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2018年4月26日 (木)

2018年4月15日(日)復活節第三主日聖餐礼拝説教「復活と焼き魚のリアリティ」

2018415日(日)復活節第三主日聖餐礼拝説教「復活と焼き魚のリアリティ」 大柴譲治

ルカによる福音書 24:36-48

彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。(41-43)

 

Fact(事実)」と「Truth(真実)」

 キリスト教会は二千年に渡ってイースターをキリストの復活日として祝わってきました。主の復活の光の中にすべてを見てきたとも言えましょう。四福音書の中で一番最初に書かれたマルコ福音書は当初は168節までで終わっていました。9節以降の二つの結びは後の時代の加筆であると考えられています。ですから新共同訳聖書では括弧に入っています。マルコ福音書には復活の証言はなく、それは「空の墓」の記事で終わっていました。「復活」は言葉で表現することのできない神秘であったからかもしれませんし、マルコが書かれた当時(紀元70年頃と推定されます)にはまだ復活の証人たちが生存していて、敢えてそれを言葉にする必要はなかったからなのかもしれません。実は、歴史学が証明できることは「キリストの墓が空っぽであった」ということまでです。キリストの復活は「歴史的な事実Factとしては証明できないのです。証明できるのは、イエスが葬られた墓が何者かによって暴かれてイエスのご遺体がなくなっていたという事実であり、そこまでなのです。「イエスが復活した」ということは私たち人間の理性や経験や知恵を遙かに超えた出来事であり、信仰によって捉えるべき事柄ですから、アカデミックな立場からは実証できない次元の事柄です。カトリック作家の遠藤周作は復活とは歴史的な「事実Factではないとしても「真実Truthであったと語っていました。復活のキリストと出会った十字架の前から逃げ出した弱虫の弟子たちが、復活のキリストと出会った後には全く別人のように変えられて、殉教の死をも恐れずにキリストの福音を全世界に宣べ伝える者となってゆきました。彼らの心の中に真実、キリストはよみがえられたのだと言うのです。これはなかなか説得力のある説明ではないかと思います。しかし本当にそうなのかという思いも私の中には残ります。

 

焼き魚を食べた復活の主のリアリティ

 本日の日課であるルカによる福音書24章には次のような復活の主と弟子たちのやりとりがあります(36-43節)。「こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。『なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。』こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、『ここに何か食べ物があるか』と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた」36-43節)。

 空の墓の場面で終わっていたマルコ福音書とは異なり(ルカにもマタイにもヨハネにも「空の墓の出来事」は記されています)、ルカ福音書には復活のリアリティが伝わってくるような証言が記録されています。復活のキリストは「わたしの手や足をよく見、触ってみなさい」と弟子たちに勧めているばかりか、「亡霊」ではないことを証明するために焼き魚を一切れ食べておられるほどなのです。焼き魚を食べる復活の主。ルカはキリストの復活は歴史の「真実Truthであると共に「事実Factでもあったと私たちに告げているのです。

 

響き合うルカ福音書とヨハネ福音書

 このことはヨハネ福音書が伝えている「復活のリアリティ」と重なります。先週の日課はヨハネ20章の「疑いのトマスのエピソード」でした(24-29節)。それによると復活の主が最初に弟子たちに現れた時にはトマスはそこにいませんでした。他の11人が復活の主と出会ったと喜んでいる中で、トマスだけは「私はこの目で見、この指をその手の釘跡に触れるまでは、そしてこの腕をそのわき腹のやり痕に差し入れてみるまでは、決して信じない」とある意味では頑なに、実証主義的な私たち現代人にも通じるようなリアクションをして復活を一週間疑い続けるのです。そして一週間後のやはり日曜日に主は再びご自身を弟子たちに現されます。今度はトマスもそこにいました。ヨハネ20:20-26「さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。それから、トマスに言われた。『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。』トマスは答えて、『わたしの主、わたしの神よ』と言った。イエスはトマスに言われた。『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。』」

 復活の主はいつも私たちに対して向こう側から自ら近づいてくださり、ご自身を示してくださいます。こちらから人間の側から主に近づいてゆくのではありません。「戸」「鍵」がかかっていても関係ありません。目で見て手で触れることができるほどリアルな復活の主の姿がそこには証言されています。そして、疑いのトマスが信仰告白者へと劇的に変えられたように、復活のキリストのリアリティは私たちを「復活を信じることができない者、疑う者」から「復活を信じて主と告白することができる者」へと変えて下さるのです。「わが主、わが神」!

 ヨハネ福音書には、ルカ福音書にも「焼き魚」が出ていましたが、復活の主が炭火を起こして魚を燒く場面が出て来ます(21:1-14)。夜通し徹夜で漁に出たペトロたちが何も獲れなかった場面です。513節を引用します。5イエスが、『子たちよ、何か食べる物があるか』と言われると、彼らは、『ありません』と答えた。6イエスは言われた。『舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。』そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。7イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、『主だ』と言った。シモン・ペトロは『主だ』と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。8ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。9さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。10イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。11シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。12イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。13イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。

 この場面はルカよりもさらに具体的です。炭火のパチパチとはじける音と匂いと、そして焼き魚の匂いが伝わってくるような情景です。私たちの五感を刺激するかたちで「復活のキリストのリアリティ」がここを読む者の胸に迫ってくる。特に五感の中でも「嗅覚」「味覚」「触覚」という三つの感覚は、直接私たちの脳幹に刺激を与える感覚です。それに対して「視覚」「聴覚」は、遠くから危険が迫ってきても判断に時間をかけることができるような感覚で、その情報は判断するために前頭葉の方に伝えられます。しかし、嗅覚と味覚と触覚は危険が迫ったときにすぐさま反応しなければなりません。嫌な臭いがしたら顔を背けなければなりませんし、苦い物を食べたら吐き出さなければなりません。熱いものに触れたら火傷をする前に即座に手を引っ込めなければならないのです。私たちの五感を通して受け止めた情報はとても具体的なリアリティを持つものなのです。ヨハネ福音書とルカ福音書は「キリストの復活」をそのような「焼き魚のリアリティ」をもって報告しているのです。

 

サクラメント(聖礼典/洗礼と聖餐)においてご自身を示される復活の主

 私たちは復活の主のリアリティをどこで受け取ることができるのでしょうか。今日も私たちは聖餐式に与ります。洗礼も聖餐も具体的な物質を用います。洗礼は水を用いますし、聖餐はパンとブドウ酒を用います。牧師は水とパンとブドウ酒を用いますから私は冗談のように「牧師の仕事は水商売です」と言うこともあります。もちろん「水商売」と言っても意味は違いますが。水とパンとブドウ酒という物質を用いて私たちは、五感を通して復活のキリストのリアリティを分かち合うのです。復活の主ご自身からパンとブドウ酒をこの手にいただき、その匂いを嗅ぎ、歯でかみしめて舌で味わい、飲み込む。五感を通して味わうのです。このリアリティの中に今日も復活のキリストがご自身を示していて下さる。それを覚えつつご一緒に聖餐式に与ってまいりましょう。

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