« 2018年2月25日(日)四旬節第二主日礼拝説教「己を捨て、己の十字架を負え」 | トップページ | 2018年3月11日(日)四旬節第四主日礼拝説教「神のアガペーの愛」 »

2018年3月12日 (月)

2018年3月4日(日)四旬節第三主日礼拝説教「うるさい親ほどあったかい?」

201834日(日)四旬節第三主日礼拝 説教「うるさい親ほどあったかい?」 大柴 譲治   

出エジプト記 20: 1〜17

「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」(5-6節)

ヨハネによる福音書 2:13〜22                   

「イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。『このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。』」15-16節)

 

四旬節第三主日「イエスの宮清め」

 本日は四旬節(レント)第三主日。与えられた福音書にはイエスの宮清めの出来事が描かれています。ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。『このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない』」13-16節)。大変過激なイエスの姿です。この宮清めの出来事は実は四福音書のすべてに記録されています。マタイ・マルコ・ルカの「共観福音書」ではエルサレム入城の後、受難週の出来事とされていますが、ヨハネ福音書では2章、イエスの公生涯の最初の部分、カナの婚礼でイエスが水を極上のワインに変えられた最初の奇蹟の直後に置かれています。そしてヨハネ福音書には、共観福音書の三つが記録している重要なイエスによる旧約聖書からの引用の言葉がありません。「わたしの家は、(すべての国の人の)祈りの家と呼ばれるべきである」というイザヤ56:7の言葉がそこには記録されていないのです。

 そのような大きな二つの違いがあるにしても、これは重要なエピソードとして四福音書すべてに記録されているのです。イエスは私たち自身の神との関係を正すために、私たち自身の「心の宮清め」のために来てくださったのだと受け止めることが許されましょう。神との破れていた関係を修復し、もう一度私たちを神との生き生きとした関係の中に招き入れるために主はこの地上に降り立ち、十字架の苦難を背負って歩んでくださったのです。

 

「うるさい親ほどあったかい」

 しばらく前のことですが、テレビのコマーシャルで「うるさい親ほどあったかい」というものがありました。覚えている方もおられることでしょう。インターネットで調べてみたら、それは1980年代の作品で、俳優の武田鉄矢が登場していた公共広告機構のCMでした。私の中にこの言葉は強い印象を残しています。その言葉は同時に、私の中ではマザーテレサの言葉と重なっています。マザーはインドのコルカタで貧しい人々のために全生涯を捧げられたカトリックのシスターです。その言葉の中に「愛の反対は憎しみではありません。無関心です」というものがあって、それを聞いた時にハッとさせられました。「愛の反対は無関心」。確かにそうでありましょう。憎しみや怒りといったものはまだ一生懸命相手に関わろうとするだけ愛に近いということになります。それに対して無関心は向かい合う人に関わりを持とうとしない態度であり、愛の対極にある態度であると言うことができる。先の「うるさい親ほどあったかい」という言葉も、真剣に子供のことを思えばこそ、うるさいほどしつこく関わり続けようとする親の強い愛情を感じることができましょう。親を看取ってみて初めて親のありがたみが分かるもののようです。確かに、親に限らず、私たちの成長の過程で、自分と真剣に向かい合ってくれた者のまなざしと声、態度というものは、私たちの心に深く刻まれています。旧約の日課で言われている神は「熱情の神(口語訳では「ねたむ神」となっていました)」という言葉も私はそのような意味で捉えたいと思っています。

 

しかし、本当に「うるさい親ほどあったかい」のか? 〜 放蕩息子の父親のケース

本日の説教題は「うるさい親ほどあったかい」と題されていますが、最後にクエスチョンマーク「?」を付けさせていただきました。「そうは言っても本当にそうなの?」というような問題意識からです。「あったかい親が、必ずしもうるさいとは限らないのではないか」と思う気持ちが私の中にあるからです。愛にも様々なかたちがありましょう。温かい温もりを感じさせるような「沈黙の寄り添い」といったものもあると思うからです。むしろ、ボロボロになって自信を喪失したような時には、ルカ福音書15章にある「放蕩息子」のように「自分は息子失格だ」と深く自身を恥じるような時には、戻ってきた息子を父親が遠くから見初めて走り寄りヒシと抱き留めてから祝宴を開いたように、ありのままの姿を受容し包み込んでゆく大きな愛が必要なのだと思います。放蕩息子の父親はうるさくはなかったのです。

先日息子夫婦が私たちの誕生日に合わせて夕食に招いてくれました。その時にこれまでのことを振り返って、息子が大学3年の時に一年間米国留学をした後で、貧乏旅行になるけど世界一周をして日本に帰りたいということを言った時のことが話題になりました。「危ないことに巻き込まれないように、くれぐれも気を付けるように。祈っているから」と言って許可を出したのですが、その時に息子は私にこう言ったのです。「もちろん、注意するよ。でも、もしものことがあったら、その時はゴメン」。私は黙っていました。言葉が出なかったからです。「可愛い子には旅をさせろ」と昔から言われています。さすがに妻にはこのやり取りを伝えることはできなかったのですが、その時には旅立ってゆく息子を送り出す放蕩息子の父親のような気持ちがしたわけです。祈るような気持ちで送り出し、三ヶ月ほどだったでしょうか、世界中を旅して息子は無事に帰ってきました。ホッとしました。よい出会いと、忘れられない体験をしたと思っています。今は大学を卒業して社会人となって5年目を迎えようとしています。ある意味、子育ては「祈り」です。親は祈る以外に、それほど多くのことはできないと思うのです。そのような体験から振り返ってみるならば、私自身も日本を離れて海外体験をした時、私の親も同じような気持ちだったのではなかったかと思います。子供を黙って信じて、祈るような気持ちで旅に出る許可をくれたのだと思います。私は最近、「国境なき医師団」や災害救援、紛争解決のために世界各地で身体を張って頑張っている方たちのことを思う時、その背後に彼らのために祈っているその家族や友人たちのことを思います。そのような熱い祈りが彼らの日々の働きを支えているのだと思うのです。

 

「神の聖霊の宮」としての私たち

イエスは宮清めの出来事を通して、私たちが神に向かって祈るべき存在であることをはっきりと示されました。神の神殿が「神の祈りの家」(イザヤ56:7)と唱えられるべきであるように、パウロの表現を借りれば私たち自身、「生ける神の神殿」2コリント6:16)であり「神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿」1コリント3:16-17, 6:19)なのです。「主の祈り」でいつも私たちは「み名があがめられますように。み国が来ますように。御心が天でなるごとく、地でもなりますように」と神の御心の実現を祈ります。神はその独り子を賜るほどにこの世を愛されました。それは御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためです。神は、私たち一人ひとりに徹底的に寄り添い、共にいてくださる「インマヌエルの神」であり、「熱情の神(ねたむほどに私たちを愛してくださる神)」(出エジプト20:5)なのです。そのような神の熱い思いを私たちにはっきりと示すためにイエスは宮清めを行い、十字架への道を一歩一歩、歩んでゆかれます。今はレント(四旬節)。私たちの心を主の十字架の歩みに向けながら、今朝もご一緒に主の食卓(聖餐式)に与ってまいりましょう。

お一人おひとりの上に神さまの祝福が豊かにありますようお祈りいたします。 アーメン。

 

« 2018年2月25日(日)四旬節第二主日礼拝説教「己を捨て、己の十字架を負え」 | トップページ | 2018年3月11日(日)四旬節第四主日礼拝説教「神のアガペーの愛」 »

心と体」カテゴリの記事