時に私たちは、イエスの飲もうとされた「杯と洗礼」は、イエスお一人のためのものではなかったということを知っています。それによって「多くの人」が救われるためだった。「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた5節)わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った(同11b)。多くの人々の贖いのため、救いのためにその「苦しみの杯」「死の洗礼」は必要な事柄でした。私たちがイエスによって「あなたはわたしが飲む杯が飲めるか」と問われる時、私たちが飲もうとする苦しみと涙の杯は、イエスのそれがそうであったように、自分だけのためではなく、そのことを通して多くの人々が幸せになるためのものなのです。ちょうど家族のために身を粉にして外で働くようなものかもしれません。その働きを通して家族は生活してゆくことができる。そう思うと私たちは頑張れます。そのように「杯と洗礼」とを受け止めるとき、私たちはイエスの飲まれた杯を飲み、イエスの受けられた死の洗礼を不思議な平安と喜びの中に受け止めてゆくことができるのではないか。そう思えてなりません。

中野信子という脳科学者が著書(『脳科学から見たい「祈り」』)で次のようなことを語っていて強く印象に残りました。「十字架の苦難を背負ったイエスは決して苦しみだけを感じていたのではなかったのではないか。自分が背負っている苦難が人々のためにどうしても必要な苦難だと思う時に、そこには大きな喜びも同時に与えられていたのではなかったか」。自己のためだけではなく、他者の幸福を思い、利他的に祈り行動することこそ、脳に大きな喜びと平安を与えるのです。人間とはそのように最初から造られている生物だというのです。実際にヤコブは、イエスの預言の通り、やがて剣で斬り殺されて殉教したことが知られています(使徒12:2。紀元44年頃)。そのように受け止めてゆく時、殉教するほど熱心にイエスに従った者たちの、信仰の持つ喜びの次元が少し見えてくるように思います。

「わたしが飲む杯が飲めるか」。本日も私たちは聖餐式に与りますが、このキリストの杯は「苦難と死の杯」でもあると共に、「喜びと感謝の杯」であり「復活といのちの杯」でもあります。キリストの杯とキリストの洗礼を通して、神の愛といのちの喜びとが私たちを豊かに満たして下さいますようにお祈りいたします。お一人おひとりの上に祝福が豊かにありますように。 アーメン。

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