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2018年4月11日 (水)

2018年4月1日(日)復活日(イースター)礼拝説教「ガリラヤに行け」

201841日(日) 復活日(イースター)礼拝 説教「ガリラヤに行け」 大柴 譲治

マルコによる福音書 20: 1- 8

若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。7さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」(6-7)

 

「空の墓の十字架」

 イースターおめでとうございます! “Christ is risen!” “Indeed, he is risen!” これは米国でイースターに交わされる合言葉のような挨拶です。「キリストはよみがえられた!」「まことに彼はよみがえられた!」一般の人にとってはクリスマスの方がよく知られていますが、教会暦では本日のイースターが最も大いなる喜びの日です。「キリストが復活された!」この驚くべきニュースが「福音Good Newsとして告知されていきました。この地上で起こるすべての事柄はこのイースターの日に起こった出来事、キリストの復活の光の中に置かれています。1コリント15章が告げていたように、十字架の死を経て三日目にイエス・キリストは死人の中からよみがえられました。「復活(アナスタシス)」とは「再び起き上がること(再起)」であり「もう一度立ち上がること」です。コンピュータなどをリスタートすることを「再起動」と言いますが、「キリストの復活」は私たちを死の中から真の命へと再起動するため神によって与えられた出来事であると言うことができましょうか。

 本日の週報の最後の方に、ハートマークがくり抜かれた十字架のシンボルを挿入させていただきました。週報は白黒になっていますが、本来それはこのような「赤い十字架」です。赤は血潮の色、燃える生命の色であり、心臓の色、聖霊の色でもあります。解説にありますように、それは「空の墓の十字架」と呼ばれています。フィリピンで活動するカトリックの宣教会「イエスの宣教司祭会」が用いている印象的かつ「劇的な」シンボルマークです。十字架の真ん中に空いた穴は、墓が空の状態、すなわち墓に誰もいないことを意味しています。「空の墓を意味する穴こそ、愛を意味するハートマークで表現されます。十字架と復活の出来事こそ、恵みの結晶であり、愛の極地だからです。空になった心臓は、最も犠牲的なものとして感じられます(宋炳九 ソン・ビョング編、168の十字架―そのシンボルと黙想』2009、キリスト新聞社)。

実は、歴史学が「歴史的な事実」として証言できることは「イエスの墓は空っぽであった」ということまでです。墓が何者かによって暴かれ、イエスの遺体がなくなっていた。「キリストが復活した」ということは、人間の理性や経験を遙かに超えた出来事ですから、実証主義的な立場からは証明できません。信仰的に捉えるしかない。やがて最後までイエスの近くにいた女性たちや弟子たちを中心に「イエスがよみがえられた!」という噂が広まり始めました。最初の、“Christ is risen!” “Indeed, he is risen!”というイースターの合言葉は、そのような驚きを持って人から人へと伝えられていったのです。

最初に書かれたマルコ福音書は168節、即ち「空の墓」の描写で終わっていたと思われます。突然中断されたのでしょうか。最後の部分が失われたのでしょうか。新共同訳聖書では9節から先は鍵括弧に入っていますが、これはこの聖書が底本とした有力な写本の中にはこの部分がないものが少なくないということを意味しています。9節以降に付加されている復活のキリストの顕現の場面(二つありますが)は、マタイやルカを参照しつつ少し後の時代に加筆された部分である可能性が高いということになります。

 カトリック作家の遠藤周作は、「復活」「事実Factではなかったとしても「真実Truthと言います。「キリストの復活は、歴史的な事実として証明することはできないとしても、弟子たちの心の中にキリストが復活されたという真実であったと言うことはできるであろう。なぜなら、十字架の前から逃げ出した弱虫の弟子たちが、復活のキリストと出会った後は別人のように変えられて、殉教の死をも恐れずにキリストの福音を全世界に宣べ伝える者となっていったからである。キリストは彼らの心の中に真実、よみがえられたのだった」。

 イエス・キリストの復活の出来事。これは私たちに、死は終わりではないということ、墓は私たちの人生の終着駅ではないということを教えています。医療の分野には「末期医療」とか「終末期ケア」とか訳される「ターミナルケア」という言葉がありますが、キリスト教の立場から言えば、「ターミナルケア」をそのように「終わりを迎えるためのケア」として見てゆくのは事柄の半分しか捉えていないことになります。なぜかというと、「ターミナル」という言葉には確かに「終点」とか「終着駅」という意味がありますが、もう一つ別の意味もあるからです。バスターミナルなどのことを想起していただくとよく分かると思いますが、「ターミナル」には「分岐点」とか「乗換点」という意味もある。そこは一つの路線の終点であると共に、新しい路線の出発点でもある。つまり「死」という終わりに向かって準備をしてゆくのが「ターミナルケア」だと理解されていますが、そうではなくて本当は、死の向こう側に始まる「新しい(永遠の)命」に乗り換えてゆくための準備、それが「ターミナルケア」なのです。

 イエスはヨハネ福音書11章で、最愛の弟ラザロを亡くして悲しみに暮れるマルタに対して次のように告げています。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」25-26節)。これは人間には語り得ない言葉です。そうです。自ら死を超えられた復活の主イエス・キリストにしか語り得ない言葉であると思います。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)と言われている通り、イエスを信じる者は、イエスの復活によって示された「永遠の命」に与ることができる。これは大いなる福音です。確かに「事実」として証明することはできない事柄かもしれませんが、「真実」として二千年に渡り歴史を超えて信じられてきた事柄です。もちろんこの場合の「永遠の命」とは「永続的に続く命」という意味ではありません。「永遠なる方」である「インマヌエル(神われらと共にいます)の神」とつながった命ということです。今この瞬間、ここで神とつながった垂直に切り取られた「永遠の今」と申し上げることもできましょう。またこの「永遠の命」とは「死後の命」のことでもありません。今この世界において、死が私たちを取り囲んでいる悲しみの多いこの世界のただ中においても、信じる者には神との関係の中で揺らぐことのない「永遠の命」が与えられているのです。マルタに告げられたイエスの言葉はそのことを明らかにしています。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」。「わたしを信じる者は、死んでも生きる」というイエスの最初の言葉は、「死によっても断ち切られることのない命」について語っています。「死んだら終わり」ではなく「死んでも終わらない命」なのです。また、「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」という二番目の言葉は、「たとえ死の陰の谷をゆく時も、主が共にいましたもうがゆえに、災いを恐れなくてよい」(詩編23)ということです。復活であり命であるキリストを信じる者は「決して死ぬことはない」のです。前に並べられた召天者たちの笑顔がそのことを私たちに証ししています。

 

「ガリラヤに行け!」

 マルコ福音書は「復活のキリスト」が弟子たちをガリラヤで待っていると記しています。空の墓で出会った白い長い衣を着た若者」(=「天使」)はこう告げています。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり(マルコ14:28)、そこでお目にかかれる』と」6-7節)。だから「ガリラヤに行きなさい」と指示するのです。「異邦人のガリラヤ」と呼ばれた「周縁の地」です(イザヤ8:23)。しかしイエスの福音宣教の第一声は、そのガリラヤで始まりました。ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた(マルコ1:14-15)。今一度、復活の主は「ガリラヤ」から弟子たちを再生されるのです。そここそが原点であり、復活の主と出会う再生の場であり、再出発の場です。三度も「イエスという男なんか知らない」と否んだペトロを筆頭として、すべて十字架の前から逃げ去ってしまった弟子たち。トボトボとガリラヤへの道を歩みながら、もうイエスに合わせる顔がないという情けない複雑な思いで重たい歩みを進めていったのではないかと想像します。しかしそのガリラヤで主は、弟子たちを再度「復活の証人」として立ち上がらせて行くのです。「復活(アナスタシス)」というギリシャ語は「再び起き上がること(再起)」です。主はガリラヤで私たちをも待っておられます。罪を裁くためではなく、罪を赦し、新しい生命を与えるために。私たちも「ガリラヤに行け!」という主の確かな声に聴き従ってまいりましょう。“Christ is risen!” “Indeed, he is risen!”

 

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