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2017年9月 5日 (火)

2017年9月3日(日)聖霊降臨後第13主日礼拝説教「神のこと、人のこと」

201793日(日)聖霊降臨後第13主日礼拝 説教「神のこと、人のこと」 大柴 譲治

マタイによる福音書 16:21−28

すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」(22-23節)


「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」

 本日の福音書でもペトロが中心的な役割を果たします。先週の日課でペトロは「あなたこそメシア、生ける神の子です」という信仰告白をしました。その信仰告白という岩の上にイエスは教会を立てて「天国の鍵」を授けたことを私たちはみ言葉から聞いたのです。しかし本日は、ペトロはその舌の根も乾かないうちにイエスに叱責されたのです。このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められたすると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。『主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません』」(21-22節)。

 とんでもないと思ったのはペトロだけではなかったことでしょう。12弟子に限らず周囲にいたすべての人がそう思ったはずです。イエスこそキリスト(救世主)であり、何百年もの長い間に渡って自分たちを解放してくれるメシアを待ち続けたイスラエルの民として、弟子たちはイエスに対し大きな期待を持ったのです。彼らはイエスに「力あるメシア像」を期待しました。虐げられ無力なままユダヤ教の指導者たちから苦しみを受けて殺される「苦難のメシア像」など誰の思いにも浮かばなかった。ペトロはイエスをメシアとして正しく認識して信仰告白をしましたが、それはまだ人間的な思いでしかなかった。しかし誰がそれを責められるでしょう。「わきにお連れして」とありますから彼は他の弟子たちをはばかったのかもしれませんが、「そんなことがあろうはずがない。決してそんなことがあってはならない!」と直情型のペトロのことですから声を大にしてイエスをいさめたのしょう。神がどのような救いをイエスによって成し遂げようとしているかペトロには全く理解できなかったのです。神の思いは常に人の思いを遙かに越えて高く、広く、深いと申し上げることができましょう。イエスの言葉はいつも私たちをハッとさせます。

 イエスは振り向いてペトロに言われました。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」(24節)。先週「その信仰の上に天国の鍵を託そう」と言われたペトロがここでは「サタン」と呼ばれている。「悪魔」「誘惑する者」です。イエスはペトロの中に働くサタンを見ている。サタンは私たちを神から遠ざけようとします。神のことを思わず人のことを思う時、そこには悪魔が働いているのかもしれません。恐ろしいことです。私たちが「自分の願い」の実現だけを祈り求める中には大きな危険があるのです。それほど私たちは自己中心的な存在です。私たちの中にある人間的な思いが神の思いを妨げるとするならば、その思いは木っ端微塵に打ち砕かれる必要があります。そうでなければ神の思いに心を向けることができないからです。しかしどうすれば私たちは人の思いと神の思いを識別すればよいのか。果たしてそれは私たちに可能なのでしょうか。

 

ラインホルト・ニーバーの祈り

 Prayer of Serenity(静謐さを求める祈り)」と呼ばれるライホルト・ニーバーの祈りを思い起こします。それは短い三つの祈りから成っています。「神よ」という呼びかけに続き、①「私が変えてゆくことができることは変えてゆく勇気をお与えください」、②「変えてゆくことができないことは、それを受け入れるための心の静けさをお与えください」、③「その両者を識別するためのあなたの知恵を私にお与えください」というものです。とてもシンプルですが私たちの思いをハッとさせ、深いところで転換させてくれる祈りであると思います。私たちは現実のただ中で自分の力の限界を感じて打ち砕かれることが少なくありません。そのような時に神に祈ることができる人は自分の外に自分を支えるものを持っていて、逆境にしぶとく対処してゆく力をそこから与えられてゆくのです。「祈り」とは実は「神に向かって語る」ことではなく、沈黙の中にあって向こう側から聞こえてくる神の声に耳を澄ますことなのだと思います。自分の中で「自分の声」がしゃべり続けている時には、向こう側からの神の声は聞こえません。自分の声が大きすぎるためにそれを聴き取ることは出来ないのです。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」とイエスをいさめたペトロの心の中にはそのような自分の思いだけが強く響いていた。その耳にイエスの声は届いていないのです。だから彼にはどうしてもイエスの苦言が必要だった。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」。人生においてこのような鋭く苦い声に、しかし真剣で揺るぎなく温かい声と出会うことができる者は幸いです。普段私たちは、このような自己の限界(自己中心性)に気づかずに生きているのですが、そのような声は自らの限界に気づかせてくれるからです。

 

「人は裁くが自分は裁かれようとしない。そのようなあなたは一体何者なのか。」

 先日日野原重明先生が105歳で天に召されましたが、私は神学生の時に築地の聖路加国際病院で三週間の臨床牧会訓練(CPE)を受けました。シスターや牧師を含めた8人の受講生(神学生)が二つのグループに別れ、二人のスーパーヴァイザー(以下はSV)の下でグループワークの訓練を受けるのです。午前中は病床訪問、午後からは自分が訪問した患者さんとの逐語会話記録をグループ内で細かく検討しながら、自分の人間関係(コミュニケーション)における癖や傾向を知るというなかなかハードな訓練でした。私は既にいのちの電話のボランティア訓練を受けていましたので「共感的な受容と傾聴」の重要性については頭では分かっていたつもりでしたが、そこでSVであった聖公会の井原泰男司祭からこう言われてグウの音も出ませんでした。「人は裁くが自分は裁かれようとしない。そのようなあなたは一体何者なのか」。私の傲慢さを的確に突いた声でした。私はその時に自らを守ろうと他者に対して批判的になり、思い上がっていたのです。確かに私はその時他者のことを思わず自分のことだけを思っていたからです。ハッとし、深い気づきが与えられました。以来この声は、私の魂の奥底で原音のように響き続けています。私にとってはそれは必要な声だったのです。しかしこの声こそが、それ以降の私を自らの専門性を培う道へと導いてくれたのでした。

 「サタン、引き下がれ。神のことを思わず、人間のことを思っている」。この魂を打ち砕くようなイエスの声もペトロの中で繰り返し反復され続けたに違いありません。私たちの魂にはこれまでの人生で自分に告げられたこのような真剣で忘れ得ぬ声がいくつも刻まれているに違いありません。昔テレビで「うるさい親ほどあったかい」というコピーがありましたがその通りであると思います。私たちの心に刻まれている言葉は時に厳しく時に苦く、しかし熱く私たちの魂を再生させるために語られた「悔い改め」を促す言葉なのです。「回心」「悔い改め」のことを新約聖書のギリシャ語では「メタノイア」と言いますが、「メタノイア」と書いてそれを日本語で反対から読むと不思議なことに「アイノタメ」となる。「メタノイアはアイノタメ」なのです。神の愛のゆえに私たちの回心は起こる。そして回心した者は他者の愛へと派遣されてゆく。メタノイアにおいては、私たちがどこまでも自分中心であったところから、自己の固い壁が打ち砕かれ神を中心にして生きるような「主体のコペルニクス的な転換」が起こってゆくのです。

 

イエスの受難予告と神のいのちへの祝福

 イエスは弟子たちに言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」(24-26節)。有名な言葉です。自分(人)のことばかり思って神のことを思わずにいる私たち人間が、自分を捨て、神が与えたもう自分の十字架を背負ってキリストに従うことがきる。そのような道がイエスによって備えられている。そのような道を歩む時、私たちにはそれまでは見えなかった次元が見えてくるのです。主を見上げ、主を信頼し、主にすべてを委ねて主に従う時にこそ与えられる祝福がある。それこそこの世が与える幸いとは異なる幸い、真の慰め、真の希望です。イエスは、そのようなキリストへの服従によって、全世界を失ったように見えたとしても、実はそこでは一番大事な本当のいのちを得ることができるのだと約束してくださっている。イエスが十字架への道(それは復活のいのちに至る道でしたが)を歩まれたように、私たちもまた自分の十字架を背負いつつ、イエスに従うよう招かれています。自分が変えることができるものを変えてゆく大胆な「勇気」を祈りつつ、変えることができないものは受け止めてゆく心の深い「静穏」を求めながら、そして両者を識別する神の確かな「知恵」を求めながら、私たちは「キリストの声」に服従してゆくのです。聖書が告げるように、ここにこそ人の思いを越えた「神の祝福」がある。新しい一週間もこの道を皆さんとご一緒に踏み出してゆきたいと思います。祝福をお祈りします。

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