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2018年6月 5日 (火)

2018年6月3日(日)聖霊降臨後第2主日礼拝説教「本末転倒を避ける」

201863日(日) 聖霊降臨後第2主日礼拝説教「本末転倒を避ける」  大柴 譲治

申命記 5:12〜15 / マルコによる福音書 2:23〜3: 6

「安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。」(申命記513-14a

 

安息日論争

 本日私たちに与えられているのは「安息日論争」のエピソードです。「安息日」とはヘブル語では「シャバット/サバス」と呼びますが、これは「第七」という意味の語から来ています。創世記を読みますと神が六日間で天と地を創造し七日目に休まれたとあるところから、七日目を「安息日(安らかな息の日)」と呼ぶようになったのです。日没から一日が始まりますから、厳密に言えば「安息日」とは「金曜日の日没から土曜日の日没まで」を意味します。本日の旧約の日課に与えられているように、モーセの十戒に安息日の規定がありますので、ユダヤ人は「安息日」をとても大切にしていました。安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない(申命記5:12-14節)。その日にはいかなる仕事もしてはならないのです。それは、人間が神に倣って労働を休み、休息を取るのみならず、安息日は神を礼拝するために神ご自身が聖別した特別な日でもあったのです。本日の箇所では、その弟子たちはこの安息日の定めを守らないということでファリサイ派の人々は弟子たちの師であるイエスに難癖を付けています。事の発端は弟子たちが麦の穂を摘み始めたというところにあります。ユダヤ人たちは、これは神の律法が禁じた労働に当たるというのです。ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、『御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか』と言った」23-24節)。平衡箇所を見ると、ルカ福音書はそれに「弟子たちは麦の穗を積み、手でもんで食べた」と記しています。いかにも脱穀という労働をしているような一語を付加しているのです(ルカ6:1)。弟子たちのしたことは明らかに安息日の規定に違反するということなのでしょう。もしかしたらこの出来事の背景には、ユダヤ教からキリスト教が分離してゆくという複雑な事情があったのかもしれません。「なぜキリスト者たちはモーセの十戒を守らないのか」というユダヤ教の側からの鋭い問いかけがあったことが考えられます。

 

イエスが教えた三つのこと

 イエスはファリサイ派に対して三つのことを示します。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか」25-26節)。イエスはここでサムエル記上21:1-7に記された出来事を想起しています。舞台はノブという所の聖所。ダビデはサウル王の憎しみを買って逃亡中です。ノブの祭司アヒメレクがパンを請うたダビデに対して「聖別されたパン」を与えたことが記されています。これが安息日の出来事であったかどうかは記されていませんが(恐らく違うでしょう)、「聖所で祭司だけが食べることができる聖別されたパン」も、人を生かすために例外的に用いられることがあるということです。ちなみに、マルコはここで祭司の名を「大祭司アビアタル」と言っていますが、これはマルコの記憶間違いで、正しくは「祭司アヒメレク」です。マタイとルカはそれのためか、マルコの記した名前をカットしています。

 イエスはま続けてこう言っています。②「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある」27-28節)。「人の子」とはイエスがご自身を語る時によく使う称号です。神から遣わされた権威をもってイエスはファリサイ派の人々の本末転倒を正されるのです。

第三は、マルコ3章に記されているもう一つのエピソード「安息日に片手の萎えた人を癒すイエス」です。③「イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。イエスは手の萎えた人に、『真ん中に立ちなさい』と言われた。そして人々にこう言われた。『安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。』彼らは黙っていた。そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、『手を伸ばしなさい』と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた」3:1-6)。結局この「安息日論争」がユダヤ人たちの怒りと憎しみを買うことになって、イエスが十字架で殺されることの発端になったとマルコは記しています。

 

本末転倒とそれを避ける道

 私たちはイエスの言葉を聴くとしばしばハッとします。様々なことにこだわって大切なことを見失いがちな私たちに、何が大事なことであるか、何が神が大切に求めていることであるかをはっきりと教えてくれるのです。「あなたがたは本末転倒している。安息日に関しての神の意図は別のところにあるのだ」と。祭司アヒメレクに頼んでダビデは聖別されたパンを食べるほど自由でした。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」という言葉がイエスの言いたいことを最も明らかにしているでしょう。「本末転倒してはならない。安息日を定めた神の意図は、人間を真の意味で生かすためであり殺すためではない」とイエスは神の権威をもって告げています。

また、イエスは手の萎えた人に「真ん中に立ちなさい」と言って人々の真ん中に立たせます。神の恵みが注がれる舞台のど真ん中に彼は呼び出される。彼が神の恵みのドラマの主人公なのです。そして人々にこう言われます。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」。彼らは誰もイエスに答えられずに黙っています。するとイエスは、怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に「手を伸ばしなさい」と言われたのです。伸ばすと、彼の萎えた手は元どおりになりました。安息日に限らず、神は私たちを祝福し私たちを聖別してくださろうとしているということをイエスは明らかにしています。私たちは恵みの神を信じ、神によって様々な束縛から解放され、神との信頼関係の中で自由にされていく必要があるのです。

 本末転倒を避けるために私たちはイエスの言葉を深く味わう必要があります。「安息日に律法で許されているのは、悪を行うことではなく善を行うことであり、殺すことではなく命を救うことなのです」。イエスは私たち人間の持つ「かたくなな心」「悲しみ」、「怒りをもって」それと対決しながら「癒やしの御業」を行われました。それを見て私たちの心が打ち砕かれ、悔い改めて神へと戻ってゆくためであったのです。しかしそれは起こりませんでした。ファリサイ派の人々は頑な心をさらに頑なにしてイエスを殺そうとまで考え始めるのです。人間とは何と救いようがない存在であるかと思います。自分を守ろうとする時、私たちは本能的に自分を脅かすものを排斥し、排除しようとします。イエスは私たちの心の頑なさを打ち砕こうとされます。私たち人間の「頑固な心」、それは「律法主義的な心」「自己神格化」と言い換えることができるかも知れませんが、それがイエスを十字架へと追いやり、イエスを十字架に架けたのです。そこに私たち人間のどうしようもない「罪の現実」があります。出口のない暗黒の闇がある。しかし、本当の救い、本当の命、本当の自由は、私たちの罪がイエスによって打ち砕かれ、私たちが自らの罪を悔い改め、十字架の救いを信じるところに与えられます。闇の底にイエスの救いの光が届いて輝いています。何が大切かを知らずに本末転倒を繰り返す私たちに、イエスは一番大切なこと、神がその独り子を賜るほどこの世を愛してくださったことを教えてくださった。イエスを通して私たちには本当の救い、本当の安息が神から与えられるのです。

 これから聖餐式に与ります。「これはあなたのために与えるわたしのからだ」「これはあなたの罪の赦しのために流すわたしの血における新しい契約」と言って、主が私たちを生かすためのパンとブドウ酒としてご自身を捧げてくださった。そのことを私たちの「ライフ(人生・生活・いのち)」の中心に置きたいと思います。キリストへの服従こそが、私たちが本末転倒することなく、真の神を神として生きてゆくことができる道なのです。本日、神の安息に与るこの主日礼拝において、そのことを知る者は幸いであると言わなければなりません。

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