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2018年1月17日 (水)

2018年1月14日(日)顕現節第二主日聖餐礼拝説教「ナタナエルの回心」

2018114日(日)顕現節第二主日聖餐礼拝 説教「ナタナエルの回心」    大柴 譲治

第一朗読 サムエル記上 3: 1〜10

8 主は三度サムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、少年を呼ばれたのは主であると悟り、 9 サムエルに言った。「戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい。」サムエルは戻って元の場所に寝た。 10 主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。「サムエルよ。」サムエルは答えた。「どうぞお話しください。僕は聞いております。」8−10節)

福音朗読  ヨハネによる福音書 1:43〜51                   

するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。46節)

 

本日の主題〜神の声に聴くということ

 本日は顕現節第二主日の礼拝です。「顕現節」というのは「主の栄光がすべての民の上に顕現した」ということを覚える期節です。本日の主題は、旧約聖書の日課には少年サムエルのエピソードが記されています。サムエルとは「その名は神」という意味の名で、イスラエルの預言者であり、神に立てられた「士師」(指導者)の一人で、サウル王やダビデ王に油を注いだことでも有名です。サムエルの両親(父エルカナと母ハンナ)は年老いて与えられたサムエルを神に捧げ、大祭司エリ(「わが神」の意)のところに送り神殿で仕えさせるのです。ある夜寝ていたサムエルは真夜中に自分の名前が呼ばれたのを聴いて、エリのところに参上します。しかしエリはサムエルを呼ばないと言う。そのような出来事が三度あって、エリはそれがサムエルに対する主なる神の特別な呼びかけ(コール/召命)であることに気づきます。エリのアドヴァイスを受けて、サムエルはそれに対して正しく応えてゆくのです。1サムエル3:10にはこのように記されていました。主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。『サムエルよ。』サムエルは答えた。『どうぞお話しください。僕は聞いております』」。教会学校でもよく語られるエピソードでもあります。「神からの呼びかけ(コール)」に対して忠実にそれに応答してゆくこと、それが信仰者には求められているのです。しかしその気づきにおいて、背後にはサムエルの両親や大祭司エリの執り成しの祈りがあったことを私たちは知っています。「神の声(言)に立つ信仰」とは信仰の先輩たちとのつながりを通して導かれてゆくのです。私たち自身の信仰の歩みにおいてもそうであったことでしょう。真実の生とは出会いです。その出会いの背後には「永遠の汝」たる神が働いておられます。

 

ナタナエルのケース〜「回心」の背後にある神の賜物/恵み

 福音書の日課には「ナタナエル」という人物が出て来ます。この人はヨハネ福音書にしか出てこないのですが、恐らくマタイ、マルコ、ルカの三福音書(「共観福音書」と呼ばれますが)では12弟子の一人であった「バルトロマイ」と同じ人物であったと思われます。共観福音書ではバルトロマイがいつもフィリポの次に置かれて、その名前は一緒に並べられているからです(マタイ10:3、マルコ3:18、ルカ6:14)。本日のヨハネ福音書の日課ではナタナエルはフィリポによってイエスのもとに連れて行かれています。「ナタナエル」という名前は「神の賜物/宝物」という意味を持つ名前です(ちなみに「フィリポ」「馬を愛する者」という意味)。

 ナタナエルにはいくつか際立った特徴があります。最初に言わなければならないのは、彼が「よい友に恵まれていた」ということでしょう。彼はフィリポという友人によってキリストへと導かれました。フィリポはナタナエルにこう言います。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」。フィリポは「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と批判的に語るナタナエルに対して、ただ「来て、見なさい」とだけ言って、彼をイエスのもとに案内するのです。これは極めて正しいアプローチです。「自分の目で見て自分で確かめなさい」と言うのですから。「このお方(イエス)と出会えば分かる」とフィリポはナタナエルをイエスのもとに招きます。

 ナタナエルの特長の第二は、彼が「旧約聖書に精通した真摯な祈りの人であった」ということです。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」46節)と言ったナタナエルは、旧約聖書には「ナザレ」という地名が一度も出てこないことを知っていました。だからそう言ったのです。そこからナタナエルを「強い先入観を持っていた人」と解釈する立場もありましょうが、私自身はどこまでも彼が神のみ言を大切にし、そこに立とうとした人物であったと理解したいのです。なぜなら、イエスご自身がナタナエルを賞賛しているからです。イエスはナタナエルがフィリポと会ったとき「イチジクの木の下にいた」ことを知っていました。彼はそこで神のみ言葉に思いを巡らせながら、真剣に祈っていたと思われます。イエスはだからこそナタナエルを見てこう言うのです。見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがないと。ナタナエルはイエスに賞賛されるほど「真の信仰者」でした。そのイエスの言葉を聴いてナタナエルは驚きます。なぜこの人は私のことを知っているのかと。そのあとの二人のやりとりはこうです。ナタナエルが、『どうしてわたしを知っておられるのですか』と言うと、イエスは答えて、『わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た』と言われた。ナタナエルは答えた。『ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です』」(48-49節)。「ラビ」とは「ユダヤ教の教師」のことで、「先生」という意味です。

 ナタナエルがイエスと出会ったことの背後には親友フィリポの存在がありました。少年サムエルが神と出会った背後に、その両親や大祭司エリの存在があったのと同じです。ナタナエルという名が「神からの賜物/宝物」を意味しているように、私たちの人生には神が備えてくださった「出会いの賜物」があるのです。それを通して「ナザレから何のよいものが出るだろうか(出はしない)」と思っていたナタナエルが、「キリストを救い主として信じて告白するキリスト者」へと変えられていったのです。彼は告白します。「ラビ、あなたは神の子、イスラエルの王である」と(49節)。これを「回心(コンバージョン)」と呼び「悔い改め(メタノイア)」「主体の転換」と呼びます。回心とは「神の恵みの御業」であり、「神からの賜物」です。神ご自身が私たちの内に働いてくださるのです。キリストと出会うことで「迫害者」から「伝道者」へと劇的に変えられたパウロはこう言っています。わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた」のだと(ガラテヤ1:15)。既にこの世に生まれる前から自分は神の恵みの御手の内に置かれていたのだとパウロはここで語っているのです。私たち一人ひとりには神に与えられた貴い「使命(ミッション)」があり、「人生の目的(パーポス)」があるのです。

 ナタナエルについて特徴的な第三のことは、イエスの次のような預言です。「『いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。』更に言われた。『はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる』」50-51節)。「信仰」とは神が備えた「偉大なこと(イエス・キリストにおける救いの御業)」「見る」ことなのです。「信仰とは、(神がわたしたちにおいて)望んでいることを確信し、見えない(神の恵みの)事実を確認すること」なのですから(ヘブライ11:1)。ナタナエルもフィリポも、他の弟子たち同様、「復活の証人」となってゆきました。ナタナエルはやがて生きたまま生皮を剥がれるような殉教の死を遂げていったとも伝えられています。彼の生と死は、人間の生と死を超えた、死や迫害によっても揺らぐことのない「神の永遠のいのち」を証ししています。「真の神の子、イスラエルの王」と出会った喜びがナタナエルを最後まで捉えて放さず、その大いなる喜びが彼をキリストの日に向かって守り導いたのでありましょう。「ナタナエル」という名が体を表わしているように、彼は「神から賜物」としての自分の人生を深く味わい、聖書のみ言と祈りに誠実に生き、主イエスと出会い、その約束の言葉を聴き、自らの眼で「主の上に天使が昇り降りするのを見る」という救いへと招き入れられたのです。 お一人おひとりの信仰の歩みの上に祝福をお祈りいたします。

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