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2018年4月26日 (木)

042218 復活節第四主日聖餐礼拝説教「何一つ欠けたところのない恵み」

042218 復活節第四主日聖餐礼拝 説教「何一つ欠けたところのない恵み」  大柴 譲治

ヨハネの手紙 一 316〜24

イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。(16節)

ヨハネによる福音書 10:11〜18

わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。(11節)

 

詩編23編「主はわたしの羊飼い」

 本日私たちはイエスのわたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てるという言葉を聴いています。本日の主題詩編には詩編23編、あの有名な「主はわが牧者、わたしには乏しいことがない」と歌う信頼の詩編が与えられています。これを愛唱聖句としておられる方も少なくないことでしょう。次週もまた、「リラ・プレカリア(祈りのたて琴)」主宰者でもある米国のキャロル・サック宣教師が同じ詩編23編からのメッセージを語って下さることになっていますので、私たちは二週間続けて詩編23編を味わうことになります。

【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。 2主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い3魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。4死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。5わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ、わたしの杯を溢れさせてくださる。6命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう。(新共同訳聖書)

 

2005425日に起こった福知山線の列車脱線事故について

 今週もまた425日が巡ってまいります。これは今から13年前の2005425日に、JR福知山線の尼崎での列車脱線事故のため107名の方々の尊い命が失われ、562人もの方々が負傷するという大事故でした。私たちはその事故の悲惨さに呆然としながら、祈るような気持ちでテレビの報道をずっと見つめ続けていたように思います。特にこの列車は同志社前行きの快速列車でしたので、若い大学生が大勢事故に巻き込まれました。どうしてこのような悲劇が起こるのか、13年経った今思い起こしても私たちは胸がえぐられるような思いになります。亡くなられた方々とご遺族のために、また加害者の立場になった人々を含め、そのグリーフと喪失感、罪悪感が少しでも和らげられるように祈りたいと思います。

 

不思議な二つのドラマ

 実は私はその後、間接的にではありますが、二つの点でこの列車事故に関わることになりました。JR西日本は事故後に費用を出して二つの研究所を設置しました。一つは京都大学工学部の中に「安全工学研究所」を、もう一つは尼崎にあったカトリックの聖トマス大学(2007年までは「英知大学」)の中に「グリーフケア研究所」を設置(2010年に上智大学に合同)することになるのです。20144月より、要請されて私は東京の四谷にある上智大学のグリーフケア研究所の人材養成コースにスーパーヴァイザー(SV)の一人として関わることになりました。それはその人材養成の中で私が専門としてきた米国でのチャプレン(施設のチャペル付きの牧師)の養成訓練である「臨床牧会教育(CPE)」の方法が取り上げられていたためでもありました。2016年に大阪に転任することで四谷での働きは終わったのですが、引き続き大阪の中津にあるカトリックのサクラファミリア教会にある上智大学の大阪サテライトでの人材養成に関わるよう要請を受け、お手伝いができる範囲内でグループワークのSVとしてお手伝いをさせていただいています。このグリーフケア研究所が福知山線の列車脱線事故の後に設置されたものであることに不思議な導きを感じています。神さまはこのようなかたちで私に嘆き悲しむ人々に接する道を開かれたのだと思っています。

 もう一つの接点は、翌年の20154月に多田哲(さとし)という一人の神学生(神学校二年生)が私の牧していたむさしの教会に、教会実習のために毎日曜日に神学校から派遣されてきたことです。彼は、今年の3月に神学校を卒業し、教職按手を受けて牧師になり、東教区の日吉教会に牧師として着任しました。多田神学生は西教区の豊中教会出身の神学生でした。2005年に彼はまだ同志社大学の学生で、福知山線の列車脱線事故を起こした列車(同志社前行き)の先頭車両、それも一番前に乗っていたのです。事故の時には大きな衝撃のためしばらく気を失っていたようですが、その後しばらくして気がついて周りの人々の身体を押し分けるようにして明るい方(出口)に向かって進んだのだそうです。全身血まみれでしたが、それは自分のではなく犠牲となった他の人々のものだったそうです。その出来事はその後、何度も繰り返し事故について話さなければならなかったことを含めて、事故のサバイバーである彼にとっても大きなトラウマ(PTSD)となったということですが、彼はやがて同志社大学の哲学科を卒業後に、京都大学の大学院に進み、言語学で15-6世紀のドイツ語を専攻して博士課程を終えて、2014年春に三鷹のルーテル神学校に入学したのでした。死線を越えるような体験をする中で、彼は牧師としてのコール(召命)を受けて牧師となったのです。やがて多田神学生のお母さまも豊中教会で洗礼を受けられました。人間の力ではどうすることもできないような状況の中に置かれた時、私たちは神さまを見上げるしかないのだろうと思います。「なぜこのような苦しみがあるのか。神はどこにいて、なぜ沈黙しているのか。なぜかくも多くの人の命が失われなければならなかったのか」。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なにゆえわたしをお見捨てになったのですか!)」。私たちはそのような答えのない問いの前に立たされています。しかしその中で、私たちは詩編23編の言葉を聴くのです。主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがないという確かな呼び声を。この声が私たちを「緑の牧場、憩いの水際」に必ず伴ってくださいます。

 

「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」

再度、口語訳聖書から引用します。口語訳聖書で暗唱している方もおられることでしょう。

主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。

主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。

主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。

たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。

あなたがわたしと共におられるからです。

あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。

あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。

わたしの杯はあふれます。

わたしの生きているかぎりは、必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。

わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。

 私たちに対して、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いはわたしの羊であるあなたのために命を捨てる」と言ってくださるイエス・キリスト。どのような困難や悲しみの中にあっても、主の恵みは私たちに対して何一つ欠けることがないというのです。なぜか。たとえ死の陰の谷を歩む時にも、主が共に歩んでくださるからです。そして十字架に命を賭けて私たち一人ひとりをトコトン愛してくださるのです。このお方は苦しみや悲しみを共に背負ってくださるお方です。この羊飼いの、「何一つ欠けることがない恵み」「何ら乏しいことのない完全な恵み」が私たちを守り支え導いてゆきます。ご一緒に主の食卓(聖餐)に与ることを通して、今朝もそのことをご一緒に深く味わいたいと思います。羊飼いである主が皆さまと共にいて、守り導いてくださいますように。アーメン。

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