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2018年7月24日 (火)

2018年7月22日(日) 聖霊降臨後第9主日礼拝説教「五つのパンと二匹の魚(一)」

2018722日(日) 聖霊降臨後第9主日礼拝説教「五つのパンと二匹の魚(一)」  大柴 譲治

    エレミヤ書 23: 1〜 6 4節)

「彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない」と主は言われる。

    マルコによる福音書 6:30〜34、53〜56 34節)

イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。

 

羊飼いイエスの深い憐れみ

 本日の旧約聖書の日課のエレミヤ書6章は主なる神の言葉をこう伝えています。「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」1節)。そして続けます。「あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった。わたしはあなたたちの悪い行いを罰する2節)。神はここで、神の民を正しく導かなかいでいる偽の悪い羊飼いを、民の指導者たちを糾弾しているのです。さらにエレミヤは主なる神の言葉をこう伝えています。このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもないと(3-4節)。神ご自身が「真の牧者(羊飼い)を立てる」と預言しておられます。「その羊の群れはもはや恐れることも、怯えることもなく、迷い出ることもない」のです。

本日与えられているマルコ福音書6章の日課には、旧約聖書エレミヤ書23章の預言の成就として、真の羊飼いであるイエス・キリストの姿が描かれています。特に34節に注目いたしましょう。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。イエスの周囲に押し寄せている大勢の群衆。彼らは様々なニーズを持ってイエスのもとに集まってきています。それが「飼い主のいない迷える羊」のように描かれています。イエスはその有様を深く憐れみ、羊飼いとして「牧会(羊の世話/パストラルケア)」をされてゆくのです。「深い憐れみ」とは聖書の中に出てくる大切なキーワードの一つです。これまで何度も申し上げてきましたが、この「深い憐れみ」とは日本語の「同情」とか「憐憫」とは違う次元の言葉です。それは「はらわた、内蔵」を意味する語から来ていて、日本語では「はらわたがよじれるような思い」「断腸の思い」という表現がありますがそれに近い言葉です。イエスは群衆の苦しみや悲しみ嘆きをご自身のはらわた(存在の中心)で受け止められ、それを断腸の思いをもって共に担われたということを意味しています。イエスは困窮の中に置かれた人々を放ってはおけなかったのです。そこに真の羊飼い、牧者としてのイエスの一人ひとりに対する熱い思いがあります。イエスは神の深い憐れみを体現していました。

毎日報道される西日本豪雨による災害の大きさは私たちの心を痛めますが、しかしそれらの人々のところに「その状況を放っておくことはできない」としてボランティアが大勢集まっていることも報道されています。2011年の東日本大震災の時もそうでしたし、二年前の熊本地震の際にもそうでした。遡って1995年の阪神淡路大震災の時にもそうでした。1995年は「ボランティア元年」とも呼ばれています。1995年以降、世界と同じように、ボランティアが実に献身的で継続的な働きをしているのです。このようなボランティア精神が日本に根付いたというところには隣人愛を説くキリスト教の大きな貢献があったと私は思います。先日のサッカーのワールドカップでも、日本の応援団は試合が終わったあとにゴミ掃除をして世界中に大きな感銘を残しました。選手たちもまた自分たちが使ったロッカーをキレイに清掃して「スパシーボ(ロシア語でありがとう)」と記して帰ってきたことが話題になりました。本来日本人が持っている礼儀正しさ、節度や几帳面さ、きめの細かさやきれい好きな倫理性といった価値観が、ボランティア精神と相俟ってそのような自然なかたちで賞賛を集めているのでしょう。黙々と働き、自分のできることをして黙ってその場を去って行くボランティアの姿に私たちは励まされます。今回の豪雨でも西中国の先生方を中心にボランティアの募集がなされています。連帯献金と共に私たちにできることをなしてゆきたいと思います。

 もう一つの特性として日本人には向かい合う相手に対して失礼の無いように配慮する心が強く働きます。自分よりも相手を中心に据えてケアするという態度です。相手の苦しみや悲しみを自分のことのように感じて、それに対して自分ができることをしてゆこうとする心です。そのような心性がボランティア精神と結びついて黙々と奉仕に励む人が後を絶たないのでしょう。すべての人がそうであるということは言えないでしょうが、他者のために仕えてゆくことの深い喜びを多くの日本人は体験的に知っているのかもしれません。逆に言えば、人の気持ちを大切に受け止めることを知るがゆえにこそ、羊飼いキリストの、はらわたがよじれるほど深く強く羊たちを大切に思う姿は私たちの心にも深く響いてくるのです。

 

「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」(詩編23編)

実は毎週の主日礼拝には主題詩編が一つ選ばれています。本日はあの有名な詩編23編が主題詩編として選ばれています。この詩編を愛唱聖句としておられる方も少なくないことでしょう。実に味わい深い信頼と感謝の詩編です。

【賛歌。ダビデの詩。】 主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。 2主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い3魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。4死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。5わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ、わたしの杯を溢れさせてくださる。6命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう。

 主は私の羊飼いであって、私には何一つ不足したところがないというのです。何という信頼、何という慰めでありましょうか。主の慈しみと憐れみは天より高く、海よりもなおも深く、尽きることがないのです。マルコ6:53からはこう記されていました。こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いて舟をつないだ。一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って、その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた。村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされたと(53-56節)。イエスの憐れみに触れることができた者は皆、癒され、病気や痛みから解放されたのでした。イエスの深い憐れみが大きな奇蹟をもたらしたのです。

 

五つのパンと二匹の魚〜五千人の給食の奇蹟

 本日のマルコ福音書6章には、今日は省略されていますが、「五つのパンと二匹の魚」を用いてイエスが五千人に食べ物を与える場面が記されています。たった五つのパンと二匹の魚で五千人!? 次週滝田先生がその場面をヨハネ福音書から読み解いて下さることになっていますが、その五千人の給食の出来事は私たちの羊飼いイエス・キリストの憐れみがいかに深く、強く、広く、高いかが示された出来事だと思います。「そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった」43節)とありますが、「十二の籠」とは神の民である「イスラエルの12部族」のことを指しています。神の恵みのみ業を通して「神の民」「神の羊の群れ」が満ち溢れる恵みをいただいたことを表しています。人生においては、私たちの力ではどうすることもできないような突然の悲しみや苦しみ、行き詰まりがたくさんあります。しかしたとえそのような苦難の中にあったとしても、主の深い憐れみを私たちは覚えたい。主は羊飼い、わたしには何も欠けることがないのですから。そしてご一緒にその恵みに与りたいと思います。これから聖餐式に与ります。これは主によって備えられた恵みの食卓であり、救いの食卓です。五千人の給食の出来事です。主はご自身の持つすべて(「五つのパンと二匹の魚」)を私たちのために差し出して下さいました。それは私たちが主のいのちに生きるためです。その招きにご一緒に与りつつ、主の憐れみの御業を深く味わってまいりましょう。アーメン。

 

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