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2018年3月25日 (日)

2018年3月25日(日)棕櫚主日礼拝説教「子ロバに乗った王」

2018325日(日) 棕櫚主日礼拝 説教「子ロバに乗った王」    大柴 譲治

フィリピの信徒への手紙 2:6-11

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。6-9節)

マルコによる福音書 11:1-11

多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」(8-10)

 

子ロバに乗った王

 私たちは今日、子ロバに乗って「神の都」エルサレムに入城される「王」イエス・キリストの姿をみ言から聞いています。この出来事は、第一朗読にありました旧約聖書ゼカリヤ書9章の預言の成就でした。本日はなぜイエスが子ロバに乗ってエルサレムに入ってゆかれたことに焦点を当ててみ言葉に耳を傾けてまいりましょう。

 

娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る、雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ。ゼカリヤ書9:9-10

 

 力と権威の象徴である立派な「軍馬」に乗っての入城ではありません。柔和さと謙虚さの象徴であるみすぼらしい「子ロバ」に乗って王が到来するのです。群衆は、ダビデ王のように自分たちを他国の支配下から救い出してくれるであろう王を、「ホサナ」と歓呼の声をあげ、棕櫚の葉を振って迎えます。「ホサナ」とは「主よ、救い給え」という意味のヘブル語ですが、今でいえば「万歳!」という意味となりましょうか。イエスは紀元前千年に生きたダビデ王の再来と期待されています。イスラエルが何百年も、否、千年も待った「神の救い」がイエスの登場において成し遂げられるという大きな期待の中に民衆はイエスを熱狂的に迎えているのです。それに対してそこには対照的なイエスの姿があります。熱狂的な群衆と沈黙するイエスの姿は際立っています。聖書には記されていませんが、イエスは笑顔で民衆に向かって手を振りながらエルサレムに入城して行ったのではないと私は想像します。主の目はしっかりと自分がエルサレムにおいて成し遂げようとしておられること、すなわち十字架を見据えていたのでありましょう。十字架の苦難と死を見据えた王の心は「深い悲しみと恐れ」に満たされていたと思います。さらにそこには「神の御心に従う覚悟」があったことでしょう。子ロバに乗った王は「ホサナ」と叫ぶ民衆が、その舌の根も乾かないうちに「イエスを十字架に架けよ!」と叫ぶ者へと変わってゆくことを知っているのです。人々の大きな期待が失望に終わると共に、失望はあっという間に怒りと憎しみに転じてゆきます。大いなる力と権威に充ちた救世主を求めた民衆は、エルサレムで宮清め以外には何もしようとしない無力なイエスに対して、イエスに対して快く思っていなかったユダヤ教の指導者階級たちの煽動もあって、やがて怒りと憎しみをもってイエスに臨むようになってゆく。人間は自分の期待が的外れなものであったことを知るとき、すぐさま怒りがその人を捉え、人が変わったようになってゆくのです。ヤコブ書1:20「人の怒りは神の義を実現しない」と記されている通り、ネガティブな感情的が自分の中に沸々と湧き上がってくる時には私たちは注意しなければなりません。ともすれば「憤り」というものは私たちを神のような「絶対者の位置」に立たせてゆくからです。しかしそれにも関わらず、イエスは子ロバに乗ってただ黙ってエルサレムに入ってゆく。イザヤ書53章が描く「屠り場に引かれてゆく小羊」のように王は十字架の玉座に向かって黙って歩んでゆくのです。主ご自身は人々の無理解にどれほど深く孤独と悲しみとを感じておられたことでしょうか。私たちはこの受難週、主イエスの十字架への歩みへと目を向け、心を開き、耳を澄ませてまいりたいと思います。

 

沈黙の中で主が耳を傾けていたもの

 それにしても沈黙の中で主イエス・キリストは何を聴きとっておられたのでしょうか。本日は使徒書の日課としてフィリピ書2章のあの有名な「キリスト讃歌」が与えられています。これは先ほど「詠歌」で福音書の朗読に備えてご一緒に歌ったみ言でもあります。これは初代教会の讃美歌でした。実はパウロはその讃美歌に(8節の後半ですが)「死に至るまで」という言葉の後に、「それも十字架の死に至るまで」という自らの言葉を加えて再録しています。

 

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

 

 「キリストは、へりくだって、十字架の死に至るまで神の御心に従順であった」と告白されています。主の沈黙は、群衆が熱狂的にホサナと叫ぶ中で、ただ神の御声に向けられており、神の御言に耳を澄ませる姿として現れていたに違いありません。喧噪の中にあっても、ただ神の声に耳を傾けてゆくということ。神の御心に従順にしたってゆくために、神にのみ旨に心を集中させてゆくこと。これが主が沈黙の中で示された生き方です。それこそ私たちに求められている生き方でありましょう。これは逮捕直前、ゲッセマネの園でイエスが苦しみにもだえながら、「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい」と弟子たちに命じて、三度祈られた場面を思い起こさせます。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(マルコ14:36)。しかし弟子たちは愚かにも一時も目を覚ましていることができず三度とも眠ってしまいました。肉体は弱いのです。

 

イエスをお乗せした「チイロバ」

 イエスはまっすぐ十字架を見据えて、子ロバに乗るというへりくだった従順な姿でエルサレムに入ってゆかれます。ただ父なる神の御心に「死に至るまでの従順」を貫きつつ。苦難の中で主がこのように歩むことができたのは、父なる神との揺るがぬ一体性があればこそでした。イエスは私たちの重荷をすべて背負って十字架へと歩まれます。

 アシュラム運動を展開した榎本保郎という牧師は「チイロバ牧師」と呼ばれていましたが、『チイロバ』という本の中で、「キリストがエルサレム入城の時にお乗りになったこの子ロバ、チイロバこそ、私たち自身を表している」と受け止めました。主がお入り用なのです(マルコ11:3)。どんなに自分が貧しく愚かで力がない小さな存在であったとしても、キリストはそのような私を選び、清め、御用のために用いてくださる。このような自分にもキリストをお乗せして運ぶという大切な、栄光ある仕事が与えられているのだというのです。そのためにも私たちは、どのような時にも黙して、キリストを見上げ、キリストの声に聴いてゆかなければなりません。どこにキリストに従う道が備えられているのか。様々な声が聞こえる中でも、ただ父なる神の声に聴き従ってゆく。そのような思いをもって、この受難週の一週間を主と共に過ごしてまいりたいと思います。

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