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2017年9月16日 (土)

2017年9月10日(日)聖霊降臨後第14主日礼拝説教「二人または三人が」

2017910日(日)聖霊降臨後第14主日礼拝説教「二人または三人が」   大柴 譲治

マタイによる福音書 18:15−20

「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(18-20)

 

「罪」を告白し合うキリスト者の交わり

 本日のマタイ福音書でイエスはこう言われています。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」(15節)。これはマタイ福音書にしか記録されていない言葉ですが、この言葉は私たちキリスト者がどのような関係の中に置かれているかを明確に示しています。別の言い方をすれば、私たち信仰者の交わりが何を中心としているかがそこでははっきりと示されているのです。キリスト者の交わりとは「罪」と「罪の認識」、そして「罪の告白」がそこで問題とされる、そのような交わりであることが示されているのです。「罪」が問題とされる?そう言われると私たちはドキッとするかもしれません。ドキッとするのは、おそらく私たちの中の多くの者が、自分の心の奥底に誰にも語る事ができないような罪の痛みや悔い、恥ずかしさといったものを抱えているからであろうと思います。そして「罪」が認識され、「罪の悔い改め」と「罪の告白」と「罪の赦しの宣言」とが起こる時に、そこでは真の友を得ることになると言うのです。弱さも破れも罪もそのままで、ありのままでまったく取り繕う必要のない本当の出会いがそこでは起こるというのです。先日熊本で開かれたルーテル社会福祉協会での集まりで『ルターから今を考える:宗教改革500年の記憶と想起』という本を昨年出版された小田部進一という玉川大学の先生が、関西学院大学での恩師が繰り返し関西弁で「そのままでかめへん、かめへん」と言っていたという言葉を紹介しておられましたのが印象に残りました。私たちはありのままでよいのです。

 さらにイエスは続けます。「聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい」(16-17節)。イエスはここで罪とその認識に徹底的にこだわり、罪の赦しを宣言する教会の使命を強調しているのです。

 

大切な四つの言葉

 私は牧師として、特にターミナルケアやグリーフケアに関わる中で教えられてきたことがあります。私たちは自分の人生が終わりに近づいたことを知る時、多くの人が自分が歩んできた人生を振り返ります。そして様々な場面を思い起こして、「あの時ああしなければよかった。ああすればよかった」とか、「なぜあんな言葉を言ってしまったのか」とか深いところで心のうずきや痛みを感じるのです。だからこそ私たちは心の奥底にある自らの罪を告白し、赦しが欲しいと思うのでありましょう。換言すれば、私たちは心の奥底で「真の和解を求めている」ということになりましょう。犯してきた罪に対して赦しが欲しいのです。魂の重荷からの解放を求めています。

 以前にもご紹介したことがありますが、ハワイの言い伝えに私たちにとって大切な言葉が四つあると言われています。それらはとても短く分かり易い簡単な言葉で表されます。①「I’m sorry(ごめんね/謝罪の言葉)」、②「I forgive you(もういいよ/赦しの言葉)」、③「Thank you(ありがとう/感謝の言葉)」、④「I love you(あなたを大切に思っている/愛の言葉)」、という四つの言葉です。この四つは私たちが生きる上で「和解」のためにどうしても必要な大切な言葉です。なかなか改めて声に出すのは気恥ずかしく、声にしにくい言葉でもあるかもしれません。しかし今、まだたっぷりと時間のあるうちに、この四つの言葉を一つひとつ噛みしめながら人生を振り返って見ることは、自分の人生を統合してまとめてゆくという意味でも、心の平安を得るという意味でもとても智恵のある大切なことであると思います。

 

教会の使命〜「罪をつなぐこと」と「罪を解くこと」

 18節にはこうあります。はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」。二週間前の日課であったマタイ16章には、「あなたはメシア、生ける神の

 

子キリストです」と信仰告白をしたペトロに対して「天国の鍵」を与えると約束された際にもこれと同じ言葉が語られていました(厳密に言えば、そこでは「あなたがた」ではなく「あなた」と二人称単数形で呼びかけられていましたが)。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」16:19)。「天国の鍵」という言葉も聖書の中ではマタイにしか出てこない言葉です。

 「天国の鍵」には「罪をつなぐ鍵」と「罪を解く鍵」の二つがあることをイエスはそこで告げています。「罪をつなぐ」とは「罪を罪として明確にし、それを悔い改めない者に対しては罪を解かずにそのままにしておくこと」であり、逆に「罪を解く」というのは「罪を認識してそれを悔い改めた者に対しては罪の赦しを告げる」ということでありましょう。「罪の認識」「悔い改め」、「罪の告白」「罪の赦しの宣言」に教会は関わることが教会の地上での使命であると言われているのです。そこに信仰の中心がある。そして地上でキリスト者または教会が行うことが、そのまま天上までつながっているとイエスは告げているのです。私たち教会の責任は重大です。毎週の主日礼拝が「罪の告白」から始まっているということにも深い意味があるということになりましょう。

 

「二人または三人が集まるところに」

 このように教会は「罪の自覚」「罪の赦し」に関わる使命を持っています。このような次元、このような深みにおいて信仰者の交わりは形成されてゆくのです。19-20節のイエスの「はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」という言葉は、コンテクストから捉えるならば(コンテクストを外しても大切な意味があると思いますが)、やはり「罪の赦し」に関わる言葉として理解できます。それはイエスご自身が私たちの罪のゆえに十字架を背負い、その十字架の苦難と死を通して私たちの罪の贖いとなってくださった。その贖いによって私たちの罪は赦され、清められ、私たちは新しい生き方へと招き入れられているのです。

 ディートリッヒ・ボンヘッファー(1906-1945)というドイツ人の牧師がいました。第二次大戦中にヒトラー暗殺計画に加担した罪で投獄され、終戦の直前に39歳の若さで処刑されたルーテル教会の牧師でした。そのボンヘッファーの著作の中に『共に生きる生活』という名著があります。実際に牧師補研修所の所長としてボンヘッファーが若い牧師補たちと生活をする中で書かれた白鳥の歌でもあります。その中に「罪の告白」と題される箇所があって、彼は次のような内容のことを語るのです。「キリスト者の交わりというものは自明な事柄ではなく、一人のキリスト者が他のキリスト者と共にあるということは神の恵みである。一人のキリスト者は罪の告白をもって他のキリスト者に近づく。そこで罪の告白をする者は、キリストご自身に罪を告白するのである。告白を聴く者はキリストの代わりに、キリストの代理としてそこで兄弟の罪の告白を聴き、共に悔い改めのために祈り、罪の赦しを宣言する。自分の心の中のキリストは、兄弟の言葉におけるキリストよりも弱いからである」。私たちはキリストの罪の赦しの宣言を具体的な一人の兄弟姉妹の口を通して聴くのです。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」というイエスの言葉は、そのような十字架と復活を通して私たちの罪を贖い、赦して下さったキリストのご臨在を証ししています。キリスト者の交わりのただ中には、見えなくとも、確かに生けるキリストが共にいてくださるのです。

 公には牧師が礼拝において罪の赦しを宣言しますが、個別的(個人的)には信仰者の一人ひとりが罪を罪と名付けることと、罪の悔い改めた者に対しては罪の赦しの宣言を伝える使命を持っています。宗教改革者のマルティン・ルターはそれを「全信徒が罪を赦す祭司としての役割を持っている」という意味で「全信徒祭司(万人祭司)」と呼びました。「祭司」には隣人と神との間に立って行う「二つの役割(使命)」があります。一つは「隣人のために神に祈る」という、ベクトルの矢印で言えば隣人から神に向かって示される役割、もう一つは「神の言葉(特に罪の赦しの宣言がその中心にあります)を隣人に取りつぐ」という神から隣人に向かうベクトルによって示される役割です。I’m sorry(ごめんね)」という謝罪の言葉とI forgive you(もういいよ)」という赦しの言葉を告げ合うことができる信仰者の交わりには、どれほど大きな重荷や束縛から私たちを解放する力と慰めがあることでしょう。そのような主にある交わりの中に私たちが招かれていることを覚えつつ、感謝してご一緒に主の聖餐に与ってまいりましょう。お一人おひとりの上に主の祝福をお祈りいたします。アーメン。

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