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2018年5月10日 (木)

2018年5月6日 復活節第六主日聖餐礼拝 説教「わたしを選ばれたキリスト」

201856日 復活節第六主日聖餐礼拝 説教「わたしを選ばれたキリスト」   大柴 譲治

ヨハネによる福音書 15: 9〜17

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」(16-17節)

 

イエスの告別説教の言葉から:「わたしがあなたがたを選んだ。」

 本日私たちはイエスの告別説教の一部を聴いています。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」(ヨハネ15:16-17)。

 「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。というイエスの言葉を聴く時に私たちには二つの思いが同時に心の中によぎるように思います。「そのように言ってくださるとは本当に有り難い」という感謝の念と共に、「このようなわたしは、その選びには相応しくない」という思いです。可能であればそれを辞退したいというようなアンビバレント(相反する二つの思いの間を揺れ動く両面価値的)な思いです。ちょうど今週から木曜日の聖研は旧約聖書からヨナ書を学び始めますが、私たちはヨナの気持ちがある意味でよく分かるのです。ヨナは「ニネベに行って罪を悔い改めるよう民に呼ばわりなさい」という神の召しを受けますが、それに従わず船に乗って異国に逃げようとします(ヨナ書1章)。やがて海が大荒れに荒れて、それがヨナが神から逃げようとしているせいであるということが分かり、海に投げ込まれます。ヨナは大きな魚にのみ込まれ、その腹の中で三日三晩を過ごした後に陸へと吐き出され、結局ニネベに神の預言の言葉を伝えにゆくことになるのです。「ヨナ、ニネベにいらっしゃい。イヤイヤよ」というこどもの讃美歌にある通りです。

 

イニシアティブは常に神の側、キリストの側にある

聖書では「イニシアティブ(主導権/主権)」はいつも神の側、キリストの側にあります。神の側からの呼びかけからすべてが始まるのです。旧約聖書では父祖や預言者たちを選んだのは主なる神でしたし、12弟子を「わたしに従って来なさい。あなたがたを人間をとる漁師にしよう」と呼び招いたのもイエスでした。キリスト教の迫害者であったパウロをダマスコ途上で名前を呼んで「異邦人の使徒」として召し出したのもイエスご自身でした(使徒言行録9章)。常にイニシアティブは神の側にある。神がまず呼びかけ(あるいは、出来事を示して呼びかけ)、人間がそれに対して応答するのであって、逆ではありません。例えば「ヨブ」。ヨブ記を読むと、義人ヨブは祝福されていたものすべてを失っても罪を犯さなかったとあります(「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」ヨブ1:21)。その後に3章以降で、ヨブは神に向かって「なぜですか」と率直にその嘆きを投げかけてゆくのです。四人の友人が神を弁護しようとヨブに対峙しますが、ヨブも負けてはいません。最後に神がつむじ風の中からヨブに語りかけてその物語は終わるのですが、ヨブ記は読む者の心に深い余韻を残します。私の中でそのヨブの姿は、ヤボクの渡し(ペヌエル)で朝まで神と格闘したヤコブのエピソードと重なっています(創世記32章)。信仰とはある面では「神との格闘」だからです。「疑いのトマス」の場合も同様です(ヨハネ20章)。復活の主が弟子たちにご自身の姿を表されたとき、トマスはそこにいませんでした。「自分の目で見て、自分の指をイエスの手の釘跡に差し入れてみなければイエスの復活を決して信じない」とトマスは主張し続けます。パウロの場合も然りです。パウロは「肉体のとげ」「とげ」と言われているのですから、それは激痛を伴う病気であったことでしょう)で苦しんだ時に「それを取り除いてください」と主に「三度」祈ります(2コリント12章。「三度」というのは「繰り返し、徹底的に」の意)。パウロの祈りはパウロの祈ったようには聞かれませんでした。しかし別のかたちで祈りは聴かれたのです。パウロはそこで主の声を聴きます。「わが恵み、汝に足れり」という声を。その声を通してパウロは自分のその苦痛を担う力を与えられてゆくのです。人生は神との格闘でもあり、神の主権への服従でもあります。

 

「わたしはあなたを母の胎内にいる時から選び、恵みによって召し出した。」

 キリスト教の迫害者であった若きファリサイ派のエリート律法学者であったパウロは、ダマスコ途上で復活のキリストと出会った後に迫害者から伝道者へと劇的な回心を遂げます。パウロは自分の人生を振り返って次のように語ります。しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたのであると(ガラテヤ1:15-16)。このような「母の胎内にある時から」という言い方、「この地上に生まれる前から、神の恵みによって選び分かたれ、祝福され、聖別され、立てられている」という言い方は、旧約聖書に何度も出て来ます。例えばイザヤ44:2にはあなたを造り、母の胎内に形づくり、あなたを助ける主は、こう言われる。恐れるな、わたしの僕ヤコブよとありますし、同44:24にもこうある。あなたの贖い主、あなたを母の胎内に形づくられた方、主はこう言われる。わたしは主、万物の造り主。自ら天を延べ、独り地を踏み広げた」。あの詩編139編の中にも次のような言葉があります。あなたは、わたしの内臓を造り、母の胎内にわたしを組み立ててくださった13節)。しかし何と言っても「母の胎内」ということで一番有名なのは、預言者エレミヤの召命の場面の言葉でしょう。「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた」(エレミヤ1:5)。パウロもこの言葉を想起して語っているのです。

これらの言葉は神の側に恵みの選びのイニシアティブがあることを私たちに繰り返し告げています。神が責任を取ってくださるのです。誰も自分で自分を選んでこの地上に生まれてきた者はいません。自分が自分であるということは考えれば実に不思議なことです。両親はもちろんのこと、時代も、場所も、状況も、私がこの私であるということの何もかもが、神の選びの中に起こったことだと聖書は語っているのです。しかもそれは「神の恵みの出来事である」と言うのです。「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた」というエレミヤ:5の言葉はなんと深い慰めに満ちた言葉なのでしょうか。私がこの私として存在していることの背後には神の恵みの選びがあるということです。すべての人、皆さんのお一人おひとりがそうなのです。パウロも迫害者だった時には見えなかった神の恵みの事実を、復活のキリストに呼びかけられることの中で悟ることができたのでした。しかもパウロはそのことを自分がキリストの召命を受けたコンテクストの中で語っています(ガラテヤ1章)。イエス・キリストと出会う時に、私たちには生まれる前から神によって恵みの中に置かれていた自分の人生の意味が分かるのです。

 

わたしがあなたがたを選んだ。」〜JELC総会議長に選ばれて思うこと

イエスは言っています。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」のだと。その「選びの目的」についてもイエスは続けて語っています。「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」。愛の実を結ぶこと、これに尽きるというのです。互いに愛し合うこと。これをキリストと神とは私たちに求めておられます。

先週JELCの総会が東京教会で行われました。6年間の任期を全うした立山忠浩総会議長と白川道生事務局長(総会書記)がその働きを終え、新たな総会議長、副議長、事務局長が選出されました。その結果は週報に記されている通りです。私は、最初はヨナと同じように畏れ多い思いで満たされました。正直逃げ出したかったのです。しかし観念しました。大阪教会には迷惑をかけることになるかも知れませんが、お許しをいただきたいと思います。ちょうど50年前の1968年、当時大阪教会の牧師であった内海季秋先生(在任1960-1976)が総会議長に選出されるという先例もあります。副議長には天王寺教会の永吉秀人先生が、事務局長には滝田浩之先生が選出されました。大阪遷都のようなかたちになりました。今後ともお祈りとお支えをよろしくお願いします。母の胎内にいる時から私を選んでくださった主に従ってまいりたいと思います。御心が成りますように。アーメン

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