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2018年6月10日 (日)

2018年6月10日 聖霊降臨後第3主日礼拝説教「聖霊を冒涜する罪とは」

2018610日 聖霊降臨後第3主日礼拝 説教「聖霊を冒涜する罪とは」   大柴 譲治

マルコによる福音書 3:20〜35

「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。29しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」(28-29節)

 

剣で刺し貫かれるような心の痛みを覚えた母マリア

 本日の福音書は「一軒の家の中」での出来事です。「家」「家庭」をも表していて、恐らくそれは「カファルナウムにあったペトロとアンデレの家」を意味していたことでしょう。イエスと弟子たちは、ガリラヤでは、漁師であったペトロとアンデレ兄弟の家をその活動の拠点としていたからです(1:29参照)。イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった(マルコ3:20)。イエスの周囲には救いを求めた苦しむ人々が大勢いたのです。そしてこう続きます。身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである」21節)。ここで「身内」とはイエスの「母マリアと兄弟姉妹たち」であったことが32節を読むと分かります。家族が心配してイエスを「取り押さえに来た」というのですから、これはよほどのゆゆしき事態です。「イエスは汚れた霊に取りつかれている」と言う者もいましたし(30節)、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」とか「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」とまで言う「エルサレムから下ってきた律法学者たち」もいたと記されています。イエスの家族はそのような伝聞を聞いて、恐らく家族会議を開き、「これは一大事だ。もう放ってはおけない」と考えてペトロとアンデレの家にやって来たのでしょう。父ヨセフの名が出てこないのはイエスが若い頃に亡くなっていたからでしょう。当時の社会では家族の絆は強いものでした。

31節以降にはこうあります。「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。大勢の人が、イエスの周りに座っていた」という状況です。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」とイエスが知らされると、イエスは「周りに座っている人々を見回しながら」、ある意味で家族に対して大変に厳しい言葉を告げるのです。「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と。「わたしは彼らを知らない」と言っているかのようです。そこには「母や兄弟たちはもうわたしの家族ではない」という家族との訣別/絶縁を宣言したような強い響きがあります。「父母を敬え」というモーセの十戒で命じられている以上のことがここで神の権威をもって宣言されているのです。既にイエスによって新しい時代が始まっているのです。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」。母マリアは人間として、これらの言葉に心の中で鋭い刃で突き刺されたような痛みを覚えたのではなかったかと想像します。

 ルカ福音書2章には幼子イエスと出会ったシメオンが大いなる喜びのうちに「シメオンの讃歌(ヌンク・ディミティス)」を歌う場面が記されていますが、その後シメオンはマリアにこう伝えています。「シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。『御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。— — あなた自身も剣で心を刺し貫かれます(下線は大柴)— — 多くの人の心にある思いがあらわにされるためです』」(ルカ2:34-35)。「マリア(ミリアム)」という名前はヘブル語の「マラ(にがい)」という語から来ています(ルツ1:20-21)。深読みかも知れませんが、母マリアが「心を刺し貫かれるような痛み」を最初に覚えたのもこのようなイエスの態度と言葉からだったように思います。

そのような痛みはイエスが十字架に架けられて殺され、死んで十字架から降ろされた場面で、頂点を迎えたことでしょう。自分がお腹を痛めて産んだ子が目の前で殺されなければならなかったマリア。それを目の前で目撃しなければならなかったマリアの心の痛みを覚えます。「スタバート・マーテル・ドロローサ(悲しみの聖母は立ちぬ)」と呼ばれる中世の讃美歌や、「ピエタ(あわれみ/慈悲)」と呼ばれる十字架から降ろされた息子を抱きかかえるマリアの姿がいくつもの絵や彫刻を想起します。最も有名なものはルネサンス時代を生きた天才彫刻家にして画家、建築家にして詩人であったミケランジェロ(1475-1564。彼は1483-154663年間の激動の生涯を生きた宗教改革者マルティン・ルターと同時代人です)が20歳の時に作った大理石のピエタ像でありましょう。それはヴァチカンのサンピエトロ大寺院に納められていて、ミケランジェロが唯一自ら署名をした作品としても知られています。

マリアは天使ガブリエルから受胎告知を受けた時点で、既に最初から神がイエスを通して人々のために救いの御業を示されるということを知っていて次のように告白したのでした。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ1:31)。マリアは自分の理解を超えた出来事を、理解できないままで神の御心として精一杯受け止めようとしています。ここでも母マリアはイエスの言葉を、心の痛みを覚えながらも、「お言葉どおり、この身に成りますように」という祈りをもって「御心が成るように」と受け止めたに違いありません。

 イエスの言葉に戻りましょう。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」イエスは「地縁」でも「血縁」でもない「神の御心を行う人たちの新しい絆」、神の聖霊によって集められた「聖霊縁」とも呼ぶべき「新しい絆」、「神の家族としての絆」を創造しているのです。誰であっても「神の愛の御心を行う者」「イエスの家族」です。イエスの母マリアは真の意味で、血縁の次元を超えた、神の御心を自分の身体と人生とで受け止めていった「まことの信仰の母」とも呼ぶべき存在でありました。

 

「聖霊を冒涜する罪」とは何か?

 そのように考えてきますと、本日の「決して赦されることのない聖霊冒涜の罪」とは何かということについても光が当てられてゆくように思います。イエスは言います。「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」28-29節)。「はっきり言っておく」という語は、ギリシャ語で「アーメン、わたしはあなたがたに言う」という言葉です。「アーメン」とは「然り」「真実」「まことにその通り」という意味のヘブル語で、その表現は事柄を強調する際に使われるイエスの口癖でもあります。「聖霊を冒涜する罪以外はどのような罪であってもすべて赦されるが、唯一聖霊冒涜の罪だけは決して赦されない」と言われている。「そして永遠に罪の責めを負う」とある。この言葉を聞く者は心底身震いがして、自分は燃えたぎる地獄の業火で燒かれる定めにあるようなショックを受ける表現です。それにしても「聖霊を冒涜する罪」とは何なのでしょうか。

 「ベルゼブル」という語が出て来ますが、これはカナン地方の神の名でもあり、同時にペルシャの偶像神「ベルゼブブ」(蝿の王/蝿の主。列王紀下1:2では「バアル・ゼブブ」)を指しているとも考えられます。「エルサレムから下ってきた律法学者たち」はイエスの働きは神の聖霊の働きではなく、「悪魔的で悪霊的、魔術的な働きなのだ」と非難しているのです。彼らにとってイエスの行為は神への冒涜以外の何ものでもなかったのでしょう。彼らは律法学者ですから旧約の律法には精通しているにもかかわらず、目の前のイエスにおいて神の聖霊が働いていることが全く見えなかった。何かに遮られてそれが全く分からなかった。彼らの頑なな心、頑固で閉ざされた心が、ますます閉ざされて固くなってゆくのです。イエスは言います。「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」と。それは彼らの「かたくなな心」(マルコ3:5、先週の福音の日課)を打ち砕くための鉄槌でした。しかし彼らは安息日論争以降、イエスを殺そうと画策するようになります。イエスの言葉を受け入れなかったどころか、「神の御心」を見失い(頑ななゆえに自分のしていることが神の御心に適っていると思い込んでいたのかも知れません)、罪に罪を重ねることになってゆくのです。それは剣で心を刺し貫かれるような痛みを味わい続けた母マリアの姿と対照的です。そのように痛みには覚醒作用があるのでしょう。「良薬口に苦し」と言われますが、「人生における痛み・にがさ」とは私たちの「頑なな心」「打ち砕かれた心」に変えてゆくために備えられた神の恵みなのかもしれません。

 

罪と悲しみ、痛みからの解放〜イエス・キリストの現臨

 これから私たちは聖餐式に与ります。「これはあなたのために与えるわたしのからだ。これはあなたの罪の赦しのために流すわたしの血における新しい契約」と言って、主が私たちの罪を赦し、私たちを真の自由と感謝と希望のうちに生かすため、パンとブドウ酒としてご自身を捧げてくださったのです。そのことを私たちの「ライフ(人生・生活・いのち)」の中心に置きたいと思います。キリストが注いで下さった愛こそが私たちの頑なな心を打ち砕き、神に向かって開いて下さいます。キリストが準備して下さったこの天の祝宴こそが、私たちがこの世でどのような悲しみや苦しみに出会おうとも、私たちを永遠の喜びと慰めと希望へと招いてくれるのです。その救いの食卓を感謝いたします。そこから力をいただいて、新しい一週間をご一緒に踏み出してまいりましょう。アーメン。

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