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2017年9月20日 (水)

2017年9月17日(日)聖霊降臨後第15主日礼拝説教「7を70倍〜無限の赦し」

2017917日(日) 聖霊降臨後第15主日礼拝 説教「770倍〜無限の赦し」 大柴 譲治

創世記50:1-21 「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」20節)

マタイによる福音書 18:21-35 「そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。『主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。』イエスは言われた。『あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。』」21-22節)

 

兄弟を赦せないペトロの思い

 本日も先週と先々週に続き、12弟子の代表として、そして私たち自身の代表としてペトロが大切な役割を果たします。彼は「ペトロ(岩)」というあだ名の通り不器用なほど実直でまっすぐで、とても分かり易いのです。そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。『主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。』イエスは言われた。『あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい』」(21-22節)。先週の日課は兄弟が自分に対して罪を犯すならそこに深く関わってゆきなさいという「罪の赦し」についての勧めでした。今日もまた罪の問題に関係しています。ペトロは自分の中に「どうしてもあいつだけは赦せない」というどうすることもできない思いをもっていたのでしょう。その問いは彼にとって切実でした。彼はそれを何とかしたかったのです。ここで「兄弟」という語は単数形ですから、複数の兄弟が自分に対して罪を犯したというよりも、「一人の兄弟が自分に対して罪を犯した場合、その人を何回まで赦し続ければよいか」という意味になります。「こちらの我慢にも限度がある。一体いつまで彼を赦し続ければよいのか」というペトロの鼻息が伝わってくるような言葉です。兄弟アンデレのことでしょうか。あるいは「雷の子ら」と呼ばれた気性の激しい漁師仲間のことでしょうか。私たちもまた自身の内面を見つめるとき、心の底から人を赦すということが何と難しいかを知らされるのです。

 

無限の赦し〜ヨセフ物語から(創世記37-50章)

 本日の旧約の日課には創世記のヨセフ物語の最後の部分が出てきます。ヨセフ物語とは、創世記37章から50章までに記されている父祖ヤコブの11番目の息子であるヨセフの物語で、読む者に非常に強いインパクトを与えるものです。770倍するまで赦した人間」の一つの具体例として私たちが想起することができるほどの物語と思われます。

 まずその粗筋を話します。ヨセフはヤコブの妻ラケルの長男として生まれました(弟はベニヤミン)。父ヤコブには既に妻レア(ラケルの姉)などを通して10人の息子たち(ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ゼブルンなど)がいましたから、ヨセフは11番目の息子ということになります。年老いた父ヤコブはヨセフをことのほか愛しましたので、他の異母兄弟たちはヨセフを嫉みます。さらにはヨセフには神から夢を解くという特別な賜物が与えられていて、それがなおさら兄たちの怒りを買うことになる。例えば「自分の農作物の束に兄たちの収穫した農作物の束がひれ伏した」という夢や「太陽と月と11の星が自分にひれ伏している」という夢を見たりします。それはやがて両親と11人の兄弟たちがすべてヨセフに従うという正夢だったのです。頭に来た兄たちは遂にヨセフを殺そうとして身ぐるみ剥いでに放り込みます。長男のルベンだけが何とかヨセフを助けようとしたのですが、結局ヨセフは通りかかった商人たちに捕まって奴隷としてエジプトに売られてゆくのです。ルベンはヨセフが穴からいなくなったことを知って驚きますがどうすることもできません。結局雄山羊の血をヨセフの服に塗って、彼が猛獣に襲われて死んでしまったと父ヤコブに嘘をつきます。ヤコブは嘆き悲しみます。そのようにヨセフはヤコブ家からは姿を消しました。

 不思議なことにエジプトに奴隷として売られたヨセフは、神から与えられた「夢を解く力と知恵」によって、幾多の苦境(ポティファルの妻の誘惑や濡れ衣による投獄、王を毒殺しようとした料理長の罪と疑いをかけられた給仕長の無実を証明する等)をも乗り越え、やがてファラオの夢を解いてエジプトの宰相にまで昇り詰めてゆきます。アメリカンドリームを実現したようなものですね。ヨセフが宰相になった頃、カナン地方でひどい飢饉が起こりました。父ヤコブから派遣された息子たちが食料を買うためにエジプトに来ます。彼らに会ったヨセフはすぐにそれが自分を殺そうとした兄たちであることに気づきますが、兄たちはヨセフには気づきません。通訳を介して話をしていたためでもあります。ヨセフは別の部屋に退いて過去を思い起こし、最愛の父ヤコブのことを思ってを流します(①42:24)。この涙は「兄たちに対する憤りの涙」であったかもしれません。次に愛する弟ベニヤミンと再会ができた時に再度ヨセフはを流します(②43:30)。今度は「再会を喜ぶ涙」だったでしょう。ヨセフは人払いをした後に、黙っていられなくなって遂に自分がヨセフであることを兄弟たちに告白し、声を上げて三度目のを流します(③45:2)。この涙はヨセフが自分の苦しみを通して神の大きな御計画が実現したということを腹の底から知ることができた「覚醒の涙/悔い改めの涙」だったことでしょう。それゆえヨセフは兄たちに向かってこう言うのです。「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。・・・わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです」4-8節)。兄たちは驚きのあまり声を出すことができませんでした。ヨセフは弟のベニヤミンと抱き合って泣き、そして兄弟たちとも抱き合って涙を流します(④45:14-15)。そしてその次にヨセフがを流すのは、エジプトにヤコブが寄留して17年後、その子たちと孫たちを祝福して亡くなった時でした(⑤50:1)。

 本日の第一日課には「赦しの再確認」という小見出しが付いています。兄たちには人間の怒りや恨みがそんなに簡単に解けるとは思えなかったのでしょう。それほど私たちの中の「赦せない心」は根深く、「7を70倍するまで赦すこと」などほとんど不可能なのです。「ヨセフの兄弟たちは、父が死んでしまったので、ヨセフがことによると自分たちをまだ恨み、昔ヨセフにしたすべての悪に仕返しをするのではないかと思った。そこで、人を介してヨセフに言った。『お父さんは亡くなる前に、こう言っていました。「お前たちはヨセフにこう言いなさい。確かに、兄たちはお前に悪いことをしたが、どうか兄たちの咎と罪を赦してやってほしい。」お願いです。どうか、あなたの父の神に仕える僕たちの咎を赦してください。』これを聞いて、ヨセフは涙を流した。やがて、兄たち自身もやって来て、ヨセフの前にひれ伏して、『このとおり、私どもはあなたの僕です』と言うと、ヨセフは兄たちに言った。『恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。どうか恐れないでください。このわたしが、あなたたちとあなたたちの子供を養いましょう。』ヨセフはこのように、兄たちを慰め、優しく語りかけた。」(15-21節)

 

神の無限の愛と赦し〜1万タラントンと100デナリオンの借金の差額は60万倍!

 「人にはできなくても、神にはできる」と聖書にはあります(マルコ10:27、ルカ18:27)。王によって1万タラントンの借金を赦されたのに仲間の100デナリオンの借金を赦すことができなかった一人の家来についてイエスは譬えを語っています。1万タラントンとは100デナリオンの60万倍という天文学的な数字です。1デナリオンは当時の労働者の一日分の賃金ですから、計算がしやすいように1デナリオンを今のお金で一万円に換算すれば六千億円という額になりましょうか。ヨセフは神のご計画と深い愛とを知った時、兄弟たちが自分に対して犯した罪を心の底から赦すことができました。「7を70倍まで」と数える必要がないくらい完全に赦したのです。私たちは神の救いの御業、神の御心、神のご計画を大きな視野から見上げてゆく必要がありましょう。私は「信仰者は一千年を視野に入れて今を生きなければならない」というカトリックの相馬信夫司教の言葉を思い起こします。小さな心、狭い視野しか持てないでいる私たちが神の大きな救いの御業をどこまで知ることができるのか。課題はあるかもしれませんが、その救いの計画の中で自分には大切な役割が与えられているということを知る時、その気づきは私たちを根底から変えてゆきます。その視点をヨセフ物語は私たちに教えています。独り子を賜るほどにこの世を愛された神。御子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得ることが出来るように惜しみない愛をもって私たちの罪を赦してくださる神。私たちはこの新しい一週間を、ヨセフ物語を深く味わいつつ、「7を70倍する」以上の無限の神の愛と赦しに生かされてゆく者でありたいと願うものです。

 お一人おひとりの上に神の恵みが豊かにありますように。シャローム。

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