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2018年7月 6日 (金)

2018年7月1日 聖霊降臨後第6主日礼拝説教「あなたの中に働く神の信実(ピスティス)が」

201871日 聖霊降臨後第6主日礼拝説教「あなたの中に働く神の信実(ピスティス)が」 大柴譲治

哀歌 3:22〜33

主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。「あなたの真実はそれほど深い。」(22-23)

マルコによる福音書 5:21〜43

女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」33-34節)

 

二つの奇蹟物語とマルコ福音書におけるサンドイッチ構造

 本日の福音書の日課には二つ奇蹟物語が記録されています。一つは会堂長ヤイロの12歳になる娘の癒しで(ⓐ)、もう一つは12年間も出血が止まらなかった一人の女性の癒しです(ⓑ)。それらは単に「身体的な意味での病気の癒し」である以上に、「全人的な人間の救い」というものを明らかにしています。そしてそれは信じる/信仰(ギリシャ語ではピスティス)」とは何を意味するのかということを読む者に強烈に印象づける構造になっています。その出来事は本日の旧約の日課である哀歌3章のみ言葉に語られている通りです。主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。『あなたの真実はそれほど深い。主こそわたしの受ける分」とわたしの魂は言い、わたしは主を待ち望む』3:22-24)。主の慈しみと憐れみは決して絶えず、尽きることはないのです。

それらをⓐとⓑとすると、ちょうどサンドイッチのような構造になっています。即ち、ⓐ1++2という形になっている。会堂長ヤイロの娘の癒し(蘇生)のエピソードの中に、長血を患った女性がソッとイエスの後ろから近づいて衣に触れて癒されたというエピソードが間に入っているのです。その構造のために、ヤイロの「イエスには一刻も早く自分の娘のところに行って欲しい」というやきもきするような気持ちが読者に強く伝わってくるような構造になっています。それだけになおさら、イエスが「タリタクミ(少女よ、起きなさい)」と言って少女を死から呼び戻されたことが劇的に印象に残るのです。イエスが語ったアラム語がそのまま記録されているところにもそのことは顕かです。ここに福音書記者マルコの優れた構想(構成)力と文才があるのだと思います。マルコ福音書にはまことに無駄な言葉がありません。飾らず単刀直入にイエスの働きと言葉とを記録している。マルコ福音書は獅子(ライオン)のイメージで表されたりしますが、まことにその通りでありましょう。ちなみに、それはエゼキエル書1:10から来ていて、四つの顔を持ち翼をもった「ケルビム」という「天的な存在(動物)」のイメージがそこには描かれています。興味深いことに、教会の歴史の中で、その4つは4つの福音書と結びつけられてきました。マルコは「ライオン(獅子)」ですが、マタイは「天使(人間)」、ルカは「牛」、ヨハネは「鷲」のイメージで受け止められてきたのです。

ここでは12という数字が二回出て来ますが、ここにも深い意味が読み取れましょう。12は聖書の中では完全数を意味し、「イスラエルの12部族」「イエスの12使徒」を表します。このエピソードは、すべての民族に、イエスを信じるすべての人に関わりがあるのだということがそこでは意図されているのでしょう。最初の救いは

25節から34節をもう一度お読みしてみましょう。さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。『この方の服にでも触れればいやしていただける』と思ったからである。すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、『わたしの服に触れたのはだれか』と言われた。そこで、弟子たちは言った。『群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、「だれがわたしに触れたのか」とおっしゃるのですか。』しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。『娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。』」 この34節の、特に前半部分のイエスの言葉を私は本日の説教の主題として選ばせていただきました。娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさいという印象的な言葉です。イエスの言葉は単に「肉体的な癒し」の次元を超えた、「神による救い」の次元を明らかにしています。本日の日課にはもう一つ印象的な言葉があります。イエスがその女性に関わっている間にヤイロの娘が亡くなりました。イエスは間に合わなかったのです。その時にヤイロに対して言われたイエスの「恐れることはない。ただ信じなさい」という言葉です。それは、本日のもう一つの主題でもあります。我が子を亡くすという深い悲しみと死に対する憤りと絶望との中にある一人の父親を解放する言葉です。「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われたイエスは、彼女を生き返らせ、父の腕の中に返して行かれるのです。そのことを通して、イエスには人間を非人間化する病気や死をも支配する「神の権威」が与えられているということが明らかにされます。イエスは私たちに「信じること」の恵みを贈り与えてくださるのです。主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。『あなたの真実はそれほど深い。主こそわたしの受ける分」とわたしの魂は言い、わたしは主を待ち望む』と書かれている通りです(哀歌3:22-24)。

 

「あなたの信仰(ピスティス)があなたを救った。」=「あなたの中に働く神の信実(ピスティス)があなたを救った。」

 ヤイロの娘を死からよみがえらせるというエピソードの間に挟まれていた「長血を患う女性」に今少し焦点を当ててみたいのです。彼女は12年間その病に苦しみ続けて来ました。持っていた全財産をその病気を治すために使い果たしてしまったほどでした。「さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった」。彼女はイエスのうわさを聞きます。このお方なら私を癒してくださるかも知れない。そう信じた彼女は、藁にもすがる思いでイエスに後ろから近づき、多くの群衆に紛れ込みながらその御衣のふさにそっと触れます。「イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。『この方の服にでも触れればいやしていただける』と思ったからである」。そしてその通りになりました。「すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた」。彼女は12年間の苦しみからようやく解放されたのです。しかしイエスは振り返って自分に触れた者を探します。「イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、『わたしの服に触れたのはだれか』と言われた。そこで、弟子たちは言った。『群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、「だれがわたしに触れたのか」とおっしゃるのですか。』しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた」。イエスはその者の救いのためにはどうしてもその者を見出す必要を感じられたのです。イエスの温かいまなざしの中にその女性は勇気を振り絞って自ら名乗りを上げます。「女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した」。イエスは彼女に神の救いを宣言します。イエスは言われた。『娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい』」。実はこの宣言は彼女がユダヤ人の社会に復帰するためにはどうしても必要な宣言でした。出血が止まらずにいた彼女は当時の社会にあっては律法によって「汚れた者」と位置付けられていたからです。それが癒されたことは祭司によって公にされる必要がありました。イエスの娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさいという言葉は彼女が癒されたこと、社会復帰ができることを宣言した言葉です。それのみならず、12年間も彼女は「神から罰せられた者」「信仰のない者」と周囲から見なされて苦しんできた彼女の中に、「信仰(ピスティス)」があったことをイエスは宣言しているのです。「苦難の中にあっても神は常にあなたと共におられたのだ。これからも神はあなたと共におられる。だから安心して、神の平安(シャローム)の中に行きなさい」と。「信仰」とは人間の行為ではありません。それは「神の御業」であり、「神の信実/〈まこと〉による慈しみの御業」なのです。従ってイエスの言葉は次のように言い換えることができましょう。「あなたの中に働く神の信実があなたを救った」と。神は苦しみの中でも彼女と共にいてくださったのです。どのような悲しみや苦しみに出会おうとも、神の与える「信実(ピスティス/〈まこと〉)」が、私たちを守り、支え、永遠の喜びと慰めへと招いてくださいます。そのことをご一緒に感謝いたしましょう。お一人おひとりの上に神さまの祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。 アーメン。

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