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2017年9月24日 (日)

2017年9月24日(日)聖霊降臨後第16主日礼拝説教「ヒューマン・ビーイング」

2017924日(日)聖霊降臨後第16主日礼拝 説教「ヒューマン・ビーイング」 大柴讓治

マタイによる福音書 20:1−16

主人はその一人に答えた。「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」(13-14節)

 

この世の常識的な視点から見ると

 本日はマタイ福音書にしか出てこないイエスの有名な「ぶどう園と労働者(農夫)のたとえ」が与えられています。それは一度聴いたら忘れられないほどの強いインパクトを持ったたとえです。先週の「七を七十倍するまで赦せ」という言葉もインパクトがありましたが、イエスの語るたとえは、「神のこと」を考えず「人間のこと」ばかりを考えてしまう私たちに、「神のこと」即ち「神が何を一番大切にしておられるかということ」を示しているのです。

 それにしても本日のぶどう園のたとえは、私たち人間が大切に培ってきた資本主義社会の原則をも崩すような際どいたとえです。このたとえは「この世の常識」を、即ち「賃金」を「費やした労働時間」や「達成した業績」から測ろうとする「資本主義経済構造」そのものを危機に陥れようとする「危険な話」です。ぶどう園の主人は、「夜明け」(朝6時頃でしょうか)から12時間も懸命に働いた者にも夕方5時から1時間しか働かなかった者にも等しく「一日分の給与(1デナリオン)」を払おうとするのですから。私たちは「これはアンフェアな取り扱いではないか」と言う一日中汗水垂らして働いた労働者たちの不満がよく分かります。「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは!」12節)。誰もが彼らの言葉をもっともだと思う。私たちもどこかでそのように思っています。それが「この世の常識」だからです。

 

神の憐れみの視点から見ると

 しかし、イエスさまの譬えはいつも私たちに「あなたはどの立場からものごとを見ているのか」と鋭く問うてきます。「健康な者」「12時間働き詰めに働くほどの強い体力を持った壮健な者」の立場から見ると彼らの不平不満はよく分かるのですが、もし「声無き者たち」「夕方5時に雇われた労働者」の立場に自分を置いてみた場合に私たちはどう感じるでしょうか。彼らもおそらく、朝から仕事を求めてずっとあちらこちらの広場を渡り歩いていたに違いありません。しかし仕事を見出すことはできなかった。なぜでしょうか。もしかすると彼らは、体格が貧弱でいかにも力がなさそうに見えたのかもしれません。動作が遅かったり、機転が利かなかったり、高齢だったり、身体的なハンディもあったのかもしれない。通常労働者は強健な者から選ばれて雇われてゆくのです。タイミングの問題もあったかもしれません。仕事をしたい気持ちはあっても、何らかの理由で彼らは誰にも雇われなかった。それゆえに彼らは、どうやって家に帰ろうかと思いながら、夕方5時まで空しく広場に立ち尽くしているしかなかったのです。もうこのまま空しく一日が終わろうとしています。

 6-7節に描かれた情景から彼らの思いがよく伝わってきます。(主人が)五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った」。「だれも雇ってくれない」とは空しく一日立ち尽くした彼らの深い諦めの言葉です。主人から「ぶどう園に行きなさい」という言葉をもらった時、彼らはどれほど有り難かったことでしょうか。本当に助かったと思ったに違いない。彼らにも養うべき家族があったはずです。家には子どもたちが空腹で父親の帰りを待っているかもしれないし、老いた両親を妻が看病していたのかもしれない。その背後にはやはり様々な人生があるのです。先日7月17日にこの教会で行われた3ルーテル教会宗教改革500年記念合同礼拝の際に、90人に90の物語」というキャッチコピーをルーテル神学校の石居基夫校長が語っておられましたが、労働者たちには彼ら自身の大切な物語があるはずです。立ち尽くした彼らに対するぶどう園の主人のまなざしはどこまでも温かく、深い憐れみに満ちていたに違いありません。そのぶどう園の主人が行ったある意味「非常識な雇用」は、深い憐れみに裏打ちされた「神の恵みの御業」だったのです。

 そのように読んでくると、朝から夕方まで一日空しく立ち尽くした人たちの気持ちを私たちもまた容易に想像することができるように思うのです。朝6時から仕事を得ることが出来た者にも、9時から働いた者にも、12時からの者にも、3時からの者にも、5時からの者にも、主人は区別なく、等しく温かいまなざしを注いでいるのです。ぶどう園の主人とは神のことです。そのぶどう園とはこの地上の生活を意味しましょう。私たち人間は、一人ひとり個性や能力が異なっているとしても、神の前に同じいのちの価値を持っているからです。本日の旧約の日課にはヨナ書の最後の部分が与えられていましたが、そこにはこういう神の言葉がありました。神が日陰を作るためにヨブのために備えた「とうごまの木」が枯れたことを惜しんで「生きているより、死ぬ方がましです」と神に不平不満をつぶやくヨナに対して告げられた言葉です。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから」(ヨナ4:10-11)。神はそのように私たち一人ひとりの「いのち/存在(Being)」を惜しんで下さる憐れみ深いお方なのです。

 

“Human Doing”ではなく“Human Being”としての人間

 英語で人間のことを human being と言います。これは直訳すると「人間的な存在」という意味の語です。私はいつも思います。人間とは human being” であって human doing” ではないのだと。現代は「何かを行う(doing)」ということに異常なほど重きを置く社会であり世界です。その人がどのような特殊技能や能力を持っているか、どのような業績を上げてきたか、どのような地位や財産、社会的な信用を得てきたか。行為や業績(Doing)にばかり目が行って、人間の存在(Being)ということは疎かになってしまっている社会です。しかしそのようなこの世の価値観の中で、本日のイエスのたとえは私たちに神の視点からの見方を教えています。それは私たちの存在Beingそのものに焦点を当てる神の視点です。その神のまなざしの中では私たち一人ひとりがかけがえのない大切な価値を持っているのです。イザヤ書が「あなたはわたしの目には価高く、貴く、わたしはあなたを愛している」と預言している通りです(43:4)。

 今日は忍ヶ丘礼拝において一人の96歳の女性の洗礼式が行われます。本日のイエスのたとえは私たちがこの世の人生においてキリストに出会うことの幸福について示しているとも読むことができましょう。スイスの精神科医のカール・グスタフ・ユングの「人生の午後の時間のために」という言葉を想起します。ユングによれば人生には午前と午後があって、午前中に私たちは懸命に遊び、勉強し、就職して仕事をし、結婚して家庭を築き、子育てをするというように、一生懸命「行為(Doing)の次元」で頑張ります。しかし人生の午後の時間になると、それらが一段落して、今度は「存在そのもの(Being)の次元」を大切にしなければならなくなると言うのです。「人生の午後は人が自分の魂を豊かにしてゆく時間なのだ」とユングは言います。人生の午後の時間には、自分の人生をまとめて統合してゆくためにも私たちは、「自分の魂(スピリット/ソウル)」を大事にしてゆかなければならないのです。

 本日のイエスのぶどう園のたとえは私たちに、神の深い憐れみは、私たちの行為には関係なく、私たちの存在(Being)そのものの上に惜しみなく豊かに注がれているという重要なことを教えているのです。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」(14節)と宣言されるぶどう園の主人が、私たちすべての者と常に共にいてくださいます。私たちはこの神の恵みの事実に目が開かれてゆく必要があります。そして神が憐れみ深いように、私たちも同時にそのような自他に対する深い憐れみの中に生きるのです。そのことが神によって命を与えられた私たち「ヒューマン・ビーイング」の使命なのです。私たちは神から常に「あなたはヒューマン・ビーイングでありなさい」と呼びかけられています。そのことを心に深く刻みつけ、神に応答しながら、新しい一週間を踏み出してまいりましょう。

 お一人おひとりの上に主なる神の豊かな恵みが注がれますようお祈りいたします。 アーメン。

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