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2018年2月16日 (金)

2018年2月11日(日)主の変容主日礼拝説教「『啓示の光』体験」

2018211日(日) 主の変容主日聖餐礼拝 説教「『啓示の光』体験」     大柴 譲治

コリントの信徒への手紙 二 4: 3〜 6

「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。(6節)

マルコによる福音書 9: 2〜 9                   

「六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。」(2-4節)

 

主の変容(変貌)主日

 本日は「主の変容主日」。「変貌主日」とも呼ばれますが、高い山の上でイエスの姿が栄光に輝いたという出来事を覚える主日です。今週の水曜日から「聖灰水曜日(Ash Wednesday)」ということで、教会暦では主の栄光が諸国民に顕現した(顕された)ということを覚える「顕現節」が終わり、いよいよ主の受難の歩みを覚える「四旬節(レント)」に入ります。今日は典礼色は神の栄光を顕す「白」ですが、次週からは悔い改めの色であり王の色でもある「紫」が用いられてゆきます。日曜日を除く40日間受難前節として主の十字架の歩みを覚えます。レントの期間は礼拝式文では「キリエ」(二)が用いられ、「グロリア」は省略されます。また「ハレルヤ唱」「詠歌」に替えて歌われることになります。具体的な主イエスの十字架への歩みが始まるのです。

 いつも顕現節の一番最後に来るのが本日の山上の変貌の出来事です。主イエスがペトロ、ヤコブ、ヨハネの三名の弟子を連れて「高い山」に登り、そこで弟子たちは不思議な光景を目の当たりにします。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」2-3節)。 そして、「エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていたということが起こるのです(4節)。三人の弟子たちは、イスラエルの歴史の中でも特に重要な使命を果たした父祖の代表である「モーセ」と、「炎の戦車(Chariot of Fire)」に乗って生きたまま天へと挙げられた預言者を代表する「エリヤ」とが、イエスと三人で語り合う姿を見るのです。この出来事はイエスがこれから果たそうとすることが「旧約聖書の預言の成就」であり「神の御心に適うこと」、そして「神の栄光」に満ちた出来事であるということが示されています。しかしその「栄光」とは「隠された栄光」でもありました。

 

隠された栄光

「隠された栄光」というのは、それはイエスの復活の時まで誰にも分からなかったからです。フィリピ書2章には初代教会で歌われた讃美歌「キリスト讃歌」として記録されています(6節〜11節)。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」。神の身分であり、神と等しいものであった栄光のキリストが、自分を捨て、無となり、奴隷の姿となって人間としてこの地上に降り立たれたのです。キリストはこの地上で、十字架の死に至るほどのへりくだりと神の御心に従った従順とを示されました。天上にあった時の神の御子としての栄光の姿は、その生前は唯一回、本日の山上の変貌の出来事においてのみ、明らかとされたのです。ペトロとヤコブとヨハネの三人は、高い山の上で特別な「『啓示の光』体験」をしているとも言えましょう。三人は驚き恐れます。5-6節にはこう記録されています。ペトロが口をはさんでイエスに言った。『先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。』 ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのであると。ヤコブとヨハネもペトロと同じ気持ちだったでしょう。まばゆい聖なる神の光の中に立たされた時に、私たちはおそらく、我を忘れて彼らと同じような気持ち、同じような言葉を語るのでありましょう。

次の場面はこう記されています。すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。『これはわたしの愛する子。これに聞け』」7節)。「雲」は神がご自身のご臨在を顕わされる時に神が用いられる道具でもあります。「これはわたしの愛する子。これに聴け」。神の声ははっきりと、私たちがいついかなる時にも耳を傾けるべき人を指し示しています。それは私たちの救い主、羊飼いである受肉と十字架と復活の主イエス・キリストです。

この神の声は私たちにイエスの洗礼の場面を思い起こさせてくれます。そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けてが鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた(マルコ1:9-11)。この直後に、イエスは「神の霊」によって「荒れ野」へと送り出されてゆき、40日間サタンの誘惑」を受けることになります。ここでの「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声はイエス自身に向けて発せられています。神から「よし、行け」と背中を叩かれているようなものですね。洗礼を受けるということは私たちにとってもそのような意味を持っています。それに対して、この山上の変貌の出来事の中で聞こえた神の天からの声は、「これはわたしの愛する子。これに聴け」というように、イエス自身に対してではなく、弟子たちに向かって、イエスの周囲にあってイエスに従う者たちに向かって発せられています。この言葉は私たちに、どのような時にもイエスの御心を求めてゆくようにと促しています。イエスの中に神の御心が明らかとされているからです。そこでは、ヨハネ福音書が繰り返し強調しているように、イエスと父なる神とは一つなのです。

「弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた」8節)。三人は、夢を見ていたような気持ちになったことでしょう。イエスも栄光にまばゆく光輝く姿から、もとの普通の姿に戻っておられました。しかしペトロとヤコブとヨハネの三人は、それを人々に話してはならないと口止めされます(9節)。一同が山を下りるとき、イエスは、『人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない』と弟子たちに命じられた」。復活後にようやく彼らはその出来事を話すことを許されるのです。その山上の変貌の出来事がキリストの勝利の栄光を顕す出来事であったということのすべては復活の光の中で明らかにされるのです。

 

「啓示の光」体験

 この主の変容の出来事は私たちにとって何を意味しているのでしょうか。私たちが日常生活の中で主の栄光の姿が隠されているということを知るということでしょうか。地上の悲しみや怒りに満ちた惨めで救いようがないような日々の出来事の中には、全く隠された栄光を見出すことができないのではないかと思われます。私はこの世に起こるすべての出来事を主の復活の光の中で見てゆくということを教えているのだと思います。

昨日私は日基教団天満教会を会場として開かれた21世紀キリスト教社会福祉実践会議第11回大会」に参加させていただきました。そこでは「貧困・差別とたたかうキリスト教社会福祉」という主題の下に、釜ヶ﨑で「こどもの里」というこどものための居場所作りに1970年から50年近く関わってこられたカトリック信徒の荘保共子(しょうほともこ)さんと、「聖公会生野センター」で総主事として長く働いてこられた在日大韓教会信徒の呉光現(オ クァンヒョン)さんという二人の方々の実践報告を受けました。お二人の実践に裏打ちされたお話しを伺いながら私は、どのような困難の中にあっても、どれほど大きな怒りや悲しみ、徒労や失望を味わい続けたとしても、決して諦めることなく、再び起き上がってゆかれる(「復活」とは「再起」を意味します)姿を通して、すべてを復活の光の中で見てゆくとはこのようなことなのだと改めて教えられたように思います。「これはわたしの愛する子。これに聴け」という神の声の通り、私たちはキリストに耳を傾けることを通し、いついかなる時にあっても希望の光、復活の光、神の啓示の光を見上げてゆくことができるのです。そのためにも今私たちに与えられているネットワークを大切にしたいと思います。それが私たちにとって「神の隠された栄光に与る」ということであり、「『啓示の光』体験」ということになるのです。

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