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2018年8月18日 (土)

2018年8月5日  平和主日礼拝 説教「平和の実現のために」

201885日  平和主日礼拝 説教「平和の実現のために」          大柴 譲治

エフェソの信徒への手紙 4: 1〜16

そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。(1-3節)

 

平和主日にあたって〜パブロ・カザルスの『鳥の歌』

 毎年8月の最初の日曜日に私たちは、世界に神の平和が実現するために共に祈りを合わせる日として「平和の主日」礼拝を守っています。今年の平和主日にあたって私が最初に思い起こすのはスペインのカタロニア地方の出身のパブロ・カザルス(1876-1973)というチェリストのことです。後には指揮者としても活動した人ですが、チェリストとしてのカザルスは、チェロという楽器の近代的な奏法を確立し、深い精神性を感じさせる演奏において「20世紀最大のチェリスト」とも呼ばれています。それまでは練習曲と見なされていたヨハン・セバスチャン・バッハの無伴奏チェロ組曲の価値を再発見し、広く世界に紹介したことが大きな功績の一つに挙げられます。同時にカザルスは平和活動家としても有名で、スペイン内戦の時にも独裁政権に対する批判からフランスに亡命し、反ファシズムの立場を一貫して貫き、音楽を通して世界平和のために活動し続けたたことでも広く知られています。

19711024日(国連の日)、94歳の時にニューヨークの国連本部に招かれて演奏会を開き、国連平和賞が授与されています。国連でカザルスは、自分が第二次大戦が終結した1945年から弾き始めて繰り返し愛奏してきた故郷カタロニアの民謡『鳥の歌』を弾きます。「私の故郷カタロニアの鳥はピース、ピース(英語で平和)と鳴くのです。」と語ったその演奏は伝説的な名演になっています。その時の演奏は現在ではYouTubeなどインターネットを通して観ることができます。

平和の主日に当たって私が今年最初に思い起こしたのはパブロ・カザルスのこの『鳥の歌』のことでした。「ピース、ピース」という鳥たちの祈りの声は、平和の時には麗しく響きますが、争いや対立、戦争の時にはとても哀しく響く声であると思います。私たちは平和のために可能な限り祈りと力とを合わせてゆかなければならないのです。

 

世界の争いの現実の中で

世界の情勢を見ると戦争や暴動や暴力やテロや殺人のニュースが毎日のように報道されています。突然愛する家族を奪われてしまう者たちの嘆き悲しみのことを思う時、私たちは胸が潰されるような思いになります。どこにも平和がないように見える過酷な現実が私たちの周囲を取り囲んでいます。

昨日私は初めて比叡山で開かれる「第31回宗教サミット〜世界平和祈りの集い」に参加してきました。JELC総会議長として招待状が届きましたので、比叡山は一度伺いたいと思っていた場所でもありましたので、大阪教会員5人と共に参加をしてきました。開闢1200年となる天台宗の総本山・比叡山延暦寺が始めた宗教サミットです。それはその前年の198610月にカトリックのローマ教皇ヨハネ・パウロII世の呼びかけによってイタリアの聖地アッシジで開かれた世界宗教的指導者たちを招いて平和への祈りを捧げたことに端を発しています。アッシジは「平和の祈り」で有名なアッシジのフランチェスコ(1182-1226)を生み出した地です。それに呼応する形で比叡山宗教サミットが翌年始められたのです。昨年は30周年で二日かけた記念会だったようですが、今年は31回ということで一時間と15分の祈りの会でした。参加者はイスだけでも700席ほどあったでしょうか。関係者や立ったままの方々も少なからずおられましたのでその倍ほどはおられたでしょうか。仏教関係者(僧侶)がほとんどでしたが、キリスト教関係者も20人ほどはいたと思われます。200人の中高生たちが平和のことを祈願しながら折った鶴を捧げることから始まって、開会の辞があり、般若心経を唱えた後に、天台座主より平和祈願文が読み上げられました。続いて平和の鐘を聞きながら全員で平和のために黙祷を捧げ、子どもたちからの「平和」への思いということで二人の中高生の代表が発題し、それに宗教者を代表して一人の僧侶が応答しました。続いて、比叡山メッセージが朗読され、子どもたちのリードよる『平和の合言葉』の唱和がありました。それは「一、世界の人々と仲よく暮らそう。一、尊い生命を大切にしよう。一、自然の恵みに感謝しよう。」という具体的な合言葉でした。閉会の辞によって締めくくられましたが、天台宗が本腰を入れて開かれた姿勢をもってこのようなサミットを主催してこられたことに頭が下がりました。その背後にあるカトリック教会と立正佼成会の平和のための諸宗教の枠を超えて連帯を求める働きも見逃すことができないと感じました。私は東京の教会にいた時に杉並区宗教者懇話会という年に二〜三度集まる会があって仏教や神社神道やキリスト教のみならず、立正佼成会や天理教など多くの宗教の交わりの会であり、平和のための連帯を目的とした会でした。

「宗教戦争ほど残虐で悲惨な戦いはない」とも言われます。世界の平和と人々の幸福と安寧(Peace, Well-being)を求めるのが宗教であるはずなのに、宗教が政治的な対立や紛争のために利用されてきたという面もありましょう。しかしもし一つの信仰を持つことが、「自分の宗教だけが正しい」と自己を絶対化することにつながるだけで、「他の宗教の中にもよいものがある」というように開かれた対話的(ダイアローグ的)姿勢の中に自らを相対化できなくなるとすれば、その宗教は自らを縛り、「自分の限界を超えた大いなるもの(something great)」を提示することはできなくなってゆくことでしょう。また、そのようなモノローグ的な宗教は「独善的なもの」として人々からの信頼を失ってしまうことは必定でありましょう。

 パウロは本日のエフェソ書の中で次のように言っています。そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、 一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい」。この「囚人」という言葉からも分かるように、パウロは獄に捕らわれており、エフェソ書はパウロの四つの獄中書簡の一つとされています(フィリピ、コロサイ、フィレモン)。神の招きにふさわしく歩きなさいと進めているのです。具体的には、①一切高ぶることなく(謙遜で)、②柔和で、③寛容で、④愛をもって相互に忍耐し、⑤平和のきずなで結ばれ、⑥霊による一致を保つよう努力しなさい、と勧められています。キリストがそのように生きられたからこそ、キリストに結びつけられている者はそのように歩むことができるというのです。ここでは「主に結ばれて囚人になっているわたし(パウロ)」という言葉が大切です。「神の招きを受けたのだから、その招きにふさわしく生きなさい」とパウロが呼びかける時、そこではキリストの具体的な生き方が思い描かれています。キリスト者とは「主キリストに結ばれた奴隷であり囚人」なのです。しかしそれは不自由な悲しみや苦しみの中に束縛された囚人ではありません。キリストに結ばれていれば、それは愛と自由の中に解放された喜びの囚人なのです。

 

平和の実現のために

 平和の実現のために私たちに何ができるか。様々なレベルがありましょうが、まずは身近な隣人との関係の中で具体的に、謙遜と柔和と寛容の心をもって接し、愛をもって相互に忍耐し、平和のきずなで結ばれ、霊による一致を保つように努力したいと思います。小教理問答で私は「信仰(ピスティス)とは「神と私との関係」を表す関係概念であると語ってきましたが、さらに言えばそれは、「平和のきずなで結ばれ、霊による一致を保つ」とあるように「隣人と私との関係」を表す概念でもあり、また同時に「自分と自分自身との関係」を表す概念でもあるのです。神と隣人と自己との和解のためにキリストは十字架に架かり、「敵意という隔ての中垣」を打ち砕いてくださいました。実に、キリストはわたしたちの平和であります」エフェソ2:14-16にある通りです。主の十字架によって与えられた和解、神と隣人と自分自身との和解は、どのような人生の嵐の中に置かれても揺らぐことはありません。私たちはこのような基盤を持っているのですからそこにしっかりと立ちながら、他者との対話をしてゆきたいのです。カザルスが「ピース、ピース」と鳴く故郷の鳥を思い出しながら平和のために生きたように、私たちもまた野の花、空の鳥を見上げながら、自分にできることを通して平和のために祈りと連帯の力を積み重ねてゆきたいと思います。

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