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2018年5月28日 (月)

2018年5月27日 三位一体主日礼拝説教「三位一体の神を信ず」

2018527日 三位一体主日礼拝 説教「三位一体の神を信ず」       大柴 譲治

ローマの信徒への手紙 8:12〜17

神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。(14-16節)

ヨハネによる福音書 3: 11

イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」。(5節)

 

「三位一体主日」

 先週私たちはペンテコステの出来事を覚えて、「使徒行伝は聖霊行伝」(間垣洋助)という言葉を通して、聖霊降臨について学びました。聖霊降臨後日の次の日曜日は、教会暦では「三位一体の神を覚える主日(三位一体主日。英語ではHoly Trinity Sunday」)」として定められています。それは、一年に52回ある日曜日の中で、唯一キリスト教の教理について焦点を当てた主日となります。すなわち今日は「三位一体の神」について学ぶ主日で、説教題も「三位一体の神を信ず」とさせていただきました。

 「三位一体の神」と言われても、それがどの何を意味しているか理解するのは難しいと思います。「三つで一つ、一つで三つ」というのは私たち人間の思考の枠組みを超えた神の神秘でもあるからです。「三位」という語は神が「三つのペルソナ(位格)」を持つことを意味します。「ペルソナ」というのはもともとラテン語で「仮面/マスク」を指す言葉で、ひとりの神は「父と子と聖霊」という三つの仮面を持っていて、それを時に応じてかぶり分けているということになりましょうか。「ペルソナ」とはそこから「パーソナリティ」という言葉が出て来た元の言葉でもあり、人間で言えば「人格」と訳されますが、神は人ではないのでわざわざ日本語では「位格」という特別な語を訳として与えています。簡単に言えば「神」は「父」「子」「聖霊」という三つの人格を持つということになります。

 

「二重人格」?「三重神格」!

 「二重人格」という言葉がありますが、三つのペルソナを持つとされる神は、分かり易く言えば「三重人格」ということになりましょうか(正確に言えば「三重神格」ですが)。私たちが「あの人は二重人格だ」と言うとあまりよい意味を持っていませんね。ジキルとハイドではないですが「極端に相反するような人格を併せ持っている人物」という意味で「二重人格」という語は使われます。しかし「神が三位一体である、神は三重神格である」とは、確かに私たち人間の理解を超えた「神の神秘」を指していますが、決して悪い意味ではありません。後にももう一度触れますが、アガペーの愛である神、独り子を賜るほどにこの世を愛してくださっている父なる神が、その愛をなんとか私たち人間に伝えようとして「父」と「子」と「聖霊」という「三つのペルソナ(仮面)」をかぶり分けてくださっているということなのです。

 そもそも「教理(ドクトリン/ドグマ)」とは何か。毎週私たちは使徒信条またはニケア信条(第一日曜日)によって礼拝でも信仰の告白をしますが、「教理」とは教会が「私たちはこのように信じます」と告白してきた「信仰の枠組み(骨格)」であり「信仰告白を支える土台」を意味しています。注意深く言わなければなりませんが、これを否定すると正統なキリスト教信仰から離れていってしまいます。すなわち「異端」的なものになってしまうのです。例えば、もし私が「自分は再臨のキリストである」と言い始めたとすると「三位一体」を否定することになり、「異端(キリスト教とは別の宗教)」となってしまいます。「真理は限りなく異端に近い」という言い方もありますが、教会が告白してきた正統的な信仰から離れてしまうことになる。

普段は意識しませんが、私たちは二つの教理を持っています。「三位一体の教理」「キリスト両性論(キリストは「まことの神にして、まことの人」という完全な神性と完全な人性を併せ持つという)の教理」です。この二つの教理は両方とも神の神秘であり、人間が理性を用いて完全に理解することも説明することもできないような次元の事柄です。繰り返しますが、異端との血を流すような厳しい戦いを通して、教会は「公会議」でそのように「信じます」と信仰の告白をしてきたのです。私たちもそのような信仰に連なっています。

「三位一体の神」とは

 皆さんも洗礼準備の際、ルーテル教会の場合にはルターの『小教理問答』を学びますが、その学びの中で「三位一体論」「キリスト両性論」について牧師から説明をお聞きになったことと思います(濃淡はあったかも知れませんが)。「三位一体の神」とは何を意味するのか。私は通常こう説明します。「父なる神、御子なる神、聖霊なる神がおられるけれども、神が三人のいるわけではない。ひとりの神が三つのペルソナを持ってご自身を現されている。三位は一体なのである。教会はそのように三位一体の神を信じてきた」と。「キリスト両性論」についても同じです。私たちは「まことの神にしてまことの人である主イエス・キリストを信じる。イエス・キリストは完全な神性と完全な人性を併せ持っておられる」と。

「三つを一つにおいて、一つを三つにおいて信じる」「三つで一つ、一つで三つ」というのは確かに論理を超えています。あるカトリック神父の話。受洗準備のための公教要理のクラスの中で「三位一体について説明しなさい」という問いを出したそうです。それに対して「分かりません」と答えたら「○」、言葉でもって色々と説明しようとしたらX(バツ)」を与えたということでした。私の先輩の渡邉純幸牧師は「三位一体と聞いて、うな丼と説く。なぜなら、そこではうなぎと山椒とタレの三つが一体であるから」と言っておられました。それでは最初から取り組みを避けていることになるのではないかと私は思いますが・・・。

私は、私たち人間には理性というものが与えられているのですから、いくつかのかたちで説明を試みてみたいと思うのです。私たちの信仰はどこまでも「知解を求める信仰(理解するということを大切にする信仰)」(アンセルムス)でもあるからです。

    「私」という存在を考えてみます。「私」は、子供の前では父親であり、親の前では子であり、妻の前では夫です。私という一人の人間の中に「父」「子」「夫」という三つの役割が同居していることになります。同様に、ただおひとりの神の中に「父と子と聖霊」という「三つのペルソナ」が同居していると説明できましょう。

    H2Oという分子構造を考えてみます。これは二つの水素原子と一つの酸素原子が結びついた物質(=「水」)を表す分子構造です。H2Oは状況に応じてその形を変化させてゆきます。「1気圧」という条件においてですが、「零度以下」では「氷=個体」、「零度から百度まで」では「水=液体」、「百度以上」になると「水蒸気=気体」になる。H2Oという本質は同じ物質が固体・液体・気体というように三つに姿を変えるのです。「三位一体の神」も同様であると説明できます。もっとも「零度以下」「百度以上」が何を意味するのか説明しきれない部分が残りますが、かつて理系であった私にはこれが一番しっくりくる説明です。

    三つ目は、私自身がある方から教えられたことです。治験会社の社長までされて、60歳を超えてからようやく教会に来る時間が与えられて洗礼を受けられた方です。「私は三位一体というものがよく分かります。光のことを考えてみるとよく分かるのです。光には二つの相反する性質があります。光は粒子という性質と波動(波)という性質を併せ持っているのです。神もそれと同じく、三つの位格を持っていると捉えています。」

 四つ目はこうです。先述しましたが、アガペーである神はその愛を何とかして私たちに伝えようとされました。「父なる神」「その独り子なる神イエス・キリスト(=み子なる神)」をこの地上に派遣することを通して、そして「聖霊なる神(=神の息吹)」をこの地上に吹き込むことを通して、その愛を私たちに伝えようとしているのです、と。

 

「むつかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく」(井上ひさし)

 いかがだったでしょうか。少し理屈っぽく感じられたかも知れません。「神学」とは「信仰の内省の学」です。『ひょっこりひょうたん島』を作ったカトリック劇作家・井上ひさしさんはこう言っていました。「むつかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいこともおもしろく、おもしろいことをゆかいに、ゆかいなことをさらにゆかいに、語りたい」と。味わい深い言葉です。三位一体についてもそのように語りたいと思いながら本日は準備いたしました。神が聖霊の息吹を通して私たちを新たに生まれ変わらせ、神の国に生きる者としてくださいますように。

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