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2018年5月22日 (火)

2018年5月20日(日) 聖霊降臨日 礼拝説教「真理の霊による弁護」

20185月20日(日) 聖霊降臨祭 礼拝 説教「真理の霊による弁護」 大柴 譲治

 使徒言行録 2: 1〜21

1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 3そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。4すると、一同は聖霊に満たされ、が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。(1-4節)

 ヨハネによる福音書 15:26〜27,16:4b〜15

わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者(ルター訳聖書では「慰め主」)、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。(26節)

 

ペンテコステの出来事〜「使徒行伝は聖霊行伝」(間垣洋助)

 本日は聖霊降臨日。復活から数えてちょうど50日目に聖霊降臨(「ペンテコステ」とはギリシャ語で50の意)の出来事が起こります。使徒言行録2章にこう記されています。五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした(2:1-4)。

 私は1986年に東京三鷹の日本ルーテル神学校を卒業して牧師となりました。最近、神学校時代の事をいろいろ思い起こします。その頃には分からなかったことが少しずつ分かってきたように感じるのです。当時新約学の教授であられた間垣洋助先生が授業の中で使徒行伝について次のように語って下さいました(まだ1987年に新共同訳聖書が出る前でしたので「使徒行伝」でした)。「新約聖書の『使徒行伝』は、その前半はペトロ、後半はパウロが主人公であるように見えます。しかしその本当の主人公は、ペトロでもパウロでもなく、彼らを捉えて使徒として立て、派遣した神の聖霊なのです。だからそれは『使徒行伝』と呼ばれるよりもむしろ『聖霊行伝』と呼ばれるべきものなのです。そしてその書物は28章で終わっているように見えるかも知れない。しかしそれはそこで閉ざされて終わっているのではなく、開かれたまま終わっているのであって、29章以降は神の聖霊が後に続く私たちキリスト者を通して書き加えられてゆくのです」。間垣先生の言われた通りであると思います。神の聖霊がキリスト教の二千年の歴史を通してこの地上に注がれ、キリスト者を動かしてその働きを継承してきたのです。私たちが今日、この聖霊降臨日の礼拝を守ることもまたこの『聖霊行伝』に一ページを加えるかたちになっていると信じます。

使徒言行録の最後は次のように記されています。パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた28:30-31)。間垣先生の言われた通り、いかにも「次に続くto be continuedという開かれた終わり方です。この「続き」は、神の聖霊が二千年に渡って人々の上に注がれ、人々を捉えて「使徒(働き人/信仰者/復活の証人)」として立て、福音宣教と神の国の実現のために世界へと派遣ゆくことを通して書き加えられていったのです。マタイ福音書の最後に復活の主は次のように弟子たちに命じています(それは「大宣教命令」とも呼ばれます)。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる28:18-20)。

 通常「風」自体は私たちの目に見えません。不可視です。しかし「風」が吹くときには何かが動かされます。落ち葉が舞ったり、旗や洗濯物がはためいたり、空を雲がたゆたっていったり、遠い山々の木々が揺れ動いたり、心地よい風を肌に感じたりします。何かが動かされる時、私たちはそこに風が吹いていることを知るのです。聖霊降臨の出来事の中では「突然、激しい風が吹いてくるような大きな音が天からして、・・・炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人ひとりの上にとどまった」とあり、目に見えるかたち、耳で聞こえるかたちにおいても「聖霊」が降ったことが証言されています。他にも、例えばイエスの受洗時などに「天が裂けて、聖霊がハトのように御自分に降ってくるのを御覧になった」(マルコ1:10)とあります。しかし通常は「聖霊」自体は「見えない風」のようなものでありましょう。それが働く時にはそこでは何かが動かされてゆく。何かが動く時、そこに私たち自身の生き方が目に見える形で変えられていったり、エマオ途上の二人の旅人のように私たちの心が静かに燃えていたことが後から分かったりする。聖霊が注がれる時、私たちの中で何かが変えられてゆくのです。それは、本日の第一日課のエゼキエル書37章に預言されているように、「枯れた骨」をもよみがえらせてゆくような神のいのちの力を持った「神の息吹き」であります。創世記27節には「主なる神は土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」とある通りです。

 

ペンテコステの出来事〜「バベルの塔の出来事」(創世記11章)の対極にある出来事

 聖霊の注ぎを受けた人々においては何が変えられたのでしょうか。すると、一同は聖霊に満たされ、が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだしたとあります(2:2)。不思議なことにそれまで習ったことのない様々な言語で突然語り始めたというのです。何をか。イエス・キリストの出来事、神の救いの出来事を語り始めたのです。

 このペンテコステの出来事は、創世記11章に出てくるバベルの塔の出来事に対応し、その対極にある出来事と位置付けられると私は考えています。そこでは人々は「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」と考えました。人間がその分際を超えて「神」のようになろうとしたのです。しかしその結果は、相互に言葉が混乱して通じなくなり、人間には心が通い合うコミュニケーションができなくなっていったのです。「神のようになろうとした人間」は、相互に分断され孤立化し、心のつながりを断ち切られて、バラバラになってしまったのでした。ペンテコステに起こった出来事はその逆の出来事でした。相互にコミュニケーションができなかった者たちが、聖霊降臨を通して、様々な言語にもかかわらず、イエス・キリストにおいて一つに結びつけられたのです。

 

「弁護者」=「慰め主」(ルター)

 ヨハネ福音書では、イエスがその告別説教の中で「聖霊/真理の霊」のことを「弁護者(パラクレートス)」と呼んで、神から弁護者が派遣されるであろうことを弟子たちに約束しています。その原意は「パラ(傍らに、そばに)」「クレートス(呼ばれたもの)」という意味です。そこでは私の傍ら(隣り)にあって、真実を語ることで私を支え守る存在としての聖霊が考えられています。新共同訳聖書では、そこから「弁護者」という訳語が取られたのでしょう。口語訳聖書では「助け主」と訳されていました(新改訳聖書も「助け主」)。新約聖書をドイツ語に訳したマルティン・ルターはこのそれを「慰め主」と訳しました。ルターは困難な状況の中で、どのような時にも神が私たちの霊的なニーズを満たしてくださるために、「真の慰め」のため「助け手」を派遣して下さると信じたのでした。終わりの日の出来事を預言している黙示的なマルコ13章の、キリスト教への厳しい迫害が預言されている中で語られたイエスの言葉を想起します。引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ11節)。

 遠藤周作と三浦朱門というカトリックの作家が、井上洋治神父と三人で、キリシタンたちが迫害され殉教した九州の雲仙地獄を旅した時のエピソードが伝えられています。遠藤周作が三浦朱門に、グツグツと煮立っている坊主地獄を見ながら、「自分だったら、こんなところに投げ込まれるとすれば、すぐに転んで踏み絵を踏んでしまうだろう。あんたはどうだ」と三浦朱門に問うたら、彼も「自分も全く同じだ」と答える。今度は井上洋治神父に同じことを遠藤が尋ねると、井上神父は突縁プリプリと怒り出して、「そんなことはその場になってみなければ分からん。聖霊がどう働くかだ」と答えたそうです。確かにその通りでありましょう。人間の力ではなく神の聖霊、真理の霊が「助け手/弁護者/慰め主」として働く時に、人間の思いを遙かに超えたことが起こるのです。神の聖霊が私たちに自分が生きるべき道を教えてくれる、そのような時が人生には必ずあるのです。

 

本日の洗礼・堅信式と転入式にあたって

 今日はこの後にST兄の洗礼・堅信式と、TN兄の転入式が行われます。これらの出来事は、私たちがイエス・キリストに、またこの教会に導かれたのと同様に、神の聖霊の働きです。見えない聖霊が見えるかたちで私たちの中に注がれて、今ここでこのような礼拝が行われているのです。この101年を迎えた大阪教会の今日の主日聖餐礼拝もまた、「聖霊行伝/聖霊言行録」の一ページであると申し上げることができましょう。そのような神の聖霊が私たちの上に注がれています。そのことを神に感謝し、深く味わい、この喜びを分かち合ってゆきたいと思います。

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