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2018年2月18日 (日)

2018年2月18日(日)四旬節第一主日礼拝説教「無条件の存在是認」

2018218日(日)四旬節第一主日礼拝説教「無条件の存在是認」  大柴 譲治    

創世記 9: 8〜17

すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。(13節)

 

マルコによる福音書 1: 9〜15                   

そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けてが鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。(9-11節)

 

四旬節第一主日

 本日から六週間の四旬節に入ります。先週の水曜日から聖灰水曜日(Ash Wednesday)ということで、教会暦では主の受難の歩みを覚える「四旬節(レント)」に入りました。典礼色は悔い改めの色であり王の色でもある「紫」。日曜日を除く40日間を受難前節として主の十字架の歩みを覚えます。レントの期間は礼拝式文では「キリエ」(二)が用いられ「グロリア」は省略されます。また「ハレルヤ唱」は「詠歌」に替えて歌われることになります。具体的な主イエスの十字架への歩みが始まるのです。身を慎んで主の十字架を覚えたいと思います。

 

< 二つの天からの声 >

先週は主の変貌主日で、高い山の上でイエスの姿が真っ白に輝き、旧約聖書のモーセ(父祖代表)とエリヤ(預言者代表)がイエスと親しく話す場面が与えられました。そして神顕現を顕す「雲」が彼らを覆い、雲の中から声がします。「これはわたしの愛する子。これに聞け」(マルコ9:7)。いついかなる場合にも私たちが耳を傾けるべきは主イエス・キリストであることが明らかにされていました。

本日の日課はイエスの受洗の場面から始まります。ここでも天からの神の声が響き渡ります。そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けてが鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた(マルコ1:9-11)。この直後に、イエスは「神の霊」によって「荒れ野」へと押し出されてゆき、40日間そこで「悪魔の誘惑(試練)」を受けてゆくのです。そしてその誘惑に打ち勝った後、イエスはガリラヤで公に福音宣教を始められます。ここでの「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声はイエス自身に向けて発せられています。それは神から「よし、行け」と背中を叩かれているようなものですね。無条件の存在是認と言ってもよいでしょう。洗礼を受けるということは私たちにとってもそのような意味を持っているのです。

神のこのような私たちに対する確かな声が試練の中で私たちを支え守り導いてゆきます。「荒れ野」とは人間の力が無力であることがどこよりもはっきりと分かる場所です。そこは神に頼ることなしには人は生き抜くことができない場所なのです。それゆえそこは同時に「神顕現の場」でもあります。40日間」とはモーセが荒れ野で40年間さまよい続けたことを私たちに想起させてくれます。40は聖書では完全数で、一世代が次の世代に移り変わってゆく年月、つまり「人間の一生」を表しています。モーセも出エジプトの出来事を体験したイスラエルの人々も、荒れ野の旅の途中で「金の子牛」を神として拝んだという罪の罰を背負うかたちで「神の約束の地」には入ってゆけないのです。そしてその次の世代が「乳と蜜の流れる約束の地」に入ってゆくことになります。

映画『十戒』の中に、若き日のモーセがエジプトでイスラエル人をいじめるエジプト兵を殺してミデアンの荒れ野に逃げてゆく場面がありました。その荒れ野でモーセはとうとう力尽きて倒れてゆくのですが、そこに次のような印象的なテロップが入ります。「人の力が尽きたところから神の御業が始まる」と。祭司エテロの娘ツィポラが倒れたモーセを見つけて介抱してゆくのです。「人間の力が尽きたところから神の救いの御業が始まる」とは確かにそうであろうと思いますが、本当にそうなのだろうかとも私は思います。神の救いの御業は、いつも働いているのではないか。私たちが自分の力に頼って生きている時には、それがおそらく見えないのです。私たちが自分の力に頼ることができなくなって初めて、神の救いの御業に気づかされるのではないかと思えてなりません。私たちが自己に絶望して、徹底的に自我を打ち砕かれ、ボロボロになったどん底で神に拠り頼む時に、神の憐れみの御業が私たちにおいて既に実現していたことを知らされるのでしょう。その中心にイエス・キリストの十字架と復活という出来事があります。

 

「低い自己肯定感」の上にかけられた「虹」のしるし

現代社会では、特に若い世代において「自己肯定感(自尊心/自尊感情)」が乏しいというような声が聞こえてきます。「あなたは自分を好きですか」という問いかけに対して「嫌いです」とか「大嫌いです」と即座に答える若者が最近増えていると言われています。自己肯定感が低く、そこから必然的に「生きづらさ」を抱えてゆくことになるのでしょう。「生まれてきてすみません」という内向的で恥ずかしい気持ち(shame)が強くなってしまうのです。若い頃に私たちは「根拠のない自信」を自分の中に培う必要があると思われます。そのためにも私たちは自らに対する「無条件の存在是認の声」を必要としているのです。旧約聖書のコヘレトの言葉(伝道の書)の12章に「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。『年を重ねることに喜びはない』と言う年齢にならないうちに」1節)という言葉があります。文語訳では「汝の若き日に汝の造り主を覚えよ」と訳されていました。実はこれも私は、私たちが幼い頃から「あなたはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」という天からの声に触れて生きるように促す言葉であると私は思っています。私たちの魂は、赤ちゃんがその母親からの無条件の存在是認を必要とするように、神からの無条件の存在是認の声を必要としているのです。特に、エリク・エリクソンという乳幼児発達心理学者は1歳までの母親との関係が赤ちゃんの成長過程の上で決定的に大きな影響を与えることを明らかにしました。人間や自分自身に対する「基本的な信頼感(Basic Trust)」を得ることができるかがこの時期の発達課題である言うのです。

「あなたはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」という声は、私たちの魂がその根底において求めている根源的な声であり、私たちが人生で繰り返し困難に陥った時にそこへと戻ってゆくべき「原点」でもありましょう。このような声を告げてくれる人と出会うことができた人は幸いです。では、戦争や災害など時代的な状況や家族環境的な制約のゆえに親から豊かな愛情を注がれる体験が乏しい人、「あなたはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」という自己肯定的な存在是認の声を聴くことができなかった人はどうなるのでしょうか。私たちはどれほど愛情を注がれてもそれに満足することができず、飢餓感を持つ存在なのかも知れません。井上陽水が歌うように「限りないもの、それは欲望」なのです。生きる構えとしての「基本的信頼感(Basic Trust)」を生育歴の中で獲得できなかった人はどうなるのか。1歳までが大切だと言われてももう遅いではありませんか。私たちはもう1歳を遙かに過ぎてしまっているのですから。そのような時にはどのようにすればよいのでしょうか。

大丈夫です。「聖書は神さまからのラブレター」(キルケゴール)ですから、聖書からその声を聴き取ってゆけばよいのです。私たちは繰り返し声に出して「あなたはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」という言葉を自分の耳に入れる必要がある。他の人から繰り返しそのような確かな声を聴く必要があるのです。他にそう言ってくれる人がいなければ、自分で自分に向かってその言葉を言い続けてもよいのです。あるいは音楽でも美術でも映画でも、そのようなメッセージを自分に伝えてくれるものを身近に持っておけばよい。主日礼拝に出てみ言葉を聴き、聖餐式に与り、祝福を受けて派遣されてゆく。このこと自体が神からのI Love You! あなたはわたしの大切な人。わたしの心に適う者」という「無条件の存在是認の声」を受け止めるということだからです。十字架への歩みを始められたイエスもまたそのような天からの声に生かされ続けた方でした。私たちもキリストに倣いたいと思います。常に(あるいは人生の要所要所で)天を見上げて、天からの声に生きる者でありたい。そう願っています。それが私たちに示された神からの「契約のしるし」としての「虹」なのだと信じます。ご一緒に虹を見上げて歩んでまいりましょう。

お一人おひとりの上にそのような神さまの愛における祝福が豊かにありますようお祈りいたします。 アーメン。

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