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2018年6月23日 (土)

2018年6月17日 聖霊降臨後第4主日礼拝説教「世界を動かす力は希望」

2018617日  聖霊降臨後第4主日礼拝説教「世界を動かす力は希望」 大柴 譲治

マルコによる福音書 4:26〜34

また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」(26-29節)

 

「世界を動かす力は希望である」(ルター)

 本日は福音書の日課では二つの「神の国のたとえ」が与えられています。その主題は「希望」であると捉え、「世界を動かす力は希望」という説教題をつけさせていただきました。これは宗教改革者・マルティン・ルターの言葉です。ルターは言っています。「この世界を動かす力は希望である。やがて成長して果実が得られるという希望がなければ、農夫は畑に種をまかない。利益が得られるという希望がなければ、商人は商売に取りかからない」。確かに、「収穫」という希望があればこそ、そのために私たちは努力してゆくことができるし、その努力はやがて豊かな実りというかたちで報われてゆくものであるとのでしょう。そのように考えますと、どれほど今ここでの現実が厳しいものであっても、私たちは未来に向かって夢と希望を抱き続けます。それを抱き続けなければ、この苦難を耐えることができないと思うからです。「明日」という言葉は「明るい日」と書きますが、人間とは明るい明日、希望に向かって生きるように最初から定められているのかもしれません。女性会聖研では先月から「希望」という主題についてみ言葉に聴いています。

例えば、今日はローマ書4章からパウロの言葉が与えられています。パウロは言うのです。彼(アブラハム)は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、『あなたの子孫はこのようになる』と言われていたとおりに、多くの民の父となりました」(ローマ4:18)。「信仰の父」と呼ばれる父祖アブラハムが、神の言葉を信じて義とされたこと、100歳の時に約束の子であるイサク(「彼は笑う」という意味の名前)を与えられて、大きな喜びに満たされて、すべての民のための「祝福の源/基」となっていったことは、聖書に告げられている通りでした。パウロの言う通り、アブラハムは「希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じた」のでした。何が彼を支えたか。神が彼を通して豊かな祝福を与えるという「神の約束の言葉」でした。神の言葉の中にアブラハムは希望を見出したのです。そのことはパウロもそうであり、マルティン・ルターもそうでした。「世界を動かす力は希望である。やがて成長して果実が得られるという希望がなければ、農夫は畑に種をまかない」。神のみ言という未来を支える希望があればこそ、私たちは現在の苦難を乗り越えてゆくことができるのです。

これまでもご紹介してきましたが、ユダヤ人強制収容所の現実を描いた『夜と霧』という世界的なベストセラーがあります。著者のユダヤ人精神科医ビクトール・フランクルはその中で次のように語っています。「収容所で最初に倒れていったのは身体の弱い、体力のない人たちではなかった。希望を見失った者、絶望した者から先に倒れていった」と。普段私たちはそれほど意識していませんが、ギリギリの限界状況に置かれたときにそれまで見えなかったものが見えてきます。私たち人間をその根底から支えているのが「希望」だということが見えてくるのです。人生には様々なことが起こります。喜びの時もあれば、悲しみや苦しみの時もある。例えば、病気や事故で入院しなければならなくなったとき、私たちは思います。「いつか必ず治って、自分の家に帰る日が来る」と。そのような希望があればこそ、免疫力も高まり、治療効果も上がってゆくのです。七転び八起き。諦めたら終わりなのです。

 

神の国のたとえ①〜「種まきのたとえ」

さて、イエスの語った神の国のたとえを見てみましょう。最初のたとえはこうです。また、イエスは言われた。『神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである』」26-29節)。確かに田んぼや畑、家庭菜園や草花などグリーンを育てておられる方々はよくお分かりになることでしょう。植物の成長は本当に不思議なものです。種の中には最初から、予め成長してゆく力が宿っているかのように見受けられます。また土の中には予め実を結ばせてゆく(肥料としての)力が宿っているようなのです。

昨日天王寺教会で関西一日神学校が開かれ、ルーテル学院大学教授のジェイムズ・サック先生が「素晴らしいコミュニケーション〜人間関係をより良く築くために私たちにできること」という主題で講演を行ってくださいました。その中に次のような印象的な言葉がありました。「一つのリンゴの実の中に種がいくつあるかは私に分かるけれども、一つの種からいくつのリンゴの実が実ってゆくかは私には分からない」。種の中には無限の成長の可能性が宿っているという意味ですが、サック先生は、私たち一人ひとりの中にはそのような無限の可能性が神から与えられているということを伝えたかったのだと思います。そして、私たちが向かい合う相手の中にある豊かな可能性を信頼して、できるだけ肯定的に相手を捉えてゆくことが大切であると、コミュニケーションの秘訣を示して下さったのです。「良いコミュニケーションは健康的な態度に基づいている」。言い換えれば、「相手の中には豊かな実りをもたらすはずの種があって、その種の未来の成長の可能性を信じる」ということではないかと私は受け止めました。

大切なことは、「人間」という字は「人の間」と書くように、私たちは自分が一人だけで生きているのではないということなのでしょう。私たちは人と人の間に、他者との生き生きとした関係の中に置かれているということだと思います。モノローグ(独白)ではなく、ダイアローグ(対話)なのです。私たちが大きな壁にぶつかって悩むとき、落ち込むときに、自分は孤立無援の独りぼっちであるように感じます。どこにも希望を見出すことができず、絶望的な気持ちになることがあります。私たちは自分を支えてくれる誰かが必要です。家族や友人や、恩師や教会の交わりなど、他者が必要なのです。その意味で「救い」は常に「外」から、私たちを超えた「天」から来るのです。

 

神の国のたとえ②〜「からし種のたとえ」

 イエスが語られた神の国のたとえの二つ目は「からし種のたとえ」です。「からし種」とは英語では「マスタードシード」。マスタードのビンの中によく見ると小さなツブツブの種が見えることがありますが、あの1ミリの半分にも満たないような小さな「からし種」についてのたとえです。更に、イエスは言われた。『神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る』(30-32節)。ここでも小さなからし種一粒の中には、鳥が巣を作ることができるほどに大きく成長してゆく神の力が宿っていることが告げられています。「からし種」に関しては次のようにイエスは言われたことを思い出します。「イエスエスは言われた。『信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、「ここから、あそこに移れ」と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない』」(マタイ17:20)。ルカにはこういう言葉も記録されています。「主は言われた。『もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、「抜け出して海に根を下ろせ」と言っても、言うことを聞くであろう』(ルカ17:6)。私たちには神が与えて下さる「からし種一粒の信仰」があればそれで十分なのです。「世界を動かす力」「神の言葉」という「希望」なのです。

 これから私たちは聖餐式に与ります。「これはあなたのために与えるわたしのからだ。これはあなたの罪の赦しのために流すわたしの血における新しい契約」と言われたイエス・キリスト。この主の約束の言葉を私たちの「ライフ(人生・生活・いのち)」の中心に置きたいと思います。この天の祝宴こそが、どのような悲しみや苦しみに出会おうとも、私たちを永遠の喜びと慰めと希望へと招いてくれるからです。そのことを共に感謝いたしましょう。アーメン。

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