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2017年12月10日 (日)

2017年12月10日(日)待降節第二主日礼拝説教「主の道筋をまっすぐにせよ」

20171210日(日)待降節第二主日礼拝 説教「主の道筋をまっすぐにせよ」 大柴 譲治

マルコによる福音書 1: 1〜 8

神の子イエス・キリストの福音の初め。預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」1-3節)

 

荒れ野に響く声〜洗礼者ヨハネ

 アドヴェント第二主日の本日与えられたみ言葉はマルコ福音書の冒頭部分です。マルコ福音書は四つある福音書の中でも最も古く、最初に福音書を書いたことで知られています。マルコはガリラヤなまりのアラム語を話すペトロの通訳でした。ペトロの言葉を、当時ローマ帝国で公用語として使われていたギリシャ語やラテン語に通訳する役割を果たしていたのです。直接イエスを知っている12使徒たちを中心とする第一世代のクリスチャンたちが、世界宣教のために散らされたり、殉教したり、高齢化してゆく中で、直接イエスを知らない第二世代のクリスチャンたちのために福音書を記す必要が出て来たのです。そのような状況の中で、マルコはペトロの通訳としての経験を生かして福音書を書くことになります。それは紀元70年頃と考えられています。イエスが十字架に架けられたのが紀元30年頃でしたから、それから数えるとおよそ40年が経っていました。40年とはちょうど一世代が次の世代に代わってゆく年限でもあります。

 マルコは不要な言葉は一切用いず、極めて端的に事柄を記します。神の子イエス・キリストの福音の初め1節)。イエスは神の子であり、神によって油を注がれたキリスト・メシアである。その「福音」「良き音信」「はじめ」の発声としてマルコは、荒野にイエスの先駆者として現れた洗礼者ヨハネの姿を告げ知らせてゆくのです。この「はじめ」という言葉は、あの創世記の冒頭で「初めに、神は天と地を創造された」という時に用いられていた「初め」であり、ヨハネ福音書の冒頭での「初めに言があった」という「初め」と同じ言葉です。それは「一番最初に」「太初に」という意味と共に「根源に」「根本的に」という意味を示していましょう。「神の子、イエス・キリストの福音が私たちのライフ(人生/生活/いのち)を根本から支え、守り、導いている」という意味を込めてマルコはこのように宣言していると考えられます。

 それはマラキとイザヤという二人の預言者によって預言されていたみ言葉(マラキ3:1とイザヤ40:3)の成就でした。預言者イザヤの書にこう書いてある。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」2-3節)。

 そしてその旧約聖書の預言の通り、荒れ野に洗礼者ヨハネが現れるのです。そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」4節)。洗礼者ヨハネは人々に「罪の赦し」を得させるための「悔い改めの洗礼」を施してゆきました。「荒れ野」とは「人間が自力では生きることができない世界」であり、「神がご自身を顕現する神の世界」を意味します。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた5節)とあるのは、洗礼者ヨハネは当時の人々が心の奥底に持っていた魂の飢え渇きと切望感とを、いわば「スピリチュアルニーズ」を深く満たしていったのだと思われます。その洗礼は人々の心の目を「神」「神の子イエス・キリスト」に向けるためのものでもありました。本日の日課の次の部分には、イエスご自身もまたヨルダン川でヨハネから洗礼を受けたことが記されています。その時に天が裂けて、霊がハトのようにイエスに降り、天からの声が響くのです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と(9-11節)。

 マルコはイエスの先駆者ヨハネの、一種異様ないでたちをこう記しています。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた6節)。それは人間の力を拒絶する「荒れ野」において、「神によって生かされている神の人の姿」なのでありましょう。

 ヨハネははこう宣べ伝えました。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」7-8節)。ヨハネは自分がイエスの先駆者としての役割を果たしており、後から来るお方に比べたら自分は何者でもないと宣言しています。当時召使いの仕事であった「その方の履物のひもを解く値打ちも自分はない」というのです。自分は水で洗礼を施しているが、そのお方は聖霊で洗礼を施されるとヨハネは言います。マタイ福音書とルカ福音書は「その方は、聖霊と火による洗礼を施す」(マタイ3:11、ルカ3:16)と語り、ヨハネ福音書はマルコ福音書と同様、「聖霊によって洗礼を授ける」と伝えています。私たちはイエス・キリストの御名によって水と霊との洗礼を受けました。この教会の12/24のクリスマス礼拝では四人の方の洗礼が予定されています。洗礼とは古い自分が死んで、キリストにある新しい自分として生まれ変わることであり、神から水と聖霊の油を注がれるということです。一人のキリスト者にされるということは私たち自身が「一人のキリスト(油注がれた者)」(ルター『キリスト者の自由』)とされるということです。何よりも「失われた者が見出された時には、天において盛大な祝宴が開かれる」と聖書には記されています(ルカ15章)。洗礼を受けるということは、そのような「天の喜びの祝宴」に参加することでもある。その先取りとして、前祝いとして、この地上においては礼拝の中で「聖餐式」が行われます。本日も聖餐式が行われますが、それは天国の祝宴に与ることです。ここは天と繋がっている「空間」であり「時間」であり「聖徒の交わり」であるのです。

 

「主の道を整え、その道筋をまっすぐにする」ということ

 それにしても、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにする」ということは私たちにとって何を意味するのでしょうか。ヨハネ福音書の中でイエスはこう言われています。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」14:6)。私たちはキリストという道を通って神の御許に近づいてゆくようにと招かれています。「信仰」とはこのキリストの道を歩むということでもあります。

 これまで申し上げたてきたように、「アドヴェント(待降節)」とは到来する主を待ち望む時です。主の到来、二千年前のクリスマスだけではなく、世の終わりの時の主の再臨に備えて、私たち自身が身を慎み、自らの罪を告白し、主の憐れみに寄り頼み、主に倣って信仰者として生きることを再確認する時でもあります。再臨の主は私たち自身の人生を通ってこられるのではないかと思わされています。私たち自身が主の通られる道となるのです。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにする」ということは、私たち自身が自らの日々の信仰生活を整え、それを神に向かってまっすぐにするということです。

 ルターは小教理問答で主の祈りの「み国を来たらせたまえ」という祈りについてこう語っています。

 

第二のねがい  み国がきますように。

 これはどんな意味ですか。

答:たしかに神の国は、わたしたちの祈りがなくても、みずからくるものです。しかしわたしたちはこの祈りにおいて、

  み国がわたしたちのところにもくるようにと祈るのです。

 それはどうして実現しますか。

答:それは天の父がわたしたちに聖霊を与えて、わたしたちが、神の恵みによって、聖なるみことばを信じ、この世に

  おいても、永遠の世においても、信仰ある生活をするときに、実現します。

 

 「信仰」とは、私たちにおいて働く神の恵みのみ業であり、神の聖霊の働きです。洗礼によって水と霊との油を注がれた私たちがキリスト者として生きる。それが今も生きて働いておられる復活のキリスト、現臨のキリストを証しすることなのです。それをもし妨げるものがあるとすれば、それに気づき、それを正し、それを手放してゆく必要があります。それが「悔い改め」であり、キリストの道を整え、まっすぐにするということです。キリストご自身が私たちの人生という道をご自身の道として整え、その道筋を神に向かってまっすぐにしてくださいます。その主の憐れみのみ業に与りたいと思います。どうか、ここにお集まりの皆さまお一人おひとりの上に聖霊が豊かに注がれますように。そして私たちがキリストの再臨の道を指し示すために神によって用いられてゆくようお祈りします。アーメン。

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