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2017年8月 9日 (水)

2017年8月6日(日)平和主日聖餐礼拝説教 「愛の自覚」

201786日  平和主日聖餐礼拝 説教 「愛の自覚」  大柴譲治

ミカ書 4:1-5 / エフェソの信徒への手紙 2:13-18 / ヨハネによる福音書 15:9-12

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」(ヨハネ15:12

 

「過ちは繰り返しませぬから」〜歴史の記憶と想起

 8月は私たちが過去を振り返り、様々な出来事を深い悲しみと共に思い起こし、心に刻む月です。8月6日、8月9日、8月15日、先の太平洋戦争は私たちの心の中に癒えることのない傷跡を残しました。そのような出来事を想起して心に刻み続けるということの大切さを覚えます。今年は戦後72年に当たりますが、国会などで憲法第9条などについて議論が行われてゆく中、今ここで、キリストの平和について思いを馳せてゆくこと、そのために祈りと力とを合わせてゆくことはキリスト者である私たちに求められていることでもありましょう。

 それは、ヒロシマ平和公園に刻まれた「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」という碑文の言葉の通り、二度と再び戦争という「過ち」を繰り返すことのないためであります。戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。これは1946年に採択された「ユネスコ憲章前文」の言葉です。今年11月に私たちは宗教改革500年をカトリック教会と共に長崎で記念することになっていますが、過ちを再び繰り返さないためにも、「人の心の中に平和のとりでを打ち立てるべきこと」を再確認させられ、決意を新たにさせられます。

 ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世は、19812 25日にヒロシマを訪れ『ヒロシマ平和アピール』を公にされました。「戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です。この広島の町、この平和記念堂ほど強烈に、この真理を世界に訴えている場所はほかにありません。」という言葉で始まる平和アピールです。その中で教皇は繰り返し「過去をふり返ることは、将来に対する責任を担うことです」と語られました。そうです、私たちは新しい未来を築いてゆくために歴史を思い起こし、過去の過ちを忘れぬように、自分自身の心に刻み続けるのです。「過去に目を閉ざす者は、未来に対しても目を閉ざすことになる」(リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー『荒野の40年』より)。私たちは「過ちを繰り返さない」ためにも「歴史を心に刻み続けること」、そして「それを想起し続けること」の両方が求められています。

 「想起すること」「思い起こすこと」、つまり「忘れないでいるということ」は、私たちの日常生活においても、信仰生活においてもとても大切な事柄です。記憶と想起という事柄が、私たちのアイデンティティーを保つために大きな働きをなしている。昨日の自分と今日の自分と、そして明日の自分とをつなぐものが「記憶」であるということを私たちは知っています。記憶の一貫性が失われるとき、私たちは自分のアイデンティティーを失ってしまう。その意味で、「過去」を心に刻むということが「現在」の自分を維持するためにも、自分の「未来」を形成してゆくためにも大切であるということを私たちは覚えたいと思います。

 

ロバート・カニンハム宣教師の生涯

 本日も聖餐式が行われますが、主イエス・キリストは苦しみを受ける前日、最後の晩餐において、弟子たちにパンとブドウ酒を分かち合いながら言われました。「これはあなたのために与えるわたしの身体」「これはあなたの罪の赦しのために流すわたしの血における新しい契約」。そして続けて言われました。「わたしの記念のためこれを行いなさい」。「わたしの記念のため」とは「わたしを思い起こすため、わたしを想起するために聖餐式を行い続けなさい」という意味です。ここで「想起する」「記念する」という語はギリシャ語で「アナムネーシス」。 教会は二千年に渡って、この聖壇部分の中心にキリストの聖卓が置かれているように、自らの原点・アイデンティティの中心として、この「キリストの聖餐(和解)の出来事」を忘れずに想起し続けて来たのです。主はこのような私を愛し、このような私のためにあの十字架に架かってくださり、ご自身の平和・平安を私に与え、平和の器としてこの私を具体的に用いてくださるのです。

 このキリストの和解、主の平和に与った者たちが、無数に、現実の困難さの中にあっても、諦めること無く、二千年に渡ってその力を証し続けて来ました。私は特に一人の宣教師のことを想起します。20097月9日、米国オハイオ州で、西教区と関わりの深かったロバート・カニングハム宣教師が膵臓ガンのため、ご家族の見守る中、静かにこの地上での82年間のご生涯を終えて天に召されました。私はカニンハム先生の松山教会や広島教会でのお働きを思い起こします。益田教会でも働かれています。カニングハム先生は戦後すぐに駐留軍としてヒロシマに入り、そこで目にした悲惨な現実を知って、原爆を投下した米国人として深いざんげの思いをもって、帰国後に神学校に学び、宣教師となられました。18歳の頃です。そして生涯のすべてを日本のため、キリストのために捧げられたのです。カニンハム先生は、1985年、当時福山教会の牧師であった松木傑先生と共に、被爆者を米国に派遣し、全米で証言をするという旅を実施されました。2005年の暑い夏でしたが、当時私の牧していた東京の教会でもキリストの平和について説教を語ってくださいました。

 暴力と憎悪が圧倒的な力をもって支配しているように見えるこの世界の中で平和を実現するということは、簡単なことではありません。戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」。これはユネスコ憲章(1946年)の言葉です。「戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です」。これは1981225日にヒロシマでなされた、やはりポーランド人の教皇、ヨハネ・パウロ2世のヒロシマ平和アピールの最初の言葉です。ヨハネ・パウロ2世は「空飛ぶ教皇」と呼ばれ、世界中に足を運んで平和のために尽力した人でもありました。また、インドのコルカタで貧しい人の中でも最も貧しい人たちのために尽くしたマザーテレサが1979年にノーベル平和賞を受賞したことはよく知られています。マザーは言いました。「愛の反対は憎しみではなく、無関心なのです」と。愛の喜びを知る人は、同時に愛の乏しいこの世の現実の哀しみを知る人でもあります。愛の乏しい現実の世界の中でキリストは愛を実現してゆこうとされました。十字架とはそのような真実の愛のシンボルです。そして今、私たちがキリスト者として立てられているということは、神の愛を実現してゆくために立てられているのです。それは私たち人間の力でできることではありません。キリストの愛の力が私たちを捉え、私たちを変え、私たちを押し出してゆくときに実現してゆくのです。しかしそれはまた、人間の力なしにできることではありません。キリストがその愛を実現するための手足として私たちを用いてくださいます。ミカ書が預言するように、この地上の人間の現実の世界の中で具体的に「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」ために私たちは用いられてゆくのです。

キリストの愛の自覚

 互いに愛し合うことの中にこそ、生きることの本当の喜びがある。愛の喜びこそが真に価値あることです。そして、聖書は私たちに真実の愛がどこにあるかということを明確に示してくれています。それは他のどこよりも明確に、あのキリストの十字架において示されているのです。神はその独り子を賜るほどにこの世を愛してくださった。それは御子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである(ヨハネ3:16)。このキリストの十字架の愛が私たちを捉えて放さないのです。十字架を見上げる時、向こう側から私たちには "I love you." という神さまの声が聞こえてくる。そのような声を聴くことができる者は幸いであります。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」。この神の愛の自覚こそが私たちを造り変えてゆくのです。

 今朝も私たちは聖餐式に招かれています。「これはあなたのために与えるわたしの身体。これはあなたの罪の赦しのために流すわたしの血における新しい契約」。十字架に架かられる前日に弟子たちにパンとブドウ酒を分かたれたイエス・キリスト。このお方に今日も私たちは招かれています。「わたしの愛にとどまりなさい。」「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい今もこの地上において、イエスは私たちを用いてご自身の愛の御業を実現されようとしています。そのことを覚えてご一緒に聖餐式に与ってまいりましょう。キリストこそ私たちの平和です。お一人おひとりの上に主の祝福が豊かにありますように。 アーメン。


(付記)平和を求める祈り(アッシジのフランシスコ) 

神よ、わたしをあなたの平和の道具として用いてください。

憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように

いさかいあるところに、赦しを

分裂のあるところに、一致を

迷いのあるところに、信仰を

誤りのあるところに、真理を

絶望のあるところに、希望を

悲しみあるところに、よろこびを

闇のあるところに、光をもたらすことができますように、

助け、導いてください。

神よ、わたしに

 慰められることよりも、慰めることを

 理解されることよりも、理解することを

 愛されることよりも、愛することを 望ませてください。

自分を捨てて、初めて自分を見出し

ゆるしてこそ、ゆるされ

死ぬことによってのみ、永遠の生命によみがえることを

深く悟らせてください。  アーメン。

 

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