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2018年3月12日 (月)

2018年3月11日(日)四旬節第四主日礼拝説教「神のアガペーの愛」

2018311日(日) 四旬節第四主日礼拝 説教「神のアガペーの愛」   大柴 譲治

民数記 21: 4〜 9

「主はモーセに言われた。『あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。』」(8節)

ヨハネによる福音書 3:14〜21

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

 

3.11」に当たって

 本日は四旬節(レント)の第四主日。与えられた福音書の日課には「小福音書」とも呼ばれる有名なヨハネ316が含まれています。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。私たちはこのみ言葉を本日、二つの時代状況のコンテクスト(脈絡)から聞くことができるように思います。

 一つ目は今日が3.11だからです。今日は2011年の311日に起こった東日本大震災から数えてちょうど七年目に当たります。テレビや新聞では七年前の今日に起こったこと、そしてその後に続いて起こったことに焦点を当てて報道しています。15千人を超える方々が亡くなられ、6千人の方々が負傷され、今も25百人を超える行方不明者がおられます。そのことを思う時、私たちは胸が痛みます。愛する者を失くされた方々にとっては、あの時以来時計が止まってしまって、まだ動き始めてはいないと感じておられる方もおられましょう。あまりにも悲劇は突然でしたし、その被災地域の広さと被害の甚大さは衝撃的でした。今でもありありと私たちの眼には繰り返し放映された津波と原発事故の映像が焼き付いています。ある詩人は「日本慟哭!」と叫びました。あの直後から、三ヶ月ほど私たちは実際に喪に服するような重たい期間を過ごし、テレビやラジオも放送を自粛したことを思い起こします。あの時私たちは慟哭の中で「神はどこにいて、なぜ沈黙しておられるのか」という深い嘆きを発していたのではなかったでしょうか。七年前、311日は金曜日でした。その二日後の313日に、まだ交通網が分断される中で、そして全体像が掴めない中で、教会に集まることができた38人ほどで礼拝を守りました。胸がつぶれるような思いの中で、祈ること以外に何もできない自分たちの無力さを覚える中、ただただひたすら神に祈りました。「わが神、わが神、なにゆえにわたしをお見捨てになったのですか!」というような思いを私たちは被災地の人たちと共有したのだと思います。神はこの世の悲しみの中に降り立って下さいました。

今日私たちは、そのようなことを想起する中で本日の聖書のみ言葉を聞くのです。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。この天から響いてくるような言葉には、人知を遙かに越えるような確かさ、明るさを感じることができます。上から私たちを照らす光が感じられる。これは「どのような時にも、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたを見捨てることはない」というインマヌエルの神からのメッセージでもあります。やがて、あの3.11の後に、日本中から黙々と大勢の若い人たちが被災地に集まってきて、無名のボランティアとして自分のできることをしてそして静かに戻ってゆくということが起こり始めました。そして世界中からも深い悲しみを共有する祈りと支援とメッセージが寄せられて、輪が拡がりました。世界ルーテル連盟(LWF)からも災害救援の専門家であるインド人のマタイさんという方が日本に派遣されました。世界から孤立しているのではない、世界とつながっているのだということを私たちはその時実感し、その温もりに慰められたのだと思います。東教区は本(全体)教会と共に協力しながらJLER「ルーテルとなりびと」の救援活動が始まりました。引退牧師の伊藤文雄先生などは、被災地の避難所に何ヶ月も泊まり込んで自ら被災者たちと共にあり続けました。専従のスタッフを派遣し、被災者の方々の日毎に変わってゆくニーズを丁寧に確認しながら、それに「となりびと」として応え、懸命に仕えてゆこうとしたその働きを私は忘れることはできません。この活動は三年間継続して一つの節目を得て終了しています。私たちには3.11のことを忘れず、覚えて祈り続けるということが求められています。

一昨年の熊本地震の際にも教会は、るうてる法人会連合や地域の人々と共に、「できたしこルーテル」の活動を一年半ほど展開したことも記憶に新しいことです。「できたしこ」とは熊本弁で、できることをできる範囲内で行いながら頑張るという意味です。自ら被災しながらも、教会や施設は、地域の人々と共に、悲しみを背負いながら実に頑張ったのだと思います。なぜなら私たちは、神がその独り子を賜るほどにこの世を愛しておられることを知っているからです。どのような時にも、神の愛がこの世に光のように注がれていることを知っている。そのキリストの救いの出来事が根底にあるからこそ、私たちはこの場所に立ち続けてゆくことができるのです。神の独り子は私たちの苦しみや悲しみのすべてを背負って、私たちをそこから贖い出すために、あの十字架へと歩まれました。今は四旬節。主イエスの十字架への歩みを覚える時です。神はその愛のゆえに、十字架に死んだイエスを復活させてゆきます。「復活(アナスタシス)」とは「再び起き上がること、再起すること」を意味します。神の愛は私たちに人生が七転び八起きであることを教えています。

 

ピョンチャン・パラリンピック2018 〜 神のアガペーの愛

 私たちは今日、3.11と共に、もう一つのコンテクスト(脈絡)の中でヨハネ3:16のみ言葉を聞いています。それは韓国のピョンチャンでのパラリンピックが昨日から開催されているというコンテクストです。オリンピックの時同様、その熱い競技の模様を映し出すテレビの場面に釘付けになっている方もおられることでしょう。様々な事情から肉体的なハンディを負いながらも、その状況に負けることなく、前を向き、上を向き、何度倒れても起き上がり、頑張っているそのひたむきな姿は私たちの心を打ちます。私たちはそこに、人間というもののすばらしさを、その真実さと可能性とを深く感じ取ることができるように思います。感動の中で「時よ、止まれ。お前はそのままで美しい」(『ファウスト』)と叫びたくなる瞬間を味わうことができる。そしてさらに深くK観てゆくならば、そのようなオリンピアン一人ひとりの背後には、それを支えてきたその家族や友人や同僚たちの愛と祈りとがあることを私たちは知っています。その愛に支えられて彼らは自分を輝かしているのです。ホンモノの愛だけが私たちのいのちを輝かすことができましょう。盲目のピアニストの辻井伸行にも、片腕(左手)のピアニストである館野にも、またスウェーデンの歌手レーナ・マリア女史にも、そして私たち自身にも、その背後にはその力を信じ、祈りと愛をもって支えてくれる家族や友人たちの輪があ神はそのような交わりを祝福して苦難の中にある人と共に歩んでくださいます。

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。独り子を惜しまずに私たちに与えてくださった神のアガペーの愛は、すべての人の上に注がれています。「アガペー」という語は、神の無私の愛、無限に注がれる神の無償の愛を意味します。この神のアガペーの愛こそが、十字架の上で死んだイエスを死人の中から復活(再起)させたように、私たちをも絶望の中から再起(復活)させてゆくことができると信じます。旧約の日課・民数記21:8に出てくるモーセが旗竿の上に高くかかげた青銅の「炎のヘビ」とは、私たちのために十字架に架かられたイエス・キリストです。キリストを見上げることで、人は苦難の中で神からの再生と再起の力を与えられてゆく。本日も、この神のアガペーの愛を噛みしめながら、ご一緒に主の食卓に与ってまいりましょう。

ここにお集まりのお一人おひとりの上に、天からのいのちの祝福が豊かにありますようお祈りいたします。アーメン。

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