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2018年1月 8日 (月)

2018年1月7日(日)顕現主日聖餐礼拝説教「星をたよりに」

201817日(日)顕現主日聖餐礼拝 説教「星をたよりに」         大柴 譲治

イザヤ書 60:1〜6

1 起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。2 見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。 3 国々はあなたを照らす光に向かい、王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。1-3節)

 

マタイによる福音書 2: 112                   

9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

 

2018年最初の主日礼拝に〜東からの博士たちを導いた星の光

 新年おめでとうございます。本日は今年最初の主日礼拝です。ご一緒に礼拝をもって一年を始めることができる幸いを覚え、心から神に感謝いたします。

 本日の顕現主日に与えられたマタイ福音書2章には、黄金・乳香・没薬という宝物をもって幼子イエスのもとを訪ねる東からの占星術の博士たちの姿が記されています。聖書自体には博士たちの人数は記されていませんが、宝物が三つだったということから博士たちも三人であったと言い伝えられてきました。それも降誕劇などの人形で描かれた場面では、アジアとアフリカ、そしてヨーロッパという三つの人種を代表した姿で博士たちは描かれていたりします。本日の第一日課イザヤ書60章にあったとおり、すべての民に(「異邦人」)に神の栄光が顕現したことを覚えるのが「顕現日(エピファニー、毎年1月6日に定められています)」であり「顕現主日」なのです。西方教会では1225日より本日までの二週間を「クリスマスの期間」と定めています。顕現節の主日は「聖灰水曜日(Ash Wednesday)」までと定められています。典礼色は「神の栄光を顕す白」が最初の二回と最後の変容主日に用いられ、間の主日は「信仰の成長を表す緑」が用いられます。本日は「星に導かれる」ということ、「星をたよりに生きる」ということがを意味しているのかに焦点を当てながらみ言葉に聴いてまいりたいと思います。クリスマスの出来事はマタイとルカの二つの福音書にしか記録されていませんが、東からの博士たちのエピソードを記録しているのはマタイ福音書だけです。

 本日の第一日課であるイザヤ書60:1-3はこう謳っています。起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。国々はあなたを照らす光に向かい、王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む」。この預言の成就として重ね合わせながら、マタイ福音書は東からの占星術の学者たちを登場させているのです。

 

「主に望みを置く人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。」(イザヤ40:31

 皆さんは今年どのような初夢を見られたでしょうか。私はこれが初夢だというはっきりとした認識はないのですが、どうも自分が鷲のようになって飛翔する夢を見たような気がしています。そして空高いところから自分が鷲の目をもって地上を見下ろしているような感覚を持ったのです。それは夢かうつつか幻かははっきりしませんが、イザヤ書の40:31には次のようなみ言葉があり、それと重なっているように感じたのです。主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」。大切なことは「主に望みをおく」ということだということを改めて再確認させられたように思います。同時に「天から地上を見る」という、言わば「『神の視点』で物事を見てゆくこと」が大切であると示されたようにも思いました。そこから与えられたマタイ2章を読み直すと、これまで全く思いも付かなかったような「新しい視点」が与えられたように思うのです。それは「地上から星を見上げる」のではなく、逆に「星から地上を見降ろしてゆく視点」が示されたように思うのです。神が夜空に「星」をひときわ明るく輝かせ、占星術の学者たちを幼子イエスまで導くのです。ヘロデ大王やエルサレムの住人たちが持つ「人間の深い闇(=不安と恐れとおののき)」もそこでは明らかにされてゆきます。東からの博士たちは「神の都」エルサレムに来て問いました。ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです』2節)。 マタイはその時の人々の反応をこう記しています。「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった3節)。ヘロデは不安の中で、そのことがダビデの町ベツレヘムで起こるということを人々に調べさせて知ります。ヘロデは占星術の学者たちを再度ひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめたのです(7節)。 そして、心にもない嘘をついて彼らをベツレヘムに送り出します。「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と(8節)。自分の身を守るためにヘロデがその幼子を殺そうと思ったことは、その後の16節に記されている出来事からも明かです。「さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」16節)。何と人間は残虐な存在になり得るのでしょうか。「不安」「恐れ」、そして「怒り」というものが人間を「悪魔」のように狂わせてゆくのです。ヘロデの持つ「闇」は何と救い難いほどに暗く、恐ろしいほど深淵が深いものなのでしょうか。「星の光」はヘロデの心には届かないのです。星の光がヘロデを避けたのでしょうか。否! ヘロデの中の何かがその光に気づくことを妨げているのです。それは自分の中だけで欲望を満足させ、自己完結しようとするモノローグ的で自己中心的で悪魔的な「罪」です。このままでは、ヘロデ大王の行き着く先は「絶望の死」以外にはありません。実際にヘロデ大王は残虐さでよく知られていました。自分の部下だけでなく妻や子どもたちをも、自分を無き者にしようとしているという「猜疑心と嫉妬」のために次々に殺していった。ヘロデ大王は人間の持つ闇の深さを体現しています。そのような闇を私たちもまた自分の内に持っているのです。闇の中に生き続ける限りどこにも救いはありません。光に照らされたものの反対側に必ず影ができるように、影の中に生きる者は光の中に出ることを恐れるのです。

 ヘロデと対照的なのが、星の光に導かれて幼児の場所に辿り着いた博士たちです。「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった」9節)。そしてこう続く。「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」10節)。先立って進み、彼らを守り導く特別な星の光によって、彼らの身体と心と魂とは大きな喜びに満たされていったのです。それは「まさにこのことのために自分たちの人生はあったのだ!」と言えるような大きな喜びです。救い主と出会うということはそのような喜びの人生へと私たちを招き入れてくれます。苦しみや悲しみがなくなるわけではありません。そのただ中で主と共なる喜びを味わうような人生です。

博士たちの姿は闇の深いヘロデの姿と確かに対照的です。しかし私は思います。博士たちも夜空にひときわ明るく輝くその星を見つけるまではヘロデと同じような生き方をしていたのではなかったかと。一説によると「黄金・乳香・没薬」は、それまでの彼らの人生を支えてきた「占星術のための商売道具」でした。それらをすべて幼子に捧げたというのは、彼らがそれまでの古い生き方と訣別したことを意味します。それほど「光に照らされることの喜び」は大きいのです。「光を見ようとしないヘロデの姿」「光によって照らされた博士たちの姿」。それは「キリストと出会う前の古い人間」「キリストと出会った後の新しい人間」とを体現しています。「星」を発見したその最初の瞬間から彼らにはある種の「再起/復活/再生の予感」があったはずです。光の中に終わりが見えたのです。だからこそ彼らは何ヶ月も何年も前に自国を旅立ち、行く先も知らないで夜の旅に出発することができたのです。このような光に照らされ、光を信頼し、光に導かれ、光に向かって旅することができる者は幸いです。星は夜にしか見えません。昼間は見えない。私たちの旅もまた夜の旅なのかも知れません。しかしその旅は神が必ず守り導いてくださる確かな喜びと祝福の光に満ちた旅です。幼子と出会った者は「夢のお告げ」を受けて「別の道を通って自分たちの国へ帰って行く」ことができる。新しい生き方が始まってゆく。私たちもこの人生という夜の旅を、星をたよりに「主に望みをおくことで新たな力を得て」歩んでまいりましょう。起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる」(イザヤ60:1-2

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