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2017年8月26日 (土)

2017年8月20日(日)聖霊降臨後第11主日聖餐礼拝説教「パンくずの恵み」

2017820日(日)聖霊降臨後第11主日聖餐礼拝説教「パンくずの恵み」 大柴譲治

マタイによる福音書 15:21-28

女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。(27-28節)

 

イエスとカナンの女性のやりとりを巡って〜「三度の拒絶」をものともしない「たおやかな信仰」に倣う

 本日の福音書の日課には一人のカナンの女性の信仰がイエスによって賞賛され祝福されたという印象的な出来事が記されています。場所は地中海沿岸の「ティルスとシドンの地方」、異邦人の町。「この地に生まれたカナンの女」もユダヤ人でなく異教徒でした。この女性には一人の病気の娘がいます。彼女は娘の状態を「悪霊にひどく苦しめられているもの」として理解しています。おそらくそれは、痛み苦しみのために七転八倒し続けるほどすさまじい状況であったと思われます。彼女は必死でイエスの憐れみにすがろうとするのです。言語的なコミュニケーション能力があったのでしょう、異邦人であった彼女はイエスたちの言語(アラム語)で必死に叫ぶのです。そのことからも彼女が知性の高い女性であったことが分かります。

 しかしイエスは全く取り合わずにただ沈黙しています。「『主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています』と叫んだ。しかし、イエスは何もお答えにならなかった」22-23節)。このイエスの「沈黙」「第一の拒絶」です。「何もお答えにならなかった」という表現には、恐らく、イエスは彼女の方を振り向きもしなかったという意味が込められていましょう。イエスと女は全く無関係な接点のない関係だった。冷酷にも思えるイエスの対応です。

 私たちはここで、我が子のために必死になっているこの母親の真剣さ、ひたむきさに圧倒されます。親にとって子供が病気になるほど辛いものはありません。できることなら子供と代わってやりたいと強く願いつつ、何もできないでいる親としての自らの無力さを感じながら、彼女は娘を助けるために必死です。しかし母は強し。たおやかです。娘には自分しか頼る者がいない。それを知っていた彼女はイエスの沈黙などものともせずに叫び続けます。「主よ、憐れんでください」。彼女にはイエスに頼るしか他に方法はなかった。その女性は、苦しむ娘が母を信頼し母だけに希望を保ち続けているように、イエスを信頼しそこに希望を置き続けたのです。

 続いて記されている弟子たちの姿も極めて冷酷です。「そこで、弟子たちが近寄って来て願った。『この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので』」とイエスに申し出た(23節)。当時のユダヤ人社会では異教徒との交わりは律法で禁じられていましたし、異性に近づくことなど言語道断であったようです。ユダヤ人と異邦人との間にあった「隔ての中垣」は私たちが思う以上に高く分厚かったと理解すべきかも知れません。

 沈黙を守っていたイエスがその女性の執拗な叫びに対してようやく口を開きます。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになったのです(24節)。やんわりとはしていますが、「わたしはあなたがた異邦人(異教徒)のもとには遣わされていない」という「第二の拒絶」でした。しかし彼女は諦めません。娘のためにもどうしても諦めるわけにはゆかないのです。「しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、『主よ、どうかお助けください』と言った」(25節)。イエスが異邦人である自分に直接声をかけてくださったことに彼女はひとすじの光明を見出したと思われます。「愛の反対は憎しみではなく、無関心である」というマザーテレサの言葉を想起しますが、イエスはここで初めてきちんと足を止め、その異邦人の母親に身体を向けて彼女と向かい合ったのでしょう。否、深い「沈黙」の中でもイエスの心は彼女に向けられていたのかもしれません。12年間も長血を患っていた女性が後ろからそっとその衣に触れても、イエスはそれを感じ取られたほどのお方ですから(マタイ9:18-26)。そのカナンの女性はイエスの真正面に走り寄ってひれ伏します。イエスの対応に確かな手応えを感じつつ地面に頭をこすりつけながら、「主よ、憐れんでください。どうか私たちをお助けください」と必死に願い続けるのです。

 続いてイエスは再度拒絶の言葉を口にします。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」(26節)。これはイエスによる「第三の拒絶」でした。しかしその女性はイエスのあたたかく優しい眼差しと声の響きを見逃さなかったことでしょう。言葉自体は厳しいですが、彼女は自分の置かれた苦しい状況を受け止め、それを理解し、それに対して応答しようとしておられるイエスの姿の中に深い憐れみと愛とを感じ取っています。彼女は最初からイエスは自分たちの救い主であり、イエスが必ず自分たちを憐れみ、自分たちを苦しみから救ってくださるということを疑うことはありませんでした。もし疑っていたとしたら途中で諦めていたことでしょう。イエスの憐れみに頼ることは彼女たちにとって最初から「最後の手段」でした。イエスを信じる以外にはなかった。もしかすると最初からイエスの姿勢や声の響きは、言葉とは全く異なるメッセージを彼女に与えていたのかも知れません。ある研究によると、人間のコミュニーションにおいて「言語」が意味するところはたったの7%しかないとも言われています。その他として、私たちのコミュニケーションは、38%が聴覚的な情報を通して、残りの55%が視覚的な情報を通して行われるというのです。彼女はイエスの声やその言葉の抑揚、姿勢や息遣いなどを通して最初から自分はイエスに受容されていることを知っていたのかもしれません。「信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」(ヘブライ11:1)とありますが、神が必ず自分たちに憐れみをもって働きかけてくださることを彼女は確信していたのかも知れません。

 驚くべきことに、彼女の受け答えは、必死でありつつもしなやかであり、かつ徹底的に謙遜であり、どこまでもイエスの言葉に信頼し、イエスを主とし自らを従としたものでした。そこには余裕さえ感じられます。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」(27節)。ここでは子犬(異邦人)も神の家族の一員であり、神の家の中にいることが前提とされています。そのことはイエスご自身が、「子どもたちのパンを取って子犬にやってはいけない」という言葉で示唆されたことでもありました。どこまでもイエスの言葉を是としながらも、彼女はイエスの示した線に沿いながら、パンくずを通して自分たち異邦人にも与えられているはずの神の豊かな恵みを信じ抜いたのでした。ユダヤ人を主とし異邦人を従とする枠組みの中にあって、その枠組みを崩すことなく、イエスの言葉に沿って彼女は自分と娘とを位置付けています。

 その女性の答えはとてもウィットに富み、賢く、しなやかなものでした。そこからもまた、イエスに向かって外国語であるアラム語で直接語ることができた彼女が、実はただものではなかったということが分かります。彼女は自分の持てるすべてを用いてイエスにその憐れみを請うたのです。「そこで、イエスはお答えになった。『婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。』そのとき、娘の病気はいやされた」(28節)。イエスご自身もこのようなたおやかで、まことの信仰を持つ女性と出会うことを通して、大きな感銘と喜びに満たされたに違いありません。そこでは真に神の恵みの豊かさが共有されています。

 私たちもまた人生の様々な場面において、ただパンくずの恵みを徹底して信じ抜いたこの一人の女性の信仰にあやかりつつ、主イエスの憐れみの前に立ち続けたいと思います。旧約聖書が繰り返し歌っているように「主は恵み深く、その慈しみはとこしえに絶えることがない」(詩編100:5、エレミヤ33:11)のです。また、本日の旧約聖書の日課が次のようにも告げていた通りです。「主はシオンを慰め、そのすべての廃虚を慰め、荒れ野をエデンの園とし、荒れ地を主の園とされる。そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く」イザヤ書 51: 3)。イエスご自身によってもシオンの都には東からも西からも多くの民族が招かれると約束されていました。「言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く」(マタイ8:11。病気の部下のために「御足労までには及びません。ただ一言、お言葉をください」とイエスに願い出たローマの百人隊長の信仰を賞賛したイエスの言葉です)。すばらしい約束の言葉ではありませんか。

 新しい一週間にもお一人おひとりの上に主のパンくずの恵みが豊かにありますようお祈りいたします。アーメン。

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