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2018年7月16日 (月)

2018年7月8日 聖霊降臨後第7主日礼拝説教「地縁でも血縁でもなく、聖霊縁」

201878日 聖霊降臨後第7主日礼拝説教「地縁でも血縁でもなく、聖霊縁」 大柴 譲治

コリントの信徒への手紙 二 12: 2〜10

すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。(9)

マルコによる福音書 6: 1〜13

そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。 そして、人々の不信仰に驚かれた。(5-6節)

 

もしもの時の地縁と血縁、人のつながりの大切さ

 大変な大雨が大きな被害を各地にもたらせています。土砂崩れや川の氾濫などで既に50名以上の方々の命が奪われ、70名以上の方々の安否がわからなくなっています。愛媛や高知、岐阜など現在「大雨特別警報」が出されている地域もあります。家や車、田畑、鉄道や道路などの被害を考えると大変なものになります。依然として雨は降り続いていますが、被災された方々のために祈りたいと思います。

 このような時に私たちは、人間の弱さやもろさというものを強く感じます。大自然の荒れ狂う力の前に人間は実に無力なのです。しかし同時にそのような私たちがその過酷な状況の中で支えられるのも、地縁や血縁を中心とする人のネットワークを通してであるということを強く教えられます。災害や事故など私たちの力を超えた想定外の出来事が起こるとき、私たちは困難の中で人と人との絆、つながりというものの有り難さを身に沁みて感じるのです。警察や消防、自衛隊など、現在救援活動に当たっている方々の上にも神の守りを祈りたいと思います。神は互いに隣人を守り、助け合うようにと私たちに命を与えられているのです。創世記は人間が「神のかたち」に造られたと記していますが(1:27)、それは神の愛を私たちが相互に分かち合うためだったと受け止めています。

 

地縁、血縁の背後にある神の聖霊縁

 本日私たちに与えられているみ言葉はマルコ6章で、そこにはイエスが自分の故郷ナザレでは全く敬われなかったという報告があります。イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。『この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。』このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、『預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである』と言われた。そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた」(6:1-6)。幼い頃からのイエスを知っているナザレの人々には、その人間的な親しさ近さのゆえに、神がイエスに賜った特別な権威と力とを認めることができず、つまずいたというのです。イエスも「人々の不信仰に驚きながら」もほとんど力を発揮することができず、「ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇蹟をも行うことがおできにならなかった」くらいでした。イエスの持つ力も、幼い頃からイエスを知り、その家族をよく知っている故郷ナザレの人々によって封印されてしまったかのようです。余りにも人間的なものが中心に置かれると、それが私たちの眼を曇らせ、視界を暗くし狭くするということが起こりうるということなのでしょう。私たちもまた、地縁も血縁も、実はそれらすべては神から与えられたものであるという大事な事実を見失わないように心したいと思います。

 

出会いの背後にある神の御心

聖書は私たちに、人生の出会いの背後には必ず神さまの御心があるということ告げています。例えば創世記2章。最初の人間アダムに対して「人は独りでいるのはよくない。彼に合う助ける者を造ろう」18節)と神が決意をして、アダムのところに最初は神が造った様々な動物が連れてこられます。ちなみに「助ける者/助け手」というのは、上下関係の中にある「アシスタント」という意味ではなく、あくまで対等な「パートナー」という意味でありましょう。「人」という漢字は二人の人が支え合って立っている姿を表すとも言われますし、「人間」とは「人の間」と書くように、神は人間には傍にいて相互に支え合うパートナーシップが必要であると考えられたのです。アダムはその動物たちに名前を与える(名付ける)のですが、自分に相応しいパートナーを見出すことはできませんでした。そこで神はアダムを深く眠らせ、そのあばら骨の一本を取って最初の女性を造ったと記されています。女性がアダムの肋骨から造られたということで男尊女卑であると眉をひそめる向きもあるかも知れませんが、私はそこには大切な意味が含まれていると思っています。これは私が先輩牧師の石橋幸男先生から学んだことでもありますが、肋骨が心臓の一番近くにあって心臓を守っているように、男と女、夫と妻とが、心と心、ハートとハート、人格と人格が結び合い互いに守り合うような親しい関係の中に神によって置かれているということを意味しているのです。そしてその女性、後にアダムによって「エバ(命)」という名が付けられますが、エバと出会った時にアダムは大きな喜びに満たされて言うのです。ついに、これこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉。これをこそ、女と呼ぼう、まさに、男から取られたものだから23節)。この言葉からは溢れるほどの出会いの喜びが伝わってきます。人生とは出会いです。このような出会いを味わうことができる者は幸いであります。

この物語で大切なことはアダムとエバの出会いに先立って、神ご自身が「人が独りでいるのはよくない。ふさわしい助け手を与えよう」と決意していることです。神の決意のもとで夫と妻とは出会わされてゆくのです。そしてこのことは夫婦に限らないことでありましょう。親子であっても兄弟であっても親族であっても、恩師や友人であっても、地域や学校での恩師や友人であっても、サークルの仲間や職場の同僚、上司や部下であっても、人間の出会いの背後には必ず出会いに先立って「彼に合う助ける者を造ろう」という神の決意があるということを意味しています。神の決意の中で私たちは出会ってゆく。それは私が私であるということの背後に神さまの深い愛の御心があるのと同じです。そのことをパウロはガラテヤ1:15で、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神」という預言者エレミヤを想起させる印象的な表現で語っています。「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた」(エレミヤ1:5)。私たち一人ひとりは生まれる前から神によって選び分けられ、神の恵みによって召し出されているのです。何と不思議なことでしょうか。そのことがパウロには、キリストと出会うことを通して、迫害者であった自分の古い生き方を遙かに超えて、母の胎内にあった時から、この世に生を受ける前から神によって備えられていた真実なのだということが突然目からウロコが落ちるようにパーンと開けて見えたのです。その意味では、私たちに地縁や血縁などの出会いが与えられているということ、大切な人間関係が与えられていることは、神の恵みであります。キリストが私たちの眼を開いてくださいます。しかし本日の福音の日課にあったように、神が与えてくださった地縁と血縁というつながりが同時に私たちの眼を曇らせることになってしまう場合があります。人間的な親しさや近しさを重視し、人間関係を第一とすることで、私たちには神の恵みの御業を見る(認める)ことができなくなってしまうということが起こるのです。モーセの十戒の第一戒で命じられているように、私たちには真の神以外の何ものをも神としないこと、ただ真の神を神とすることが求められています。神を神とすることの中で、第四戒の「あなたの父母を敬え」ということが正しく位置づけられてゆくのです。私たちは地縁や血縁などを通して私たちに与えられているすべての出会いと絆とを、キリストがそうであったように、神との関係の中に正しく位置付けて受け止めてゆきたいと思います。最後にアフリカに伝わる一つの諺を引用して終わりにいたします。「早く行きたいと思う者は一人で歩いてゆきなさい。しかし遠くまで行きたいと思う者は、誰かと一緒に歩きなさい」。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

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