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2017年9月 1日 (金)

2017年8月27日(日)聖霊降臨後第12主日聖餐礼拝説教「天国の鍵」

2017827日(日)聖霊降臨後第12主日聖餐礼拝 説教「天国の鍵」 大柴 譲治

マタイによる福音書 16:13-20

「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(19節)

 

「天国の鍵」

 本日は「天国の鍵」について告げられています。新約聖書のみならず、旧約聖書を含めた聖書全体の中で「天国の鍵」について出てくるのは、本日の日課のマタイ1619節だけなのです。そこにはイエスの言葉がこう記されています。「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」。これは「あなたはメシア、生ける神の子です」と重要な信仰告白をしたペトロに対して言われたイエスの言葉です。

 実はこの箇所に対する大きな解釈の違いから、二つの異なった流れが生まれました。カトリック教会とプロテスタント教会です。今年は「宗教改革500年」ということで、世界においても日本においても、ルーテル教会はカトリック教会との対話と連帯を協調する大きなうねりの中に置かれていますが、しかしカトリック教会とプロテスタント教会のこの箇所に対する理解の仕方は根本的に異なっています。ローマ教会はこの「天国の鍵」「ペトロとその後継者たち(=歴代のローマ教皇)」に対して与えられたものと解釈していますが、私たちプロテスタント教会は、ルター以降の500年間、この「天国の鍵」は、ペトロやローマ教皇という個人にではなく、「イエス・キリストを告白する教会」に対して与えられたと受け止めてきました。「信仰告白」こそ私たちが拠って立つべき「岩」なのです。

 

信仰告白者に託された「天国の鍵」

 では「天国の鍵」とはいったい何を意味するのか。私にはそれについて忘れることのできないエピソードがあります。前の教会での出来事です。1998年の6月4日に一人の女性教会員が47歳の若さでガンのために天に召されました。亡くなる数日前、彼女が入院していたホスピスを訪問したところ、「最近イタリアを旅した友人から天国の鍵をもらいました」と小さな銀の鍵を見せてくださいました。イタリアの教会のお土産としてキーホルダーに付けてあったのをいただいたそうです。「これは私が天国に入るための鍵なのですよ」と嬉しそうにおっしゃったその笑顔を印象的に思い起こします。その方はその時同時に、病床聖餐式を行った私に「先生、人生は神さまと出会うためにあるのではないでしょうか」と語ってくださった方でした。病気と闘病する中でキリストを信じ、受洗されたのでした。

 「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」というイエスの言葉では、この「鍵」という語は複数形になっています。そこでは「つなぐ鍵」「解く鍵」の二つが考えられているのです。実際バチカンには、ペトロの後継者としてのローマ教皇が天国の二つの鍵を継承しているという理解を持ち、二つの鍵を描いた像や絵もあるようです。

 しかしよく考えてみると、私たちは「オヤ?」と思います。鍵というものは一つでいいはずではないか。私たちは同じ一つの鍵を用いてロックしたりロックをはずしたりしているのです。なぜ「解く鍵」「つなぐ鍵」の二つもいるのかという疑問が浮かびます。特に解かずにおく鍵(つなぐ鍵)の役割は大切であるように思われます。実は「天国の鍵」とは、ただ二つだけということではなく、そこではむしろ様々な部屋を空けたり閉めたりする鍵の束が意味されているのかもしれないとも思われます。天国にはマンションのように多くの部屋があって、その管理人として私たちが鍵束を管理している、そのようなイメージです。ヨハネ福音書はイエスの言葉を伝えています。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」(14:1-3)。この鍵は「天国」つまり「神の国(ご支配/統治)」に入るために必要な鍵束のようなものかもしれません。

 「あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」という19節の言葉はマタイ福音書にはもう一回、1818節に出てきます。二度も同じ言葉が繰り返されているところにその重要性が明かとされています。この言葉は、ヨハネ福音書2023節の言葉と重なります。そこでは復活の主が弟子たちにご自身を現しながらこう告げられています。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」。そう言ってから、主は彼らに息を吹きかけてこう言われました。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(20:22-23)。

 「天国の鍵」「罪の赦し」に関係しています。それも私たちが一般に理解しているような罪を赦すことだけではなく、罪を赦さないでおくことの両方に関係する事柄です。聖書で言う「罪」とは、「悪い行い」という意味であるよりも、本来は神との関係が破れている状態を表す「関係概念」です。その反対語は「義」で、その人が神との正しい関係の中にあることを指します。「罪の赦し」とは「神との正しい関係に回復されること」「罪を赦さないでおく」とは「未だ破れたままの神関係であることを告げ知らせる」ということを意味します。いずれにしてもそれは、「私たちは神の前に立たされている」ということを告げるということであり、すべての人間は神の前から逃げることはできないということを伝えることになります。私たち皆がイエスに問われている。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。自身の言葉で「イエスこそ生ける神の子キリスト」と告白することが求められています。

 

「天国の鍵」を行使される神ご自身の働き

 私たちは天国の鍵を任されていると聞くと、何と恐れ多いことかと尻込みしてしまうのではないかと思われます。自分が他の人々の罪を赦したり赦さずにおいたりすることができるなんて信じられない。イエスには申し訳ないけれどもそんなことできないと思う。自分の不信仰や迷いや行き詰まりといったものを私たちはよく知っているからです。イエスも私たち以上にそのことはご存じでした。ペトロを筆頭として弟子たちは皆十字架の前から逃げ出したのです。

 実は「天国の鍵」とは、そんな弱く惨めな私たちを用いて、福音という喜びの音信を伝えてくださるイエスご自身の働きを指していると言わねばなりません。主の「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という問いに対してペトロは答えます。「あなたはメシア、生ける神の子です」と。しかしペトロは自分の力で告白したのではありませんでした。イエスは続けてこう語られます。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と。人間ではなく天の父なる神が私たちをしてイエスこそキリストであると告白させてくださる。「信仰とは、私たちにおいて働く神さまのみ業である」とルターは言いましたが、その通りです。信仰とは人間の業ではなく、どこまでも私たちの中で働く神のみ業なのです。

 そう見てまいりますと、天国の鍵で開けたり閉めたりするのもまた神ご自身であることが分かります。信仰告白の上にイエスはご自身で教会を建てるとおっしゃっておられます。これはペトロとその後継者たちの上に教会を建てると言ったというよりも、「あなたこそ生ける神の子、キリストです」(口語訳)と告白された信仰告白の上にキリストの教会を建てるというように理解したいと思います。そして「陰府の力もこれに対抗できない」とあるように「死の力もこれに打ち勝つことはできない」と主は宣言されています。「天国の鍵」とは、私たちが死によっても揺らぐことのない神の究極的ないのち、永遠のいのちを生きることができるという大きな喜びと慰めと希望を意味する言葉なのです。先ほどご紹介した一人の姉妹は、ガンのためにあと半年の命と宣告されてから一年間求道し、クリスマスに洗礼を受け、その半年後に天国に召されてゆかれました。その方の「人生は神さまと出会うためにある」という言葉は、私たち自身に天国の鍵を与えてくれるような希望に満ちた言葉であり証しです。パウロは「わたしは弱いときにこそ強い」(2コリント12:10)と語りましたが、キリストの十字架と復活の愛こそ私たちにとっての「天国の鍵」であり、そこでは「天国への入り口」が私たちに向かって開いているのです。キリスト・イエスこそ、私たちの揺るがぬ希望です。

 「洗礼と聖餐」という「サクラメント(聖礼典)」に示されている主の愛、それこそが私たちの罪を赦し、十字架を通して私たちをもう一度神との正しい関係に置いてくださる「天国の鍵」なのです。そして、私たちが隣人の悲しみや苦しみを自分の悲しみや苦しみとして受け止めて共有する時に、喜ぶ者と共に喜び泣く者と共に泣く時に、一人の姉妹がイタリアのお土産としてガンと闘病する親友に祈りと共に天国の鍵を渡された時に起こったような不思議なことが私たち自身の人生においても起こるのです。それは愛の奇蹟です。そこでは私たち自身が不思議なかたちで天におけるイエスへの道を開く「天国の鍵」として用いられてゆくのでありましょう。 そのことを覚えつつ、ご一緒に新しい一週間を踏み出してまいりましょう。お一人おひとりの上に平安をお祈りします。 アーメン。

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